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虫ん坊 2014年12月号:虫さんぽ 第38回:宝塚さんぽ(後編)手塚治虫先生の実弟・浩さんと昆虫採集の森を歩く!!

虫ん坊 2014年12月号:虫さんぽ 第38回:宝塚さんぽ(後編)手塚治虫先生の実弟・浩さんと昆虫採集の森を歩く!!

 先月からお送りしている虫さんぽ・宝塚編。今回の後編では超スペシャルなゲストにお越しいただいた。手塚先生の実の弟・手塚浩さんである! うおお〜〜〜〜っ!! 少年時代の一時期、手塚先生は2歳年下の弟・浩さんと共に捕虫網を携え宝塚の野山を駆けめぐった。今回はその浩さんの案内で、手塚先生の実家跡地や昆虫採集に明け暮れた懐かしの森を歩きます。手塚先生が浩さんにだけ見せた素顔も明らかに!? さっそく出かけようぜ〜〜〜〜〜〜〜っ!!



◎マイカーで颯爽と現れたその方は……!!

虫ん坊 2014年12月号:虫さんぽ 第38回:宝塚さんぽ(後編)手塚治虫先生の実弟・浩さんと昆虫採集の森を歩く!!

手塚浩さんとの待ち合わせ場所はここ手塚治虫記念館前! ふと正面玄関に目をやると、ファサードに掲げられた開館20周年記念のプレートを熱心に撮影している、若い手塚ファンの女性がいました!

 兵庫県宝塚市武庫川町。宝塚大劇場にほど近い交差点の一角に手塚治虫記念館は建っている。とある土曜日、虫さんぽで手塚治虫記念館を訪れたぼくは、その翌日の日曜にもまたこの記念館前に立っていた。
 じつはこの日、ここである方と待ち合わせをしているのだ。その方のお名前は手塚浩さん。手塚治虫先生の実の弟さんである。初対面なのでドキドキするぜーーーーーっ!!
 待ち合わせ時間より少し早めに到着したぼくが記念館前に立っていると、しばらくして交差点の反対側から、ひとりの年配の男性が颯爽とした歩き方でこちらへやってくるのが見えた。
 その方が手塚浩さんであることはすぐに分かった。浩さんの方もぼくのアイコンタクトに気づいてくださり、お互いに歩み寄る。
「初めまして、手塚浩さんですね。本日はよろしくお願いします!!」
「こちらこそ!」


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浩さんの愛車は高性能セダン。趣味で山へ行くので、その際にも信頼できるこの車を選んだんだとか

 浩さんとは初対面なのに、失礼ながらすぐに親しみを感じてしまったのは、その面影に手塚先生のイメージが重なるからだろうか。メガネの奥で微笑むやさしい瞳と横顔が手塚先生ととてもよく似ている。
 手塚浩さんは手塚先生より2歳年下の昭和5年生まれ。つい先日の10月に84歳になられた。しかし今でも自然観察を趣味にしていて昆虫採集で野山を駆けめぐっているとのことで実にかくしゃくとしている。
 この日も住まいのある大阪からここ宝塚まで、ご自身でマイカーを運転して来てくださったのだった。


◎ひょうたん池に関する2つの見解とは!?

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父・粲(ゆたか)氏と兄弟で撮った小学校時代の記念写真。手前の向かって右が兄の治少年で左が浩さんだ

「ちょっと距離があるので目的地の近くまで私の車で行きましょう」
 浩さんはそうおっしゃって、ぼくも助手席に同乗させていただいた。これから向かう御殿山方面へ行くのは浩さんも久しぶりだということだが、勝手知ったる野山だから、浩さんは裏道を使ってどんどん住宅街の奥へと入っていく。と、その路地が行き止まりになったガードレールの先に急に視界が開け、大きな池が現れた。
 ひょうたん池ですね、浩さん!
「そうです。当時とはまったく風景が変わってしまいましたけどね」
 昔はどんな風景だったんでしょう?
「今はこんなふうに池の周りまでびっしりと家が建ち並んでいますけど、昔はこのあたりは家なんてほとんどありませんでした。兄とはしょっちゅう昆虫採集に来ていましたよ。あのころと変わらないのは遠くに見える中山連山の稜線と、池の畔に生い茂るアシやダンチクくらいでしょうか」


