全3回の予定でお送りしている虫さんぽ、今月は沖縄編・中編をお届けだっ! 太平洋戦争当時を振り返った前編に続き、今回は手塚治虫先生のマンガに描かれた今ある沖縄の“戦争”を見つめます。沖縄の至るところで圧倒的な存在感を放っている戦争の拠点=在日米軍基地。沖縄本島の総面積のおよそ18%が何らかの米軍専用施設になっているというこの場所で、手塚先生はいったい何を思い、どんなマンガを描いたのか!? 今回も『手塚治虫のオキナワ』の著者・本浜秀彦先生の解説を聞きながら、真夏の沖縄を歩こうぜ〜〜〜〜〜〜〜っ!!
沖縄さんぽ2日目、雲は多いものの本日も快晴である。そして朝から蒸し暑い!!
さっそくさんぽに出発! とその前に、前回に引き続きゲストコメンテーターとして旅の解説をしていただく、文教大学国際学部国際理解学科教授・本浜秀彦先生をご紹介しよう。
本浜先生は1962年沖縄の那覇市生まれ。幼いころは手塚治虫に憧れてマンガ家を志したこともあるというマンガ少年であり、2010年、手塚マンガを通して沖縄を考えた本『手塚治虫のオキナワ』(春秋社刊)を著した。この本は今回の沖縄さんぽでも大いに参考にさせていただいている。
本浜先生、今回もよろしくお願いします!!
「はい、しっかり解説させていただきます」
ということでレンタカーのエアコンをガンガンに効かせてぼくがまず向かったのは、沖縄本島の中部に位置する在日米軍基地「キャンプ瑞慶覧(ずけらん)」だ。
北谷(ちゃたん)町のホテルを出て国道58号線を南下すると、およそ3〜4km走ったところで左側に延々と続く金網のフェンスが見えてくる。ここがキャンプ瑞慶覧である。
キャンプ瑞慶覧にはアメリカ海兵隊の司令部事務所が置かれており、在日米軍にとっての重要拠点のひとつとされている。また太平洋戦争当時、アメリカの沖縄上陸作戦において米軍が最初に上陸を果たしたのが現在のキャンプ瑞慶覧正面に位置する沖縄本島中部の西海岸だったことも、在日米軍がこの基地を意味のある場所と考える根拠になっているようだ。
ここキャンプ瑞慶覧が作品の舞台として登場する手塚マンガは、前編でも紹介した1972年の短編『イエロー・ダスト』だ。
米軍子弟の乗ったスクールバスが沖縄の市街地を走行中、何者かに襲撃されて乗っ取られた。米軍はすぐさま緊急配備を敷き、ここキャンプ瑞慶覧から兵士たちの乗った軍用車両があわただしく走り出して行く。これがこの物語のプロローグである。
本浜先生、前回教えていただきましたが、この作品は沖縄返還の直後に描かれた作品だったんですよね。
「そうなんです。沖縄の施政権がアメリカから日本に返還されたのが1972年5月15日で、この作品が発表されたのは雑誌『ヤングコミック』1972年7月12日号ですから、まさに沖縄の「本土復帰」直後ということになりますね」
手塚先生は実際に現地を取材してこの作品を描いたんでしょうか?
「私もそれが知りたくていろいろ調べたんですが、はっきり確かめることは出来ませんでした。
けれども過去の手塚プロへの取材で、手塚先生は沖縄海洋博当時、仕事や家族旅行で少なくとも7回沖縄を訪れているということが分かっています。
手塚先生が沖縄海洋博のアクアポリス展示プロデューサーに正式就任したのは1973年ですが、もしかしたらその前年に非公式な打診を受けて復帰直後の沖縄を訪れたという可能性は否定できないと私は考えています。
というのも『イエロー・ダスト』にはキャンプ瑞慶覧のほかにも那覇市、浦添市、マチナト(牧港)など沖縄の具体的な地名がたくさん出てきますし、何より前編で黒沢さんが歩かれた海軍壕の内部が詳細に描かれていますからね」
確かに! 本浜先生のおっしゃる通り、ぼくも現地へ行ってみて実感したんですが、物語に出てくるそれぞれの地名の位置関係が物語の展開上まったく無理のない自然な距離感にあるんですよね。それにそもそも旧海軍壕をこの話の舞台に使おうという発想自体が現地へ行ったことがなければ思いつかないことだったという気がします。
ちなみにこの「キャンプ瑞慶覧」という名前は厳密には旧名で、1975年にその管理がアメリカ陸軍からアメリカ海兵隊に移された際、隣接する旧キャンプフォスターと併合されてこの地域全体を「キャンプフォスター」と呼ぶようになったということだ。
在日米海兵隊の日本語公式ホームページではその名前の由来をこう紹介している。
「キャンプ・フォスターは、沖縄戦で勇敢に戦い、名誉勲章を受章したウイリアム・フォスター 1等兵の名前に由来しています」
このフォスター氏、沖縄戦でどんな戦功があったのか。日本語サイトにはこれ以上の記述はなかったが、英語のWikipediaには同氏の項目があり、そこに名誉勲章が授与された際のトルーマン大統領(当時)の「感状」全文が掲載されていたので拙い英語力で内容を要約(意訳)してみた。
「ウィリアム・A・フォスター一等兵は1945年5月2日、第1海兵師団第1海兵隊のライフルマンとして沖縄上陸作戦に参加した。
