虫ん坊 2014年12月号 トップ特集1特集2オススメデゴンス!コラム投稿編集後記

虫ん坊 2016年2月号:第44回:あるスクラップ帳で振り返る虫プロ倒産騒動のころ

虫ん坊 2016年2月号:第44回:あるスクラップ帳で振り返る虫プロ倒産騒動のころ

 年末の大掃除で古ぼけた1冊の大学ノートが出てきた。それは筆者(黒沢)が40数年前の中学生時代に、手塚治虫関連の新聞記事や雑誌広告などを切り抜いて貼ったスクラップ帳だった。スクラップは1972年5月から始まっている。だがそれから間もなくして手塚は人生最大の危機を迎える。虫プロ倒産だ。スクラップは奇しくもそんな波乱の時期の手塚の活動を側面からとらえた貴重な資料となっていた。今回はこのノートに貼られた珍しい資料をひもときながら、虫プロ倒産のあのころを振り返ります。



◎発掘された40数年前のスクラップ帳

 皆さんは手塚マンガのコレクションをどのように整理されているんでしょうか。
 ぼくは几帳面なくせに論理的な分類がまったく苦手という典型的な文系A型人間なので、大量のマンガ本も一見きれいに片付いているように見えて、その実ナニがドコにあるかまったく覚えていない、という状態になっている。
 このコラムを書く際も、毎回テーマが決まったらまずやることは、書庫から“どこかにあるはず”の資料を発掘してくることなのだ。
 そんな中、昨年末に「少しは整理しなければ」と急に思い立って大掃除を始めたところ、普段あまり触らないダンボール箱の中から出てきたのがこのスクラップ帳だった。



◎手塚マンガの連載目当てに新聞を契約!

虫ん坊 2016年2月号:第44回:あるスクラップ帳で振り返る虫プロ倒産騒動のころ

40数年ぶりに開いたスクラップ帳。背の柱にはぼくの筆跡で「新聞掲載マンガシリーズ No.2」と書いてある。No.1が何だったかは覚えてないんだけど、1969年から71年まで『サンケイ新聞』に連載された『青いトリトン』(単行本化の際『海のトリトン』に改題)か? 『青いトリトン』のスクラップは作った記憶がないんだが……

 スクラップ帳の表紙にはサインペンで“おはよう! クスコ”と書かれている。
『おはよう! クスコ』は手塚が『朝日新聞』に1971年8月1日から毎週日曜日、週イチで掲載された毎回1ページの連載マンガだ。
 当時中学二年生だったぼくは、このマンガが連載されていることを知り、すぐに母親に『朝日新聞』をとって欲しいとねだった。このころ我が家では定期購読している新聞はなく、新聞拡張員が持ってくる景品の魅力度で次に読む新聞を決めていたのだ。
 余談だがこの時代を知らない方に説明すると、当時の新聞販売店は熾烈な顧客獲得競争を繰り広げていて、新聞の定期購読を契約すると山のような景品をくれた。洗濯洗剤、ラップなどの日用品は言うに及ばず、長期契約すれば目覚まし時計、ヘアドライヤー、ズボンプレッサーなどの高額商品をポンともらえた。おかげで我が家ではかなりの生活用品を新聞屋の景品でまかなっていたのだった。



◎『おはよう! クスコ』購読開始直後に何と……!!

虫ん坊 2016年2月号:第44回:あるスクラップ帳で振り返る虫プロ倒産騒動のころ

スクラップ帳の最初のページ。見返しの部分に貼られた手塚治虫の肖像写真は、共産党の機関紙『赤旗』の「私も赤旗読んでいます」というポスターに多くの著名人の写真と並んで掲載されていたもの。近所の共産党事務所に頼み込んでもらったものだ