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ひょうたん池のほとりで遠くの山並みを見ながら当時のことを語ってくださる浩さん。ぼく・黒沢には今でも十分自然が残っている風景に見えますけど、浩さんによれば昔はもっともっと自然があふれていたという

 池もここひとつだけじゃなかったそうですね。手塚先生の昆虫手帳には“蜻蛉とんぼ池”とか“底無池”などの名前も見えます。
「そうなんです。この下ノ池の西側にもひとつ大きな池がありましてね、下ノ池とは水路でつながっていたんです。その2つの池を真上から見ると、池がちょうど道路のところでくびれたひょうたんの形に見える。だから私は、この2つの池を合わせて“ひょうたん池”だと思っていたんです。一方、兄はこの東側の池ひとつだけでひょうたん池と呼んでいたようにも思いますので、もしかしたら兄とは見解が違っていたかも知れません(笑)」
 あー、わかります。自分の子供時代を振り返ってみても、あのころのモノや場所に対する名前の付け方って、きわめて主観的で自分本位でしたからね。


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手塚先生が少年時代に持ち歩いていた昆虫手帳。まるで活字のような小さくていねいな文字で、昆虫採集に関するさまざまなことが記録されている。写真は戦時中の1943年から44年ごろのもの。自宅周辺の採集スポットの地図などが描かれている。実物は手塚治虫記念館に展示されている。※画像は2009年東京都江戸東京博物館で開催された手塚治虫展の図録『手塚治虫展 未来へのメッセージ』より引用



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講談社版手塚治虫漫画全集『アドルフに告ぐ』第1巻より。今回浩さんと歩いた御殿山の山中が物語の舞台として登場している



◎お、お化け屋敷とか、こ、恐くないですから!!

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かつて手塚先生や浩さんが“お化け屋敷”と呼んでいた廃屋(?)のあった場所。今ではマンションが建っているが、道路がこのマンションをよけるようにコの字型になっていて、かつてのお化け屋敷の敷地がいかに広かったかが想像できる

 さて、ここからは道がもっと狭くなるというので、車を空き地に置いて徒歩で移動することにした。
 浩さんは、記憶をたぐりながら、住宅街の中をさらに奥へと歩いてゆく。そして道がコの字に屈曲した角で立ち止まり、その角の建物を指さした。今は何の変哲もない瀟洒なマンションが建っているが、かつてここには手塚先生や浩さんが“お化け屋敷”と呼んでいた建物があったというのだ。
 ゾゾゾッ、浩さん、お、お化け屋敷ですか? ぼく、そーゆーの苦手なんですが!!
「ははは、お化け屋敷と言うのは私たちが勝手にそう呼んでいただけで、ただの空き屋ですよ。お金持ちの別荘だったのか、本当の空き屋だったのかは分かりませんが、人気ひとけのない荒れ果てた大きな家が建っていましてね、その庭にも昆虫がたくさんいたんです。昔のことですから管理もゆるかったので、私たちは勝手に庭へ忍び込んで虫を捕ったりして遊んでいました」


◎風に乗って宝塚歌劇の音楽が……!!

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お化け屋敷前の石段の上に立って市街地のほうを見渡す。この少し手前にふたりの昆虫採集スポットだった蝶道があったという。遠くに宝塚大劇場が見える

 お化け屋敷の南側は急な斜面になっていて、下の路地までは細い石段が続いている。その石段の上に立って宝塚の市街地を見下ろすと、遠くに宝塚大劇場が見える。
 浩さんによれば、この場所から見下ろした街の風景も手塚先生との思い出の風景なのだという。
「蝶というのはある決まったルートを飛ぶ習性がありましてね、その蝶の通り道を“蝶道ちょうどう”というんですが、ちょうどこのあたりとお化け屋敷付近の林をコースとする蝶道があったんです。


