手塚治虫ファンにその第一報が飛び込んできたのは1977年春のことだった。手塚治虫の全集が、講談社から全300巻以上の予定で、およそ7年がかりで刊行するという。キャッチフレーズは“『新宝島』から『火の鳥』まで!”。当時、このニュースにぼくが躍り上がったのは言うまでもない。今回は、そんな「講談社版手塚治虫漫画全集」刊行のあのころを、一ファンの視点、企画立案者の視点、そして実際に現場で編集作業にたずさわった編集者の視点から振り返ります!
今年2012年5月、講談社の「手塚治虫文庫全集」全200巻がついに完結した。この文庫全集には、講談社版手塚治虫全集全400巻に未収録だった作品が新たに収録されていたりするなど、オリジナルな編集がなされていて、旧来からの手塚ファンにも大いに注目されているシリーズだ。
だけどなんといっても、講談社がこの200巻の文庫全集を滞りなく完結させた背景には、その前身となった壮大なシリーズ、あのB6判サイズの「講談社版手塚治虫全集」全400巻があったことは言うまでもない!
この講談社版手塚治虫漫画全集によって、ぼくらは初めて、手塚マンガのほぼすべての作品をいつでも好きなときに買って読むことができるようになったのだ。
今回はその、日本マンガ界の誇るべき偉業「講談社版手塚治虫全集」が誕生したあのころを、関係者の貴重な証言をまじえて振り返る!
さらにぼくの秘蔵コレクションから、今まで関連する出版物でもほとんど見たことがない、全集刊行当時のとっておき資料をババーンと蔵出ししちゃいますので、こちらもぜひお見逃しなく〜〜〜っ!!
「手塚治虫全集」が講談社から全300巻以上という膨大な冊数の予定で刊行される──。
あのころの手塚ファンにとって、またマンガ界全体にとっても飛び上がるほど衝撃的だったこのニュースは、ぼくらファンには最初、どのような形でもたらされたのか!?
ぼくの記憶では、確か当時の手塚治虫ファンクラブの会報(か、ファンクラブ発行の速報ニュースハガキ)だったと思うんだけど、残念ながら今回、どうしてもその資料を見つけ出すことができなかった。
だけど新聞報道での第一報は、恐らくここに紹介した1977年3月19日付けの朝日新聞夕刊の記事でほぼ間違いないだろう。
この記事は「手塚治虫マンガ全集 七年がかり刊行へ 三百巻以上」という見出しで、手塚と講談社が二年前から打ち合わせを重ね、両者が絶対に完結させるという不退転の覚悟で合意し、ようやく刊行に踏み切ったということが書かれている。
このあたりの、関係者内での刊行決定までの経緯については、のちほど紹介するとして、まずは当時のマンガ界の状況から見ていこう。
この1977年というのは週刊少年マンガ雑誌が爛熟期ともいうべき時期に入っていたころだった。『週刊少年サンデー』『週刊少年マガジン』『週刊少年キング』『週刊少年チャンピオン』『週刊少年ジャンプ』と、1950年代後半から1960年代にかけて相次いで創刊した5大週刊少年マンガ誌がともに好調で、互いに看板作品を掲げてその発行部数を競っていた。
例えばこの年『サンデー』で人気だったのは楳図かずおのハイパーギャグ『まことちゃん』や藤子不二雄(現・藤子不二雄A)の『プロゴルファー猿』など。一方『マガジン』ではこの前年の1976年に水島新司の『野球狂の詩』の連載が始まっている。『ジャンプ』では熱狂的スーパーカーブームを巻き起こした池沢さとしの『サーキットの狼』がまさに物語のピークを迎えており、小林よしのりの受験戦争を風刺したギャグマンガ『東大一直線』の連載もすでに1976年から始まっていた。
そうした中で手塚治虫は、何とそのうち2誌で看板作品を連載中だった。『週刊少年チャンピオン』の『ブラック・ジャック』と『週刊少年マガジン』の『三つ目がとおる』である。
このころ手塚は、マンガ家として人生何度目かのビッグウェーブに乗っていた。しかもそのわずか数年前には虫プロの倒産(73年)があり、そのほぼ同時期に人生初のスランプ期を経験するといった、まさにどん底を経験した直後の、奇跡の復活だったのである!
