マンガ家には2種類のタイプがある。原作付きマンガを描くマンガ家と原作付きマンガを描かないマンガ家である。そんな中で手塚治虫は原作者を一切付けず、一貫してオリジナル作品を描いてきたマンガ家と思われがちである。だけどじつは手塚にも原作付きのマンガや、名作小説や戯曲から想を得た作品が意外にも多いのをご存知だろうか。今回はそうした、まとめて語られることのほとんどない手塚治虫の原作付きマンガを、原作本の貴重な書影などとともに振り返ります!!
手塚治虫が1977年に発表した「忘れられない本」と題したエッセイの中で彼はある一冊の本について、その魅力を熱く語っている。その本のタイトルは『トンネル』。ドイツ出身の作家ベルンハルト・ケラーマンが1913年に発表した冒険小説だ。以下、手塚のエッセイから引用しよう。
「ぼくの大河もの作品のストーリー・テリング、スケールをやたらひろげるスペクタクル志向の原点は、この『トンネル』である。
戦時下の当時、欧米文学書がなかなか手に入りにくかったなかで、父の書棚にある『世界文学全集』は、またとない貴重品であったが、そのなかでも、『罪と罰』や『レ・ミゼラブル』などと並んで『トンネル』はぼくの心をもっともゆさぶった小説なのだった」(講談社版手塚治虫漫画全集別巻 397 『手塚治虫エッセイ集7』より。※初出は「朝日新聞」1977年5月16日付)
手塚がこのケラーマンの小説『トンネル』から強い影響を受けて戦後すぐに発表した作品が、1948年に大阪の不二書房から刊行された『地底国の怪人』だ。
改造によって人間並みの言葉と知能を持ったウサギの耳男が、科学者の青年ジョンとともに、ジョンの発明した地球貫通列車に乗って、地球の中心へと旅立つ。
耳男は、途中で出会う太古の動物の化石、金の鉱脈などに驚くが、地球の中心ではさらに想像を絶する冒険が待ち受けていた!
手塚は当初このマンガのタイトルを『トンネル』にしたいと考えていたが、出版社側の強い要望によってやむなく改題されたという。
手塚のマンガの方は講談社の文庫全集などでお読みいただくとして、ケラーマンの『トンネル』の内容をざっと紹介しよう。
『トンネル』の物語は喧噪渦巻くアメリカの大都会ニューヨークから始まる。そこで働く土木技師マック・アランにはある大きな野望があった。それは大西洋の海底にトンネルを掘り、そこに弾丸列車を走らせてアメリカとヨーロッパとの交通に革命を起こそうというものだ。
アランは投資家たちを必死で口説いてまわり、やがてついにその夢が実現する。しかしようやく始まった工事は困難の連続だった。
落盤事故、労働者たちの暴動、そしてアランが仕事に打ちこむ間に妻のモオドは、アランの親友ホッピイと恋仲になってしまうのだった。ああっ……!!
エッセイの中で手塚は、この物語をこう評価している。
「まず
主人公がよき時代のアメリカを代表するような熱血漢で、それに大資本家が加担する。恋人や恋ガタキが現れるなどの構成は、戦前のハリウッド映画の骨組みそのままである。
しかし、その甘さをおぎなってあまりあるのは、狂気のように突貫していくトンネル工事と、それに続く落盤と浸水の恐怖に充ちた描写である。そこでは主人公たちは影をひそめて、群衆が主導権を握り、パニックと自然の脅威のすさまじさが念を入れて
ぼくがいかにこの通俗大衆小説から刺激を受けたかは、ぼくのごく初期の作品である『地底国の怪人』に地底列車を登場させ、『トンネル』の主人公たちの名前を、その後の作品でしきりに流用したことで察していただけよう」(前出「忘れられない本」より)
手塚が若いころ、こうして海外文学と慣れ親しむことができたのは、前出のエッセイでも語られているように、父の書棚に並んでいた新潮社の『世界文学全集』によるものだった。
戦時中、父が戦地へ行って不在の中、手塚は父の書棚から、これらの本を引っぱり出してきてはむさぼるように読んだ。
そこに収録されていたのが、ゲーテの『ファウスト』やドストエフスキーの『罪と罰』だった。戦後、マンガ家になった手塚は、これらの小説のマンガ化に挑む。
児童文学でもない小説をマンガ化するというのは、当時としてはかなり画期的で挑戦的な試みだった。手塚はそれを行った動機を後にこう振り返っている。
「ぼくは、青春時代に読んだ世界的な文学作品を、なんとかして当時の子どもたちに、漫画という手法を通じて紹介したいと思い、それらの作品(黒沢注:『ファウスト』や『罪と罰』のこと)をかきました。もちろん、子どもたちにひろく親しまれている『宝島』や『ルパン』などではなく、子どもたちには無縁な、また、おとなたちもあまり読み返したことの少ない文学を選んで、アレンジしてみようと思ったのです」(講談社版手塚治虫漫画全集 10 『罪と罰』あとがきより)
中でもロシアの文豪ドストエフスキーの長編『罪と罰』は、手塚が「常時学校へも携えていき、ついに三十数回読み返してしまった」と語るほどに熱中した小説だった。(『手塚治虫 ぼくのマンガ道』2008年新日本出版社刊より。※初出は1975年朝日新聞社刊『のびのび』に掲載のエッセイ)
このドストエフスキーの『罪と罰』に手塚自身の解釈を加え、子ども向けに翻案してマンガ化した作品が1953年の『罪と罰』だ。
原作小説では、自分の犯した罪を娼婦ソーニャに告白した主人公ラスコールニコフは警察に自首をし、その後シベリア送りとなる。
一方、手塚マンガ版『罪と罰』ではソーニャに罪を諭されたラスコルニコフが、革命で大混乱となった街のど真ん中で、自身の罪を大声で叫ぶという感動的なラストシーンとなっていた。
この名場面は前回のコラムで紹介しているので、よろしければそちらも参照してください。
・手塚マンガあの日あの時 第35回:人、人、人がいっぱい! 手塚マンガ・モブシーンの秘密!!
