手塚治虫先生の祖先である蘭方医・手塚良庵が活躍する異色の時代劇コミック『陽だまりの樹』。物語は幕末という激動の時代を舞台とした壮大なフィクションだけど、そこには歴史に残された実在の場所がいくつも登場する。今回は古地図にもその名がはっきりと記されている手塚良庵の自宅兼診療所跡をはじめ、『陽だまりの樹』に描かれた東京の様々なスポットを巡ります!!
現在、NHK BSプレミアムで絶賛放送中のドラマ『陽だまりの樹』、みなさんご覧になってますか〜〜っ!? この文章を書いている時点では、物語はわりと原作に忠実に進んでるけど、ドラマになるとやっぱりマンガとは雰囲気が違ってそれもまた楽しいですね! ということで今回はこのBSドラマ応援企画として、急きょ『陽だまりの樹』さんぽをすることになりました!
スタート地点は東京メトロ丸ノ内線の茗荷谷駅。住宅街の真ん中にある、ごくありふれた駅だけど、これが不思議。歩き出したとたん、あなたの目はあなたの体を離れて、江戸時代末期へと迷いこんでしまうのです……!!
ここで『陽だまりの樹』についてざっと紹介しておこう。『陽だまりの樹』は手塚先生が1981年から86年まで雑誌『ビッグコミック』に連載した時代劇コミックだ。江戸・小石川に住む武士・伊武谷万二郎と蘭方医・手塚良庵。幕末という動乱の時代を舞台に、歴史に翻弄されながらも必死で生きようとするふたりの生きざまを描いた大長編ドラマである。
またこの主人公のひとり・手塚良庵は手塚治虫先生の3代前の祖先であり、先生が自らのルーツを描いた作品としても大きな話題となった。
では手塚先生がなぜ自分自身の祖先を描くことになったのか!? そのきっかけやいきさつについては、過去のコラム 『虫さんぽ』第20回 神奈川県川崎さんぽと、『手塚マンガあの日あの時』第22回 『陽だまりの樹』創作秘話 でくわしく紹介しているので、ぜひそちらも参照していただきたい。
ではさっそく散歩に出発いたしましょう。茗荷谷駅を出たら春日通りを東へと歩く。『陽だまりの樹』散歩で最初に歩く通りが「春」の「日」だなんて何という偶然か!
300メートルほど歩くと左側に並木道が見えてくる。道の両側が車道になっていてその真ん中を桜並木にはさまれた遊歩道が、ここからおよそ300メートル先まで続いている。この通りを播磨坂という。
春日通りからこの遊歩道へと入ると道は文字通りゆるい下り坂になっていて、かつてはこの坂を半分ほどくだった右側に常陸府中藩「松平播磨守のお屋敷」があった。そしてもちろんこれが播磨坂という地名の由来なのだ。
『陽だまりの樹』の主人公・伊武谷万二郎はこの松平播磨守の家臣という設定であり、手塚良仙・良庵父子もまた、代々この松平播磨守に侍医として仕えていた。
この一帯は、今ではマンションなどが建ち並ぶ住宅街になっていて、当時の面影はまったくない。そこで今の地図に江戸時代の地図を重ね合わせてみると……どうやら現在、小石川パークタワーという高層マンションの建っているあたりが、かつての松平家のお屋敷の中心だったようだ。
さらに同じ古地図で見ると、不規則に曲がりくねった路地の多くが江戸時代からある昔の道の名残りであることがわかる。こうした発見は歴史散歩の楽しみですね〜。
さて、播磨坂からその路地を一歩曲がると急に車の騒音が遠ざかり、石垣や板塀、垣根など周りの風景もにわかにレトロになってくる。ここでほんのちょっぴり想像力を働かせれば、目の前に江戸時代当時の風景を想像するのもさほど難しくない……かもしれない。おのおのがた、気分はもう幕末でござるぞ!!
ということで気持ちも盛り上がってきたところで次に向かうのが、手塚先生の3代前の祖先、手塚良仙・良庵父子が暮らしていた家の跡地だっ!
