近ごろマンガ家やマンガ編集者を主人公にした“マンガ業界マンガ”がちょっとしたブームのようになっている。無限の可能性を持つはずのマンガが、わざわざ身内をネタにするってどうよ! と思いながらも読むとけっこう面白くてハマったりする。くやしい。だけどそもそも特定の業界を舞台とした業界マンガは、手塚治虫も得意のジャンルだったのをご存知だろうか。今回は手塚治虫の描いたさまざまな業界マンガについて、その時代とともに振り返ってみたいと思います!!
「倍返しだ!!」という名セリフが昨年大流行したTBSのテレビドラマ『半沢直樹』、ご覧になった方も多いだろう。
2つの銀行が合併して世界第3位のメガバンクとなった東京中央銀行。その一行員である、堺雅人演じる半沢直樹が、銀行内にうごめく策略や陰謀に決然と立ち向かっていくというお話だった。
原作は池井戸潤の小説『オレたちバブル入行組』と『オレたち花のバブル組』の2冊。
主人公の周りはすべて敵。上司も部下もまったく信用できない中で、彼・半沢直樹はわずかな仲間たちとともに、敵の不正の証拠を集め、黒幕を暴き、その陰謀を食い止めようとする。
ハラハラドキドキが絶え間なく続く演出は、ときにリアリティを越えて過剰となり、まるでマンガを読んでいるようなドラマでありました。
銀行業界の人からは「銀行のイメージが悪くなる」と眉をひそめる意見もあったというけど、確かにこのドラマをそのまま信じちゃう人がいたりするとそうかも知れません(笑)。
そして手塚マンガで銀行というと思い出すのが、世界を破滅させようと企む狂気の男を描いた異色の青年マンガ『MW(ムウ)』である。
狂気を秘めた主人公の名前は結城美知夫。彼は関戸銀行新宿支店の貸付主任という表の顔を持っていて、上司や同僚からも仕事のできるエリート銀行員と思われている。
ところが彼は裏では誘拐・殺人・強姦などを平然とおこなう悪魔の男だったのだ!!
そもそもなぜ結城は銀行員になったのか? ひとつには今も書いたように、堅くて実直という銀行員に対する世間一般のイメージが、結城にとって格好の隠れ蓑だったからだ。
また結城は、その黒い野望のために億単位の金を必要としていた。世の中でもっとも金の集まる場所……それが銀行だったのである。そして結城の毒牙は、ついに支店長の娘へとのびてゆく……!!
『半沢直樹』の原作小説と手塚治虫の『MW(ムウ)』。両者をまだお読みでない方は、ぜひこの機会に読みくらべてみてはいかがだろうか。
手塚がこの『MW(ムウ)』を雑誌『ビッグコミック』に連載したのは1976年から78年にかけてのことだ。
この1970年代という時代は、このコラムでも何度も紹介してきたように、手塚が劇画の台頭に大きな危機感を抱いていた時期だった。
マンガが劇画に駆逐されてしまうのではないか。そんな焦りを感じていた手塚は、劇画的なタッチをまねてみたり、性や凶悪犯罪を大胆にあつかった作品を描くなど、さまざまな実験を繰り返していた。
そうした試行錯誤の中で生まれた異色作のひとつが『MW(ムウ)』だったわけだが、この『MW(ムウ)』に先がけて、手塚は青年コミック誌に2つの業界マンガを発表している。
そのひとつが医学界を舞台とした『きりひと讃歌』であり、もうひとつが放送業界を舞台とした『上を下へのジレッタ』だ。
まずは『きりひと讃歌』から紹介しよう。この作品は『ビッグコミック』に1970年から72年にかけて連載された作品だ。
主人公はM大学の大学病院に勤める青年医師・小山内桐人。彼は師である竜ヶ浦博士のもとで謎の奇病「モンモウ病」の研究をしていた。
モンモウ病とは、人が獣のような姿に変身してしまう恐ろしい病気だ。
だがその病気の原因をめぐって博士と桐人の意見が激しく対立。さらには桐人自身がその病気にかかってしまい、彼の姿はみるみる獣へと変化していった!!