ところで、手塚がこうして名作小説を翻案してマンガ化した最初の作品は何だったのか? それは1948年に不二書房から刊行された『森の四剣士』である。これはグリム童話の『二人兄弟』をマンガ化したものだった。
『森の四剣士』、『ファウスト』、『罪と罰』とそれぞれ読者に好評だったことから、手塚はもっと別の文学作品をマンガ化をしようとしたが、出版社に断られてしまい実現しなかったという。
だが前出の『のびのび』に掲載されたエッセイの中で手塚が『罪と罰』とともに「世界文学全集のなかでも、感動がいまも残っている」作品として挙げたエドモン・ロスタンの戯曲『シラノ・ド・ベルジュラック』は、1953年に雑誌『少年画報』で、『快傑シラノ』という題名で連載を果たしている。
ほかに手塚が海外の名作文学を翻案した作品としては、シェイクスピアの戯曲を元にマンガ化した『ベニスの商人』(1959年)や、H・G・ウェルズのSF小説『月世界最初の人間』をマンガ化した『月世界の人間』(1972年)がある。
『月世界の人間』はアポロが月着陸を果たした3年後の1972年、潮出版社の雑誌『希望の友』に掲載された読み切り作品だ。
アポロが月に降り立った後に、なぜ手塚がこの古典SF小説をわざわざマンガ化しようと思い立ったのかは謎だけど、長編である原作の見所を巧みに切り取り短編にまとめ上げていることからも、手塚がこの原作をそうとう読み込んでいる様子がうかがえる。
ちなみにこのウェルズの『月世界最初の人間』に、月世界に昼が訪れると凍っていた大気が溶けて一斉に気化し、巨大な植物が繁殖を始めるという描写があるが、このアイデアは『鉄腕アトム』「イワンのバカの巻」(1959年)でも引用されている。
一方『ファウスト』は、最初のマンガ化から38年後の1988年、手塚は構想も新たに『ネオ・ファウスト』として再びマンガ化を試みている。
この作品は手塚が亡くなったことで残念ながら未完となってしまったが、メフィストを女性にしたり、ゲーテが書く以前のファウスト伝説にまでさかのぼってエンディングを構想するなど、かなり意欲に満ちた作品だった。
その、マンガとしては描かれなかった構想を語っている当時の手塚の言葉を紹介しよう。
「もともとファウスト伝説というのは最後地獄に落ちたとこで終わりますが、ゲーテによって初めて天国へつれていかれます。いわゆるもとからあるプレ・ファウストというんですが、ファウストの伝説のほうに近づけようと思っています。そうするとたいへんカタストロフィーで終わってしまいますので、そこらへんどうしようかなあと…。下手にかくとそこでまったく夢も希望もない未来の破滅というところで結末ついてしまう。そこらへんファウストはなんで満足するのかと考えているんです」(講談社版手塚治虫漫画全集 369 『ネオ・ファウスト』第2巻「あとがきにかえて」より。※初出は1988年9月、朝日カルチャーセンターの講演)
ここまで海外文学を原作として手塚がマンガ化した作品を振り返ってきたが、手塚は日本の小説もわずかながらマンガ化している。
そのひとつが1954年、集英社の雑誌『おもしろブック』別冊付録として描かれた林不忘原作の『丹下左膳』である。
原作はご存知、隻眼隻腕の風貌怪異な謎の剣士・丹下左膳が活躍する時代小説で、戦前は大河内傳次郎主演で映画化されて大ヒットした。
手塚がこの小説をマンガ化することになったのは、当時の『おもしろブック』編集長・長野規氏のリクエストがあったからだ。しかし手塚は当初、あまり乗り気ではなかったようだ。
「せめて『大菩薩峠』か『宮本武蔵』ぐらいくれればよかったのに‥‥。(中略)
丹下左膳といえば、フランケンシュタインの怪物に比するべき怪人の印象でした(げんに原作でも化け物あつかいされています)。
こんなものをかいたら、手塚治虫の作品イメージがすっかり変わってしまうのでは‥‥と気になりました」(講談社版手塚治虫漫画全集 68 『丹下左膳』あとがきより)などと愚痴っている。
だが“もらったものはなんでもこなそうとする職人気質”から、手塚はすぐにそのネガティブな気持ちを180度反転させる。
「『こうなりゃ、手塚治虫の丹下左膳てものをつくってやろうか。今までのどぎつい丹下左膳のイメージをかえて、サラリと軽快でしゃれた喜劇にしてしまったらどうだ?』