フォスター一等兵は日本軍の激しい抵抗が続く中、仲間と共に命がけで塹壕を掘った。ところがそこへ敵の手榴弾が投げ込まれた。
フォスター一等兵は即座にダイビングしてその手榴弾に覆い被さり自身の体で衝撃を防いだ。致命傷を負ったフォスター一等兵は自分の持っていた2個の手榴弾を仲間に渡し『こいつを奴らにお返ししてやってくれ』と言って事切れた。合衆国海軍軍人として勇敢に戦い祖国に命を捧げたことに対し、ここに最高の栄誉を与えるものである。 ハリー・S・トルーマン」
日本とアメリカが戦争をしていた時代の話だから名誉の戦死を遂げた相手国の兵士がその国で讃えられるのは普通のこととしても、その兵士の名が日本に駐留する基地の名前になっていることには、ぼくはやっぱり複雑な気持ちがしてしまいますね。
さて、再び車に乗り国道58号線を今度は北へ向かう。右側に嘉手納空軍基地のフェンスが延々と続き、それが終わってさらに進むと、道路の右側にうっそうとした森が続くようになる。この森の奥に広がっているのが「嘉手納弾薬庫地区」である。
ここは直接の手塚スポットというわけではないが、46年前にこの場所で起きた実際の事件が、ある手塚マンガの“発想の原点”となっている。
その作品は1976年から78年にかけて雑誌『ビッグコミック』に連載された『MW(ムウ)』である。このマンガの舞台は沖縄ではなく、沖縄近くにある沖ノ真船島という架空の島だが、その島で某国が貯蔵していた毒ガス兵器“MW”が流出して島民に多数の死者が出る、というところから物語は始まる。
このストーリーの下敷きになったとされる毒ガス流出事故が、その数年前に現在の嘉手納弾薬庫地区内にあった旧・知花(ちばな)弾薬貯蔵庫で実際に起こったのだ。
ぼくはできるだけ弾薬庫に近づいてみようと思って周囲をうろついてみたが、深い森にはばまれて奥を見通すことさえできない。ようやく横道を見つけて入ってみると、その先はご覧の通り、どの道もフェンスやロープなどで塞がれて行き止まりとなっていた。
それにしても本浜先生、先の『イエロー・ダスト』や『MW』を読むと、手塚先生が沖縄の基地問題にかなり強い関心を寄せていたことが分かりますね。
「そうなんです。前回のさんぽで『どんぐり行進曲』に触れた手塚先生のインタビューを紹介しましたが、今回はその記事の前半部分を紹介しましょう。手塚先生の沖縄基地問題に関する注目度が良く分かりますよ」
《 沖縄といえば、ピンとくるものは基地というイメージです。しかもその基地は、日本の基地という感じがしないんです。それはひとつは本土の人々の間に“これほどまでにやっても……”または“いくらやってもしかたがないんじゃないか……”という一種の諦めムードがあるんじゃないですか。
「他人の雨漏りはどうでもいい」的な沖縄を“対岸の火事”視する自分本位な考え方が、ジャーナリズムを含めて本土の人々にはあると思います。(中略)
沖縄の情緒豊かな文化や民族性がアメリカの影響で妙にバタくさくなるのはぼくらとしても淋しいです。十年後の沖縄を考えるとほんとうに、いまのうちに何とかしなくちゃと思っています》(『琉球新報』1966年4月26日夕刊より)
基地問題から沖縄文化まで、手塚先生は早くから沖縄に注目されていたんですね。
「そうなんです。手塚先生はディズニーアニメの影響を受けた“バタ臭い”絵でデビューしたと一般に思われていますが、このインタビューでは、アメリカ統治下の沖縄文化がアメリカナイズされることを懸念しているのはとても興味深いですね」
手塚先生は自然や文化の本来あるべき姿というものをとても大切にされていたってことなんですかね。
「そうだと思います」
文化といえば、沖縄には本土にはない独特の形をしたお墓がある。お骨を納めるところの屋根が亀の甲羅のような半円形をしたお墓、いわゆる「亀甲墓」がそれだ。かめのこうばか、かめこうばか、きっこうばかなどと呼ばれる。
手塚マンガにこのお墓が出てくるのは、先ほどの『MW』ともう1作品、『ブラック・ジャック』第81話「宝島」がそれである。
マンガの内容は後ほど紹介するとして、虫さんぽとしては、まず現地でお墓を探さなければならない。
事前の取材で本浜先生にうかがったところ、先生からは「亀甲墓は、沖縄ならどこにでもありますから、車で走っていればすぐに見つかりますよ」というアバウトなお答えをいただいた。
本浜先生、正直、出発前にうかがったときはそんな適当な感じで本当に見つかるのか不安だったんですけど、実際行ってみたらすぐに見つかりました(笑)。
「そうでしょう。沖縄でも最近は土地が不足してきてまとまった墓地をつくるようになりましたが、昔は個々人で持っている土地にそれぞれがお墓を作っていましたからね」
でも見知らぬ方のお墓の写真を勝手に撮ったりしていいものでしょうか。
「沖縄ではお墓は本土と違ってずっとオープンな場所なんです。お墓参りのシーズンには親族一同がお墓の前で料理やお酒を並べて宴会のような集まりを開いたりもするんですよ」
それならきっとご先祖様にもお許しをいただけますね!!
