少年マンガから少女マンガ、青年マンガまで、幅広いジャンルで膨大な作品を残した手塚治虫、その作品総数は1000点超ともいわれている。そして当然ながら発表した作品の数だけタイトルがあるわけで、それらをひとつひとつ見ていくと、手塚はその時代の気分や流行を敏感に取り入れながら作品の題名を付けていたことがわかる。今回はそんな手塚マンガの作品タイトルと時代との関わりについて、2回に分けて振り返ってみよう!!
手塚治虫が生涯に発表した作品は、ウィキペディアの「手塚治虫の作品一覧」という項目によれば全604作品だという。その内訳は少年向け341作品、少女向け36作品、大人向け110作品、低年齢向け32作品、絵本39作品、4コママンガ17作品、1コママンガ29作品。
しかしこれは例えば『ジャングル大帝』のように、いくつものバージョンが存在する作品も1作品と数えているし、シリーズ作品を個々の別作品と数えたりすれば、その総数は巷で言われるように軽く1000作品を超えることは間違いない。
今回と次回の「あの日あの時」は、いつものようにあるひとつの時代を切り取ってそこを掘り下げるのではなく、この1000作品全体を見渡しながら、手塚マンガのタイトルとその作品が発表された時代との関わりについて、みなさんと一緒に振り返ってみようと思います。
さて、手塚が大の映画好きだったことはよく知られている話で、作品の中に映画スターのそっくりさんが出てきたり、しばしばスターの名前や役名をもじった人物が登場したりする。
タイトルの場合も例外ではなく、手塚作品には映画の題名をもじった作品タイトルが数多く存在する……と、書こうと思っていざあらためて調べてみると、意外にもそういったタイトルは、昭和30年代以降ほとんどないことが判明した(おい!)。
そうなのだ、明らかに映画の題名をもじった、あるいは映画の題名を下敷きにしたと思しき作品は、実は昭和20年代の初期作品がほとんどなのだった。
その代表としてよく知られている作品では、つい先日、小学館クリエイティブから完全復刻版が刊行された初期SF3部作『ロスト・ワールド』(昭和23年)、『メトロポリス』(昭和24年)、『来るべき世界』(昭和26年)が挙げられる。これら3作品にはいずれも同題のSF映画がすでに存在していた。
『ロスト・ワールド』(1925年公開アメリカ映画)、『メトロポリス』(1926年公開ドイツ映画)、『来るべき世界』(1936年公開イギリス映画)。どれも戦前の映画だけど、手塚は当時、どの映画も内容は参考にしていないと、事あるごとに強調していた。
例えば講談社版全集『来るべき世界』のあとがきでは、手塚はこのように書いている。
「H・G・ウエルズの「来るべき世界」という映画は、戦前に封ぎられた、スケールの大きなSF映画です。(中略)
「ロストワールド」
「メトロポリス」
この二つも映画の題名におんなじのがありますが、だんじて盗作ではありません!
「ロストワールド」は、コナン・ドイルの原作があることは知っていましたが、読んだことはなかったのです(ただ、恐竜が出てくることは知っていました)。
「メトロポリス」も、映画の題名と、主人公が女のロボットである、ということは戦前にあった映画の本か何かで読んで知っていました。それだけのイメージで書いた別のものなんです、あれは。
同様に「来るべき世界」も、別段人類の未来をかいたわけじゃないし、(中略)題名からくるイメージと内容は全然ちがうのです(いいわけがましいなあ)。」
そして同じ講談社版全集の『メトロポリス』と『ロストワールド』のあとがきにも、これと同様の話が長々と書かれている。
つまり手塚先生は恐らく、過去に何度かこれらSF3部作について「盗作ではないか」と言われたことがあったのだろう。それで自分でも「いいわけがましいなあ」と自嘲的になりながらも弁解せずにはいられなかったに違いない。ということで手塚は、映画タイトルをそのまま使うことは、この時代以後、スッパリとやめてしまったのである。
ただし、この時代の作品で映画の題名をパロディ的にもじって引用した作品はいくつかある。そのもっとも分かりやすい例が昭和27年に雑誌『少年画報』の別冊付録として発表された読み切り『火星からきた男』(7月号)と『サボテン!銃をとれ』(9月号)の2作品だ。
この2作品はそれぞれ、この前年の昭和26年11月に公開された大映映画『月から来た男』と、同じく昭和26年10月に日本公開されたアメリカ映画『アニーよ銃をとれ』をもじったものだろう。
『月から来た男』は、長谷川一夫主演の時代劇で、身分を隠して長屋住まいをしている旗本の活躍を描いた作品。一方『アニーよ銃をとれ』は、ガンプレイの得意な少女アニーが旅一座に加わり、そこで巻き起こす騒動を描いた作品だ。
しかしどちらもタイトルの語呂を拝借しているだけで、内容は手塚マンガとはまったくの別物だ。
また、この『少年画報』の別冊付録には『化石人間』という作品もあったが、このタイトルも、戦前の昭和10年(1935年)に日本で公開されたアメリカ映画の邦題に同じものがあった。映画の原題は「Night Life of the Gods」。人間を石像に変え、その石像に命を吹き込むことのできる指輪を発明した青年科学者の物語だった。一方、手塚マンガの方は、氷山の氷の中から現代に甦った原始人が巻き起こす騒動を描いた作品で、こちらも映画とは発想からしてまるで違う作品になっている。
そして、こうしたパロディ的なセンスがもっとも光る名タイトルといえば、ぼくが真っ先に思い浮かべるのが、『少年画報』昭和28年(1953年)3月号付録の『38度線上の怪物』だ。
