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虫ん坊 2012年06月号:虫さんぽ 第22回:東京都文京区〜千代田区 陽だまりの樹さんぽ!

虫ん坊 2012年06月号:虫さんぽ 第22回:東京都文京区〜千代田区 陽だまりの樹さんぽ!

 手塚治虫先生の祖先である蘭方医・手塚良庵が活躍する異色の時代劇コミック『陽だまりの樹』。物語は幕末という激動の時代を舞台とした壮大なフィクションだけど、そこには歴史に残された実在の場所がいくつも登場する。今回は古地図にもその名がはっきりと記されている手塚良庵の自宅兼診療所跡をはじめ、『陽だまりの樹』に描かれた東京の様々なスポットを巡ります!!



◎江戸時代末期へのタイムスリップ散歩!

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東京メトロ・丸ノ内線茗荷谷みょうがだに駅。「渋谷」と同じく「谷」という文字がついてることでわかるように、このあたりは谷地で、地下鉄なのに地上を走っている

 現在、NHK BSプレミアムで絶賛放送中のドラマ『陽だまりの樹』、みなさんご覧になってますか〜〜っ!? この文章を書いている時点では、物語はわりと原作に忠実に進んでるけど、ドラマになるとやっぱりマンガとは雰囲気が違ってそれもまた楽しいですね! ということで今回はこのBSドラマ応援企画として、急きょ『陽だまりの樹』さんぽをすることになりました!
 スタート地点は東京メトロ丸ノ内線の茗荷谷駅。住宅街の真ん中にある、ごくありふれた駅だけど、これが不思議。歩き出したとたん、あなたの目はあなたの体を離れて、江戸時代末期へと迷いこんでしまうのです……!!


◎手塚先生が自身の祖先に迫った意欲作!!

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播磨坂の遊歩道に立って、かつて松平播磨守のお屋敷があった方向を見る。真ん中に立っているのが高層マンション・小石川パークタワーだ

 ここで『陽だまりの樹』についてざっと紹介しておこう。『陽だまりの樹』は手塚先生が1981年から86年まで雑誌『ビッグコミック』に連載した時代劇コミックだ。江戸・小石川に住む武士・伊武谷万二郎と蘭方医・手塚良庵。幕末という動乱の時代を舞台に、歴史に翻弄されながらも必死で生きようとするふたりの生きざまを描いた大長編ドラマである。
 またこの主人公のひとり・手塚良庵は手塚治虫先生の3代前の祖先であり、先生が自らのルーツを描いた作品としても大きな話題となった。
 では手塚先生がなぜ自分自身の祖先を描くことになったのか!? そのきっかけやいきさつについては、過去のコラム 『虫さんぽ』第20回 神奈川県川崎さんぽと、『手塚マンガあの日あの時』第22回 『陽だまりの樹』創作秘話 でくわしく紹介しているので、ぜひそちらも参照していただきたい。


◎春の陽だまりを歩く虫さんぽ

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安政4年(1857年)に刊行された「尾張屋版江戸切絵図」の「小石川絵図」(部分)。左上に松平播磨守の屋敷が描かれている。その右のこんもりとした森が描かれている場所が、これから向かう伝通院である ※『江戸切絵図集成第五巻』(昭和57年中央公論社刊)より引用

 ではさっそく散歩に出発いたしましょう。茗荷谷駅を出たら春日通りを東へと歩く。『陽だまりの樹』散歩で最初に歩く通りが「春」の「日」だなんて何という偶然か!
 300メートルほど歩くと左側に並木道が見えてくる。道の両側が車道になっていてその真ん中を桜並木にはさまれた遊歩道が、ここからおよそ300メートル先まで続いている。この通りを播磨坂という。
 春日通りからこの遊歩道へと入ると道は文字通りゆるい下り坂になっていて、かつてはこの坂を半分ほどくだった右側に常陸府中藩「松平播磨守のお屋敷」があった。そしてもちろんこれが播磨坂という地名の由来なのだ。


◎現代の住宅街に江戸時代の道を見た!

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松平播磨守のお屋敷から万二郎らが登城する、第1話の冒頭場面 ※講談社版全集第326巻『陽だまりの樹』第1巻より

『陽だまりの樹』の主人公・伊武谷万二郎はこの松平播磨守の家臣という設定であり、手塚良仙・良庵父子もまた、代々この松平播磨守に侍医として仕えていた。
 この一帯は、今ではマンションなどが建ち並ぶ住宅街になっていて、当時の面影はまったくない。そこで今の地図に江戸時代の地図を重ね合わせてみると……どうやら現在、小石川パークタワーという高層マンションの建っているあたりが、かつての松平家のお屋敷の中心だったようだ。
 さらに同じ古地図で見ると、不規則に曲がりくねった路地の多くが江戸時代からある昔の道の名残りであることがわかる。こうした発見は歴史散歩の楽しみですね〜。


◎手塚良庵宅・跡へ向かう!