ところが、このころ新刊で買って読める手塚マンガの旧作にはどんなものがあったかというと、これが今では信じられないほど寂しい状況だった。
『ジャングル大帝』や『リボンの騎士』といった代表作でさえも、高価な限定本を除くと、新刊で読むことができなかったのだ。
だからぼくは当時、自分で情報を集めて作った手書きの単行本リストを持って古本屋をまわり、コダマプレスのダイヤモンドコミクスや小学館のサンデー・コミックス、集英社のコンパクト・コミックスなどの手塚マンガを1冊1冊コツコツと買い集めていたのである。
でもそれら新書判のコミックスは、古本屋で見つければ100円程度で買えたからいい。ところがこれが昭和30年代以前の手塚マンガとなると、すでに当時から、びっくりするほどの高値が付いていて、古本屋で見つけたとしても、とても手の出る値段じゃなかったのだ。
例えば手塚が昭和22年に刊行した初単行本作品『新寶島』が、ごくたまに古本市などに出品されると30〜50万円、それ以外の昭和20年代の赤本マンガ単行本にも5〜15万円の値段が付いていた。
また当時としてはそんなに昔じゃなかったはずの昭和30年代の単行本でもハードカバー時代の本はすでに5,000〜1万円はくだらなかったのだ。
そこへ飛び込んできたのが「講談社版手塚治虫漫画全集」の刊行計画だった。この発表に狂喜したのはぼくだけではなく、もちろん日本全国にいた手塚ファンが同じ気持ちだっただろう。
1977年6月15日、待ちに待った講談社版「手塚治虫漫画全集」の第1回配本は以下の8冊から始まった。『ジャングル大帝』第1巻、『リボンの騎士』第1巻、『三つ目がとおる』第1巻、『きりひと讃歌』第1巻、『ぼくの孫悟空』第1巻、『新選組』、『罪と罰』、『地球の悪魔』。
本の大きさは週刊誌の半分のB6判。企画当初、編集部内では文庫判での刊行も検討されたというが、手塚は文庫ではなく大判サイズにしたいと強くこだわったという。
確かにB6判は手に持ちやすくコンパクトでありながらマンガの絵を楽しむのにも十分な面積がある。また手塚のデビュー当初の赤本時代の単行本と同サイズであることも、もしかしたら手塚にとっては意味のあることだったのかも知れない。
ただしこの全集の装丁で唯一残念だったのが、コストの問題からか表紙カバーにビニールコーティングがされていなくて表紙カバーが傷つきやすいことだった。だけどこれも半年後くらいから(第2期から)ビニールコートされたカバーがつくようになり問題は解決した。
こうして「手塚全集」は毎月4冊ずつ、それからおよそ7年間にわたって、第3期300巻の完結を目ざして刊行が始まった。
近くの書店に定期購読を申し込んだぼくは、まだ学生だったので、サイフは毎月大ピンチになっていたが、来月はどんな作品が読めるのか、ワクワクドキドキの7年間でもあった。
またこの全集で毎月楽しみだったのが、各作品の巻末につく手塚自身によるあとがきだ。このあとがきは、単なる作品解説などではない。それぞれの作品が発表された当時の社会背景や流行、マンガ界の状況、手塚自身の失敗談などが生き生きと描かれていて、これだけでもう上質のエッセイとなっていた。
この手塚のあとがきについて、手塚プロ資料室長・森晴路さんが第4期の最終第400巻の巻末解説で触れているので紹介しよう。
「このあとがきは非常に好評で、講談社のほうにもあとがきがたいへんおもしろいという手紙がたくさんきたそうである。『丹下左膳』のときなどは四百字詰め原稿用紙に十四枚もあとがきを書き、規定していたページ数におさまりきらず、字をものすごく小さくして入れたほどだった」(講談社版手塚治虫漫画時全集第400巻(別巻18)『手塚治虫講演集』巻末解説「手塚治虫漫画全集の刊行を終えて」森晴路より)
。
さてここで視点を変えて、今度は編集者の視点から「手塚全集」誕生のあのころを振り返ろう。ということで貴重な証言をしてくださるゲストをお招きした。この「手塚治虫漫画全集」を企画した生みの親であり、当時の講談社『週刊少年マガジン』編集長・宮原照夫さんである。
宮原さんが講談社へ入社して雑誌『少年クラブ』編集部へ配属されたのは1956年4月のことだった。そしてなんと、その入社初日にいきなり手塚番を命ぜられて手塚宅へ向かったという。宮原さんと手塚先生との縁は、宮原さんの編集者人生の始まりからあったのだ!