これは昭和23年に描き下ろし単行本として発表した『吸血魔團』をセルフリメイクした作品で、ミクロサイズに縮小したケン一とヒゲオヤジが結核に感染した青年の体内に入り、結核菌と戦うというお話だ。
この“38度”というのは、物語の中では結核によって発熱した青年の体温の意味で出てくるのだが、実はここにはもうひとつの意味が重ねてある。それは朝鮮戦争だ。
朝鮮戦争というのは1950年に大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の間でぼっ発した国際紛争だ。
第二次大戦後、朝鮮半島は南北に分割され、北は当時のソビエト連邦が、南はアメリカが占領することになった。そしてその境界線が北緯38度線上に設けられた。
だがその後、悪化する米ソの対立をそのまま反映する形で、1948年に大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国という2つの国家が誕生。さらに1950年6月、北朝鮮軍が38度線を越えて韓国に軍事侵攻を開始したのをきっかけに朝鮮戦争が始まった。
戦争は3年間続き、1953年7月にようやく休戦協定が結ばれたが、38度線を境とする両国のにらみ合いは、それから60年近くたった現在も続いている。
と、話が大きくそれたけど、つまりこの『38度線上の怪物』というタイトルには、当時、日本にとっても大きな関心事だった朝鮮半島の北緯38度線を意識した、2重の意味が重ねられていたのであった。
手塚治虫自身は、講談社版全集第43巻『38度線上の怪物』のあとがきでこう述べている。
「「38度線上の怪物」というタイトルは、ややこりすぎのきらいがあって、北緯三十八度線──つまり、大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国の国境線のところに、怪物があらわれたみたいな錯覚をおこします。
これは、その当時「少年画報」の別冊付録に、たとえば馬場のぼる氏の「キャラメルはしょっぱいこともある」なんて、妙にしゃれたタイトルの漫画がつづいて、その傾向にあわせてひねくったタイトルにしたのです」
これと同様に、言葉遊び的な意味が込められていてぼくの大好きなタイトルが、時代が少し下って昭和43年に『高一コース』に短期連載されたSF作品『シャミー1000』だ。
主人公は地球の猫にそっくりな宇宙人・シャミー族の女調査員1000号、略してシャミー1000! これはもう誰でもすぐ分かりますね。胴の部分に猫の皮を使用する楽器の“三味線(しゃみせん)”とかけたダジャレである(笑)。
だけどこれにも『38度線上の怪物』と同じように、もうひとつ意味がかけてあったのではないかという説がある。それは、ぼくの記憶ではたしか現在の手塚プロ資料室長・森晴路さんが、大昔の手塚治虫ファンクラブ会報に書いていたことだったと思うけど、当時人気の乗用車・日産の“サニー1000”をかけてあるというのだ。
日産の初代サニーB10型(ダットサン・サニー)は昭和41年に発売された小型ファミリーカーだ。しかしこのクラスの乗用車ではすでにトヨタがパブリカを販売して大ヒットさせていた。そこで日産はそれを上回る性能を追求した結果、パブリカの排気量700ccに対して1000ccにアップした。だから広告ではその排気量差を強調し「サニー1000!」「サニー1000!」と連呼していたのだ。サニーは予想通り人気を博し、昭和43年にはスポーティーなクーペタイプをラインナップに追加、若者の人気をも獲得した。 短編のタイトルでこんなところにまで気を配っていたとしたら、手塚先生さすがです。しかもオヤジギャグにならないギリギリのところでとどまっているクールな名タイトルだと思います。
あっ、それと『シャミー1000』についてもうひとつ! 『シャミー1000』には雑誌連載時には、紹介した画像のように「S・F・FANCY.FREE」というサブタイトルが付いていた。
この『SFファンシーフリー』というのは、手塚が昭和38年から39年にかけて、雑誌『SFマガジン』に連載したショートショートのSFオムニバス作品の題名だ。つまり手塚の中ではこの『シャミー1000』も『SFファンシーフリー』の流れをくむショートSF作品という位置づけだったのだろう。講談社版全集では両作品とも同じ本に収録されていて、続けて読めるように配慮されているので、ぜひ通読することをお薦めしたい。
ちなみに“ファンシーフリー”という言葉については、手塚自身がそのネタ元を明かしている。最後にそれを引用して今回のコラム前編のシメとしよう。
「「ファンシーフリー」というのは“気楽に、気ままに”といった程度の意味で、ディズニーの長編「ファン・アンド・ファンシーフリー」からとったものだ。
この長編は、短編のオムニバスだったので、「SFファンシーフリー」もそれにのっとった。
今読むと、たわいないショート・ショートだけれども、当時はまだSF小説が黎明期を脱したころで、SF漫画などほとんどアウトサイダーだったものである。」(講談社版全集第80巻『SFファンシーフリー』あとがきより)
手塚マンガのタイトルに込められた時代の空気とそこに隠されたもうひとつの意味。ぼくらの知らない秘密はまだまだありそうですね。
ということで今回のテーマは次回後編に続きます。次回もぼくの秘蔵ネタや、手塚プロ資料室長の森さんからご提供いただいた裏話などを大公開。例えば……おっと、これ以上はまだ言えねえ(笑)。次回もぜひおつきあいください!!