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講談社版手塚治虫漫画全集『手塚治虫エッセイ集6』に収録されている『ぼくの少年時代』より。タイトルカットの中に、遠くに見える宝塚大劇場から音楽が聞こえてくる様子が描かれている。初出は1955年『少年クラブ』2月号に掲載

 だからここで待ちかまえているとやがて蝶が飛んでくる。兄と私は道端に腰かけて街の風景を眺めながらそれをじーっと待っていたんです。
 すると宝塚大劇場で公演があるときなどは、風に乗って街の方からかすかに音楽が聞こえてくるんです。あ、これは『モン・パリ』の主題歌だ、なんて言いながらふたりで鼻歌を歌ったりしていましたよ」
 ああ、何だかぼくにも音楽が聞こえてくるような気がします!!
「本当に懐かしいですね。私もこの場所へ来たのは久しぶりですし、この話もほとんど人にしたことがありませんから」
 これを読んでくださっている皆さんも、ここへ来たら、ぜひ街の方を眺めながら耳を澄ませてみてください。


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手塚先生と宝塚歌劇との縁は深く、戦後、本格的にマンガ家として活動を始める前から、『宝塚グラフ』や『歌劇』といった雑誌にマンガレポートなどを描いていた。左:『宝塚グラフ』昭和23年1月号より、右:『歌劇』昭和22年10月号より。※画像は1997年平凡社刊『手塚治虫マンガ大全』より引用



◎名作『アドルフに告ぐ』のあの人物が!?

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前出『アドルフに告ぐ』より、宝塚歌劇学校も作中に登場する

 続いて浩さんが案内してくれたのは、お化け屋敷の南側の斜面に建つ一軒家である。今は新しい家が建ち、まったく別の方が住んでいるが、戦前、ここにはカウフマンさんというドイツ人の一家が暮らしていたという。
 1983年から85年にかけて、手塚治虫は『週刊文春』に『アドルフに告ぐ』というマンガを連載した。この作品はアドルフ・ヒットラーの台頭と日本の戦前・戦中の人間模様とをからめて描いた超大作で、その主人公のひとりがカウフマンという人物だった。そう、この名前はまさにここに住んでいたカウフマンさんからお借りしたものだったのだ。以下、手塚先生の文章を引用しよう。
「ちょうどぼくのかつて住んでいた宝塚の家の近くにカウフマン氏というドイツ人の家庭があり(別に情報部員でもなんでもありません)、名前を覚えていたのでなんの気なくその名を主人公に拝借したのです」(文藝春秋社ハードカバー版『アドルフに告ぐ 第四巻』あとがきより)
 浩さん、そのカウフマンさんのおうちはどんな家だったんですか。
「二階建ての立派な西洋館でした。ただ、マンガの中に出てくるようなお屋敷ではありませんでしたので、本当にお名前だけを使わせていただいたようですね」
 そのカウフマンさんと手塚家とは交流があったんですか?
「お付き合いはありませんでした。ただ、お姫様みたいなとてもきれいなお嬢さんがいたのを覚えていますよ」


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マンガに近いアングルから阪急電車の陸橋を入れて宝塚大劇場を撮影した。川面では水鳥が羽を休めていて、のどかな風景に往時が偲ばれる



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ドイツ人一家・カウフマンさんの家があった場所。今では(恐らく)まったく関係ない方が住まわれている(と思われる)ので、散歩される際には、くれぐれも迷惑にならないようご注意ください

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前出『アドルフに告ぐ』より、カウフマン父子とその屋敷。作中ではこの家は神戸にある



◎手塚先生一家が宝塚へ引っ越した理由は!?