さっそく宮原さんに話をおうかがいしよう。まずは宮原さんが手塚全集を発案されたきっかけからお教えください。
「これは、私が1975年にメキシコとペルーへ旅行したことがそもそもの発端なんです。
私が『週刊少年マガジン』の編集長になったのは1971年ですが、このころは『マガジン』の部数が大きく落ちていたころでした。それで、それを何とか立て直したと思ったところへ、今度はオイルショックが起きまして、紙不足が出版業界を直撃したんです。しかしそれも何とか乗りきったということで、会社が旅行に行かせてくれたんです」
宮原さんはこの年の5月から6月にかけて、メキシコのマヤ遺跡やペルーのインカ帝国の遺跡を巡った。そしてそれらの遺跡に刻まれた壮大な歴史パノラマの記憶に感動した。
「その帰りの飛行機の中でですね。日本の出版文化やマンガ文化、それに関わらせてもらってきた編集者としての自分の半生について思いを巡らせているうちに、「ぜひとも手塚治虫全集を出さなければいけない」と思ったんです」
帰国した宮原さんはさっそく社内で意見を聞き回った。その反応はどうだったのだろうか。
「反応はさまざまでした。「お荷物になったらえらいことになる」というような否定的な意見も多かったですよ。そんな中で、当時販売部長だった楠さんという方が「これはいい企画だ、これは講談社でぜひやるべきだ」と言って応援してくださったのが、とても大きな力になりました」
社内での内諾を取りつけた宮原さんは、この年の秋、企画をたずさえて手塚先生の元へ向かった。ところが……!!
「私は手塚先生は、当然喜んでくださると思っていたんです。ところが手塚先生は開口一番「私の全集は売れません」とおっしゃるんですね。「ちば(てつや)さんや白土(三平)さんの方が売れますからそちらを出したらどうですか」とも言われまして……」
手塚が慎重になるのも無理のない話だった。というのは手塚の全集が企画されたのはこの時が初めてではなかったからだ。初めてどころか、過去に3度も別の出版社から刊行された全集は、そのすべてが途中で中断という憂き目に遭っていたのである。
しかしそれでも宮原さんはあきらめず、手塚と粘り強い交渉を続けた。
「先生と話をしていて少しずつ分かってきたのは、手塚先生は、私のような一担当者ではなくトップの人間の確約を欲しがっているということでした。つまり講談社としてこの全集の刊行にどこまで本気なのかを知りたがっておられたんですね。それで局長に同行してもらったりもしたのですが、それでも手塚先生からは、はっきりしたお返事がいただけませんでした。
そんな中、ついに話が動いたのは1976年正月明け早々のことです。手塚先生から会社に突然電話がありまして「今から新年のあいさつに行きたい」とおっしゃるんですね。ついてはうちの専務にも会いたいと。そこで私は、これは「全集」の話だなと、すぐに分かりました。
そして来社された手塚先生に、うちの久保田専務(当時)が直接「全集は最後までやらせていただきます」と言ったら、手塚先生の表情がサッと変わりましてね、初めてそこに本気の色が見えたんです。そして先生ははっきりと「やりましょう、よろしくお願いします」と言ってくださったんです」
それはうれしかったでしょうね!
「もちろんです。何しろ、ここまでですでに半年がたっていましたからね」
途中で「もうだめかも」という気持ちにはなりませんでしたか?
「それはなかったですね。ここで自分があきらめたら手塚全集は永久に出ない、という思いがありましたから」
こうして刊行されれた講談社版「手塚治虫全集」は、読者に大反響を持って迎えられた。
創刊当初は重版が追いつかないほどの売れ行きとなり、手塚先生や宮原さんが最初の山場だと見ていた第1期100巻を越えても、その勢いが衰えることはなかったという。
あの日、宮原さんがメキシコとペルーの古代遺跡からひらめきを得て起こした、たったひとりの決断と行動、それがいまぼくらに「手塚治虫漫画全集」というかけがえのない文化遺産、人類の宝をもたらしたのだ!
