今回散歩をするのは神奈川県川崎市だっ! 川崎市は東京の町田市と神奈川県横浜市に隣接した細くて長〜い市だ。手塚先生の足跡をたどってこの街を歩く計画を立てたところ、そのルートは何とこの細長い川崎市を端から端までズズズィ〜ッと縦断するものになった。今回は徒歩以外に電車、バスを駆使しての川崎市縦断虫さんぽ、いったいどんな出会いと発見が待っているのか!? いざ出発です!!
今日の散歩の出発点は、小田急線の向ヶ丘遊園駅だ。「向ヶ丘遊園」というのは戦前からこの街にあった遊園地で、ここはその最寄り駅だったわけだけど、遊園地は2002年に惜しまれながら閉園してしまった。そして駅名だけがそのまま残ったというわけだ。
じゃあその跡地は現在どうなっているのか? そう、昨年2011年9月、この向ヶ丘遊園跡地の一角にオープンしたのが、マンガ家の藤子・F・不二雄先生の美術館「川崎市 藤子・F・不二雄ミュージアム」なのである。ジャーン!!
ということで駅を降りた瞬間から右を向いても左を見ても、ドラえもんやパーマンなど、藤子・F・不二雄先生の人気キャラクターがぼくらを出迎えてくれている。ポスター、案内看板、オブジェなどなどなど。今やここはすっかりマンガの街へと変貌をとげていたのでありました。
そして今回の散歩の最初の目的地も、もちろんココ、藤子・F・不二雄ミュージアムである! 虫さんぽで訪ねるからには手塚先生ゆかりの展示品もしっかりとチェックしてまいりますよ〜〜〜〜っ!!
向ヶ丘遊園駅から藤子・F・不二雄ミュージアムまでは徒歩でおよそ16分ほどの道のりだ。登戸駅からだとミュージアムまで直通のシャトルバスが出ているんだけど、そちらは帰りに乗ることにいたします。
水路に沿って歩く道は、車の通行量は若干多目だけど、広々として気持ちのいい道だ。向ヶ丘遊園が営業していた1966年から2001年までは、この水路沿いに向ヶ丘遊園駅から遊園正門まで、小田急が運営するモノレールが走っていた。乗ったことはなかったけど、鉛筆のように細いレールの上をゆっくりと走る何とものどかな乗り物だった記憶がある。さらに資料によれば、戦前はこのルートを豆汽車が、そして戦後の1950年から1965年までは豆電車が走っていたそうだ。
とか言ってるうちに、前方に小高い森をバックに建つスマートな建物が見えてきた。これが藤子・F・不二雄ミュージアムだ。
建物を見てすぐに気づくのが不規則な形に並ぶ窓枠だ。実はこれ、単なるデザインではないという。『ドラえもん』の単行本第1巻の最初の5ページ分のコマ割りをそのまま窓枠にしたものなんだとか。何というマニアックなこだわり(笑)。
昨年虫さんぽで訪ねた宝塚の手塚治虫記念館も細部にわたって手塚マンガへのこだわりを見せてたけど、こちらもそれに負けじとイロイロこだわっているようですね。館内も楽しみです。
藤子・F・不二雄ミュージアムの館内を案内してくださるのはチーフの飯島妙子さん。
「朝早くすみません、おじゃまいたします!」
そう言って館内へ。実はこの日は一般のお客さんが入館される前の早朝に案内をしていただいたのだ。
藤子・F・不二雄ミュージアムは完全予約制で事前にローソンで日時指定のチケットを購入して来館するシステムになっている。休日や夏休みでも大混雑したり入場制限されたりということがなく、ゆったり見学できるのはありがたいですね。
来館者には入り口で全員に音声ガイド「おはなしデンワ」が貸し出される(日本語の大人用と子ども用のほか、英語、中国語、韓国語の端末を用意)。そして展示品に添えられた番号をこの端末に入力すると、ヘッドホンからその展示に関する説明や関連した音声が聴けるというものだ。
広い展示室へ入ると、そこには壁いっぱいに貴重な原画がズラリと展示されていた。うおおっ『オバケのQ太郎』の原画が、『21エモン』の原画が、『エスパー魔美』、『キテレツ大百科』、『ウメ星デンカ』の原画がっっ!! 特にカラー原画の色彩が素晴らしい。藤子F先生のカラー原画は色づかいのバランスが絶妙なんですね。とってもカラフルで、それでいてどぎつくなく暖かみがあるという。原画展で見た手塚先生のカラー原画も、生で見るとその深い色づかいにため息が出てしまうけど、それに負けず劣らずの感動でありました。
そしていよいよ今回の訪問の最大の目的である手塚先生の展示品を探します。しかーし、あまりに館内が広いため、なかなか見つからない。
「どこにあるんだろう。もしかして、すでに見落としてしまったのかも!」
オタオタするぼくに飯島さんは「順番にご覧になっていけばすぐにわかりますよ」と笑いながら言うのだが、とうとうこらえきれずに聞いちゃいました。
「飯島さん、降参です、どこにあるか教えてください!!」
「では案内しましょう。こちらです」
飯島さんの案内でようやくその場所へとたどり着いた。壁に並んだいくつもの小さな窓の中に、それぞれ藤子F先生が大切にされていた記念品の数々が展示されている。そのひとつの小窓に……あったぁぁぁ!!
