手塚治虫の1960年代を代表するSFマンガ『W3(ワンダースリー)』。1965年『週刊少年サンデー』に連載され、虫プロ製作のテレビアニメも評判となった。しかしこの作品にはもうひとつ、手塚がみずからの意志で連載を打ち切り、未完となった別バージョンがあることをご存じだろうか。いったいなぜそのような事態になったのか。その背景を探っていくと、そこには当時のマンガ界・アニメ界の混沌とした状況が浮かび上がってくる。今回は、そんなふたつの『W3』が描かれた時代を振り返ってみよう。
話は1964年にさかのぼる。このころは虫プロが製作した国産初のテレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』の放送が2年目に入り、他社も続々とテレビアニメ界に参入し始めた時期だった。週に何本ものアニメ番組が放送され、虫プロ社員の数も数百人にふくれあがっていた。
虫プロではその大所帯を支えるために、『鉄腕アトム』と並行して新たなテレビアニメの企画を立ち上げることになった。そのひとつが国産初の連続カラーアニメ『ジャングル大帝』であり、もうひとつが、手塚が1961年に雑誌『日の丸』に連載した『ナンバー7』のアニメ化だった。
……と、なかなか話が本題の『W3』に入らなくて申し訳ないが、もうしばらくおつきあいいただきたい。ここには当時のアニメ界の状況が端的に表れている。
『ナンバー7』のアニメ化企画が動き出した虫プロに、ある日突然、急ブレーキがけられた。他社で同じような宇宙戦隊もののアニメ企画が進んでいるという情報が入ってきたのだ。
その他社作品とは、当時手塚が書いた記事によれば、東映の『レインボー戦隊』という作品だったという(『鉄腕アトムクラブ』1965年9月号掲載『ボクのまんが記』より)。
『レインボー戦隊』とは、この記事が書かれた翌年の1966年4月にNET(現・テレビ朝日)系列で放送が始まった、東映動画製作の『レインボー戦隊ロビン』のことだろう。
『ナンバー7』と『レインボー戦隊ロビン』を比較してみると、確かに主人公が7人のチームであること(レインボー戦隊にはロボットも含まれているが)と、宇宙空間を舞台とした活劇であることが共通している。
だけど逆に言えば、それ以外には共通項がないように思えるのだが……、オリジナルにこだわる手塚としてはそれでも納得できなかったのだろう。手塚は『ナンバー7』のアニメの設定変更を決めたのだった。
「ボクたちは、あわてて会議をして、『ナンバー7』の内容を変えました。題はおんなじですが、007みたいな秘密機関の青年のお話として、カッコいい、かつげき調の映画にしたのです」(前出、手塚治虫『ボクのまんが記』より)
ここで唐突に“007”の名前が出てきているが、これは当時、映画007シリーズから始まったスパイ映画やテレビドラマが大ブームとなっていたためだ。
またこのとき手塚は、子ども向け作品であることを意識して、新しいマスコットキャラクターを加えることにした。ふたたび『ボクのマンガ記』から引用しよう。
「それは、ボッコというなまえのリスです。ボッコは、あたまからつのがはえていて、テレパシーで話し、からだがボーッと光っていて、空を飛び、姿を消すことができ、いつもは
この文章を読むだけで、いかにも手塚治虫らしい愛らしいキャラクターのイメージが浮かんでくる。
こうして、若干のつまづきはあったものの、アニメ版『ナンバー7』の企画は再びスタートすることになった。
同時に、手塚が新作『ナンバー7』を『週刊少年マガジン』に描き下ろしで連載することも決まった。これは『マガジン』としても大歓迎だった。当時手塚は『マガジン』のライバルである『週刊少年サンデー』に継続して連載作品を描き続けており、実質的な専属状態となっていた。そのため、手塚の連載を取ることは『マガジン』の創刊以来の悲願だったのだ。
ところが、この改訂された企画もまた突然、中断することになる。いったい何があったのか……!?