 それはともかく、ぼくがおねだりしてから半年後の1972年5月、我が家でようやく待ちに待った『朝日新聞』の購読が始まった。
 ぼくは真新しい大学ノートを買ってきて毎週このマンガの切り抜きを貼っていくことにした。表紙にはサインペンでタイトルロゴをていねいに模写し、第1ページ目の見返しには手塚先生の肖像写真を貼った。準備は万端整った。
 ところが、である。ぼくがスクラップを始めてすぐの5月28日号をもって『おはよう! クスコ』は最終回を迎えてしまったのだ。
 何という間の悪さ。冒頭数ページだけにマンガが貼られたこのノート、どうするよ、という感じである。
 落ち込んだぼくはそのまま1年ほどこのノートを放置していたが、ある日ふと思い立ち、これを手塚関連全般のスクラップ帳にすることにした。



◎手塚関連記事のスクラップを開始!!

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20世紀のハニワを考えようというナショナル乾電池のキャンペーン広告。手塚治虫の考えたハニワは原子力時計を内臓。さらに千年後の人々に贈るための冷凍食品が詰めこまれている

『おはよう! クスコ』に続いて最初に貼ったのは、1973年の夏に『週刊少年サンデー』に掲載された広告記事である。松下電器(現・パナソニック)のナショナル乾電池の広告で、手塚がイラスト募集の審査員を務めており、自身も作例イラストとコメントを寄せている。
 手塚は『週刊少年サンデー』ではこの年の1月7日号で『サンダーマスク』の連載が終了していて、それに続く新たな連載作品はなかった時期だ。
『少年サンデー』は、1959年の創刊以来、手塚がほとんど切れ目なく連載マンガを発表し続けてきた縁の深い雑誌である。だが1968年7月に『どろろ』の連載が終わってからは、たまに読み切り作品を描く程度となり、手塚は実質的に『少年サンデー』の表舞台から去っていたのだ。
『サンダーマスク』の前に久々に『少年サンデー』で連載した『ダスト18』(1972年)も人気がなく中途半端な終わり方をしてしまっていたし、『サンダーマスク』も手塚としては珍しい原作付きマンガで、正直、手塚の本領を発揮した作品にはなっていなかった。
 ファンの目から見ても、このころの手塚マンガ、特に少年マンガは明らかに低調だった。


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1972年『週刊少年サンデー』に連載された『ダスト18』第1回目のトビラ。飛行機事故から生還した18人の人々それぞれの運命をオムニバス風に描く。連載は5ヵ月で中断、1979年と81年に講談社版手塚治虫漫画全集で初めて単行本化(全2巻)された。その際にタイトルを『ダスト8』と改題。※画像は『別冊太陽 手塚治虫マンガ大全』(平凡社刊)より引用


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1972年から73年にかけて『週刊少年サンデー』に連載された『サンダーマスク』。原作は特撮テレビ番組で、マンガ版はそのキャラクターを使って手塚が独自のストーリーを展開している。写真は1973年5月に虫プロ商事から発売された虫コミックス版『サンダーマスク』。表紙にビニールコートされていない安い紙を使っていて、擦れるとすぐに汚れたり傷ついたりしてしまう



◎いきなりの新聞報道にガクゼン!!

 手塚がマンガの執筆に集中できずに作品の質が落ちていた。その背景に虫プロダクションのゴタゴタがあったことを知ったのは、ずっと後のことだ。
 そしてぼくのスクラップ帳では、この次の見開きページに、いきなり虫プロ倒産を報じる新聞記事が2枚貼られている。
 1973年11月6日の読売新聞の記事では「鉄腕アトム、劇画に敗れる」「『虫プロ』ついに倒産」「負債四億円、手形不渡り」「手塚さん所在不明」という見出しが踊る。
 次のページに貼られている同じ日の毎日新聞の記事では「『鉄腕アトム』空中分解」「虫プロ“倒産”怪獣、劇画の猛攻撃受けて」という見出し。
 どちらもあまり大きな記事ではないが、見出しにあえて強い言葉を持ってきて衝撃度を高めようとしているところに記者の悪意を感じる。


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虫プロ倒産を伝える昭和48年11月6日の『読売新聞』の記事。最後に取って付けたような「手塚さん所在不明」という部分は当時から「意地悪な記事だなぁ」と思っていた


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こちらは同じ日の『毎日新聞』の記事。読売の記事では虫プロの負債は帝国興信所の調べで「約四億円」とあるが、毎日の記事では会社側が労組に行った説明で「三億五千万円」とされている。また読売の記事だと先に倒産した虫プロ商事の負債は「四千万円」。一方毎日の記事だと虫プロ商事の負債も「四億円」! いろいろと情報が錯綜していたようだ



◎そのころ虫プロ社内は大変なことになっていた……!!