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手塚先生の実家があった場所。大きなクスノキの手前に門が見えるけど、手塚先生がここに住んでいた当時の家の門は、道路に対して斜め45度の角度で付いていたそうです。それにしても生命力を感じる立派な木ですね

 さていよいよ次に向かうのは手塚先生の実家があった場所だ。この家は昭和35年に手塚家が一家で東京へ移り住んだ際に売ってしまったため、今ではまったく別の方が住んでいて家もすっかり建て替わっているという。しかし浩さんによれば、それでも当時の面影をしのぶものがわずかに残っているという。それは楽しみです!!
 カウフマン邸跡地の下の路地を西へ歩き土塀にはさまれた小径を抜けて坂を下ると、左手に、塀の中から大きなクスノキがニョキッとそびえ立っている立派なお屋敷が見えてくる。ここが手塚先生や浩さんが幼少期を過ごした実家のあった場所である。
 手塚先生は1928年(昭和3年)、大阪府豊能郡豊中町(現・豊中市)に生まれ、5歳の時に一家でこの場所へ引っ越してきた。なぜここへ越してきたのか。その経緯については、浩さんがある本の中で詳しく書かれているので、それを引用させていただこう。
「治虫の祖父にあたる手塚太郎は明治・大正の世にあって法曹界の英才とうたわれ、判事、検事の職を歴任、最後には長崎控訴院院長の職を全うして一九二五年に定年退職。そののち、どういうわけか兵庫県川辺郡の片田舎いなかだった小浜村川面かわもの閑静な高台のふもとに和洋折衷の広い邸宅を構えて終の住処すみかとした。三二年に他界したあと、大阪の豊中町で生まれた孫の治少年は両親や弟妹とともにその屋敷に移り住むことになった」(2014年青弓社刊『タカラヅカという夢』所収、手塚浩著「治虫とTAKARAZUKAと俺」より)


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手塚プロアニメーター・小林準治氏の著書『マンガ 手塚治虫の昆虫つれづれ草』(2012年講談社刊)より。手塚先生の実家の俯瞰風景。小林氏は綿密な取材をして描かれたということなので、イメージはかなり近いのではないだろうか



◎今も残る手塚邸の面影とは!?

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終戦の年・昭和20年に自宅玄関前で撮影された手塚先生の写真。浩さんがおっしゃっているように、門扉がかなり腐ってぼろぼろになっていますね

 浩さん、手塚邸はどんな家だったんですか?
「とても広い家でしたよ。入口の門は、当時は南西の角に、道路に対して斜めに付いていました。その門を入るとすぐ左側に井戸があって、建物に沿って歩くと1階手前から子供部屋、応接間と並び、その先に玄関があったんです。部屋は納戸も含めて10ほどありました」
 うおお、立派なお屋敷だったんですね。
「ははは、ありがとうございます。だけど戦時中は男手がないから手入れが行き届かなくて、建物はかなり傷んでしまいましたし、庭も荒れ放題になっていましたよ」
 当時からそのままあるものというのはどれですか?
「まずはこのクスノキです」
 あっ、この木は手塚先生のマンガにも出てきてますね!
「子供の感覚ではこの木は当時からこれくらい大きかったですからね。もう相当な老木だと思いますね。あとはその奥に立つモミの木も当時のまま残っているものです。隣家との境界になっている水路の石積みなどもまったく当時のままですよ」
 この水路を見ると、当時のお屋敷もとても立派だったことがうかがえますね!


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こちらは手塚治虫先生の作品『新・聊斎志異 女郎蜘蛛』より。物語冒頭に手塚先生自身と実家の風景が描かれている。講談社版手塚治虫漫画全集『タイガーブックス4』に収録。初出は1971年『週刊少年キング』



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浩さんが教えてくださった、手塚先生がここに住んでいたころからそのまま残っているものを2つ紹介しよう。家の敷地の東南角に立っているモミの木(左)と、隣家との境を流れる水路の石積み



◎歌劇スターたちとの交流!!