手塚先生が描いたドラえもんの色紙と、日に焼けて茶色くなった昔サイズの小さなハガキが1枚、展示されていた。
色紙は藤子F先生のマンガ家生活25周年を記念して贈られたもので、その下のハガキは藤子F先生がまだ学生だったころ、手塚先生に宛てて出したファンレターの返事として届いたものだ。
藤子・F・不二雄先生は、日本が太平洋戦争のまっただ中にあった1944年、故郷高岡の小学校で、転校してきた藤子不二雄A先生(※註)と出会い、意気投合して一緒にマンガを描くようになった。
そして終戦直後の1947年、ふたりは手塚治虫の初単行本『新寶島』を読んで感動。以来、手塚マンガに夢中となり、やがては自分たちもプロのマンガ家を目指すようになるのだ。
このハガキの冒頭の部分を書き出してみると……、
「Dear Fuzimoto, I Look SOMETIMES Your Name in "MANGA Shonen". しっかりしたタッチで将来がたのしみです。頑張って呉れ給え」
あの丸っこい手塚先生の文字で渦巻きのように書かれた本文の端にはヒゲオヤジとランプのカット入り。当時、これをもらったF先生のうれしさは想像にかたくありません。ぼくだったらきっとその場で卒倒してたでしょうね。
ちなみに手塚先生のこの文章の先には「私はいま、メトロポリスの姉妹篇の『ノア(仮題)』をかいています。今年のベストセラアにせんといき込んでいます」とある。そしてこのときまだ仮題だった『ノア』という作品は、1951年1月と2月にSF超大作『来たるべき世界』前後編として刊行された。
※註:藤子不二雄A先生の「A」は、正しくは丸囲みにAです
展示室の出口で係員に「おはなしデンワ」を返却すると、その先に広がっているのは「みんなのひろば」と名付けられた体験型のスペースだ。いろいろな装置を触ることで大人も子どもも“すこしふしぎな体験”ができる。藤子F作品が読めるまんがコーナーや、ここでしか観られない短編オリジナル映像を上映する「Fシアター」もある。
ちなみに展示室は今回取材ということで特別に撮影を許可してもらったけど、展示室内とFシアター内は通常は撮影禁止なのでご注意を。ただしそれ以外のオープンスペースは撮影OKで、中庭などあちこちに記念撮影スポットがあるからデジカメの用意はお忘れなく。
そして最後のシメは、ミュージアムカフェで「フレンチトーストdeアンキパン」と、ドラえもんの顔が描かれた「カフェラテ」をいただきました。ほかにも季節限定メニューがあるから、公式ホームページでの事前チェックは必須です。
ここで飯島さんにごあいさつをして藤子・F・不二雄ミュージアムを後にし、次の目的地へと向かう。次に行くのは「川崎市市民ミュージアム」だっっ!!
