手塚治虫のマンガには様々な愛の形が描かれている。男女の愛はもちろん、家族への愛、人間愛、中には人間と宇宙生物など種族を越えた愛もあった。今回注目するのは少年期の愛だ。愛とは、そして恋とはいったい何なのかをいまだ知らない思春期前後の少年たちが、自らの心に湧き起こる感情を抑制できずに葛藤し心を揺らす物語たちである。BL(ボーイズラブ)などという言葉がいまだなかった時代に描かれた少年たちの純粋な愛──。手塚はそこでいったい何を語ろうとしていたのだろうか!?
『鉄腕アトム』の後期のエピソードに「地球最後の日の巻」(1964年)というお話がある。ニコロ星から地球へと逃げてきた少年型ロボット・ベムはロボット爆弾だった。彼は小型冷蔵庫ほどの大きさの箱をいつも抱えていて、それから片時も離れようとしない。じつはその箱が爆弾なのだが、爆弾はベムの体と機能を共有しているために一定距離以上離れることができないのだ。
そのベムが地球へ降り立って最初に登場する場面。すらりと伸びた優美な素足が2段ぶち抜きのコマで描かれている。そしてページをめくるとそこに全裸で立っている美少年の姿が──。
このベムの全裸の無防備さには、文字通り爆弾を抱えた彼の未成熟で危うく揺れる心情がそのまま表われており、それが不思議なエロスを醸し出す元になっていた。
そんなひとりぼっちで孤立無援のベムに唯一心を寄せてくれたのがアトムだった。最初は警戒していたベムも少しずつアトムに心を開いてゆく。
「ぼく きみにちからを貸すよ こまったらいつでも相談にのるからね」
アトムはベムの手を取ってこう言って彼を励ます。
このときふたりの間に通った気持ちを言葉にすると“友情”とか“共感”“同情”などという言葉が当てはまるのだろうが、このときのふたりの間にはもっともっと深い心の絆が生まれていたことは間違いない。
連載当時この話をリアルタイムで読んでいたぼくは、ベムの無垢な魅力と、その気持ちに共感して親しくなったアトムとの“恋”(?)の行方から、毎月目が離せなくなった。
いや、それは恋と言っていいものかどうかは分からない。思春期に至る前の少年期、周囲の人に抱く感情はいまだ未分化で、様々な感情が混沌とした状態で心の中に渦巻いている。それが時に親に対する愛になり、異性に対する愛になり、また自分より強い者に頼りたいという感情になったり、自分より弱い者を守ってあげたいという感情になったりしつつ人は大人になっていく。さらにそんな好意の感情とは対極にあるように見える嫉妬や憎しみや嫌悪の情もまた少年期には同時に存在して好意の感情と共に顔を出すこともある。
当時のぼくはそんな感情の中で、ひとりぼっちの美少年ベムの孤独な境遇に強く思い入れていたのだ。
また同時にこのもやもやした気持ちを大人に悟られたくないという思いがあって、このマンガを読んでいるときに母親が来るとあわてて別のページを開いたりしていた。それはエッチなものを読んでいて親にばれたら恥ずかしいという気持ちとは少し違っていて、このマンガは大人には理解できないし絶対に共感してもらえない、だから大人とは一緒に読みたくない、そんな気持ちが強かったように思う。
そんなこんなでドキドキしながら見守っていたベムの物語だったが、終盤近くになって、じつはベムが本来は女性型ロボットだったことが明らかになり、ぼくの禁断のドキドキ感は少しだけ和らいだ。だけどそれを知る以前からベムとアトムは心を通わせていたわけで、手塚がこのエピソードで少年期のラブロマンスを描いたという本質に変わりはない。
「ごめんなさい ほんとはあたし あながたきらいじゃなかったのよ」
「ぼくも きみを信じていたよ いつかわかってもらえるだろうって」
これはまさしくふたりの愛の告白に違いないだろう。
ちなみに今回のコラムでは、手塚マンガに描かれた、このような単なる友情ではなく、かといって本当の恋愛でもない、未分化で混沌とした少年期のほのかな恋情をどんな言葉で表現すればいいか、けっこう悩んだ。手塚プロ編集担当のT井はBrotherとRomanceの合成語である“ブロマンス”という最近の俗語を教えてくれた。だけど語感が生々しいしピュアじゃない。そんな時にI藤プロデューサーから出た単語が“ジュブナイル”だった。juvenileとは、辞書を引くと“少年期の”とか、“少年(少女)の、子供らしい、子供じみた”などという意味の形容詞だという。少年期特有の無垢な恋愛感情を形容するのに最適な言葉だと思い、サブタイトルを「ジュブナイルロマンス」とすることに決めた。なのでどこかにこういう言葉があるわけではありません。