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往年の宝塚歌劇スター・天津乙女の自伝『清く正しく美しく』(昭和53年宝塚歌劇団発行)と当時の写真絵はがき

 ところでこの水路を隔てた東隣の家には当時の宝塚歌劇の大スター・天津乙女さんのお宅があったそうですね、浩さん。
「兄や私はおよばれしてご馳走をいただいたり、天津乙女さんと一緒にかくれんぼをして遊んでもらったこともありますよ」
 宝塚スターとかくれんぼですか。まるで夢のようですね。手塚先生のエッセイにも、手塚家とヅカガールとの交流について書かれたものがありますので紹介しますね。


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宝塚の歴史と今をまとめた本『タカラヅカという夢』(2014年青弓社刊)。今回引用させていただいた手塚浩さんの記事『治とTAKARAZUKAと俺』が収録されている

「うちの隣家は天津乙女と雲野くものかよ子姉妹の住まいであり、彼女らに抱かれてぼくは育ったのである。(中略)宝塚音楽学校の入学期ともなれば、愛くるしく美しい新入生たちが、ぞろぞろとうちの玄関先を通って、天津乙女の家へあいさつに通うのだった。ぼくの母は宝塚の熱狂的なファンで、そういった新入りの生徒たちが緑のはかま姿でよくうちへ遊びにきた。彼女らのコーラスを聴いて、ぼくは宝塚の歌をおぼえ、ぎこちなくピアノで弾いたりしたものだ」(講談社版手塚治虫漫画全集『手塚治虫エッセイ集6』「私の宝塚」より。※初出は1984年3月『朝日新聞大阪版』)


◎蛇神社と猫神社と昆虫採集と

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蛇神社のほこら。これは阪神大震災以後に再建されたものだが、雰囲気は昔とほとんど変わっていないという

 このあと浩さんには、手塚先生や浩さんが蛇神社、猫神社と呼んでいたお稲荷さんと千吉神社を案内していただいた。
 猫神社こと千吉神社の前には、2010年に地元の有志の方の寄付によって作られた『手塚治虫 昆虫採集の森』という記念碑が立っている。浩さん、このあたりは当時は実際に昆虫がたくさんいたんですか?
「いましたね。兄と私は、ここへもよく採集に来ました。今でもこのあたりにはかなりの昆虫が棲んでいるはずですよ」
 そう言っている間にも、浩さんは近くの民家の生け垣を飛ぶ蝶をめざとく見つけ、それを目で追っていた。では蛇神社はどうだったんでしょう?


虫ん坊 2014年12月号:虫さんぽ 第38回:宝塚さんぽ(後編)手塚治虫先生の実弟・浩さんと昆虫採集の森を歩く!!

手塚先生が猫神社と呼んでいた千吉神社への入口。まるで人の家の庭へ入っていくような路地の奥にある

「これが不思議なことに蛇神社にはなぜか昆虫がほとんどいないんです。いたのはその北側の原っぱですね。当時、蛇神社の北側には住宅を建てるために整地しただけの草ぼうぼうの原っぱが広がっていたんです。あるとき兄がそこでオオウラギンヒョウモンという蝶を捕りましてね。これは宝塚ではかなりめずらしい蝶なんです。兄と私は昆虫採集ではライバルでしたから、それがもう悔しくて。後から私も捕りましたよ、2匹も!!」
 浩さんも負けず嫌いなところが手塚先生とよく似ておられますね(笑)


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猫神社の鳥居と記念碑の前で記念撮影。84歳(さんぽ当日はまだ83歳)とは思えない若さ。これも昆虫採集で日ごろから足腰を鍛えられているからだろうか!?

 ちなみにこの蛇神社と猫神社は2011年の虫さんぽでも訪れているので、そちらも参照してください。

・虫さんぽ 第17回:【夏休み関西さんぽ・後編】兵庫県宝塚市:手塚治虫記念館周辺を歩く


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猫神社のほこらに掲げられている看板と、ほこらを守っている白狐の像。神秘的な雰囲気が漂っています



◎宝塚ホテルで思い出の話はまだまだ続く!!

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猫神社近くの農家の物置。浩さんの近くを蝶がフッと横切り、浩さんの目はたちまちハンターの目になった!