──いうなれば、フランス映画風丹下左膳。
そうなると、むやみにイメージがわいてきました。
『やってみましょう。』」(前出『丹下左膳』あとがきより)
こうして手塚流にアレンジされた丹下左膳が誕生したのである。
そしてもうひとつ、手塚は1985年、宮沢賢治の短編小説『やまなし』を読み切り短編としてマンガ化している。
これは当時、潮出版社の雑誌『コミック トム』誌上において、人気作家の競作という形で不定期連載されていた「宮沢賢治漫画館」シリーズのひとつとして描かれた作品だ。
この原作をマンガ化するにあたって手塚は、マンガのページを上段と下段に分け、上と下でそれぞれ別の物語が進行するという大胆な構成を取っている。
作品の時代を戦時中とし、上段では賢治の『やまなし』を子どもらが舞台でお芝居として上演する物語が展開。そして下段では、今まさにその村で起きている出来事が描かれる。
上段と下段がお互いに影響し合い、微妙にシンクロしながら展開していくストーリーは、さながら前衛的な実験演劇のようだ。
このとき手塚がなぜ『やまなし』を原作として選んだのかはどこでも語っておらず不明だが、手塚はあるエッセイの中で宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の映像的な描写を高く評価していた。
『やまなし』もまた『銀河鉄道の夜』と同様に生き物の生と死を扱った作品であり、非常に映像的でリリカルな詩情に富んでいる。なので恐らくそんなところからこの作品を選んだのではないだろうか。
さて最後に紹介するのは、手塚のノンフィクション分野での原作付き作品群である。
厳密に言うと原作付きと言うよりはノンフィクションとして世に出た文学作品から想を得て手塚が独自に描いたマンガ群と言った方がいいかも知れないが、じつはこうした作品、意外に多いのだ。
そんな手塚のノンフィクション系の最初の作品と言えるのが、1952年に雑誌『少年画報』の別冊付録として発表された『ピストルをあたまにのせた人びと』だ。
これは嘉永6年(1853年)にロシアのフリゲート艦パルラダ号に乗って日本を訪れたプチャーチン提督の秘書官ゴンチャロフの書いた航海記『フリゲート艦パルラダ号』を元にしている。同書は日本では戦時中の昭和16年にその抄訳である『日本渡航記』として岩波文庫で刊行されていて、手塚もこの版で読んだに違いない。
この本を元にマンガを描こうと思った動機を、手塚は後にこう述べている。
「日本訪問のくだりで、外国人、それもはじめて日本人を見た人たちの印象記としてはきわめておもしろく、示唆に富んでいて、変わった幕末ものになるだろうと感じたのです」(講談社版手塚全集『丹下左膳』あとがきより)
作品タイトルになっている「ピストルをあたまにのせた人」というのは外国人から見た武士のチョンマゲのことで、元ネタとなった『日本渡航記』にもきっとその記述があるんだろうと思っていたんだけど、つい最近入手した同書にはその記述はなかった。どうやらこの表現は手塚のオリジナルだったようですね。
ただチョンマゲを初めて見たゴンチャロフの描写もなかなかユニークで面白いので引用しよう。
「頭は顔と同じやうにすつかり剃つてあるが、後頭部の毛髪だけを上に取上げて、切り取つたやうな細く短い髷に結ひ上げて、腦天にしつかりと横たへてある。こんな珍妙醜怪な髪形に一體どれだけ氣を使つてゐることだろう!」(『日本渡航記』1941年岩波書店刊、井上満訳より)
またもう少し読み進めると、ゴンチャロフは日本人(の武士)が帽子をかぶらず、剃った頭が直射日光にさらされていることもかなり気になっていたようで、こんな一文を書いている。
「時々數人の人間を乗せた小舟が通ることがある。太陽がその人々の頭をまともにやきつけるのは、見た目にも氣持ちがよい。日光はどこかの塔の金色の丸屋根に當つたやうに、剃りこんだつるつるの腦天に踊り、その一つ一つの頭に陽が一點となつて燃えてゐる。この日光の下にこんな風に散歩をして、どうして死なずに居られるか(中略)と思ふ程である」(前出『日本渡航記』より)
1973年、雑誌『漫画サンデー』に発表された読み切り『ペーター・キュルテンの記録』は、20世紀初頭のドイツに実在した連続殺人鬼を主人公に描いたノンフィクションマンガである。