『鉄腕アトム』「地球最後の日の巻」が雑誌『少年』に連載されるちょうど1年前の1963年、雑誌『少年ブック』に連載されたのが『新選組』である。
物語の舞台はもちろん幕末だ。正義感の強いまっすぐな少年・深草丘十郎が父の仇を討つために新選組へ入隊するところからお話は始まる。そしてそこで出会ったのが皮肉屋でペシミストの少年・鎌切大作だった。性格はまるで真逆のふたりだが、なぜか馬が合い、互いに反発し対立しながらも少しずつ絆を深めて行く。しかも相手に対してとりわけ強く思いを寄せているようなのが精神的に未熟で幼い丘十郎の方ではなく、大人びた大作の方だというのが興味深い。
マンガ家の萩尾望都はこのふたりの関係性についてこう斬り込んでいる。
「丘十郎に対する大作の、このやさしさはなんだろう?……(中略)大作のような冷めた目で世間に接しその限界を知る者にとって、丘十郎のような熱い存在、迷い悩みつつ未来をあきらめない存在は、一種の救いだったのだろうか」(『手塚治虫名作集11 新選組』集英社文庫所収、解説エッセイ「『新選組』にある喪失と再生」より)
大作の中には、自らの絶望を希望に変えてくれる存在として丘十郎があり、それが相手を慕う心になっていたということか。これはまさしくロボット爆弾のベムとアトムとの関係性にも通じるものがあるだろう。ひとりではとうてい癒やせない深い傷を負った少年の孤独な魂。それを救えるのは大人でも異性でもなく、その悩みを共有できる同世代の同性の少年でしかないのだ。
それにしてもロボット爆弾のベムの素足にはドキドキしたぼくも、『新選組』の大作と丘十郎の関係性については、初めて読んだ当時はここまで深く感じることはなかった。それはぼくだけでなく当時の少年読者のほとんどがそうだっただろう。だが萩尾望都のように感受性の強いごく一部の女性読者たちがいち早くそこに注目し(というかむしろそこに衝撃を受け)、それを自らの創作の糧として新しい少女マンガのジャンルへと斬り込んでいったのである。
萩尾望都は先の文章をこう続けている。
「十七のとき私はこの『新撰組』を読んで、漫画家になろうと思った。
思えば私は、私の喪失を止めるものにめぐりあったのだ。(中略)絶望と虚無をこえて、それでも再生してゆく新しい世界。新しい価値観への旅立ち。これだ、と思った。この世界を追求していけば、私はもう喪失せずにすむと感じたのだった」(前出の解説エッセイより)
1969年にマンガ家としてデビューした萩尾は、1974年、雑誌『週刊少女コミック』で『トーマの心臓』の連載を開始する。この作品は少女マンガの世界に少年愛というジャンルを開拓し、1976年には同じ『週刊少女コミック』で、竹宮恵子の衝撃作『風と木の詩』の連載が始まった。
そしてその竹宮恵子もまた手塚が創刊した雑誌『COM』への投稿からマンガ家へのキャリアをスタートさせており、手塚マンガの系譜を受け継ぐマンガ家のひとりだったのである。
年代が前後するが、『トーマの心臓』や『風と木の詩』が生まれる数年前に発表された手塚のジュブナイルロマンスが描かれたもうひとつの作品を紹介しよう。それは1966年から67年にかけて雑誌『週刊少年サンデー』に連載された『バンパイヤ』だ。
この作品の主人公はオオカミに変身する能力を持ったバンパイヤ族の少年・立花特平(通称=トッペイ)だが、実質的なもうひとりの主人公がいる。それが殺人もいとわず、恩を受けた人間も平気で裏切る悪の申し子・間久部緑郎(通称=ロック)である。
そのロックがトッペイの変身能力に目を付け、自身の野望のためにそれを利用しようとしてトッペイに近づく。
その初対面の場面──、トッペイはロックの目の前でオオカミに変身しロックに襲いかかる。だがそのわずか数ページ後にはトッペイはロックに負け、あっさりと屈服させられてしまうのだ。しかもそれだけではなく、すっかり素直になったトッペイはロックに自身の生い立ちを語り出す。
この場面、前のシーンでオオカミに変身する際に服を脱ぎ去ってしまったためトッペイは人間に戻ってからも全裸のままだ。その全裸のトッペイがオープンカーの座席の背もたれに腰かけてロックと会話している様子は、まるで男女のベッドシーンの後のような艶めかしさがある。
このオープンカーの場面に象徴されるように、トッペイはロックを嫌悪しつつも表面的な拒否感情は裏腹にロックの魔力に魅入られていく。