このマンガが当時斬新だったのは、物語の中で、医学界の権力構造などのドロドロした醜い内幕を赤裸々に描いていたことだ。マンガの中でこうした社会派のテーマを選ぶこと自体がひとつの挑戦だったのである。
ただしこのテーマについては連載当初から“ある小説”との類似が指摘されており、手塚も後年、以下のように弁明している。
「この作品は、私の大好きな小説のひとつである山崎豊子さんの『白い巨塔』との類似点を、かなり指摘されました。ひどいのになると『白い巨塔』のイミテーション扱いもうけました。山崎さんも阪大をモデルにされたようだし、私も阪大出身なので、同じような描写があったのでしょう。たしかに『白い巨塔』の財前医師と『きりひと讃歌』の竜ヶ浦とは権威主義とマキャベリスティックな点で似通っています。しかし医学界という社会を舞台にしたとき、権威とかキャリアという要素をぬきにしてはドラマがつくれないのです。それほど封建的な対人関係にしばられています」(講談社版手塚全集第34巻『きりひと讃歌』第4巻あとがきより)
『白い巨塔』は山崎豊子が1963年から65年にかけて雑誌『サンデー毎日』に連載した小説で、国立浪速大学の助教授・財前五郎を主人公として、医学界の腐敗に鋭く斬り込んだ社会派のドラマだった。
この小説は連載当初から注目を集め、1966年に田宮二郎の主演で映画化されたのを始めとして、その後も何度もテレビドラマ化や映画化されている。
その山崎豊子氏も昨年2013年9月に惜しまれつつこの世を去ってしまった。
『白い巨塔』と『きりひと讃歌』、医学界のタブーに鋭く斬り込んだ2つの物語を、この機会に読みくらべてみるのも面白いのではないだろうか。
あれ、なんかさっき似たようなまとめ方をした気がするけど、まあいいでしょう。
そして! 医学界を舞台にした手塚マンガの代表作といえば、『きりひと讃歌』の翌年から『週刊少年チャンピオン』で連載が始まった『ブラック・ジャック』にとどめを刺す。
このマンガが発表された当時、少年マンガの世界で医学の世界を舞台にしたマンガというのは、それだけで画期的だった。
単に医者が主人公のマンガというだけならば過去にもいくつも作品があった。だけど病気や手術をドラマの根幹に持ってきて医療行為そのものを真正面からマンガに描いたのは『ブラック・ジャック』が初めてだったのである。
しかもこのマンガが大ヒットしたことで医者を主人公としたマンガが次つぎと登場した。
さらには、さまざまな専門的職業をテーマとした“業界マンガ”が、マンガのひとつのジャンルとして確立していったのもまさにこのころからだったのだ。
この際だからもうハッキリ言い切ってしまおう。医学マンガを含めた現代の業界マンガは、すべて『ブラック・ジャック』から始まったのである!! バーン!!
話をふたたび『きりひと讃歌』の時代に戻そう。『きりひと讃歌』と同じころ、手塚はもうひとつ、放送業界を舞台とした業界マンガを手がけている。1968年から69年にかけて『漫画サンデー』に連載された『上を下へのジレッタ』である。
テレビ局をクビになった元ディレクター・門前市郎は、何とか業界で再起しようと目論む中で、これまでにない新しいメディアを手に入れた。
そのメディアとは、何とひとりの売れないマンガ家の妄想世界だった。
あやまって建築中のビルの地下に閉じ込められたマンガ家の山辺音彦は、必死で生きのびようとする中で、頭の中の妄想がふくらみ、やがて他人にまでその妄想を伝える能力を持ってしまったのだった。
瀕死の状態で発見された山辺を見てひらめいた門前は、山辺と契約を結び、彼の妄想を電波に流して放送することで、メディアを牛耳ろうと企むのだった。
統計によれば、この作品の連載が始まった1968年は、白黒テレビの普及率が96.4%。さらにカラーテレビが急速にシェアを伸ばし始めていた時代だった。5月には全民放テレビ局がカラー化が完了。カラーテレビ契約数は年末までについに100万台の大台に乗った。
手塚はこうした時代の動きを敏感にとらえてマンガの舞台に選んだのだった。
しかもその先見性に驚くのは、これが単なるテレビ業界の内幕ものにはなっていないことだ。