松平播磨守のお屋敷跡の手前の路地を右に折れて、そのままゆるい上り坂を上っていく。古地図には“三百サカ下トヲリ”と記されている道だ。
道は狭いが人通りは割と多い。住宅街だからフツーに地元の人が歩いているんだけど、ぼくだけ江戸時代の道を想像しながら歩いていると思うと何だか妙な気分だ。
しばらく行くと右側に東京学芸大学附属竹早小学校・中学校の校庭が見えてくる。
現在の地形と古地図を重ね合わせてみると……ここだ、間違いない。この学校の敷地の北西の角となる場所に、手塚良仙宅があったのだ。手塚先生が『陽だまりの樹』執筆の際に参考にした深瀬泰旦先生の論文によれば、良庵の父・手塚良仙はここで内科の診療所を開業していたという。
残念ながらここにも当時をしのぶものは何もなかったが、安政4年(1857年)に発行された古地図には“手塚良仙”という名前がはっきりと記されている。
また詳しい場所はわからないが、伊武谷万二郎の家もこの良庵の家のすぐ近くにあるという設定だった。
『陽だまりの樹』第1話のオープニングシーンでは、この良庵の家の前の坂道を万二郎が毎朝、必死で駆け上がり、良庵がそれをいつもニヤつきながら見ている。
この“三百サカ下通り”をさらに東へ進むと、右へ折れる丁字路があり、その先はまた急に上り坂がきつくなっている。竹早小・中学校の敷地に沿って逆コの字に折れ曲がった急坂の細い路地。ここが次の手塚スポット「三百坂」である。
元は“
坂の途中に文京区教育委員会が立てた案内看板があったので、その内容を要約してみよう。
「『江戸志』によれば、松平播磨守は、新しく召しかかえた従者が役に立つ者かどうかを試すため、朝、主君が江戸城へ登城する際、従者たちを屋敷の玄関前に整列させ、身なりをチェックした後、従者たちを全力で走らせた。そして先に出発している主君を追いかけ、この坂を上りきるまでに追いつけなかった者には罰金として三百文を払わせた」
と、これが三百坂の名前の由来だそうで、『陽だまりの樹』のオープニングはこのエピソードを元に描かれたのだった。
手塚先生は『陽だまりの樹』を執筆する前に、この場所を取材に訪れている。
今回もその取材に同行した手塚プロのSさんにお話をお聞きした。Sさんにはこれまでも何度か『虫さんぽ』にご登場いただいて手塚先生の貴重なお話をうかがっているが、あらためて紹介しよう。Sさんは手塚先生の運転手として昭和40年代から手塚先生の最晩年まで、先生の仕事をずっと見続けてきた方である。以下、Sさんのお話。
「わたしが手塚先生の取材に同行したのは、先生が三百坂と手塚良仙の家へ行ったときですね。でも行く前から場所がはっきりとわかっていたわけじゃなくて、伝通院の裏手あたりということがわかってるだけだったんです。
それで近くに車をとめて先生とふたりで「どこだろう」なんて言いながら路地を歩き回ったんですが、なかなかわからなくてね。困っていたところへ偶然にも手塚先生のお知り合いとばったり出会ったんです。そしてその方が場所を知っておられたので案内してくださって、「ああここか」とようやくその場所がわかったんです。
あいにくその方のお名前が思い出せないんですが、手塚先生が「この人も漫画家だよ」と紹介してくださいましてね。年配の方だったので漫画集団の手塚先生の先輩漫画家だったのかもしれません。お孫さんを連れておられて散歩の途中という様子でしたので、恐らくこの近所にお住まいだったんでしょう」
なんと! 観光地でもないこんな住宅街の路地裏で、そんな偶然の出会いがあったとは驚きです。
手塚先生が『陽だまりの樹』を執筆するまでには、これまでにもいくつもの幸運な偶然が重なっていたことを過去のコラムでも紹介してきましたが、さらにここでも……!!
これはやはり手塚先生のご先祖様が「手塚治虫よ、このマンガを描きなさい」と言って手塚先生を応援していたとしか思えませんねっ!
ところでSさん、現地を取材した手塚先生は何か感想を語られていましたか?
「実際に行かれたらわかると思いますが、当時のものが何か残っているわけではないので、手塚先生は「けっこう狭い道だったんだね」と言って昔の風景を思い描きながら、坂の感じや距離感などを印象に刻んでいたようです。
三百坂を登り切ったところでは、手塚先生は「今は高い建物があって何も見えないけど、昔はここから江戸城が見えたんだろうね」と言ってその方向を見渡しておられました」
Sさん、今回も貴重なお話、ありがとうございました!!
