今月から前中後編の3回に分けて沖縄さんぽをお届けします。第1回目の今回は手塚治虫先生がベトナム戦争の時代を背景に沖縄を舞台として描いたある短編作品の舞台を訪ねます。そしてその場所は70年前の太平洋戦争当時、沖縄戦の悲劇が起きた場所でもあったのです。戦後70回目となる今年2015年の夏、あの日確かにここにあった戦争に思いを馳せながら散歩に出かけましょう。特別なゲストにもご協力いただいてますのでお楽しみに!!
みなさんこんにちは、いつも『虫さんぽ』をご愛読いただきありがとうございます〜〜〜〜っ!! さて今回は夏休み特別企画として虫さんぽ初の沖縄取材でございます。
7月某日、全日空469便は定刻通り午後1時15分に那覇空港へ着陸した。
東京の自宅を出る前のニュースでは台風9号と10号のダブル台風が日本へ接近していると報じていたが、幸い2つともまだ沖縄からはかなり遠い南の海上にあり、天気は快晴である。
ただし湿気がものすごく高いのには参った。ずっと、ベタベタしていて汗がまったく蒸発せず、おまけに建物から一歩外へ出るとカメラのレンズがたちまち結露して曇ってしまうのだ。
ちなみに今回の虫さんぽでは、各手塚スポット間の距離が離れているのでレンタカーを利用した。現地へ行かれる際には各スポット間の距離と交通手段を事前に十分調べておくことをおすすめします。
ということで、予約しておいたレンタカーも無事借りてさっそく散歩に出発!! 最初に向かうのは、那覇空港を出て南東へ5kmほど走った那覇市と豊見城市の市境に近い丘の上だ。
ところで不肖黒沢、じつは沖縄旅行をするのは今回が初めてである。取材日程も短いし土地勘もないままいきなりの現地取材では心許ないので、東京で事前にあるスペシャリストの方にお会いして話をうかがっていた。
その方とは『手塚治虫のオキナワ』(春秋社刊)の著者で、現在は文教大学国際学部国際理解学科教授をされている本浜秀彦先生である。
『手塚治虫のオキナワ』は、沖縄の那覇市出身の本浜先生が、手塚マンガの中に描かれた沖縄の姿を通して沖縄と本土との関係を考察したり、手塚が沖縄を舞台として描いた作品の意味などを、あるときは研究者の視点から、あるときはマンガファンの視点から論じているじつにユニークな本なのだ。
そうこうしているうちに車は目的地である豊見城岳陵の頂上へと到着した。
ここ豊見城岳陵には、太平洋戦争中、旧海軍によって掘削された地下壕があり、その中に司令部が設置されていた。現在はこの一帯が海軍壕公園として整備され、慰霊塔や資料館が建設されていて、かつての地下壕(旧海軍司令部壕)も一部が見学できるようになっている。
本浜先生、ここはすごく見晴らしのいい場所ですね!
「はい。旧海軍司令部壕は海軍の小禄飛行場(現在の那覇空港)を後方から守る目的で造られましたからね。当時は軍事機密でその存在は秘密だったんです」
おお、そうだったんですね!!
この旧海軍司令部壕が舞台として出てくる手塚マンガは1972年の短編作品『イエロー・ダスト』だ。この物語の中で、米軍子弟の乗った小学校のスクールバスが乗っ取られ、3人の犯人が生徒23人と女教師を人質にして立てこもるのが、ここ旧海軍司令部壕という設定だったのだ。
入館料を払ってビジターセンターへ入り、まずは資料館で司令部壕について学んだ後、いよいよ階段を降りて司令部壕へと入ってゆく。
ひんやりとした湿った空気が、まるでこれから異界へと降りていくような気分にさせる。
今回壕内を案内してくださったのは、沖縄観光コンベンションビューロー 旧海軍司令部壕事業所 営業主任の伊良部良信さんである。
伊良部さんによれば、このトンネルは掘削機械などを使わず、すべて人力で掘られたという。壁や天井がむき出しになっている場所では、怪物が巨大なツメでひっかいたようなツルハシの削り跡をそのまま見ることができる。
伊良部さんは、このあたりの地質は砂岩質で比較的掘りやすいのだというが、敵の爆弾がいつ落ちてくるか砲弾がいつ飛んでくるかが分からない中で、しかもこの南国での突貫工事は想像を絶する大変なものだったろうことは容易に想像できる。何しろぼくなんてただ歩いてるだけで汗だくなんですから!!