 浩さんと一緒に手塚先生との思い出の場所を巡った後、ふたたび浩さんの車で宝塚市街へ戻り、宝塚ホテルのカフェで休憩することにした。3年前の虫さんぽで紹介した通り、ここ宝塚ホテルも手塚先生とはとてもゆかりの深い場所である。
 浩さん、お疲れさまでした!
「どういたしまして。私も久々に懐かしい場所を歩けて楽しかったです」
 宝塚での手塚先生のことをもう少しうかがいたいのですが、浩さんと手塚先生が昆虫採集を始めたのはいつごろからだったんですか?
「先日、黒沢さんが取材された大阪の虫さんぽで石原実さんが語っておられたように(※黒沢注:大阪さんぽ(後編))、兄が昆虫採集にはまるきっかけとなったのは、小学校5年のときに授業で昆虫採集に行ったことだったんですね。
 それで兄はすぐにお袋にねだって昆虫採集用具を一式買ってもらったんですよ。当時は昆虫採集がブームでしたから阪急百貨店にも昆虫採集グッズの専門コーナーがあって、そこでかなり立派なセットを買い揃えました。兄は何でも形から入る方でしたからね(笑)」


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水田とビニールハウスの間の一本橋のような道の突き当たり、うっそうとした森の奥に猫神社がある

 どんなセットだったんでしょう。
「スプリングで開く直径42cmの捕虫網と道具を入れる胴乱、フタの付いた桐の標本箱、蝶や蛾の標本を作製するための展翅板、そのほかもろもろですね。それを帰ってきて私に「どうだ」と見せつけるんですよ。それで兄ばかりずるいと言って私もお袋に同じものを買ってもらったんです」
 それからはおふたりでいつも一緒に採集に?
「最初のころはほとんど一緒でしたね。だけどそのうちに競争心が出てきまして。さっき猫神社で話したように、兄が近畿地方にいるはずのない蝶を捕ったあたりからでしょうか。次第に別行動をするようになっていったんです。
 そのころ兄は学校から帰ったらすぐに昆虫採集に出かけられるように門柱の裏に捕虫網を隠していたんです。それで私も負けじと反対側の門柱の裏に捕虫網を隠して、我先にと昆虫採集に出かけるんです。もうそこから競争が始まっているんですよ(笑)。
 兄が中学へ上がると、兄には新たな昆虫採集仲間ができて、その人たちと一緒に採集に行くようになりました。ですので、そのころにはもう完全に別々に行動していましたね。あと、現在手塚治虫記念館がある北側にかつて阪急電鉄が運営する『宝塚昆虫館』という施設がありまして、兄も私もそこへは足しげく通っていましたよ」


◎食糧難時代のカナブンのふりかけとは??

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御殿山を降りて宝塚ホテルへやってきた。自然に囲まれた里山の風景から一気に都会的・近代的な雰囲気に変わる。これが宝塚の魅力なんでしょうね

 やがて戦争が激しくなってくるわけですが、手塚先生は昆虫採集をいつごろまで続けておられたんでしょう。
「兄は戦時中もずっと出かけていました。日記を見ると終戦の1ヵ月前にも行っていたようです。当時はそんなところを大人に見つかったら“非国民”と言って激しく非難された時代です。しかも我が家は父が召集されて戦争に行っていたから生活も苦しくて。まさに食うや食わずの中でお袋が必死にやりくりをしていたころですから、兄も相当な覚悟で出かけていたんでしょうね」
 浩さんはどうだったんですか?
「私はさすがにそのころはあまり行きませんでした。自宅の庭では採集していましたけどね。むしろそのころ昆虫は食べ物だったんですよ」
 昆虫を食べるんですか!?
「これは兄の北野中学時代の友人で兄の昆虫採集仲間だった林久男さんから聞いた話ですが、林さんはカナブンを粉挽き機で粉々にしてふりかけをこしらえて食べたんだそうです。私は粉挽き機がなかったのでやりませんでしたけどね」
 それって……おいしいんでしょうか。
「青臭くて旨くはなかったそうです(笑)。でもこれはカナブンの腹の中を空っぽにしないで粉にしたからで、きちんと下ごしらえをすれば美味しくできるはずなんです。今度ごちそうしましょう!!」
 あ、いえ、ぼくは……遠慮しておきます……!!


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宝塚ホテルを紹介した戦前のパンフレット。外国人向けに、片面が英文で書かれているところがおしゃれだ。館内の風景もいちいちゴージャスである



◎マンガ家になるという決断と昆虫採集との関係は!?