この作品の最終ページには「このテキストは鶴見俊輔氏の著書によるものである」と書かれていて鶴見氏の本を参考にしたことが明記されているのだが、本の名前は書かれておらず、ぼくにはその出典がずっと不明だった。
鶴見氏の著書には、ぼくが知る限りではペーター・キュルテンを主題として扱ったものはないのだが……。
と、つい最近、それをやっと発見したので紹介いたしましょう。それは1972年に淡交社から刊行された『家の神』という本だ。
これは日本人にとって“家”とは何か、それを土着の神や民間信仰などの考察を織り交ぜながら取材し記録した本だ。その日本人を掘り下げたこの本の中で、1960年代に連続強姦殺人を犯した少年の記述と絡めてペーター・キュルテンの生い立ちと事件経過がおよそ8ページにわたって詳しく紹介されていたのである。いやー、まさか日本をテーマにした本の中に書かれていたとは。こいつはお釈迦様でも見つからないですよね!?
続いてその2年後の1975年、週刊少年サンデーの増刊号に発表されたのが『原人イシの物語』だ。
アメリカ先住民ヤヒ族のイシは1911年、サクラメント郊外を、衰弱してたったひとりさまよっているところを保護された。文明と隔絶された原始生活を送ってきたイシは人類学者アルフレッド・L・クローバー教授の元に引き取られ、1916年3月に亡くなった。
そのクローバーの妻シオドーラ・クローバーが1961年に著したのが『イシ ─北米最後の野生インディアン─』であり、日本では1970年に行方昭夫の訳で岩波書店から刊行された。
この物語も、手塚がなぜこのタイミングでマンガ化しようと思い立ったのかは不明だけど、ちょうどこのころマンガ界では劇画が台頭し、史実や事実をベースにしたノンフィクションマンガがもてはやされていた時代だったから、手塚もその流れに乗ったのかも知れない。
手塚のマンガでは、クローバー教授と共にイシの調査に当たった実在の人物トマス・T・ウォーターマン教授をロックが演じ、イシを単なる研究対象としか見ないドライな学者の役を好演している。
いよいよ今回紹介する最後の作品となる。1979年に雑誌『ビッグゴールド』に発表された読み切り『火の山』は、北海道有珠郡で郵便局長として働きながら、昭和新山の誕生から生育までをつぶさに記録した三松正夫の伝記をマンガ化したものだ。
ただしこれは書籍として刊行された自伝や伝記を元に描かれたものではなく、手塚は編集者と共に北海道へおもむき、昭和新山資料館などに取材して書かれた作品だ。
なのでこれまで紹介してきた作品とは若干おもむきが異なるが、ノンフィクションということで共通するものがあるのであえて紹介しちゃいますね。
三松正夫は1888年北海道に生まれ、有珠郡壮瞥の郵便局長として働いていたが、戦時中の昭和18年(1943年)、有珠山の昭和火山 活動に遭遇する。
北海道の過酷な自然をこよなく愛していた三松は、誰から強制されたわけでもなく、ただひとり使命感に燃えてその火山活動をつぶさに記録し始めた。戦後は山が荒らされることを心配して私財をなげう ち、その土地を買い取って保護に努めた。
マンガの中では、手塚は井上
最初は三松に迷惑をかけてばかりいた井上だったが、三松の情熱に感化され、次第に彼の重要な助手となっていくのである。
さて、手塚治虫の原作付きマンガを振り返ってきた今回の「あの日あの時」いかがだったでしょう。
現在ではなかなか原作が入手しにくい作品もありますが、機会があればぜひ 原作と手塚マンガとを読みくらべてみてはいかがでしょう。
手塚がそれらの作品のどこに心を動かされ、それをどうマンガ化したいと思ったのか。原作のどんなメッセージをマンガの読者に伝えたかったのか……。
そんなことを考えていくと、手塚治虫の創作の秘密がまたひとつ明らかになってくるのではないでしょうか。
ではまた次回のコラムでお会いいたしましょう!!
取材協力/福元一義(敬称略)
1957年東京生まれ。マンガ原作家、フリーライター。手塚マンガとの出会いは『鉄腕アトム』。以来40数年にわたり昭和のマンガと駄菓子屋おもちゃを収集。昭和レトロ関連の単行本や記事等を多数手がける。手塚治虫ファンクラブ(第1期)会員番号364番