それは、1964年の暮れも押し迫った12月終わりごろの事だった。他社で企画中のアニメに、『ナンバー7』の企画が盗まれたらしいという情報が、手塚の元へ飛び込んできたのだ。
それが後にTBSで放送された『宇宙少年ソラン』だった。『ソラン』に登場するチャッピーという宇宙リスの設定が、『ナンバー7』の新キャラクター・ボッコの設定とそっくりだったのである。
『レインボー戦隊ロビン』の時は偶然だったかも知れない。だが今回は誰かが企画を漏らしたとしか考えられなかった。
虫プロ内には、誰がスパイなのかという
この疑いはやがて晴れるのだが、まだ若かった豊田は、尊敬する手塚から頭ごなしに怒られたことで感情的になり、虫プロを去ってしまう。これは手塚にとっても豊田にとっても不幸なことだった。
では企画を漏らしたのはいったい誰だったのか。後に明らかとなったその人物は、やはり業界の間を行き来するSF関係者のひとりだった。しかし、豊田の著書によれば、その人物にしてもお金目当てで情報を売ったわけではなく、自分が情報通であることを誇示したくてポロリと企画を漏らしてしまった、というのが真相のようだ。
このような誰にとっても不幸な騒動が起こってしまった背景には、当時のテレビ局やアニメ製作会社が慢性的な企画不足・作家不足に悩んでいたという事情があった。
このころのテレビアニメのラインナップを見ると、始まりが『鉄腕アトム』だったからか、最初の3年間くらいは、そのほとんどが今でいうSF作品で占められていることがわかる。例えば1965年に放送が始まったテレビアニメシリーズを見ると、全13作品中、実に10作品がSFなのだ。
ところが世間ではSFという言葉すらまだ一般的ではないころだったから、業界ではSFの企画やお話を作れる人材を血まなこになって探していた。当然のごとく、ライターの引き抜きが横行し、複数の会社でかけもちで仕事をする人も多かった。そうした中で似たようなお話ができたり、人のアイデアを安易に拝借する人が出てきてしまうというのも、残念ながら無理からぬことだったのだ。
結局、虫プロは『ナンバー7』のアニメ化をあきらめ、新たにオリジナル作品『W3』の企画を立ち上げた。そして『少年マガジン』にも『W3』を連載することが決まったのだった。
ふぅ〜、お待たせしました! ここでやっと『W3』の登場です。
『W3』は『少年マガジン』1965年3月21日号から連載が始まった。アニメの放送も春からと決まった。
お話は、宇宙からやってきた3人の異星人が、地球の生物に化けて地球の調査を行うというもので、『ナンバー7』よりもずっとSF色の強い作品に生まれ変わっていた。
その宇宙人の女隊長の名前がボッコ。そう、手塚はここにあの因縁の宇宙リスの名前を使ったのだ。しかしこの宇宙人が変身する動物はリスではなくウサギだった。また、主人公の兄が秘密機関の諜報部員であるという設定にも『ナンバー7』の企画の名残りがうかがえる。
こうして今度こそ順調に動き始めたはずの『W3』だったが……騒ぎは再び起きてしまった。
『少年マガジン』に『宇宙少年ソラン』のマンガが連載されることになったのだ。『ソラン』は、手塚にとっては企画変更までさせられた憎き相手である。同じ誌面に並んで掲載されるのは許しがたいことだった。
手塚は、編集部に『ソラン』の連載をやめるよう強く抗議した。
そして、それが受け入れられないとわかったとき、手塚は『マガジン』での連載を中断し、新たに『少年サンデー』で『W3』の連載を始めることを決めたのだった。
このあたり経緯については、手塚と当時の担当編集者との間で記憶が微妙に食い違っている。手塚は前出の『ボクのマンガ記』の中で、『W3』の打ち切りを言い渡してきたのは講談社側で、自分はくやしくて一晩中泣いたと書いている。