門前が始めようとしたテレビ放送を越える新メディア・ジレッタ。当時はそれはまったくの絵空事だったわけだけど、インターネットなど、さまざまな新メディアが日々生まれている現代、あらためて読み返してみると、当時見えなかったことがいろいろと見えてくる。まさに現代にこそ広く読まれ、再評価されるべき作品だと強く思います。
ちなみにもっと時代をさかのぼって1960年代の初めにも、手塚はテレビ業界を舞台としたマンガをひとつ描いている。1962年に雑誌『なかよし』に連載した『ヨッコちゃんがきたよ!』がそれだ。
天使のいたずらで男の子の心を持って生まれてきた、おてんば少女ヨッコちゃん。彼女はテレビの仕事をする父にくっついて出かけたテレビ局でドラマの端役に出演。それがきっかけで、親にも内緒で“少年”テレビスターとしてデビューすることになった。
ところがヨッコちゃんの番組が大ヒットする陰で父の作る番組の人気はガタ落ちとなり、ヨッコちゃん自身も秘密の二重生活に悩むようになる……。
手塚がこの年にテレビ業界を舞台としたマンガを描いたのは、たまたまではなかった。この前年に手塚が原作を描いた『ふしぎな少年』がNHKでテレビドラマになり、手塚自身が放送局の現場に出入りする機会を得たことがこの作品の発想のヒントになっていたのである。
『ふしぎな少年』は1961年4月から62年3月まで、NHKで放送された生放送のテレビドラマだ。主演は当時の名子役・太田博之。
手塚治虫のマンガは61年5月から62年12月まで雑誌『少年クラブ』に連載されているが、この作品はもともとNHKがテレビドラマとして企画したもので、それをマンガ雑誌でも同時連載するという、今でいうメディアミックスのハシリだったのである。
どういうことか。以下、手塚の文章から引用しよう。
「このフワフワしたシャボン玉のような作品が生まれたのには、いきさつがあります。
ある日、NHKの演出部の人が、突然訪ねてみえたのです。そして、
《ぼくは、手塚さんの『新世界ルルー』が好きでしてね。(中略)この“時間を止める”という部分をテーマにして、新しいお話がなんかできないかと思いましてねェ。
それを、ウチの子どもの時間に連続ドラマとしてやろうっていうんです。》
(中略)
というわけで、ここに主人公サブタンと、そのスタイル、それに、なぜ彼が超能力を持つにいたったのかのいきさつを、設定することになりました。
(中略)
そのNHKの演出の人というのが、今をときめくテレビ・アニメの脚本家の大ベテラン、そして小説もものする、あの辻真先さんなのです」(講談社版手塚全集第57巻『ふしぎな少年』第2巻あとがきより)
さらにこの「あとがき」には、手塚が番組収録中のスタジオを訪問したときの様子も書かれている。
「たまにNHKへ行くと(当時、NHKスタジオは、虎ノ門のせまっくるしいビルの谷間にありました)、演出の彼氏(黒沢注:辻氏のこと)は大奮闘でした。子どもの番組にしては、わりと大がかりで、何よりも、あのNHKが、かなりふざけてるなーと思うくらい、内容がリラックスしたものでした。反響もそんなに悪くなかったときいてます」(前出『ふしぎな少年』第2巻あとがきより)
自分が見聞きした貴重な経験は、すぐにマンガに取り入れる。『ヨッコちゃんがきたよ!』はこうして誕生した。手塚の旺盛な創作欲がここにも発揮されていたわけですな。
さて今回も、手塚の描いた業界マンガについて長々と振り返ってきたが、ここでようやく冒頭でネタをふった話題に戻ろう。マンガ界を舞台とした業界マンガの話だ。
手塚はマンガ家としての自分自身の生活をしばしばマンガに描いている。締め切りに追われる手塚本人の苦労、編集者との攻防などなど。これもまた、ある意味ではマンガ業界マンガと言えるだろう。ただしこれらの作品はどちらかというと半自伝的な要素が強く、業界そのものを描くと言うよりもエッセイ的な要素の強いものだった。
では本当の意味でマンガ業界を描いた最初のマンガは何かというと、これは藤子不二雄Aが発表した『まんが道』だろう。