 スクラップ帳にはないが、この虫プロ倒産の2ヵ月前の1973年8月22日には虫プロの子会社である虫プロ商事が倒産していた。虫プロ商事は虫プロの版権業務と単行本や雑誌の出版を行っていた会社である。
 手塚治虫が後年発表したエッセイによれば、虫プロ商事のゴタゴタは1972年の夏ごろからすでに始まっていたという。つまりぼくが呑気に『少年サンデー』のイラストコンテストのスクラップをしていた時期からだ。
 当時、虫プロ商事の運営をめぐって労働組合と経営陣が激しく対立し、会社はほとんどまともな運営ができなくなっていた。
 手塚は1971年6月にすでに社長を退陣していたが役員としては名を連ねていて、社員の激しい吊し上げをくらったという。
 以下、手塚のエッセイからの引用だ。
「社屋は、廊下から階段まで一面に組合のアジビラで埋まっていた。びっくりした。
 組合は社の一部を占拠して、事務所に使っていた。ぼくは仕方なく、役員として詫びることにした。
 社員の目は厳しくぼくに注がれた。
『われわれの納得いく収拾をしてもらおう。要求としては社長交代と現役員の解任、当然手塚が社長になって責任と保障をしてもらう。慰謝料の要求額は……』
『わかった。努力するよ』
『そんな逃げ口上はだめだ。誠意を見せてくれ』
『どういうふうに』
『マンガを描くのをやめて経営者に徹すべきだ』
『冗談いうな。ぼくが執筆活動をしてるからこそ、この会社は成り立っているんじゃないか』」
(講談社版手塚治虫漫画全集『手塚治虫エッセイ集6』「どん底の季節」より。
※初出は1986年PHP研究所刊『くじけそうになった時に読む本』)



◎社内の混乱がいろいろな形でトラブルに!

 後から振り返ると、この少し前から虫プロと虫プロ商事の経営がどうもうまく行っていないんじゃないかという印象は、じつは一般読者のぼくにも薄々感じられていた。
 1971年9月には『てづかマガジンれお』を何の予告もなく突然創刊するも、わずか7号で休刊となった。またこのころから虫プロ商事は過去に出した単行本を中味は一緒でカバーや外箱を変えたりしてとっかえひっかえ出すようにもなっていた。オイルショックの影響もあったとは思うが、単行本の紙質が前より極端に悪くなった。
『ジャングル大帝』の商品化権を、他社との契約が生きているにもかかわらず製菓メーカーのロッテに二重売りしてしまうというトラブルが起きたのは1972年ごろだっただろうか。その結果ロッテから発売された『ジャングル大帝』ガムは急きょ回収されることになった。
 1973年7月には一時休刊となっていた『COM』の復刊第1号が刊行されたが、それに続く第2号は発売日を過ぎても一向に書店に並ばなかった。


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虫プロ商事が1972年に発行した幼年向け雑誌『てづかマガジンれお』創刊号。この10月号から73年4月号まで7号を刊行したところで休刊となった。創刊号から『ワンサくん』の新連載が始まり、73年4月からは『ワンサくん』アニメ化も実現したのだが虫プロ王国復活の一手にはならなかった


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虫プロ商事倒産間際に刊行された手塚治虫の『ライオンブックス』シリーズ全4集。1973年3月から6月まで雑誌形式で毎月1冊ずつ刊行された、A5判ザラ紙の単行本。すなわち現代のコンビニコミックを先取りしたような本で、今だったらかなり売れたかも知れない



