手塚治虫は数多くの作品の中で繰り返し戦争反対を訴え続けた。その手塚の戦争マンガを年代順に並べてみると、ひとつの特徴的な傾向が浮かび上がってきた。それは1970年代のある時期から急に自分自身の戦争体験を元にした半自伝的戦争マンガを描きだしたことだ。このころ手塚の心境にはいったいどんな変化があったのか。その背景にはどんな社会的出来事があったのか。今回はそんな手塚の半自伝的戦争マンガ誕生の時代を探ります。
前回に続いて今回も手塚治虫の戦争マンガについて振り返ろう。
今年2015年8月、当サイトで公開された特設ページ『手塚治虫と戦争』は、手塚治虫の描いた戦争マンガを年代順に並べて一挙に振り返るという企画だ。
・特設ページ:手塚治虫と戦争
この年表を見渡していてふと気が付いたことがあった。それは作中に手塚が自分自身の分身を登場させて戦中戦後の体験を描いた作品群、そうした半自伝的作品を立て続けに発表し始めたのが1970年代の初めごろからだったことだ。
1970年代の初めにいったい何があったのか。このころ手塚が自身の戦争体験をマンガで描こうと思い立った動機の背景は何だったのか……!?
今回はそんなあの日あの時を皆さんとご一緒に振り返りたいと思います。
手塚の半自伝的戦争マンガの最初は何か。これは『週刊少年サンデー』1971年5月23日号に発表された読み切り短編『ゼフィルス』と言っていいだろう。
舞台は太平洋戦争末期の昭和20年。とある地方の農村を舞台に、昆虫採集に熱中するひとりの少年の目を通して、戦争の厳しい現実を描いた作品だ。
主人公の少年に名前はなく物語は「私」という少年の一人称で綴られてゆく。描かれているエピソードはフィクションだが、少年の生活や心理描写には手塚自身の戦時中の体験が色濃く反映されている。
ではこの1960年末から70年代初頭というのはどんな時代だったのか。
まずはベトナム戦争である。泥沼化したベトナム戦争は60年代末になってもいっこうに終わりが見えず、日本でも反戦の機運が高まっていた。
1968年10月21日の国際反戦デーでは東京・新宿駅周辺に集まったデモ隊2000人の中の過激派が暴徒化し、駅構内や電車を破壊するという事件(新宿騒乱)が発生した。
1969年の夏には新宿駅西口広場で若者が反戦歌を歌うフォークゲリラと呼ばれる集会が開かれ、それを阻止しようとする機動隊と衝突する騒ぎが起きている。
また1960年に10年間という固定期限付きで改訂された日米安全保障条約の再改訂時期が近づき、1969年から70年にかけては日本全土で安保反対運動が激化した。
そうした中、1969年11月19日にワシントンで開かれた日本の佐藤栄作首相とアメリカのニクソン大統領との会談で、1972年の沖縄返還が合意に達している。しかしその返還条件には、日本側が強く望んだ米軍の核の持ち込み禁止は盛り込まれず、原則禁止とされるにとどまった。
一方、映画や文学の世界に目を向けてみると、そのころの“今ある戦争”を描いたものよりも太平洋戦争当時を振り返ったものの方が目立っていた印象がある。
例えば文学の世界では、戦時中に召集されてフィリピン・ミンドロ島に出征した経験を持つ作家の大岡昇平が『レイテ戦記』(1972年刊、初出は1967-69年連載)を発表している。これは太平洋戦争の激戦地フィリピン・レイテ島の死闘を綿密な取材に基づいて描いた作品だ。
また早乙女勝元も自身の被災体験を基軸として東京大空襲を被災者の立場から描いた『東京大空襲』を1971年に刊行している。
映画の世界ではどうか。1968年、日活は8月15日に合わせて『あゝひめゆりの塔』(監督・舛田利雄)を公開。沖縄返還を1年後に控えた1971年7月には東宝が『激動の昭和史 沖縄決戦』を公開している。資料によれば『沖縄決戦』の脚本を担当した新藤兼人は戦時中は海軍に召集され二等水兵として上官のシゴキを経験した。監督の岡本喜八は陸軍予備士官学校生のときに終戦を迎えているという。
終戦から25年、戦争の時代を生き抜いたこれらの人々が、ようやく自分の過去を振り返るだけの気持ちの整理がついてきたということだろうか。そうした動きはマンガの世界でも静かに始まっていた。
戦時中、南太平洋のニューブリテン島へ出征していたマンガ家の水木しげるは、1970年『月刊少年マガジン』2月号に『敗走記』という48ページの読み切り作品を発表した。南方の孤島でいきなり味方が全滅し、たったひとりになった「ぼく」が、アメリカ軍の攻撃や現地住民の襲撃におびえながら島内を這いずるように、命からがら逃げ回るという実話を元に描かれた物語である。