ということで旅の行きずりで見かけた見知らぬ方のお墓ではありますが、丁重にごあいさつをして写真を撮らせていただいて来ましたので、それらを見ながら、手塚マンガに出てきた亀甲墓のエピソードをご紹介いたしましょう。
まず『MW』では、沖ノ真船島に毒ガス“MW”のボンベがいまだに隠されているという、その隠し場所が島の外れの亀甲墓だったのだ。
結城美知夫は墓を破壊して中を確かめようとするが、果たしてその中にMWはあったのか……!?
一方『ブラック・ジャック』「宝島」ではBJの世話をしてくれた沖縄出身の看護師が眠る墓として、この亀甲墓が登場する。
本浜先生は、このBJの恩人だったという看護師の名前「五條ミナ」に意味があるとお考えだそうですね。
「はい。私はまず、手塚先生がこの看護師の名前に“五條”という沖縄にはない姓を使っていることに何か意図があるのではないかと考えました。そこで出した推論ですが、これは沖縄の言葉の“グソー”から来ているのではないかと思ったのです。
グソーとは漢字を当てると“後世”=“あの世”です。つまり五條ミナとは「あの世を見な」という意味ではないかと。
これには異論があるかも知れませんが、私はあながち間違いだとは思えないんです。手塚先生は沖縄を訪れるようになった1970年代以降、戦争で死んだ人たちへのレクイエムと取れる作品を数多く描くようになりました。
1975年に発表された『ブラック・ジャック』の「宝島」も、そうした流れの中の作品のひとつだとすれば、そこに死者とのコミュニケーションの意味を込めた名前をつけた可能性は十分にあると私は考えています」
確かに手塚先生のキャラクター名の付け方には独特のこだわりがありますからね。重要なキャラの場合、むしろまったく意味のない名前の方が珍しいかも知れません。手塚先生が健在だったらぜひ確かめてみたかったです。
最後にもうひとつ、沖縄によくある亀甲墓とは違う別の形のお墓が出てくる手塚マンガを紹介して沖縄さんぽ・中編をしめくくろう。
1985年から86年にかけて雑誌『週刊少年チャンピオン』に連載された『ゴブリン公爵』の中にそれは描かれている。
この作品に登場する沖縄の小島出身の少年・徳川貫一が、中国古代の機器人(ロボット)燈台鬼に対して沖縄人の死生観を語るシーン。そこにイメージカットとして出てくるのが、中国建築のように両端がピンと跳ね上がった屋根の付いたお墓である。これは破風墓(はふばか)と呼ばれるタイプのお墓である。こちらも車で移動中に道路脇にあるのを見つけ、急きょ車を駐めて撮影させていただいた。
亀甲墓は古代遺跡のようなエキゾチシズムを感じるが、破風墓の方もまた、日本の伝統文化とは違った大陸文化的な匂いがあって何とも味わい深いなあと感じました。
ということで今回も蒸し暑い中、沖縄さんぽ・中編にお付き合いくださいましてありがとうございます。次回はいよいよ沖縄さんぽの最終回! またまた本浜先生にゲストコメンテーターを務めていただきながら、沖縄らしいコバルトブルーの海と沖縄海洋博会場跡地などを歩きます。お楽しみにっっっ!!
(今回の虫さんぽ、3時間11分、1524歩)