◎幻となった『COM』復刊第2号

虫ん坊 2016年2月号:第44回:あるスクラップ帳で振り返る虫プロ倒産騒動のころ

1973年7月に刊行された『COM』復刊第1号。しかし第2号が世に出ることはついになかった

 しびれを切らしたぼくは『COM』復刊第2号はいつ出るのかと虫プロ商事に電話をかけて問い合わせてみた。すると応対に出た男性は、残念そうな口調でこう答えた。
「2号はねえ、もうとっくに刷り上がってここにあるんですけどね。あとは出荷すればいいだけなんですが、ちょっといろいろあって、いま出せなくなっているんですよ。済みませんがもうちょっと待ってもらえますか」
 ぼくがさらに、いつごろになりますか、と食いさがっても、「ちょっとねえ……まだ分からないんですよ……」と言葉を濁すだけだった。そして『COM』復刊第2号が刊行されることはなく、ぼくが電話をかけた数日後に虫プロ商事倒産のニュースが流れた。
 それにしてもあのとき『COM』復刊第2号は本当に出来上がっていたのだろうか。後年、手塚プロ・資料室長の森晴路さんにそのことを尋ねてみた。しかし森さんからは「いやいや、そのころ虫プロ商事はそれどころじゃなかったはずで、第2号は影も形もなかったはずですよ」と一蹴されてしまった。
 でもあのとき電話に出た虫プロ商事の人は、手元にまさにその第2号があるような口調で話をしていた。だからぼくはいまだに『COM』復刊第2号は製本まで完了していて、断裁をまぬがれた未出荷のそれが、当時の関係者の家からひょっこりと出てきたりするのではないかと密かに期待し続けているのだ。



◎そして虫プロ商事は最期の日を迎える

 虫プロ商事倒産の日、手塚はサイン会に出ていた。手形が落ちるかどうかというギリギリの状況でも、手塚の個人収入が会社を支えている現状ではサイン会を優先しないわけにはいかなかったのだ。
「万一の場合はすぐサイン会場へ電話するように」。そう言い置いて手塚はサイン会場へ向かった。
「サイン会のあいだ、電話はかかってこなかった。なんとかきり抜けたかな、と、おろかにも気を許した。
 夕刻、帰宅すると、
『先生、駄目でした』
 と泣きそうな声で役員から電話がかかってきた。(中略)
 その日の夕刊で、『虫プロ商事倒産、手塚治虫行方不明』と大きく報じてあるのを読んだ。
『鉄腕アトム遂にダウン、十万馬力も消える』
などとも書かれていた。
 行方不明なんて、夜逃げじゃあるまいし、サイン会に出ていたんだぞ。
 ぼくは口惜しくて泣きたい気持ちだった」(前出「どん底の季節」より)

 引用されている新聞記事の見出しは、先に紹介したスクラップ帳の虫プロ倒産の記事のもので、手塚の記憶に時期的な混乱があるようだけど、間もなく虫プロ本体も倒産してしまうのだから大勢に変わりはない。
 手塚は、親しかったはずの人々の態度が豹変する様子を目の当たりにしながらも、自身の不明を深く反省している。
「放漫経営といわれても仕方がないのだ。プレイング・マネージャーなどと調子に乗っていたぼく自身の責任に間違いはないのだ。零細企業でも、会社は会社。その運営を人まかせにして原稿執筆にうつつをぬかしていた報いなのだ」(前出「どん底の季節」より)


虫ん坊 2016年2月号:第44回:あるスクラップ帳で振り返る虫プロ倒産騒動のころ

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虫ん坊 2016年2月号:第44回:あるスクラップ帳で振り返る虫プロ倒産騒動のころ

1992年に毎日新聞社から刊行された伴俊男+手塚プロダクション著『手塚治虫物語』より。収録されている昭和48年のスケジュール表の密度がハンパない



◎手塚を救ったひとりの実業家とは

虫ん坊 2016年2月号:第44回:あるスクラップ帳で振り返る虫プロ倒産騒動のころ

虫プロ倒産騒動の中で手塚を救った「アップリカ」社長(当時)・葛西健蔵氏の人生と倒産騒動当時を記録したノンフィクション本『鉄腕アトムを救った男』(2004年、実業之日本社刊)。著者は産経新聞社の記者だった人。本文では紹介していないが、葛西氏についてもっと知りたい人にはおすすめの本