散歩を続けよう。次に向かったのは「
その名前の由来は徳川家康の生母・於大の方がここに祀られ、その法名“伝通院殿”にちなむという。
ここ伝通院は『陽だまりの樹』の後半に登場する。文久3年(1863年)に相馬藩脱藩浪士・清河八郎が中心となり“浪士隊”の隊士を募った。その集合場所がここ伝通院の分院「
浪士隊とは将軍の警護役をつとめるために集められた民兵組織で、武士だけでなく農民や町人などを広く募ったのが特徴だった。そしてこれが後の新選組にとつながるのだ。
どうしても武士になりたいという万二郎の弟子の猟師・平助はこれに応募し、万二郎の家を出て、ひとり伝通院へと向かう。
当時、伝通院の敷地は今の何倍もある広大なもので、処静院があったのは三百坂を上ってきて坂を登り切った左側、古地図には「所浄院」と記されている所だ。
現在そこは、近くに文京区教育委員会が立てた案内板が立っているだけで他にはなにもない。ただ伝通院の山門の横に、かつて処静院の前に立っていたという石柱が置かれているので、散歩の折にはぜひそれもチェックしていただきたい。
伝通院からは再び春日通りに出てそれを少し西へ戻り、細い路地を左へ折れる。ここも急な下り坂となっていて「金剛寺坂」という名前が付いている。この近くにかつて森山多吉郎という英語の通詞(通訳)が住んでいた。
福沢諭吉の著書『福翁自伝』によれば、福沢はこの通詞に英語を教えてもらいたくて、鉄砲洲(現在の中央区湊あたり)の自宅からここまで日参した。しかし帰りはいつも真夜中になってしまい、途中、追いはぎが出るとうわさされた寂しい道を通らなければならず、ひじょうに恐かったと述懐している。
……というこの『福翁自伝』のエピソードを手塚は『陽だまりの樹』に取り入れている。福沢に誘われた良庵が福沢と一緒に森山の家を訪ねるのだが、案の定、帰りは深夜となってしまう。そして通りかかった追いはぎの出るというウワサの場所で、前方から怪しい人影がっ……!!
もう夏も近いというのに何だか背筋がゾクゾクしてきたので先を急ごう。
小石川後楽園と東京ドームの北側を通って水道橋駅方面へと南下する。すると歩道の脇に「藤田東湖
ここ東京ドームと小石川後楽園のある場所にはかつて水戸藩のお屋敷があり、藤田東湖はその敷地内に母とともに暮らしていた。ところが安政2年(1855年)の大地震で藩邸が倒壊。東湖は倒れてきた家の鴨居を肩で支えて母を庭に出し、自らはそこで命を落とした。『陽だまりの樹』にも描かれた藤田東湖の最期の姿である。
かつてこの場所にはもっと立派な石碑が建っていたが、白山通りが拡張された際に、その石碑は小石川後楽園内に移設された。
ここで江戸時代へのタイムスリップはいったん強制的に小休止となる。散歩当日は土曜日だったため、この周辺には東京ドームシティアトラクションズへ向かう“イマドキのヤングなピーポー”であふれ返っていたからだ。
だけどここではあえてそれに逆らわず、20世紀文明の利器である電車を利用して一気に次の目的地へと向かうことにしよう。
電車を降りたのは浅草橋駅。その西口を出て、北へ少し歩いた道沿いに、かつて「医学館」があった。幕府の奥医師・多紀元孝によって建てられた漢方医たちの牙城である。
ここも現在は、近くの建物の角に台東区教育委員会の立てた案内板があるだけだけど、皆さんがここを歩かれる際には、ぜひこれから向かう、お玉が池種痘所との位置関係を地図で確かめていただきたい。神田川を挟んで漢方医と蘭方医たちがにらみ合っていた、その位置関係がよ〜く見えてくると思います。
ということで次に向かうは「お玉が池種痘所」跡地である。手塚良仙たちが文字通り命を賭けてその設立に取り組んだ江戸で初めての種痘所で、勘定奉行・川路 聖謨の屋敷内に設けられたという。
現在はその場所に建っているビルの外壁に、地元の史跡保存会によって立てられた記念プレートと石碑がある。
資料によるとこのあたりには、徳川家康が江戸に幕府を開くまでは不忍池よりも大きい池があったという。しかし幕府の都市開発計画によってその池はどんどんと埋め立てられていった。
そしてかつて桜が池と呼ばれたその池が、江戸時代にお玉が池と呼ばれるようになったその由来は、池のほとりの茶屋にいた、お玉という看板娘からきているという。お玉は今で言う三角関係に悩み、池に身を投じてしまった。そしてその亡骸を供養するために建てられたのがお玉稲荷であり、ここをお玉が池と呼ぶようになったのだと。
そのお玉稲荷はビルの谷間にいまもひっそりとあるので、散歩の折にはぜひお参りをしましょう。
そして今回の散歩もいよいよ最後の目的地となる。千葉周作の剣の道場「玄武館」跡である。『陽だまりの樹』では、千葉周作危篤の知らせを聞いて道場へかけつけた万二郎が、そこで清河八郎と出会い、河原で決闘をすることになる。
その道場跡には、廃校となった小学校の門の奥に、それを記念する石碑が建っているのみだ。
今回の散歩は、ほとんどのスポットが現存しないため、それを記念する案内板や石碑だけを訪ねる散歩となった。だけど実際に歩いてみると不思議と江戸時代の空気が感じられ、東京という街が、江戸の歴史の上に成り立っていることを実感として感じていただけるはずだ。
まずはぜひスタンプラリー感覚で案内板や石碑を探しながら歩いてみていただきたい。天気のいい日ならばきっと素敵な『陽だまりの樹』散歩になると思いますよ!
ではまた次回の散歩にも、ぜひまたご一緒くださいね〜〜〜〜っ!!