さて次は、「手塚治虫全集」の実際の編集現場で、あのころどのようなことが起きていたのか。それを、現・手塚プロ資料室長である森晴路さんにお聞きした。
森さんは学生時代に手塚治虫ファンクラブを創立し、長くその会長を務めていた。そして1977年1月、この手塚全集の編集スタッフとして手塚プロへ入社。以後、21年間にわたり、手塚全集全400巻すべての編集に携わってきた方である。
森さんは現場でどのような仕事をされていたんですか?
「最初はもうひたすらホワイト修正ですよ。マンガの原稿にはホワイトと言って、線がはみ出した部分などに白のポスターカラーで修正がされているんですが、古い原稿だとそれがボロボロとはがれてしまっているんですね。それを延々と修正していくわけです。
あとは原稿の整理ですね。昔はどこの出版社でも印刷が終わったら原稿は不要なもの考えられていましたから、まったく原稿が残っていない作品もあるわけです。それら原稿のある部分、ない部分ををひとつひとつチェックして、原稿がない部分は出版物からトレスして新たに原稿を作り直さなければならないんです。しかもその元となる単行本や雑誌すら手元にないものもありますからね」
手塚先生が単行本を出す際に描き変えをするというのは有名ですが、全集の場合も現場の方は大変だったんではないですか?
「それはもう最初からドタバタでした。例えば第1回の配本のときも、発売が6月15日なのに、『三つ目がとおる』の原稿が手塚先生のところでずっと止まっていて、印刷所へ入れたのが5月末なんです。そこから1週間で校正をやって1週間で出すという信じられないようなスケジュールでした」
どの作品をどう描き直す、というのは毎回、手塚先生はどの段階で決められていたんですか?
「全集の場合、まず次回の配本でどの作品を出すかをおおまかに決めた段階で、先生の方から「これはこのままでOK」とか「こちらは描き直します」と言われるんです。毎月4冊ずつの配本でしたが、だいたいそのうち1冊くらいには描き直しを入れていましたね。
でも、それも予定通りに進むことはまずなくて、その都度、作品を入れかえたりして調整をしていました。
何しろ手塚先生は、作品の描き直しだけでなく、毎回表紙のイラストを描き下ろして、巻末のあとがきを書いて、さらに最初のころはあらすじも先生がご自分で書かれてましたからね」
えーっ、あのあらすじもですか!?
「そうなんです。全集には各巻の冒頭に英文のあらすじが付いていますが、その元になる日本語の文章を手塚先生が全部ご自分で書かれていたんですよ」
マンガの中味だけでなく、本としての完成度にもこだわる手塚先生らしい話ですね!
「先生は実際に本が刊行されてからも、反省点を見つけては修正を加えていました。例えば『ジャングル大帝』の第1巻を見てセリフが多すぎると言って、2巻目以降はセリフを削っているんです」
なるほど。『ジャングル大帝』のころは連載といっても毎回8ページくらいでしたからね。コマが小さくてセリフもギッシリ詰まっていたんですよね。
「収録の際に丸々1話分を描き下ろした作品もあります。当時、潮出版社の雑誌『コミックトム』で連載していた『ブッダ』は1983年の12月号で連載終了になって、全集の第300巻目として収録されることになったんですが、手塚先生としてはあと1話分描き足したいと。それで単行本化の際に描き足すことになったんです。
『ブッダ』の単行本は潮出版社からも出てますから、順序的には先に潮出版社の本が出て、後から全集で出すという流れになるんですが、このときは講談社の全集担当の編集者が、まるで潮出版社の編集のように手塚先生に張り付いて原稿をもらってきたんです」
なるほどー、出版社の垣根を越えて刊行された手塚全集ならではのエピソードですね!