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戦前の宝塚ホテルを撮影した写真絵はがき。本館の建物の外観は現在とまったく変わっていない

 ある意味、戦時中の手塚先生は命がけで昆虫採集をしていたことになる。
 ところが終戦後間もなく、手塚先生はそれほどのめり込んでいた昆虫採集をピタッとやめてしまった。それはなぜなのか、浩さんの話は続きます。
「私は、あのころ兄が昆虫採集をやめた理由を面と向かって聞いたことはありませんでした。しかしそれは恐らく兄がマンガ家になると決心したことと無縁ではかったと思うんです」
 いったいどういうことでしょう?
「兄はエッセイなどで、医者になるかマンガ家になるかを迷ってお袋に相談をしたところ、お袋が「マンガ家になりなさい」と言って背中を押してくれたと書いています。でもふたりの性格を良く知る私としては、実際は兄が本に書いた通りではなかったんじゃないかと思っているんです。
 当時、我が家はかなり生活が苦しかったんです。父は何とか生きて戦地から帰ってきましたが、南方でマラリヤ(蚊が媒介する伝染性の熱病)にかかり、会社もクビになって新しい仕事に就ける状態ではありませんでした。
お袋がたったひとりで家計を支えていたんです。
 一方で兄は大学で医者の勉強を続けながら、すでにいくつかのマンガを発表してそれなりの評価を得ていました。でも島田啓三先生や新関健之助先生など尊敬する先輩漫画家たちからは良い評価をもらえず、自分がマンガ家として本当にやっていけるのか自信はなかった。しかも兄は長男ですから、当時の考え方では長男には親兄弟の面倒を見る責任もありました。
 そんな中で兄はお袋にマンガ家になりたいとはなかなか言い出せなかった。それにお袋も兄に相談されても『マンガ家になりなさい』とは言えるはずがなかったと思うんですね。
 だから私は、兄は最終的に自分ひとりで決断をして、お袋を説き伏せたんだと思うんです。その決意の表れとして医者への道を絶つのと同時に昆虫採集もきっぱりとやめたのではないかと、私はそう考えているんです。もうこれは私の勝手な想像で、今となっては本当のことはもう分かりませんけどね!」


虫ん坊 2014年12月号:虫さんぽ 第38回:宝塚さんぽ(後編)手塚治虫先生の実弟・浩さんと昆虫採集の森を歩く!!

手塚浩さんが保存していた手塚治虫先生の昆虫標本。戦時中の1941〜42年ごろのものだという。現在は手塚治虫記念館に寄贈され同館が保存している。※画像は2009年東京都江戸東京博物館で開催された手塚治虫展の図録『手塚治虫展 未来へのメッセージ』より引用

 うーん、ご家族でなければ見えてこないとっても深い話ですね! 手塚先生のエッセイは、説得を承諾してくださったお母様への感謝の気持ちを込めてあのように書かれたのかも知れませんね。

 ちなみにそのことについて手塚先生が講演で語られた言葉を紹介しておきましょう。
「(黒沢注:マンガ家になるという選択に)決定的だったのは母の一言でした。ぼくは医者になれたらいいなとも考えていましたし、マンガも描きたいと思っていました。そしていよいよ進路を決めなければならなくなったとき、母に
『東京に行って、マンガを描きたい。でも、宝塚に残って、医者にもなりたい』
と言いました。
 母は『ほんとうに好きなのはどちら?』と聞きます。
『ほんとうはマンガが好き』
と答えると、
『あんたがそんなに好きなのなら、東京へ行ってマンガ家になりなさい』
と言います。
 母はいいことを言ってくれたと思います。(中略)好きなほうを選ばせてくれたおかげで、ぼくの一生はとても充実したものになったのです」(1997年岩波書店刊『ぼくのマンガ人生』より)


虫ん坊 2014年12月号:虫さんぽ 第38回:宝塚さんぽ(後編)手塚治虫先生の実弟・浩さんと昆虫採集の森を歩く!!