 虫プロ倒産後、手塚の元には多くの債権者が押し寄せた。手塚は倒産の3年前に虫プロの経営からは手を引いていたはずだった。ところが多忙な中で役員たちに乞われるまま大量の手形にサインをし実印を捺していたのだった。
 このままでは手塚の産み出してきた人気キャラクターの版権がすべて差し押さえられてしまう。それどころか手塚の命まで危ないという状況に陥った。
 そんな折、名乗りをあげたのが、関西でベビーカーなどの育児器具を販売する「アップリカ」という会社の創業社長・葛西健蔵氏だった。
 葛西はこの数年前まで手塚と直接の交流はなかった。しかし葛西の父の会社がかつて『鉄腕アトム』ブームのころに、キャラクター商品を発売したことで会社を立て直せたという過去があった。
 それを恩義に感じていた葛西は、手塚のマンガと会社経営の二足のわらじに危なさを感じ、経営のアドバイスなどを行っていた。その矢先の倒産だった。



◎葛西の活躍で何とか危機を脱したが……

 以下、葛西健蔵が後年この時のことについて語った言葉を引用しよう。
「風の便りに手塚さんが絶体絶命のピンチにあるということを聞きました。私はすぐに東京に駆けつけました。(中略)
 駆けつけて話を聞くと、膨大な負債をかかえてしまい、にっちもさっちもいかなくなっているのです。本人は『台湾へ逃げる』というようなことを言う。(中略)
 なにしろ、手塚氏の場合は、ふつうの会社の破産とか倒産とちがって、本人自身が財産なのです。会社の器材を押さえたり、証書を押さえたりということではなく、手塚治虫という個人を押さえればお金になるのです。(中略)ところが、その個人が押さえられてしまうと、手塚治虫はまったくおしまいなのです」(1997年岩波書店刊、手塚治虫著『ぼくのマンガ人生』所収の談話採録「『闘争心』が彼の再生の原動力だった──葛西健蔵さん、苦境時代の手塚治虫を語る」より)
 葛西は私財を投じて手塚マンガの版権を一時自分の管理下にすべて移し、債権者たちの調停を積極的に行うことで、権利が散逸することを防いだ。
 手塚は後年、戦後日本の混乱期を舞台として描いたマンガ『どついたれ』(未完)に葛西健蔵をモデルとした青年を登場させている。



◎手塚治虫の切り替えの早さに驚く!

 虫プロのゴタゴタを葛西に預けた手塚は、富士見台の仕事場兼虫プロの社屋となっていた家と土地を売り払い、下井草の借家へと引っ越した。
 葛西はその引っ越しの前日に手塚からかかってきた電話に驚いたという。
「(手塚は電話口で)『明日、借家に行きます』と晴れ晴れとした声で言うのです。四〇〇坪の大邸宅から、狭い借家へ移るのです。奥さんや子供だけでなく、御両親もいっしょなのです。ふつうなら、悲しくつらいことだと思うのですが、彼の声はじつに明るい。私は、電話のこちらで、『うわぁ、すごい人だ』と感心していました。(中略)その切り替えの見事さ、がんばってやっていこうという決意の強さに、私はほんとうに魅せられたと言ってもいいと思います」(前出「『闘争心』が彼の再生の原動力だった」より)



◎束の間の平穏と再びの大ヒット!!