「あと修正と言えば、手塚先生が読者の意見を取り入れて内容を変更した部分もあります。
『リボンの騎士』の過去の単行本ではカットされていた女騎士フリーベというキャラクターが出てくる話があったんですが、ファンからそれをぜひ入れて欲しいというリクエストがありまして。手塚先生がその声を受けてその話を復活させたんです。結果的に講談社の全集が、フリーベの話が載った初めての単行本になりました」
手塚先生は、表紙カバーのデザインにもこだわっておられたそうですね。
「はい。さっきも言いましたように表紙のイラストは毎回描き下ろしでしたし、デザインについても講談社から最初に示されたデザインがあまり気に入らなくて、ぼくらスタッフにもアイデアを出せと言われました」
森さんもアイデアを出されたんですか?
「ぼくは鈴木出版の選集のデザインがシンプルでイラストも大きくて好きだったんです。ですからそれをサンプルとして提出しました。残念ながら採用はされませんでしたけど(笑)」
あー、それは残念でしたね。それで最終的にあの額縁のデザインに決まったわけですね。
「先生が自分でデザインしました」
さて最後に、この講談社版手塚全集について、ぼくはどうしても確かめておきたいことがあった。それは手塚治虫の初単行本作品『新宝島』がこの全集に収録された経緯だ。
手塚は、全集第281巻『新宝島』の巻末に収録されたあとがきの中で「正直なところ、全集に『新宝島』を加える予定は、当初、ぼくにはまったくありませんでした」とはっきり書いている。
その理由についてもそこで手塚はいくつか挙げているが、最大の理由は『新寶島』には共同執筆者である酒井七馬の手が大幅に入っており、手塚治虫のオリジナル作品とは言いがたいというものだった。
だけど講談社としてはどうしても出したい。ぼくら手塚ファンとしても、全集への収録に、もっとも期待していたのがこの『新宝島』だった。そこで手塚と編集部との長い交渉の末、ようやくリメイク版として刊行されることが決まったのだ。
全集をお持ちの方はご存知だと思うが、この全集に収録された『新宝島』は昭和22年に育英出版から刊行されたものの復刻ではない。この全集のために、当初の構想を生かしながら新たに描き下ろされた手塚自身によるリメイク版なのである。
しかしリメイク版にしろ何にしろ、まったく出すつもりのなかった『新宝島』の刊行を、手塚が決断した背景には、いったいどんな交渉があったのか。実は、それについてぼくは当時、手塚自身の言葉でこんな話を聞いている。
これは確か手塚治虫ファン大会の会場でだったと思う。手塚はぼくらファンの前で『新宝島』をリメイクで出すことが決まったことをこんな風に報告していたのだ。
「ぼくはね、『新宝島』はどうしても出したくなかったんです。ところが講談社の編集さんがね、こう言ってぼくを脅すんです。「手塚さん、この全集を最初に出すときに“『新宝島』から『火の鳥』まで”というキャッチフレーズで出してしまっているんですから、今さら収録されないとなったら、ファンを裏切ることになりますよ」ってね。
そう言われてはぼくもしょうがないですから、じゃあ全部描き直します、と言ったんです」
以上の言葉は、ぼくの記憶によるので多少ニュアンスの違いはあるかもしれないが、おおむねこんな内容だったと思う。
7年も前の全集創刊当初に掲げられた、何気ないたった1行のコピー。それが手塚に『新宝島』の収録を決心させた。そんな7年越しの巧妙な伏線を張った人物はいったい誰だったのか。ぼくは長年、それがずっと気になっていた。
だけどそれを宮原さんにお聞きしてみたところ……、
「うーん、憶えてないですねえ。そんなコピーがありましたかね。広告のコピーなら宣伝部が考えたんじゃないのかなあ」ということで、はっきりしたご記憶はお持ちではなかった。手塚マンガの生き字引とも言える森さんも記憶にないということだった。
そこでぼくは、まずはその広告に当たってみようと、当時の広告のスクラップを引っぱり出して調べてみた。しかし不思議なことに、手塚の言っていた「『新宝島』から『火の鳥』まで」というコピーの使われた広告はまったく見つからなかったのだ。
唯一、書籍への挟み込みチラシの表紙に「デビュー作から最新作まで」というコピーがあるけど、これのことだったのだろうか。
確かに『新宝島』が手塚のデビュー作として紹介されることも間々あるが、一般的にデビュー作とされているのは昭和21年に毎日小学生新聞に掲載された4コママンガ『マアチャンの日記帳』である。そしてその『マアチャンの日記帳』は全集にも第129巻として収録済みなのだ。
ただし新聞記事の中に、はっきりとその一文が書かれているものがあった。それは冒頭で紹介した、最初に手塚全集の刊行を報じた1977年3月19日の朝日新聞夕刊の記事である。この中に「デビュー作の『新宝島』から現在もシリーズ継続中の『火の鳥』まで、三百巻以上になる計画で……」とはっきりと書かれていたのだ。
そこで宮原さんのされた推理はこうだ。
「結局、そんなコピーがあったかどうか、当時は誰もはっきりとは憶えてはいなかったんじゃないでしょうかね。それで手塚先生に編集者が「こういうコピーがありましたよ」と言うと、手塚先生も「そう言われればそうかな」という感じで……」
そうか! 結局、記事があったかなかったかは重要ではなかったわけですね。まるでミステリー小説の落ちのような話だなぁ。
宮原さん、森さん、いろいろとありがとうございました!!
