手塚治虫は、アニメーションの製作に、ときにはマンガ以上の情熱を注いでいた。先ごろ公開された映画『アニメ師・杉井ギサブロー』の中では、手塚が「アニメを作ることには造物主の優越感がある」と語った映像が引用されていた。自分の描いた絵がまるで生命を吹きこまれたかのように動き出す! 幼いころ、そんなアニメの魅力にとりつかれたひとりの少年が、やがて虫プロを設立し、その夢を実現した。今回はそんな手塚少年のアニメとの出会いから、「自分もアニメを作りたい!」という夢を抱くまでの「あの日あの時」を振り返ります!
1978年に発表された『ブラック・ジャック』第224話「動けソロモン」は、プールでおぼれかけたピノコがアニメーターの青年に助けられるというお話だった。
青年はアニメ製作会社で動画を担当していた。青年は自分のまかされた“ソロモン”という名前のライオンを生き生きと動かしたいと、500枚の動画にして会社へ持っていった。だが社長は「これでは費用がかかりすぎて商売にならない」と言ってその動画をボツにする。
このエピソードに出てきたアニメーターの青年は、これより20年前の1958年に発表された作品『フィルムは生きている』でもアニメーターを演じていた。そしてこちらのお話も、アニメーションの製作に情熱をそそぐふたりの青年を、宮本武蔵と佐々木小次郎の巌流島の対決になぞらえて描いた熱血ストーリーだったのだ。
両作品とも、アニメへのつきせぬ思いから生まれた傑作と言えましょう。
そんなマンガ執筆とアニメ製作の二足のわらじをはき続けていた手塚は、かつてインタビューなどで「自分にとってマンガとアニメは何か」と問われると、いつもこう答えていた。
「マンガは“本妻”、アニメーションは“愛人”なんです」
リードでも紹介した、アニメ監督・杉井ギサブローの半生を追ったドキュメンタリー映画『アニメ師・杉井ギサブロー』の中にも、手塚がこの言葉を語っている映像がおさめられていた。
話は脱線するけど、名前が出たのでここで杉井ギサブロー監督についてざっと紹介しておこう。
杉井ギサブローは1958年、18歳で東映動画に入社し、アニメーターとして仕事を始めた。その後1961年、手塚が立ち上げた虫プロに参加。『悟空の大冒険』『どろろ』などで異色の演出が注目された。
虫プロ倒産後、虫プロ出身の田代敦巳が立ち上げたグループタックで仕事を始めた杉井は、1980年代半ばには、あだち充原作の青春アニメ『タッチ』を総監督。このテレビアニメは社会現象ともいえる一大ブームを巻き起こした。
そして今年2012年7月には、杉井が監督・脚本を担当した劇場アニメ『グスコーブドリの伝記』が公開された。
同題の宮沢賢治の童話を原作としたこのアニメ映画は、もともとはグループタックが製作していた。しかしその製作のさなかに代表の田代が亡くなり、グループタックは倒産してしまった。そのため一時はお蔵入りになりかけたが、手塚プロが製作を引き継ぐことになり、無事公開にこぎつけたのだ。
手塚のもとでアニメを学んだ杉井が情熱を注いだ作品がお蔵入りになりかけた。その製作をめぐりめぐって手塚プロが引き受けた。アニメ業界は狭いとはいえ、こうした不思議な縁の根底には、亡き手塚先生の思いが働いていたとしか思えません。
さて、話を元に戻そう。「マンガは“本妻”、アニメーションは“愛人”」という手塚の言葉である。
ここにはマンガとアニメに対する距離感の違いや、つきあい方、お金のかかり方(笑)など、両者に対する思いがひとことでスパッと説明されている。まさに名文句と言えるだろう。
だけどここでぼくがもうひとつ付け加えさせてもらうと、この手塚の愛人であるアニメは、じつは本妻と同じくらい長いつきあいの“幼なじみ”でもあったのだ。
手塚がアニメを初めて見たのは小学生のころのことだという。
「大阪の朝日会館で、毎年正月に漫画映画大会をやる。それを母に連れられて正月三日に観にいくのが、わが家の恒例であった。「ポパイ」や「ベティ・ブープ」ものといっしょに、当時まだ珍しかったディズニーのカラー漫画をやっていた」(講談社版全集第383巻『手塚治虫エッセイ集1』より)
そしてそんな中で手塚はミッキーマウスとも出会った。以下、別のエッセイより。