『まんが道』は1970年に『週刊少年チャンピオン』で毎週2ページという短いページ数で連載が始まり、いったん完結した後、『週刊少年キング』→『藤子不二雄ランド』と連載が引き継がれて大長編作品となったA氏の代表作だ。さらにその続編として『ビッグコミックオリジナル増刊号』に連載された『愛…しりそめし頃に…』も昨年2013年、ついに完結した。
『まんが道』は藤子不二雄A自身と藤子・F・不二雄のふたりをモデルとした満賀道雄と才野茂が主人公となり、彼らが出会ったところから、マンガ家として成長していく姿を描いたお話だ。
主人公のモデルが自分自身という点では手塚のエッセイマンガと近い種類の作品だとも言えるが、大きく違うのは、キャラクターたちを自分自身の分身として描くというよりも、まったく別人格のキャラクターとして完全に突き放し、ドキュメンタリータッチで描いたことだった。
昭和20年代の戦時中から始まる物語の中には、手塚治虫の『新寶島』を始めとする戦後の人気マンガ作品の数々やマンガ界のエポック的な出来事が実名で登場する。まさに実際のマンガ史に沿ってドラマが進行していくのである。
現代のマンガ業界を描いたマンガの多くがこの手法を多く踏襲していることからも、このマンガの影響がかなりのものだったことがわかる。
そんなマンガ業界マンガの中で、つい最近、かなりの変化球を投げてきたマンガがある。現在、雑誌『ビッグコミックスペリオール』で連載中のコージィ城倉の『チェイサー』だ。
舞台は昭和30年代。主人公の海徳光市は少年月刊誌に3本の連載をかかえる売れっ子戦記マンガ家である。
彼は自分の才能にゆるぎない自信を持っているが、一方で唯一勝てないと思っているライバルがいた。手塚治虫だ。海徳は編集者たちには「手塚など眼中にない」とうそぶきながら、心の中では日増しにその存在が大きくなっていくことに焦りを感じていた。
タイトルのチェイサーとは“手塚治虫を追跡(チェイス)する男”という意味である。
売れっ子戦記マンガ家という架空の人物を描くフィクションが、手塚治虫を軸とした実際の戦後マンガ史の中でリアルに描かれていく。手塚ファンにとっても、今後の展開が見逃せないユニークな作品である。
ということで今回もこのコラムを最後までお読みくださいましてありがとうございます。ここで最後に手塚治虫の未刊の業界マンガ(?)について記しておきましょう。
1979年『週刊ヤングジャンプ』に創刊号から連載された『どついたれ』がそれだ。
ただし業界マンガにハテナマーク(?)を付けたのは、このマンガが本当に業界マンガだったかどうかが不明だからである。
物語は戦時中から戦後にかけての混乱期をたくましく生きる山下哲、葛城健二というふたりの男を軸として描かれる。さらにそこには手塚治虫自身がモデルとなった高塚修という青年も登場する。
終戦後、山下と葛城は新しい商売を始めようと奮闘する一方で、高塚は『新寶島』というマンガを描き、マンガ家としての道を歩み始めた。
しかし残念なことに手塚が亡くなったことでこの連載は未刊のままとなってしまった。
ではこの物語はいったいどこへ向かうはずだったのか。そのヒントは主人公のひとり葛城健二のモデルとなった人物にある。
葛城健二のモデルは、ベビーカーなどを製造するメーカー『アップリカ』の創業者・葛西健蔵氏だった。葛西氏と手塚は後年、鉄腕アトムの版権商品が縁で知り合うこととなる。
そのときは単なるビジネスでのつきあいだったのかも知れないが、ふたりの関係は虫プロの倒産をきっかけに一気に深まることになる。
多額の負債を抱えた手塚を葛西氏が救ったのである。
もしも『どついたれ』の連載が続いていたら──手塚はきっとこうした版権ビジネスなどの業界ドラマを描いていくはずだったのではないだろうか。
まあこれは、永遠に続きが読めない今となっては何を書いても単なる憶測でしかないわけだけど、こうやって先の展開をあれこれと考えてみるのも、現代の手塚ファンならではの特権とも言えるだろう。皆さんも『どついたれ』の版権ビジネス編、ぜひ想像してみてください。
ではまた次回のコラムでお会いいたしましょう!!