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昭和50年2月14日バレンタインの日の『サンケイ新聞』に掲載された記事。嵐が一段落した後の手塚家の和やかな様子がよく伝わってくる記事だ

 全財産と虫プロを失ったものの、手塚はそれと引き替えに再びマンガに集中できる環境を取り戻した。
 このころのぼくのスクラップ帳には、昭和50年(1975年)2月14日『サンケイ新聞』(現・産経新聞)に掲載された、手塚治虫が自身の子育て論を語った記事が貼り付けられている。
 子どもたちといっしょにマンガを読んでいる手塚の親子団らんの写真と一緒に、描き下ろしのマンガカットも添えられ、妻・悦子さんへのインタビューコメントも掲載されている。
 写真は下井草の借家で撮られたものだろう。とても和やかでいい写真である。そして記事からは、マンガを軸として手塚家の家族全員が強い絆で結びついていることが読み取れる。
 実際、このころの手塚は創作意欲を爆発させ、マンガ家としての第2の全盛期を迎えようとしていた。
 虫プロ倒産と前後して『ブラック・ジャック』と『三つ目がとおる』という2つの週刊連載作品が大ヒットしたこともあり、この当時の執筆ページ数はとんでもないことになっていったのだ。月の平均ページ数が300ページ以上、多い月には何と月産400ページを超える月もあったという。


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手塚治虫復活の第一歩となった作品『ブラック・ジャック』第1話のトビラ絵。この作品が『週刊少年チャンピオン』に掲載されたのは1973年11月19日号。店頭に並ぶのは発行日のおよそひと月前だから虫プロ倒産の直前ということになる

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『週刊プレイボーイ』1973年12月24日号の表4(裏表紙)カラー広告。ブリヂストンのスノーラジアルタイヤの広告を1ページ丸々、手塚が描き下ろしている。シュマリやばるぼらなど、当時の最新手塚キャラも出演



◎ここにもうひとりの脇役が登場する

 けれどもカネの匂いのするところには胡散臭い人間も寄ってくるということか。
『サンケイ新聞』の手塚家の家族団らんの記事が貼られたスクラップ帳の2ページ後には、『毎日新聞』3月29日号に掲載されたこんな見出しの記事が貼り付けられている。
「鉄腕アトムが帰ってくる 〜倒産の『虫プロ』〜 2年ぶり再スタート」
 この記事では「手塚さんのファンで、産業廃棄物を処理する」会社の「社長」である「O氏(五九)」(※記事内では実名)という人物が、「私財を投じて再建の四四%(約一億七千六百万円)を肩代わり」し「債権者は債権額の二五%だけを受け取り、残りの債権を放棄する」ことで和議を成立させたと報じている。
 ついさっき聞いたような話だけど、この人は葛西健蔵氏ではない。
 さらにO氏は新たに「虫プロ企画」という会社を立ち上げ「さしあたり手塚さんのマンガを単行本として出版するほか、早ければ年内にはマンガ雑誌を発行する。またレジャーランド『虫プロ王国』の開設や、宮崎県・高千穂町で牧場を解放し、チビっ子たちの遊び場に提供する計画も立てている」という。
 当時、この記事を読んでぼくも心から良かったと思ったものだった。


虫ん坊 2016年2月号:第44回:あるスクラップ帳で振り返る虫プロ倒産騒動のころ

虫プロ倒産から2年近くたった1975年3月29日の『毎日新聞』に掲載された記事。記事にも名前が出て堂々と語っているこの人物があんな人だったなんて……

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1975年6月の『毎日新聞』の記事。執筆活動に専念できる環境が戻ってきた手塚治虫。体調も気分も絶好調だったようで、ついついまたアニメーション作りたい病が発症してしまったようだ



◎ふたりめの救世主、じつはその正体は……!!

 だが、この記事に続報はない。マンガ雑誌もレジャーランドも実現しなかった。
 じつはこのOなる人物、前科数犯の詐欺師であり、かきまわすだけかき回した後で、いきなり行方をくらましてしまったのだ。彼が提供すると申し出ていた不動産も他人名義のものだった。
 しかしケガの功名と言うべきか、他に適当な言葉が見つからないが、すでに東京地裁で和議が成立していたために債権者もそれを呑むしかなく、虫プロと虫プロ商事をめぐる取り立て騒動は急速に落ち着きを見せていったのである。
 この記事の中でO氏が語っていた言葉。
「私は手塚さんと親しかったわけではない。しかし、私の三人の子どもは“鉄腕アトム”を読んで成長した。“鉄腕アトム”によって正義の心を教育された。この美しい漫画をなくしてしまうのは惜しい。そんな気持ちから再建しようと思った」
 このO氏、本当はお金もなかったし手段も不正だったけど、手塚治虫を救いたいという気持ち、それだけは本当だったと信じたい。




◎手塚先生、再びアニメーションに意欲!!