「小学校二年生のとき、ぼくはマンガ映画大会ではじめてミッキーマウスに対面した。そしてパテー・ベビーという古めかしい家庭用映写機を父が買ってきて、フィルムの何本かを揃えたとき、そのうちの一本は『ミッキーの突進列車』であった」(講談社版全集第387巻『手塚治虫エッセイ集2』「ウォルト・ディズニー -マンガ映画の王者-」より)
この『ミッキーの突進列車』というフィルムは、当時としてはデラックスなサウンド版だったそうで、手塚はさらに別のエッセイでそのしくみについて詳しく書いている。
「これ(『ミッキーの突進列車』)にはレコードがついていて、いざ映写を始めるという時に、ワンツースリーでレコードに針をのせる。すると、画の動きの伴奏やセリフを、レコードがやってくれるのである。だんだん画と音とがずれてくるのだが、うまくしたもので、ハンドルをガシャガシャ回しながら映す手動式の機械だったから、ハンドルを適当に加減するとまた音があってくる」(講談社版全集第387巻『手塚治虫エッセイ集2』「わがアニメ狂いの記」より)
当時の映写機はひじょうに高価だったし、うっかり触ると火傷をしてしまうから、子どもには絶対に触らせてもらえなかった。
だから手塚少年も、父親が映写機を操作している様子を、尊敬と羨望のまなざしで横からジーッと観察していたのだろう。そんな手塚家の上映会の様子が目に浮かんでくるような文章だ。
この漫画映画大会とパテー・ベビーでのミッキーマウスとの出会い以後、手塚はあの曲線を基本とした丸っこい絵柄にたちまち魅せられていった。手塚はこの丸っこい絵柄を「ぬいぐるみスタイル」と呼んでいる。
「ぼくは、はじめ田河水泡氏と横山隆一氏のマンガに私淑していた。それがディズニーに傾倒してからというものは、俄然、このぬいぐるみスタイルを必死になって模写し修得して、とうとういまの画風になってしまった」(前出「ウォルト・ディズニー -マンガ映画の王者-」より)
手塚によれば、ディズニーに限らず当時のアニメーションがこうした丸っこい絵柄を採用していた理由は次のようなものだっという。「動きをギクシャクさせずスムーズに見せるためには、円運動を基本としたアクションが必要であり、それにはあのスタイルが、もっとも便利だからなのだ」(同エッセイより)。
こうして次第に“漫画映画”に夢中になっていった手塚少年に、さらなる衝撃を与える作品が登場する。それは日中戦争のさなかの1942年(昭和17年)に日本で公開された。中国アニメ『西遊記 鐵翁公主の巻』(1941年製作)である。
これは『西遊記』の中の牛魔王のくだりをアニメーション化した73分の作品で、中国初にして東洋初の長編アニメーション作品だった。
作ったのは籟鳴(らいめい)・古蟾(こせん)・超鹿(ちょうか)の萬(はん)兄弟。彼らはこれより前の1926年に『アトリエ騒動』という中国初のアニメーション作品を作ったが、残念ながらこちらのフィルムは現存していない。
お話は火焔山へやってきた孫悟空らの一行が、牛魔王とその妻・羅刹を相手に丁々発止の妖術合戦をくりひろげるというものだ。
『西遊記 鐵翁公主の巻』は、手塚少年にとって相当大きなインパクトがあったようで、それから10年後に手塚が『ぼくの孫悟空』を描いた際にも、いまだにその影響から抜けきれなかったということを告白している。
「『ぼくの孫悟空』には、この『鉄扇公主』の影響がかなりつよくでています。ことに「火焔山と牛魔王」のくだりは、はらいのけようと思ってもあのアニメのイメージが心にちらついて、とうとう、ほとんどイミテーションにちかいものになってしまったくらいです」(講談社版全集第19巻『ぼくの孫悟空』第8巻あとがきより)
両者を見くらべてみると確かに『ぼくの孫悟空』のコマ運びや構図、キャラクターの造形など、随所にこのアニメーションの影響が見て取れて面白い。
実際、『西遊記 鐵翁公主の巻』は当時としてはかなり画期的な作品だった。
西洋アニメの影響と思われるバタ臭いギャグが随所に散りばめられている一方で、悟空たちにせまりくる炎や風の表現には独自の工夫がある。立体感を見せながらメラメラと前後に揺れ動く炎などは、その熱気さえ感じられるほどだ。
また時代的に見ても、ディズニーが世界初のカラー長編アニメーション『白雪姫』を公開したのが1937年のことだから、それからわずか4年後ということを考えると、これはかなり驚いていいだろう。
しかもディズニーの『白雪姫』が日本で初めて公開されたのは太平洋戦争が終わって5年後の1950年のことだから、手塚少年も、この時点では『白雪姫』はまだ観ていなかったのだ。