ここで再び本浜先生にお聞きいたします。本浜先生、手塚先生はなぜ『イエロー・ダスト』の舞台としてこの旧海軍司令部壕を選んだんでしょうか。
「『イエロー・ダスト』の初出は『ヤングコミック』の1972年7月12日号でした。つまり沖縄の施政権が日本に返還された同年5月15日の「本土復帰」間もない時期だったんですね。
そしてここ旧海軍司令部壕は沖縄戦の末期、この周辺で県民を巻き込む激しい戦闘が繰り広げられた場所でした。司令官の大田實海軍中将が『沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ』という電報を打電して壕の中で自決した場所でもあります。
作品を読めば分かりますが、犯人の3人の沖縄青年の『狂気』は尋常ではありません。そしてその狂気の背景にあるのがベトナム戦争なんですね。この3人は軍労務という名目で米兵と一緒に連れていかれたベトナム戦争経験者だったんですよ」
本浜先生、1972年というとベトナム戦争はまだ続いている最中だったんですよね。そして沖縄の米軍基地からはアメリカ兵がベトナムへどんどん送りこまれていました。
「そうなんです。ベトナムと沖縄という空間的には離れている2つの場所が、じつはアメリカの『戦争』でつながっている。それを手塚先生はこのマンガの中で鮮やかに浮かび上がらせています。旧海軍司令部壕はそのために選んだ場所だったんだと思います」
旧海軍司令部壕で戦争当時の痕跡が最も生々しく残っているのが幕僚室と呼ばれている場所だ。ここの内側のしっくいが塗られたかまぼこ型の壁や天井には、ピンポン球よりやや小さい程度の深い傷がまるでスプレーしたように点々と付いている。じつはこれは幕僚たちが手榴弾自決をした際に飛び散った手榴弾の破片の跡なのだそうである。
資料によれば、沖縄戦末期、この壕では2,000人以上の兵士が亡くなった。けれども戦後しばらくの間はそれらの遺体にもまったく手を付けることができず、1953年以降、数回にわたる遺骨収集でようやくすべての遺骨収集が完了したということだ。
ぼくは壕に向かってしばし黙祷し、伊良部さんにお礼を述べて次の目的地へ向かうことにした。
海軍壕公園から車でいったん空港方面へ戻り、国道331号線を南下。次に向かうのは「ひめゆりの塔」である。
331号線を進んでいくと道の両側に観光客向けの無料駐車場がいくつか見えてくる。「ひめゆりの塔」と「ひめゆり平和祈念資料館」はその先の左側にある。
ただし、じつはぼくはカーナビにこの場所の住所を入力したところ、「平和祈念資料館」の真裏の農道へ案内されてしまい、ぐるーっと大回りをして逆側からアプローチすることになってしまった。皆さんは素直に施設名で検索して国道331号線をまっすぐに下ってくれば迷わず到着しますので!!