しかし当時の『マガジン』担当編集者だった
いずれにしても、こうして少年マガジン版『W3』は連載6回目が載ったところで何の予告もなくいきなりぷっつりと中断し、それっきりとなった。そしてその1ヶ月後には、ライバル誌の『少年サンデー』で新しい『W3』の連載が始まったのである。
当時ぼくが毎週買っていたのは『少年サンデー』だけだったので、何の疑問も持たずにこのサンデー版『W3』を愛読していたが、両方の雑誌を読んでいた読者は、頭の中にいくつもの疑問符が浮かんでいたことだろう。
このマガジン版とサンデー版の内容を比較すると、まず違うのが主人公の星真一少年のキャラクターだ。見た目もりりしい顔立ちで真面目そうな少年だったマガジン版から、サンデー版では反抗的で暴力的な不登校児という、後の『やけっぱちのマリア』の主人公のようなやけっぱちな少年に変わっていた。
またマガジン版では、兄の星光一が秘密機関にスカウトされるくだりが詳しく描かれているが、サンデー版ではその部分がスッパリとカットされてしまった。従って、当初の構想では星光一が中心となって活躍するエピソードももっとあったのかも知れない。
そしてぼくが注目するのは、サンデー版のラストシーンだ。まだ読んでいない方のために詳しくは書けないが、手塚はこの作品の最後に、実にSF的でロマンチックな結末を用意している。
単行本化されてからは、ぼくはこの不思議なエンディングを味わいたくて、お話を最初から何度も何度も読み返した。そして今でも手塚治虫らしい傑作エンディングのひとつだと思っている。
こんなあいまいな言い方じゃ皆さんに失礼なので、もう少し具体的に言うと、ロバート・A・ハインラインの傑作タイムトラベル小説『夏への扉』の読後感に近いと言えようか。あー、ますますわからない?(笑)。だったらぜひ両方とも読んでみてください。きっと納得していただけると思います。
それにしても手塚はこの素晴らしいエピローグのアイデアをいつ思いついたのだろう。以下はぼくのまったくの推測だけど、少なくとも『ナンバー7』を企画していた段階ではないと思われる。ではマガジン版『W3』の連載が始まった時? ぼくはそれも違うと思う。わずか6回だけだけど、マガジン版『W3』は『ナンバー7』から続いていた活劇の要素が強いし、真一も、よりヒーロー的な主人公だったからだ。あのキャラクターにあのエンディングはそぐわない。つまり結論はサンデー版しかないということだ。
手塚にとって『W3』誕生までに至るトラブルの連続は、想像を超えたストレスだっただろう。またそれは人間関係にもいくつもの深い溝を作ってしまった。だけどそれらを乗り越えて完成した作品は、結果的に幻となったいくつもの作品を越えた今までにないファンタジー作品となったのだ。
一方、手塚と袂を分かった『少年マガジン』にも、その後、大きな変化が待ち受けていた。『マガジン』はこの直後から一気に劇画路線へとシフトし、原作者・
振り返ってみると、あのころのマンガ界には、今では想像もできないほどの熱気と才能が満ちあふれていた。そしてそれに寄せる読者たちの期待もハンパなものではなかった。『W3』をめぐる一連の騒動は、そうした熱すぎる時代だからこそ起きた一種の熱病だったのではないだろうか。
ちなみに、手塚が『マガジン』との長年のわだかまりを解いて、同誌に再び作品を寄せたのは、これから9年後のことだった。そのときのお話は、前回の『あの日あの時』をお読みいただきたい。
黒沢哲哉
1957年東京生まれ。マンガ原作家、フリーライター。手塚マンガとの出会いは『鉄腕アトム』。以来40数年にわたり昭和のマンガと駄菓子屋おもちゃを収集。昭和レトロ関連の単行本や記事等を多数手がける。手塚治虫ファンクラブ(第1期)会員番号364番