ちなみに手塚はさらに後年、虫プロでもテレビアニメ『悟空の大冒険』(1967年、フジテレビ)を製作しているが、こちらは前の方で紹介したように杉井ギサブローが総監督を担当した。
杉井は手塚から「好きにやっていい」という言葉を得て、その通りの型破りでハチャメチャな演出を試みた。そのシュールでサイケでブッ飛んだ演出は、いま観てもかなり先を行っているものだ。
そして手塚のアニメーションへの思いを決定的とする作品との出会いがあったのは、太平洋戦争の末期、日本が連日空襲にさらされているころだった。
タイトルは『桃太郎 海の神兵』。1945年4月12日、終戦のわずか4ヵ月前に封切られた上映時間74分のこの長編アニメーションは、当時の松竹動画研究所が、海軍省からの依頼を受けて製作した国策映画だった。
国策映画というのは、国威発揚を目的としたプロパガンダ映画のこと。つまり日本軍の戦争を正当化し、市民の戦意をあおるためにつくられた映画ということだ。
したがってお話の中には日本の戦争を賛美する表現や、逆にアメリカやイギリスなどを卑怯で野蛮な敵国としておとしめる表現が随所に出てくる。
だけど当時としてはこれはもうどうしようもないことであり、製作者たちはその限られた条件の中で、子どもたちに夢を届けようと必死になって努力している様子もうかがえる貴重な作品となっていた。
監督は戦前の1930年代から自身の動画スタジオを持って漫画映画の製作を行っていた瀬尾光世。そのほか原画/桑田良太郎、音楽/古関裕而、作詞/サトウ・ハチローなど、当時の最高のスタッフが集結していた。
しかしこの映画が封切られたのは前述したように終戦間際のことであり、日本はすでに完全な負け戦となっていた。都市部では連日激しい空襲があり、製作者たちがこの作品をもっとも観てもらいたいと願っていた子どもたちは、田舎に疎開して、すでに都会からは子どもの姿がほとんど消えていたのである。
そんな中、当時旧制中学の学生だった手塚は、勤労動員の工場を休んで大阪・道頓堀の映画館へ行き、この映画を観た。以下、エッセイからの引用。
「ぼくは焼け残った松竹座の、ひえびえとした客席でこれを観た。観ていて泣けてしょうがなかった。感激のあまり涙が出てしまったのである。前編に
「おれは漫画映画をつくるぞ」
と、ぼくは誓った。
「一生に一本でもいい。どんなに苦労したって、おれの漫画映画をつくって、この感激を子供たちに伝えてやる」」(講談社版全集第383巻『手塚治虫エッセイ集1』より)
手塚のアニメ製作への思いが決定的となった瞬間だった。
ちなみにこの『桃太郎 海の神兵』のフィルムは戦後、占領軍によって焼却され幻のフィルムになっていたと思われていた。ところが1982年、松竹の倉庫でネガが見つかり、37年ぶりに劇場公開されたのである。
その後、テレビで放送されたりビデオソフト化もされているが、DVDソフトにはなっておらず現在は絶版となっている。貴重な文化遺産として、ソフト化していつでも観られる状態にしていただきたい。
戦争が終わると、有言実行の男・手塚治虫はただちに行動を起こした。芦田巌という、当時数少ないマンガ映画スタジオを持つアニメ作家のもとを訪ね、弟子入りを志願したのだ。以下、手塚の文章から。
「昭和二十一年に上京した際、ふらりとあるマンガ映画プロダクションへ飛び込んで「僕を使って下さい」と執拗に頼み込んだ。
「だめだ、君は映画に向かん」と所長は、私の作品を見ていった。
「実力がありませんか?」がっかりしてきくと、
「一度、出版界の味をしめてしまうと、報酬その他、割りがいいもんだから、ケタ違いに不利な動画などは、とても作る気になれないよ」
「縁の下の力持ちで何でもやります。やとって下さい」
「あきらめるんだな」
私はがっかりして、以後、マンガ映画をつくることなど、すっかり忘れてしまった」(『東京新聞』「私の人生劇場」昭和42年11月3日[山口且訓・渡辺泰共著『日本アニメーション映画史』1977年有文社刊]より孫引用)
昭和21年(1946年)といえば、手塚の出世作となった『新寶島』(1946年1月、育英出版)が刊行される直前である。もしもこのとき芦田が手塚をアニメーターとして採用していたら……後のマンガ家・手塚治虫は存在していなかったかも知れない!?