ここで描かれているトッペイとロックの関係は、これまで紹介してきた手塚マンガの少年たちの感情とは大きく異なっている。ロックの方にはトッペイに対して愛情ややさしさのかけらもない。彼はただトッペイを利用しているだけだ。だがそれを十分に分かっていながらもトッペイはロックの魔性の魅力からどうしても逃れることができない。
栗本薫名義で作家としても活躍した評論家の中島梓は、2002年に発表した手塚治虫論の中でこのように書いている。
「このロックとトッペイの関係というのは非常に暗示的なもので、『お前はぼくのことが好きなんだろう?』とトッペイのオオカミにいうロックのことばをかりるまでもなく、トッペイをロックに引きつけてやまないものは、人間の理性が反対するにもかかわらずトッペイを縛っているロックへの執着です。これには何も論理的な説明がなされないがゆえに、いっそう淫らである、というか、このふたりの関係性というのは、つねにあやしく倒錯的な淫靡さのかおりをまとわりつかせ、それゆえに美しい手塚作品のなかでも、もっとも正体のない性的な艶めかしさを持っています」(『SFジャパン』2002年冬号所収「新・手塚治虫論 悪のエロスとしての『バンパイヤ』」より)
栗本薫がこう見抜いたように、ロックとトッペイのいびつな関係はさらに深まってゆく。そしてついにトッペイはロックの計画した誘拐事件の中核を成す重要な役割を負わされてしまうのだ。少年マンガの主人公にあるまじきこの展開には、連載当時ぼくも驚愕した。
だがその一方でロックに魅せられるトッペイの気持ちが分からないでもなかった。人間社会のモラルを捨て去って野生動物のように生きられたらどんなに自由だろうか。そんな思いを体現していたのはバンパイヤ族のトッペイではなく、人間のロックの方だったのだから。
トッペイの協力もあり、まんまと身代金1億円をを手に入れたロックは城のような豪邸の建築を開始する。ところがそこに現われたのが幼なじみの少年・西郷風介だった。
西郷は故郷鹿児島からロックを追ってはるばる上京してきたのだった。この再会にロックはこれまで魅せたことのないような狼狽した表情を見せる。
それは一度捨てたはずの忌まわしき過去がまるで目の前に甦って来たようなうろたえ方だった。それもそのはずで、ロックは故郷を去る際に学校の教室に小便をまき散らし、荒らし放題に荒らして故郷を去ったのだった。
だが西郷の言葉から、かつてふたりは親友で心を通わせていた時期もあったことが分かる。勉強が苦手だった西郷の宿題をみてくれたことを西郷は今でも感謝していた。だからこそ西郷にはロックが後ろ足で砂を蹴るようにして故郷を捨てたことが許せず、またその理由がどうしても知りたかったのだ。
一方、ロックにとってそれはまるで厄介なことだった。西郷に居座られて悪事が露見すれば野望は完全に潰えてしまう。
今のロックにとって西郷は過去の亡霊でしかない。ロックは自分自身にそう言聞かせながら風介を何度も殺そうとする。だがどうしても果たせないままに時が過ぎていく。
かつて心を通わせた時期もあったふたりが、運命に引き裂かれて別々の人生を歩み始めたとき、じつはすでにふたりの関係は終わっていたのだ。
だがそんな状況を信じようとしない西郷は最後までロックに改心を迫る。
「学校時代の間久部に戻れ」
「おいは生きちょるかぎり おンしからはなれん…………」
そう言われたときロックはついに西郷の胸に向けて銃弾を放ったのだった。
少年期の愛は往々にして実らないものだ。そして時にはこんな悲劇をも生んでしまうのだ。
じつは手塚は、『バンパイヤ』の5年前にも、『アリと巨人』(1961~1962年)で幼なじみの少年の友情が引き裂かれる悲劇の物語を描いている。終戦直後、同じ戦災孤児として知り合ったふたりの少年、マサやんとムギやん。苦しい時代を力を合わせて生き抜くが、やがてマサやんは新聞社で働くようになり、一方のムギやんはギャングとなっていた。
激動の時代を共に必死で生きようとしていたはずのふたりに待っていた真逆の人生。ただ、この物語に救いがあったのは、ギャングとなったムギやんにも、最後までマサやんに対する愛情が残されていたことだ。
ではロックの場合はどうだったのか。自分が殺した西郷の遺体にすがって泣くロックの本当の気持ちとは──。
だが『バンパイヤ』はこれから間もなくして未完のまま連載を終え、その結末は永遠の謎となってしまったのだった。
ジュブナイルロマンスの視点から見ると興味深い作品はまだまだある。気になった作品があればぜひとも原典を読んでみていただきたい。
それでは次回のコラムにもぜひおつきあいください!!