虫ん坊 2016年2月号:第44回:あるスクラップ帳で振り返る虫プロ倒産騒動のころ

1975年の記事で語っていたアニメーション作品『森の伝説』は第一部と第四部だけが1987年12月に完成、PART-1として発表された。これはそのスチル写真。その後、未完のまま手塚は亡くなったが、2014年、手塚治虫の長男・眞の演出で第二部が完成している。※画像は「手塚治虫劇場」(1991年、手塚プロダクション刊)より引用

 日付の記載がないが「50年6月毎日新聞」と手書きされた小さな記事のスクラップでは、「再建以来、また多忙です」という見出しと手塚の笑顔の写真とともに、多くの連載を抱えて活気ある日々を送っている様子が報じられている。手塚はこの6月18日に『ブッダ』と『動物つれづれ草』で文春漫画賞を受賞しており記事中でもそれに触れているから、その直後に取材されたものだろう。
 仕事が充実しているのはいいことだが、勢いに乗った手塚は記事の後半でこう語っている。「そろそろ新しいアニメーションを作ろうかと考えています。『森の伝説』という題名で、アニメーションの歴史のような内容です。上映時間は四十分くらい、音楽はチャイコフスキーの第四交響曲を使うつもりです」
 この『森の伝説』というアニメーションの構想は手塚が1971年ごろから暖めていたものだった。それが虫プロ騒動が落ちついたことで、ふたたび意欲が盛り上がってきたのだろう。
 その後、『森の伝説』はこのとき語った構想のままで1981年ごろから制作に着手、およそ6年の歳月をかけて1987年12月にパート1が完成した。
 いやはや、それにしても懲りない人である。この記事のインタビュー中は恐らく横で手塚プロの関係者も立ち会って話を聞いていたはずだ。その人たちのザワザワした心境を考えると、心中察して余りあるものがある。みんながみんな「手塚先生、アニメーションのことはしばらく忘れてくださいっっ!!」と思っていたに違いない。



◎『鉄腕アトム』が復活大ヒット!!

虫ん坊 2016年2月号:第44回:あるスクラップ帳で振り返る虫プロ倒産騒動のころ

1975年7月28日の『朝日新聞』に掲載された朝日ソノラマ・サンコミックス版『鉄腕アトム』シリーズの広告。『鉄腕アトム』は何度も再刊されていますが、個人的にはこのサンコミックス版の編集がもっとも充実していて好きですね

 この記事の次のページに貼られているのは昭和50年7月28日号の『毎日新聞』に掲載された朝日ソノラマ・サンコミックス版『鉄腕アトム』の広告だ。広告内には「70万部突破!!」の文字が躍っている。
『鉄腕アトム』は1968年から1970年にかけて小学館のゴールデンコミックスで全20巻が刊行されて以来、長らく絶版となっており、ひさびさの再刊にファンが飛びついたのだった。今回の新刊では毎巻冒頭に手塚治虫が描きおろす数ページのプロローグマンガも魅力だった。
 6月に2巻同時に発売された第1巻と第2巻はたちまち売り切れとなり、買い逃してしまったぼくは、バイクで近所の書店を血眼になって走りまわった記憶がある。



◎そしてスクラップはカオスになっていった!?