ということで『新宝島』は全集にはリメイク版として描き下ろしで収録されることになった。
正直言って、その当時は昭和22年版の復刻でなかったことに落胆したファンはぼくも含めて多かったに違いない。
だけど今にして思うことは、このとき手塚が、酒井七馬の手が加わる前の、最初に構想していた『新宝島』に近いものを書き上げたということには大きな意味があったように思う。昭和22年にもしも手塚の単独作品として『新宝島』が発表されていたとしたら……そんなことを想像しながら読むと、この講談社全集版『新宝島』には、単なる復刻版とは違う、かけがえのない価値があるように思います。
現在は幸せなことに、昭和22年版も小学館クリエイティブの復刻版や、講談社の「手塚治虫文庫全集」に収録されたもので読むことができます。興味のある方はぜひ、講談社全集版と昭和22年版で読みくらべてみてください!!
と、こうして講談社版全集は1984年10月3日に全300巻としてひとまず完結。その後、手塚先生が亡くなった後の1993年から第4期100巻の刊行が始まり、1997年12月に全400巻として、壮大な手塚マンガの宇宙が完結をみたのである。
ここで300巻の最後に手塚が書いたあとがきから、こんな言葉を紹介しよう。
「自分の作品の集大成を出したい望みは、十年前になりますが、マンガ家生活三十周年を
そこへ、講談社から全集企画のお話が持ちこまれました。
(略)
それから七年間、ほんとうに長い長いスタッフの苦労の日々でした。
担当の編集の方々、手塚プロの資料室のスタッフの人たち、ほんとに、ほんとに有り難う。」(講談社版全集第300巻『ブッダ』第14巻あとがきより」
これを読むと、手塚先生は本当は自分でも全集を出したいとずっと思っていたんだなぁ、ということがよく分かる。だけど何度も中断している企画だけに、宮原さんが言い出さなければ、手塚先生自身からそれを切り出すことは恐らく一生なかっただろう。
あの日、宮原さんが南米からの帰途、飛行機の上でこの企画を思い立ち、孤軍奮闘してそれを実現までこぎつけた。そのことはもちろん宮原さんという優秀な編集者の努力と手腕の賜物ではあったんだけど、同時にそれは手塚先生からすれば、自分自身のひそかな思いが天に届いたということだった。そしてぼくらファンにとっては、ある意味、時代が求めた必然でもあったのだ。
この手塚全集があることで、手塚マンガをリアルタイムで知らない若い人たちも、今はいつでもそれを読むことができる。誰もが手塚マンガについて語ることができる。
「日本が世界に誇るマンガ文化」などと、言葉では多くの人が語るけど、それを本当の意味で文化として次の世代へ残そうと行動する人は少ない。その数少ない偉業のひとつがこの「講談社版手塚治虫漫画全集」だったのだ。
最近はこの全集もなかなか書店に常時置かれているという状況ではなくなっているが、気になる作品があればぜひ取り寄せてみるなり、文庫全集でなり、読んでみていただきたい。
どの作品も、いま読んでも決して古びてはいないし何より楽しい。そして読み返すたびに新しい発見があるはずだ。
今回も長々とお読みいただきありがとうございます。ぜひまた次回のコラムでお付き合いください!!