「ひめゆりの塔」の「ひめゆり」とは? 以下、資料から要約すると、戦前の沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の愛称が「姫百合」であった。
太平洋戦争末期の1945年3月24日、両校の生徒たちは陸軍病院に学徒隊として動員された。しかし4月1日、米軍の沖縄上陸が始まった。激しい戦闘の中、少女たちは軍関係者らと共に追いつめられ、必死に南下。最後には突然の解散命令を受けた。少女たちのあるものは毒を飲んだり手榴弾で自爆するなどして自決。断崖から海へ身を投げた少女もいた。重傷を負って動けなくなった者はその場に置き去りにするしかなかった。
こうして陸軍病院に動員されたひめゆり学徒隊240人のうち136人が死亡し、在地部隊その他で91人が亡くなった。
「ひめゆりの塔」は終戦翌年の1946年4月、彼女たちの霊を慰めるために、最も被害が大きかった第三外科壕の前に建立された慰霊塔である。
1949年、沖縄出身の作家、石野径一郎がひめゆり学徒隊の最後の90日間を描いた小説『ひめゆりの塔』を雑誌に発表し、翌年単行本化。これによって「ひめゆりの塔」は全国に知られるようになった。
「ひめゆりの塔」と関係のある手塚マンガは雑誌『少年画報』1953年3月号別冊付録として発表された短編『38度線上の怪物』だ。
この作品の講談社版手塚治虫漫画全集あとがきで手塚先生は次のように書いている。
「(『38度線上の怪物』は)全編これ楽屋おちばかりで、読者のためにかなり説明をする必要があります。まず、主人公の少年は、当時少年画報社の社員でぼくの担当だったMという人で、性格も顔もまったくM氏なのです。(中略)少年が肺病なのに泳ぐシーンの前で、バックの応援席からしきりに、「タンカ タンカ タンカ トイ トイ」と、こうるさいセリフがとんでいるのは、M氏が今井正さんの映画、『ひめゆりの塔』が大好きで、その中の『あさどやユンタ』のメロディーを、しじゅう口ずさんでいたのをひやかしたのです」
1953年1月9日に封切られた東映映画『ひめゆりの塔』は、石野径一郎の同題小説を原作に水木洋子が脚本を担当、監督は今井正、主演は津島恵子。映画の中でこのメロディーが出てくるのは物語の冒頭と中盤、ひめゆり学徒隊の少女たちがお互いを励ますために歌う沖縄民謡の歌詞がそれだ。ただし手塚先生は曲名を間違って記憶されていたようで、歌われているのは「
じつは日本ではこの前年ごろから反戦映画がポツポツと公開されて話題になっていた。新藤兼人監督の『原爆の子』(1952年8月公開)、山本薩夫監督の『真空地帯』(1952年12月公開)など。
それら多くは独立系のプロダクションが制作したものだったが、『ひめゆりの塔』は東映が制作費4,035万円をかけた当時としては異例の大作だった。そして公開されるやいなやたちまち大ヒットとなった。興行収入はおよそ1億8,000万円にのぼった。
本浜先生、この手塚マンガには映画『ひめゆりの塔』の中の沖縄民謡が引用されていますが、沖縄の戦争を直接題材にした作品ではありませんでしたね。
「そうですね。その理由は、手塚先生はこのころ、まさにこの時代に起こりそうだった核戦争の恐怖の方に強く関心が向いていたからだと思います。
『38度線上の怪物』とほぼ同時期に手塚先生は『太平洋Xポイント』という読み切りを描いていますが、これには原爆や水爆をしのぐ破壊力を持った空気爆弾が登場します。その空気爆弾の実験を阻止しようと元ギャング団のサム(ヒゲオヤジ)とその息子エリック(ケン一)が立ち上がるという物語です。
手塚先生がこの作品を描いた背景には、このころアメリカが南太平洋で繰り返していた原爆実験や、1952年11月の最初の水爆実験があったことは間違いないでしょう。
手塚先生が初めて『沖縄に触れたことがある』と語った作品が発表されるのはこれから6年後のことです。それについては後でご紹介しましょう」
わかりました!!
ぼくは「ひめゆりの塔」の敷地入口で献花用の花束を買い、慰霊碑へと向かった。
敷地内にはいくつもの慰霊碑が立っているが、その中でも「ひめゆりの塔」はひときわ小さい。高さ90cmほどだろうか。戦後すぐに建てられたために大きいものは造れなかったのだという。
「ひめゆりの塔」の斜め後ろには後年建てられた慰霊碑(納骨堂)があり、この両者の間にはぽっかりと深い大きな穴が空いている。石灰岩の浸食によって出来たガマ(沖縄の言葉で洞窟の意)で、このガマが先ほど紹介した、被害が最も大きかったという旧陸軍病院第三外科壕のあった場所である。
敷地内には1989年に開館した「ひめゆり平和祈念資料館」も併設されている。館内には当時を偲ぶ遺品の数々が貴重な写真や資料と共に展示されていて、兵士ではないごく普通の女子高生たちが戦争に巻き込まれて命を落していった、その悲惨な時代の歴史をつぶさに知ることができる。
さて2箇所の手塚スポットでかなり時間を費やしてしまったので、ぼくは初日最後の目的地へ急ぐことにした。
「ひめゆりの塔」から4kmほどの場所にある「沖縄県営平和祈念公園」である。
沖縄戦争終焉の地にあるこの公園には、沖縄戦の写真や遺品を展示した「平和祈念資料館」や、沖縄戦で命を落したすべての人の名前を記した「平和の礎(いしじ)」などがある。
ここは直接の手塚スポットではないが、戦後70年の今年、手塚治虫が生涯にわたって作品の中で訴え続けた戦争反対のメッセージを振り返るには絶好の場所でしょう。
ちなみに今年2015年7月から手塚治虫公式サイトで特別企画『手塚治虫と戦争』の公開が始まっている。
手塚治虫が戦争について語った言葉、描いた作品を年代順に並べたもので、これを読むと手塚先生がその時代時代で戦争についてどう思っていたのか、何に危機感を感じていたのかが手に取るように分かります。ぼくも解説文などを書かせていただいてますので、ぜひそちらもご覧になってください!!