虫ん坊 2014年12月号:虫さんぽ 第38回:宝塚さんぽ(後編)手塚治虫先生の実弟・浩さんと昆虫採集の森を歩く!!


再び小林準治氏の著書『マンガ 手塚治虫の昆虫つれづれ草』より、手塚先生と浩さんの昆虫採集競争の様子。負け惜しみが強いふたりが競えばまあ当然こうなりますわな



◎手塚先生が浩さんに託した昆虫採集の夢

虫ん坊 2014年12月号:虫さんぽ 第38回:宝塚さんぽ(後編)手塚治虫先生の実弟・浩さんと昆虫採集の森を歩く!!

戦前の絵はがき。右上が、手塚先生が小中学校時代に足しげく通ったという宝塚昆虫館だ。宝塚昆虫館は1939年に東急電鉄によって建設されたが1975年に閉館した。左下の宝塚文芸図書館は、建物だけは残っていたが今年2014年1月、再開発のために惜しまれつつ解体された

 浩さんは今でも昆虫採集をやっておられるんですね。
「標本はこれ以上増やさないようにしているんですけどね。一時期は数百箱ありましたが、人に譲ったりして現在は200箱しか手元にありません。
 でも先ほどお名前を出した林久男さんとは、今では私が親しくしていただいていて、一緒に石垣島、西表島など八重山方面を始めとして各地へ採集に出かけたことがありますよ。
 兄の昆虫採集に対する情熱は全部私に乗りうつっているんではないかと思っているんです。今でもたまに兄が夢に出てくることがあるんですが、その兄が昆虫採集をする私をいつも笑って見てくれているんですね。その兄の顔から笑顔が消えるまでは、私は昆虫採集を続けようと思っています」
 手塚浩さん、本日は長時間のさんぽ、ありがとうございました!!
「こちらこそ。では次回お会いするときは、黒沢さんに美味しい昆虫料理をごちそういたしましょう」
 い、いえ、それだけはご勘弁を……!!

◎宝塚を愛した手塚先生の思い……!!

 おしまいに浩さんが手塚先生と宝塚との関わりについて書かれている素敵な文章を紹介して、今回のさんぽの締めくくりといたしましょう。
 それでは皆さん、次回の虫さんぽでまたお会いいたしましょう!!

「終戦後、治少年は医者になることを断念し、漫画道を究めるべく心を決めたあと、あれだけ打ち込んでいた昆虫との触れ合いと決別してしまった。自然に親しみ、特に蝶が好きで採集や観察に熱中した治少年は、よく裏山の高台にあった蝶道(中略)で蝶を追いかけるのをとても楽しみにしていた。ツツジが咲き、蝶が舞い、薫風に乗って彼方からこだまする『春のをどり』の旋律に耳を傾けながら、はるかに街の中心部を望めたその高台もいまは昔語りだが、そのような平和に満ち夢あふれる自然環境がなければあの治虫の世界は絶対に生まれてこなかったとの思いは隠せない。そう、彼の作品には往年の宝塚でしか味わえない特有の香りがいつもどこかに漂っている。、そしていまそれを体感できるのはきっと俺一人だけだ。そんな思いを馳せていると、呵々と笑ってうなづく治兄貴の姿がまぶたに浮かんだ。『やっとお前もそれがわかる歳になったか』と応じてくれたようだ」(前出、青弓社刊『タカラヅカという夢』所収「治虫とTAKARAZUKAと俺」より)


虫ん坊 2014年12月号:虫さんぽ 第38回:宝塚さんぽ(後編)手塚治虫先生の実弟・浩さんと昆虫採集の森を歩く!!


(今回の虫さんぽ、5時間22分、4327歩)

取材協力/手塚浩(敬称略)


黒沢哲哉
 1957年東京生まれ。マンガ原作家、フリーライター。手塚マンガとの出会いは『鉄腕アトム』。以来40数年にわたり昭和のマンガと駄菓子屋おもちゃを収集。昭和レトロ関連の単行本や記事等を多数手がける。手塚治虫ファンクラブ(第1期)会員番号364番


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