虫ん坊 2016年2月号:第44回:あるスクラップ帳で振り返る虫プロ倒産騒動のころ

1975年の雑誌『週刊女性』の切り抜き。『ブラック・ジャック』に続いて1974年から『週刊少年マガジン』で連載を始めた『三つ目がとおる』も大ヒット。カメラは第三の目であるという思い入れで手塚が子どものスナップ写真を撮っている

 こうして手塚はマンガ界の第一線に再び返り咲き、充実した日々を送り始めた。その証しと言えるのかどうか、この後のスクラップ帳には、こんな仕事断ったらどーですか!? と助言したくなるような珍妙な記事にも顔や名前を出している。
 仕事場のフロアに寝転がってミニスカ女性のローアングル写真を撮っている『ビッグコミック』の記事なんていったいどんな意図があって企画されたものなのか。ファンとしては「関係者出てこい!」と言いたくなる記事だ。
 だけどこんなことを臆さずにやってしまうところがまた手塚治虫なのである。
 1975年の12月20日号の『毎日新聞』では、当時、再び目撃談が相次いで話題となっていたスコットランドの湖に住むという謎の恐竜ネッシーの想像画を描いている。これもどんな脈絡から手塚に依頼しようと思ったのかは分からないが、ファンとしては貴重な1枚の絵となったことは確かだ。


虫ん坊 2016年2月号:第44回:あるスクラップ帳で振り返る虫プロ倒産騒動のころ

と思ったら『ビッグコミック』ではセクシーなお姉さんのおみ足をローアングルでパチリ。手塚先生の第三の目はなかなかワイドレンジなようであります

虫ん坊 2016年2月号:第44回:あるスクラップ帳で振り返る虫プロ倒産騒動のころ

1975年の暮れごろ、『毎日新聞』を中心になぜか日本でネッシー熱がふたたび盛り上がった。連日ネッシーの記事を掲載していた『毎日新聞』では、12月20日号で手塚の描いた想像画を掲載!



◎スクラップ帳締めくくりの記事は手塚キャラ勢ぞろい!!

 そんなこんなでスクラップはその後も細々と続き、スクラップ帳の最後のページに貼られているのは、掲載誌も掲載日も不明な見開きカラーの雑誌記事のスクラップである。
 その前の記事が1980年3月のものなのでその少し後くらいのものか。東芝エアコンのテレビCMに手塚マンガのオールスターと手塚治虫本人が出演したことを紹介している雑誌記事の切り抜きだ。判型と記事内容からすると恐らく『週刊テレビガイド』の記事だろう。
「あなたは“三つ目”世代? それとも“ひげおやじ”世代?」と題されたこの記事では、世代を超えて手塚のマンガとアニメが多くのファンを獲得してきたことが語られている。
 これはただの偶然だけど、波乱の時代を記録してきたスクラップ帳の最後のページにまさにふさわしい記事だったのではないだろうか。
 ちなみにスクラップ帳はこの1冊が完結したことで満足してしまったのか、その後2冊目を作ることはなかった。今回紹介できなかった記事も、また関連する話題があればぜひ紹介したいと思います。
 それでは次回のコラムにもぜひお付き合いください!!


虫ん坊 2016年2月号:第44回:あるスクラップ帳で振り返る虫プロ倒産騒動のころ

掲載誌、掲載時期は不明だが、1980年ごろのものと思われる雑誌記事のスクラップ。当時、東芝エアコンのテレビCMに手塚キャラクターと手塚本人が出演していて、そのCMの紹介記事である

虫ん坊 2016年2月号:第44回:あるスクラップ帳で振り返る虫プロ倒産騒動のころ

これは今月のオマケ。1975年の11月22日付け『毎日新聞』に掲載された、手塚プロの出した「おしらせ」である。「手塚治虫は現在、(株)手塚プロダクションに所属し、他社の業務にはいっさい参画しておりません」ということを「おしらせ」している。どーやらこのころになってもまだ手塚の周りには怪しい人たちがうごめいていたようですな


黒沢哲哉
 1957年東京生まれ。マンガ原作家、フリーライター。手塚マンガとの出会いは『鉄腕アトム』。以来40数年にわたり昭和のマンガと駄菓子屋おもちゃを収集。昭和レトロ関連の単行本や記事等を多数手がける。手塚治虫ファンクラブ(第1期)会員番号364番


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