調べたところ、藤子Fミュージアムから市民ミュージアムへの行き方は何通りかある。
まずはバスだけを利用する方法だ。藤子・F・不二雄ミュージアムの真向かいにある川崎市営バス「藤子・F・不二雄ミュージアム」停留所から「溝06系統」に乗りJR南武線溝の口駅で下車。そこから市営バス「溝05系統」に乗り換えて「市民ミュージアム前」へ向かうというもの。
この方法だと乗り換えが1回で済むので簡単便利……と思ったら、このルートは時間帯によって道が渋滞するのと、溝05系統は1時間に1本しかない時間帯があるため、ご用とお急ぎでないバスマニアの方以外にはあまりお薦めできないという。
そこでジモティに相談したり鉄道会社やバス会社に電話で聞きまくった結果、ようやく最短所要時間と思われる方法が判明したっ!! っつーほど大げさなものでもないが(笑)。
その方法とは、まずシャトルバス(川崎市営バス 藤子・F・不二雄ミュージアム線)で藤子Fミュージアムからいったん登戸駅へ戻る。そこからJR南武線に乗り、武蔵小杉駅で下車。北口から川崎市営バス「杉40系統」に乗ると、バスは「市民ミュージアム」前に横付けされるという寸法だ。所要時間はルート探索ソフトで調べた結果、およそ53分と出た。
ただしこの行き方だと武蔵小杉駅と市民ミュージアムの間を1往復することになる。今回は散歩だし、なるべく同じルートを通らずひと筆書きのルートをたどりたかったので、南武線をひとつ手前の武蔵中原駅で下車。そこから市営バス「杉40系統」に乗って「市民ミュージアム」へ向う方法を取ることにした。こちらはルート探索ソフトだと所要時間約45分。しかしこちらの路線のバス本数も平日昼間などは30分に1本しかないので、サクッと行きたい方はやっぱり武蔵小杉駅からのルートの方がいいでしょう。
こうしてアプローチにいろいろ迷いながらも我らが虫さんぽ隊は無事、川崎市市民ミュージアムへと到着した。
ところで写真ではなぜかここからいきなり雪が降っていますけど何か? 実は楽屋裏を明かすとこのエリアの散歩だけ取材日程が合わなくて別の日に訪問したのだ。映画で言うと「別撮り」ってやつ。天気さえあまり違わなければ何ごともなかったかのように記事を続けるんだけど、雪が降ってちゃごまかすわけにもいかず(笑)。まーそんな大人の事情は忘れて散歩を続けましょう!!
ここで案内をしてくださったのは川崎市市民ミュージアム・企画広報の石澤志津さんだ。
「さっそくですけど、ココに手塚治虫先生にゆかりの品があるって聞いてきたんですが……」とぼくが言うと、石澤さんは「はいありますよ!」と言ってぼくをエントランスホールへと案内してくれた。そして広いゆったりとした階段を上がった2階の一角にソレはあった!
「これが手塚治虫先生がデザインされた“笑い”の像です」
石澤さんがそういって示してくれたのは高さが4mもある大きな赤土色の像だった。今にも動き出しそうなポーズをとったその体には、たくさんの笑顔がくっついている。何とも不思議な形をした像ですけど、石澤さん、これって埴輪ですか?
「そうなんです。手塚先生はこの像をまさに埴輪をイメージして作られたんだそうです」
石澤さんによれば、川崎市市民ミュージアムがオープンしたのは1988年11月のこと。その設立準備に参加したグラフィックデザイナー・粟津潔氏との打ち合わせの中で、このオブジェの製作の話が浮上してきたのだという。
「この市民ミュージアムは、博物館と美術館、映像センターを融合させた複合文化施設として設立されました。そして設立当初から映画や写真、グラフィックアート、マンガといった大衆芸術も積極的に取りあつかっていこうという方針が決まっていたんです。それでぜひ手塚治虫先生に“文化”をテーマとしたオブジェの製作をお願いしようということになったんです」
それを受けて構想を練った手塚先生は、かねてから人型埴輪の素朴な表情の中にマンガ的な表現のルーツを見ていたそうで、そんな歴史的・文化的思いを込めて埴輪をモチーフに、この笑いの像をデザインしたんだそうである。
実はこの散歩当日は臨時休館日だったためにスイッチが入っていなかったけど、通常の開館中は人がこの像に近づくとセンサーが反応して笑い声が聞こえ、照明がフラッシュするという。ぜひソレをあらためて見にきてみたいと思います。と帰ろうとしたとき、石澤さんがもうひとつ、素晴らしいものを見せてくれたのだった!
その素晴らしいものとは……手塚治虫文化賞のトロフィーである! いつもは大切に保管されおり一般に公開はしていないというが、今回、特別に見せてくださったのだ。うおーーっアトムだぜ〜〜、ピカピカに輝いてるぜ〜〜〜、これがホンモノの手塚治虫文化賞のトロフィーだぜ〜〜〜っ!! と予期せぬお宝の登場に大興奮するぼくなのだった。
手塚治虫文化賞というのは朝日新聞が主催して1997年に始まった賞で、「マンガ文化の健全な発展」を目的に毎年1回、優秀なマンガ作品を選出している。第1回の大賞に選ばれたのは藤子・F・不二雄の『ドラえもん』。そして昨年2011年の第15回の大賞には村上もとかの『JIN-仁-』と、松本大洋・永福一成の『竹光侍』が選ばれた。
またマンガ文化に貢献した個人や団体に対しては特別賞が贈られることもあり、2005年の第9回手塚治虫文化賞では、川崎市市民ミュージアムが特別賞を受賞したのである。
その受賞理由は「江戸から現代までのマンガ作品・資料の収集および企画展示など」の長年の積極的な活動が評価されてのことだった。
実際、川崎市市民ミュージアムは、前にも書いたように開館当初からマンガに関する展示を数多く行っている。その主なものをざっと紹介してみると……、
次の目的地へは徒歩で向かう。市民ミュージアムから南へ下って細い路地を入ったところにあるのが「春日山 常楽寺」というお寺だ。川崎市の重要史跡にも指定されている歴史あるお寺なんだけど、ここには別名がある。「日本漫画博物館 まんが寺」というものだ。まんが寺!? いったいどんなところなのだろうか!?