と、それはともかく、ここでアニメ作家への夢をいったん断ち切られた手塚は、やむなく(?)マンガに打ちこむことになる。
しかし、当然のことながらアニメへの思いを完全に忘れてしまうことはできなかった。しかもこのころは、戦争でずっと輸入されていなかった戦前のアニメーションが日本に続々と入ってきており、また新作アニメーションなど、海外の優れた作品が山のように公開されていたのだ。
もともとマンガの中に世相を引用するのが大好きな手塚先生だ。それが片想いの相手のアニメとなればなおさらだ。
手塚はあるアニメを見ては、すぐそれに感化され、そのギャグをマンガの中に取り込んだ。またほかの作品を見て感激しては、その動きを再生するようにマンガ化した。
いわばこの時期の手塚マンガというのは、アニメへの断ちがたい恋心(しかも片想いの!)を描いた、決して相手に届かない、悲しい悲しいラブレターなのである!
その一例をあげてみよう。1948年7月、手塚は『假面の冒險兒』というヨーロッパ童話調の冒険活劇マンガを発表している。
そしてこの作品を描く直前、手塚は出版社の社長から「もう少し子どもマンガ風の絵で描いてもらいたい」という注文を受けていた。
しかし……そうは言われたものの、子どもマンガ風の絵とはどのようなものなのか。悩んだ手塚がヒントをつかんだのが、ちょうどこの年の4月に公開されたアニメーション映画『ガリヴァー旅行記』を観たときだった。
『ガリヴァー旅行記』は、『ポパイ』や『ベティ・ブープ』で知られるフライシャー兄弟が1939年に発表した作品だが、戦争のため日本ではずっと公開されていなかったのだ。
「『ガリヴァー旅行記』の小人達のコロコロしたキャラクターは、たしかに劇画ふうになりかかっていたぼくの人物たちに、あるヒントをあたえてくれたのだと思います」。(講談社版手塚治虫全集第173巻『珍アラビアンナイト』あとがきより)。
こうして『假面の冒險兒』は刊行された。この作品にはフック伯爵の手下として3人組の探偵が出てくるが、これは『ガリヴァー旅行記』のボンボ国の3人組スパイへのリスペクトだろう。
またその翌年の1949年3月には、当時のソビエト連邦で製作された、ソ連初のカラー長編セルアニメーション映画『せむしの仔馬』(1947年製作)が公開されている。
監督はロシアアニメーションの父といわれたイワン・イワノフ=ワノー。ロシアの昔話を題材にしたこの物語は、グズでのろまで兄からもバカにされていたイワン少年が、ある日、不思議な白馬と出会い、せむしの仔馬をもらったところから始まる。その仔馬は超能力を持っており、イワン少年はその仔馬の助けを借りることで王様に重用され、やがて立派な王子へと成長してゆくのである。
手塚はこのアニメーションにも大いにハマり映画館へ通い詰めた。エッセイの中ではこのアニメを「大阪や神戸で七、八十回は見た」と語っている。
そして手塚は、翌年1月に刊行された『ファウスト』の中で、さっそくこのアニメを引用している。
『ファウスト』は言うまでもなく、同題のゲーテの戯曲を手塚が自分流にマンガ化したものだけど、その基本設定を大きく外れ、展開の随所に『せむしの仔馬』の影響が見られる。
王様がファウストに次から次へと無理難題を要求し、最後には美の女神ヘレネを連れてこいと命じる。ファウストは苦労しつつメフィストの力を借りてヘレネを連れ帰る。すると王様はそのヘレネに恋をしてしまい求婚をするのだが……というこの流れは、ファウストをイワンに、メフィストを仔馬に置きかえれば、まさに『せむしの仔馬』そのものなのである。
また両作品には絵柄にも共通する部分が多々ある。手塚マンガの発想のルーツに興味のある方は、ぜひ両者を見くらべてみていただきたい。
そしてさらに翌1951年、手塚は彼にとっての運命の作品ともいえるアニメーションと出会う。ディズニーの『バンビ』である。
この『バンビ』との出会いが、手塚の一度はあきらめかけたアニメーション製作への情熱をふたたび火をともした。そしてその火はやがて虫プロダクション設立となって実を結ぶんだけど……。
ここから先もまだまだ道のりは平坦ではなくて山あり谷ありだったわけであり、その話はまた稿をあらためることにしよう。
今回も長文をお読みくださいましてありがとうございます。ぜひまた次回のコラムにもおつきあいくださいね〜〜〜〜っ!!
(C)2012「アニメ師・杉井ギサブロー」製作委員会
(C)2012「グスコーブドリの伝記」製作委員会/ますむらひろし