戦後70年企画:手塚治虫と戦争
ところで本浜先生、手塚先生が最初に『沖縄に触れたことがある』と書かれた作品というのはいったい何ですか?
「沖縄の地元紙『琉球新報』の1966年4月26日付夕刊一面に手塚先生へのインタビューが載っておりますので、その一部を引用します。
《 沖縄といえば、ピンとくるものは基地というイメージです。しかもその基地は、日本の基地という感じがしないんです。それはひとつは本土の人々の間に“これほどまでにやっても……” または “いくらやってもしかたがないんじゃないか……” という一種の諦めムードがあるんじゃないですか。
『他人の雨もりはどうでもいい』的な沖縄を “対岸の火事” 視する自分本位な考え方が、ジャーナリズムを含めて本土の人々にはあると思います。(中略)
沖縄の情緒豊かな文化や民族性がアメリカの影響で妙にバタくさくなるのはぼくとしても淋しいです。十年後の沖縄を考えるとほんとうに、いまのうちに何とかしなくちゃと思います。
四、五年前少年向きの雑誌に基地の子どもを描いた『どんぐり行進曲』という漫画を書き(ママ)、その中で沖縄に触れたことがあるんですよ。しかし、子供向きの漫画では、こうした問題はむずかしい冒険なのです。しかし仕事のうえではともあれ、ぼくらとして『沖縄』については何らかのかたちで参加すべき問題だと痛感します。》」
本浜先生、『どんぐり行進曲』がその作品だったんですね!
「そうです。『どんぐり行進曲』は『少年クラブ』の1959年1月号から6月号にかけて連載された、正義感の強い少年・木下藤吉郎が活躍する作品です。
ただしじつは、どの地域をモデルにしているか作中でははっきり示されていないんですね。むしろ出版社の建物や米軍基地の描かれ方を見ると、東京、ないしは東京近郊が舞台と考えたほうがよさそうです。
では手塚先生はなぜ取材の中で『沖縄に触れたことがある』と発言したのか。じつはその鍵は、単行本に収録されなかった連載第1回目のトビラにあると私は思うんです。その扉の絵には樹木を拳で叩く主人公と、木から落ちてくるどんぐりの形に似た爆弾の絵が描かれている。つまりこの作品のタイトルにある『どんぐり』は『爆弾』の隠喩(メタファー)として設定されているわけです。
そしてこの『爆弾』が示しているものは日本における米軍基地の問題であり、外交・安全保障上の問題なわけです。
つまり手塚先生がインタビューの中で語ったのは『沖縄』を描いたという意味ではなくて、沖縄が抱えている米軍基地の問題と共通するテーマを描いた作品であると言いたかったんだと思います」
そういうことだったんですね。それでは虫さんぽでも、この作品を手塚先生の沖縄を描いた作品のひとつとして紹介させていただきます!! 本浜先生、次回もまたいろいろお話をうかがわせてください。
「わかりました、よろしくお願いします」
読者の皆さんも、蒸し暑い中ここまでお付き合いくださってありがとうございます。次回沖縄さんぽ・中編をお楽しみに〜〜〜〜っ!!
(今回の虫さんぽ、6時間25分、2276歩)