冷たい雪が降る中を歩くことおよそ3分、まんが寺に到着した。深い木々に囲まれた奥に本堂が建っている。見たところは普通のお寺だが……。
和尚さんにあいさつをして本堂の中へ。するといきなり驚いた! 壁から天井からふすままで、いたるところにプロの漫画家による漫画が描かれている。さらに隙間もないくらいに飾られた額や色紙の数々。執筆作家は400人以上、作品点数は2000点にものぼるという。
ではいったいなぜ、このお寺にこれほどたくさんの漫画があるのか。和尚さんがそのいわれをまとめた資料を見せてくださった。それによると、話は戦争中にさかのぼる。
当時、プロの漫画家35名によって日本漫画奉公会という団体が組織され、産業に貢献した企業やお米の供出のよい農家にこの団体から色紙が贈られた。この時、その活動を支援したのが先代の和尚・土岐秀宥(ときしゅうゆう)さんだった。この活動の中で土岐和尚は漫画の持つ力というものを強く認識したという。
それから時が経ち戦後。元禄2年(1689年)に建てられた本堂の解体修復作業が行われることになった。その際、戦時中に和尚さんと苦楽を共にした35名の漫画家のうち健在だった人たちが、本堂の中に明治から昭和までの世相をふすまや壁画に描いて寄贈することになった。ここからまんが寺の歴史が始まったのだ。
飾られている漫画の多くは昔の漫画家の作品なので、ぼくの知らない作家も多かったけど、中には『のらくろ』の田河水泡、『冒険ダン吉』の島田啓三といった戦前からの大御所漫画家や、テレビ番組『お笑いマンガ道場』(1976〜1994年)のレギュラー出演者としても人気だった鈴木義司、富永一朗などの名前もあった。
そして実はこの中に手塚先生の色紙もあったというが、残念なことに盗難にあってしまったんだとか。えええーーっ、それはまったくもって許せない!! お寺で盗みを働くなんて不心得もいいところである。
ちなみに境内には徳川夢声の筆になる「まんが筆塚」もあるので、本堂を拝観した折には、ぜひそちらも訪ねてみてください。あっ、それから拝観には事前予約が必要ですのでご注意を!
ここからは再びバスで移動する。まんが寺から府中街道へ出たところに「薬師前」バス停がある。ここから川崎市営バス「川31」「溝02」「溝03」系統に乗って武蔵小杉駅へ。武蔵小杉駅からはJR南武線で川崎へと向かう。
今回の虫さんぽの目的地が川崎市ということで、その締めくくりにぜひお目にかかってごあいさつしたい方が川崎にいらっしゃるのだ。
その方は深瀬泰旦先生といって、医史学を研究しておられる元小児科のお医者さんだ。手塚先生の青年コミックに詳しい方なら、このお名前を聞いてすぐにわかった方もいるかもしれないが、深瀬先生は手塚先生の作品『陽だまりの樹』の創作に、とても重要なきっかけを与えた人なのである。
『陽だまりの樹』は1981〜1986年に雑誌『ビッグコミック』に連載された作品で、幕末期の日本を舞台に、手塚先生の祖先である蘭方医・手塚良仙が主要キャラクターのひとりとして活躍する長編大作だ。昭和58年度の小学館漫画賞を受賞した手塚先生の代表作でもある。
そして折も折、この4月から東京のサンシャイン劇場ほかで『陽だまりの樹』の舞台が上演され、またNHK-BSプレミアムではドラマも放送される。これはぜひとも深瀬先生にお会いしてこなければ!! というわけなのだ。
お会いした深瀬先生は昭和4年生まれの82歳。以前はここ川崎で小児科医院を開業していたが、いまは引退して医史学の研究に没頭しておられるという。おだやかにゆっくりとしゃべる深瀬先生は、小児科の先生だったころも、きっと子どもが怖がることはなく、安心して診察してもらっていたことでしょう。
さっそく先生に『陽だまりの樹』との関わりをお聞きしてみた。
「それがまったく不思議なご縁でしてね、私は開業医をしながら川崎の医学の歴史をコツコツと調べては論文を発表していたんです。 そうした中で牛痘接種の歴史について調べていた際に、たまたま手塚良仙(良庵)という人物の名前に行き当たったんです。これが1978年6月のことでした」