水木が自分自身の戦争体験をマンガに描いたのはこれが初めてであり、この作品が注目されたことから、水木は2年後に描き下ろし単行本『総員玉砕せよ!』(初出時タイトル『総員玉砕せよ! 聖ジョージ岬・哀歌』)を発表している。
『敗走記』の一人称で描かれた手記風の物語構成など、この作品は手塚の『ゼフィルス』にも少なからぬ影響を与えているに違いない。
その手塚が『ゼフィルス』に続いて発表した半自伝的戦争マンガが『別冊少年ジャンプ』1973年1月号に掲載された読み切り『ゴッドファーザーの息子』だった。迫りくる戦争の時代を背景に、マンガを描くのが好きな少年手塚と、粗暴だけど心優しい応援団長の少年との友情を描いた作品だ。
『ゼフィルス』と違うのは主人公の描かれ方で、丸メガネに団子っ鼻の「手塚」少年は紛れもない手塚自身の分身とはっきり分かる姿になっている。
『ゴッドファーザーの息子』は、雑誌掲載時は「漫画家自伝シリーズ」という複数作家による連作企画のひとつとして発表された作品だったのだが、じつはこの「漫画家自伝シリーズ」では、手塚のほかにもうひとり、ある作家の代表作を生むきっかけとなった短編が発表されていた。
それは『別冊少年ジャンプ』1972年10月号に掲載された中沢啓治の『おれは見た』という作品だ。昭和14年生まれの中沢が小学1年の時、広島で原爆投下に遭った体験を描いた物語で、この作品がきっかけとなって中沢は1973年『週刊少年ジャンプ』で『はだしのゲン』の連載を開始するのである。
戦争を経験したクリエイターたちがほぼ同時多発的に自分自身の戦争を語り出した。それが1970年代初めという時代だったのだ。
一方で、こうしたムーブメントをもう少し別の視点からとらえているマンガ研究者もいる。1970年前後の時代に少年マンガ雑誌で反戦テーマの短編マンガが数多く発表されたのは、このころが少年マンガの「革命の時代」だったからだと述べているのはマンガ評論家の米沢嘉博だ。
米沢は社会派マンガがもてはやされていた当時の状況の中で、その一ジャンルとして反戦テーマの作品が数多く発表されていったのだと分析している(『別冊太陽 子どもの昭和史 少年マンガの世界II』1996年、平凡社刊)。
また『虫さんぽ・沖縄編』の取材に協力していただいた文教大学国際学部国際理解学科の本浜秀彦教授は、ちょうどこの時代(1970年代前半)に手塚が沖縄を訪問する機会があり沖縄に今も残る戦跡などを訪ねたことが、自分自身の戦争体験を振り返るひとつのきっかけだったのではないかと分析している。興味とお時間のある方はぜひ以下の虫さんぽも参照してみてください。
・虫さんぽ 第41回:沖縄さんぽ(前編)手塚マンガの戦争を振り返りつつ沖縄戦跡を訪ねる!!
・虫さんぽ 第42回:沖縄さんぽ(中編)手塚マンガに描かれた米軍基地の町を歩く!!
・虫さんぽ 第43回:沖縄さんぽ(後編)祭りの“跡”と手塚マンガに描かれた青い海、輝く自然を訪ねる!!
1970年代の初めごろ、手塚がにわかに半自伝的戦争マンガを描き始めた背景はおおよそ見えてきた。
だけどもっとも重要なのは、手塚治虫だけでなく水木しげるや中沢啓治など、誰もが反戦マンガの短編を発表してそれで満足しなかったということだ。
水木しげるが『総員玉砕せよ!』を描いたように、中沢啓治が『はだしのゲン』を描いたように、手塚も、その後も自分自身の戦争体験をマンガで長く長く語り続けた。
1974年、マンガ家生活30年目を迎えた手塚は『週刊少年キング』に読み切り『紙の砦』を発表する。さらに翌年、同誌にその続編となる『すきっ腹のブルース』を発表。それ以後も、以下のような半自伝的戦争マンガを次々と描き続けている。
『モンモン山が泣いてるよ』(1979年)
『どついたれ』(1979-80年)
『アドルフに告ぐ』(1983-85年)
反戦を強く訴える、手塚を始めとした戦争を経験したマンガ家たちのこうした飽くなき熱意はいったいどこから来ているのか。その強い思いの一端を示す手塚の言葉が遺されているので最後にそれを紹介して締めくくろう。これは晩年のある講演で語られた言葉である。
「戦争の終わった日、空襲の心配がなくなって、いっせいに町の
もう二度と、戦争なんか起こすまい。もう二度と、武器なんか持つまい、
あの日、あの時代、生き延びた人々は、だれだってそういう感慨をもったものです」(講談社版手塚治虫漫画全集『手塚治虫講演集』より。※1983年3月1日 第31回子どもを守る文化会議)
願わくばひとりでも多くの人が手塚の戦争体験マンガを読んで、「戦争は二度と起こしてはいけない」と後の時代までずっとずっと語り継いでくれますように。ではまた次回のコラムにもお付き合いください!!