その後、深瀬先生はこの良仙なる人物についてさらに調査を続け、良仙が高名な蘭方医・緒方洪庵の門下生だったことや、その後江戸へ帰って小石川に居を構えたことなど、その足跡が次第に明らかになっていったのだ。そしてその研究の成果を、深瀬先生はいくつかの論文にまとめて学会の専門誌に発表した。
ただしこのときは深瀬先生も良仙が手塚先生の祖先だったということはまったく知らず、手塚先生とも一面識もなかった。ではいったいどうやって両者が結びついたのか。運命の物語はここでいったん深瀬先生から離れる。
1980年秋、手塚先生は、順天堂大学の大学祭で講演を行った。その際、手塚先生が何気なくこんなことを口にした。
「私の祖先も医者なのですが、どんな人であったかさっぱりわかっていません」
その時、講演を聞いていた深瀬先生の知り合いの医師・数間紀夫先生が、この言葉にピンときた。「その手塚先生の祖先というのは、深瀬先生が書かれた論文にあった手塚良仙ではないか!?」
数間先生はさっそくそれを手塚先生に伝え、手塚先生自身も調べてみたところ、手塚良仙が間違いなく手塚先生の祖先であることが確かめられたのだった。
この事実はすぐに手塚先生の創作魂に火を付けた。手塚先生の中で、幕末を舞台としたドラマの構想が一気にふくらんでいった。
そしてある日、手塚先生から深瀬先生に電話がかかる。以下、再び深瀬先生のお話を聞こう。
「あれは1981年の春ですね。看護師が“手塚プロ”から電話だと言うんです。手塚プロと聞いてもすぐには分かりませんでね、誰だろう、と(笑)。そうしたらあのマンガ家の手塚治虫さんの会社だという。最初は秘書の方が出て、そのあと手塚先生に替わられたんですが、電話口の向こうからあの鼻にかかった独特の声で、私の論文を読んだこと、そして手塚良仙が手塚先生のご祖先であることを聞かされたんです。
もうびっくりしました。私の論文では「手塚良仙の菩提寺や子孫についてはまったく不明」と書いていたんですが、そのご本人から連絡があって、それがあの高名な手塚治虫さんだったんですからね」
その後、3月15日の日曜日、手塚先生は小学館の編集者とともに、あらためて深瀬先生のお宅を訪問した。
「手塚先生は最初は「10分くらいですぐに失礼しますから!」と言っておられたんですが、私がそれでもまあお上がりくださいと言って、掘りごたつの部屋へ案内しましてね。結局、2時間くらいいらっしゃいました(笑)」
何とも手塚先生らしい話である。
そこで手塚先生は今度書く作品の内容を説明し、深瀬先生の論文を資料として使いたいと申し出た。深瀬先生はもちろん快諾し、その4月から『陽だまりの樹』の連載が始まったのである。
お話の終わりに深瀬先生がこう言っておられたのが、ぼくにはとても印象的だった。
「手塚先生とはその後、漫画賞の受賞パーティの時に1回、そのあと何かの時にもう1回と、合計3回くらいしかお目にかかっていないんですよ。手塚先生は「いつでも遊びに来てください」とおっしゃっていましたが、お忙しいと思って遠慮してたんです。
でも今にして思えば、もっと図々しく会っておくんだったなと思いますね。手塚先生は昭和3年生まれで私とは1歳違いの同世代人なんです。60歳で亡くなられたのは早過ぎですよ」
そう語る深瀬先生の机の上では、パーティの時にもらったという手塚マンガの絵の入った木製の置時計が静かに時を刻んでいた。
それでは、今回もロングな散歩におつきあいくださいましてありがとうございました。ぜひまた次回の散歩でご一緒いたしましょう!!
(今回の虫さんぽ、6時間32分、4645歩)
取材協力/川崎市 藤子・F・不二雄ミュージアム、川崎市市民ミュージアム、春日山 常楽寺、深瀬泰旦、小田急電鉄(順不同・敬称略)
黒沢哲哉
1957年東京生まれ。マンガ原作家、フリーライター。手塚マンガとの出会いは『鉄腕アトム』。以来40数年にわたり昭和のマンガと駄菓子屋おもちゃを収集。昭和レトロ関連の単行本や記事等を多数手がける。手塚治虫ファンクラブ(第1期)会員番号364番