 さて、播磨坂からその路地を一歩曲がると急に車の騒音が遠ざかり、石垣や板塀、垣根など周りの風景もにわかにレトロになってくる。ここでほんのちょっぴり想像力を働かせれば、目の前に江戸時代当時の風景を想像するのもさほど難しくない……かもしれない。おのおのがた、気分はもう幕末でござるぞ!!
 ということで気持ちも盛り上がってきたところで次に向かうのが、手塚先生の3代前の祖先、手塚良仙・良庵父子が暮らしていた家の跡地だっ!


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三百坂下の手塚良仙宅跡の前。この画像の左端の金網と生け垣で囲われた部分が竹早小・中学校の敷地の北西端となり、ここに手塚良仙の自宅兼診療所があったと思われる

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前出の「小石川絵図」のさらに部分アップ。「三百サカ下トヲリ」と書かれた路地の左端下に「手塚良仙」という名前が見える。この通りは左から右へ(西から東へ)向かってゆるい上り坂になっていて、その先の丁字路を右へ曲がったところからが「三百坂」だ。三百坂へ入ると坂の傾斜角度は急に強くなる ※『江戸切絵図集成第四巻』(昭和57年中央公論社刊)より引用


◎手塚良庵の家は中学校になっていた!?

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『陽だまりの樹』に描かれた手塚良仙宅前の通り。実際にこのような街並みだったかどうかはもちろん不明。そしてじつは『陽だまりの樹』の中でも、手塚先生は何パターンか違う街並みを描いている ※講談社版全集第326巻『陽だまりの樹』第1巻より

 松平播磨守のお屋敷跡の手前の路地を右に折れて、そのままゆるい上り坂を上っていく。古地図には“三百サカ下トヲリ”と記されている道だ。
 道は狭いが人通りは割と多い。住宅街だからフツーに地元の人が歩いているんだけど、ぼくだけ江戸時代の道を想像しながら歩いていると思うと何だか妙な気分だ。
 しばらく行くと右側に東京学芸大学附属竹早小学校・中学校の校庭が見えてくる。
 現在の地形と古地図を重ね合わせてみると……ここだ、間違いない。この学校の敷地の北西の角となる場所に、手塚良仙宅があったのだ。手塚先生が『陽だまりの樹』執筆の際に参考にした深瀬泰旦先生の論文によれば、良庵の父・手塚良仙はここで内科の診療所を開業していたという。
 残念ながらここにも当時をしのぶものは何もなかったが、安政4年(1857年)に発行された古地図には“手塚良仙”という名前がはっきりと記されている。
 また詳しい場所はわからないが、伊武谷万二郎の家もこの良庵の家のすぐ近くにあるという設定だった。


◎「三百坂」という名前のいわれ

『陽だまりの樹』第1話のオープニングシーンでは、この良庵の家の前の坂道を万二郎が毎朝、必死で駆け上がり、良庵がそれをいつもニヤつきながら見ている。
 この“三百サカ下通り”をさらに東へ進むと、右へ折れる丁字路があり、その先はまた急に上り坂がきつくなっている。竹早小・中学校の敷地に沿って逆コの字に折れ曲がった急坂の細い路地。ここが次の手塚スポット「三百坂」である。
 元は“三貊さんみゃく坂”という名前だったこの坂が、やがて“三百坂”と呼ばれるようになったのにはいわれがあった。
 坂の途中に文京区教育委員会が立てた案内看板があったので、その内容を要約してみよう。
「『江戸志』によれば、松平播磨守は、新しく召しかかえた従者が役に立つ者かどうかを試すため、朝、主君が江戸城へ登城する際、従者たちを屋敷の玄関前に整列させ、身なりをチェックした後、従者たちを全力で走らせた。そして先に出発している主君を追いかけ、この坂を上りきるまでに追いつけなかった者には罰金として三百文を払わせた」  と、これが三百坂の名前の由来だそうで、『陽だまりの樹』のオープニングはこのエピソードを元に描かれたのだった。


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三百坂の途中に立てられている案内板(左)と三百坂。この坂にまつわるこのいわれが『陽だまりの樹』の第1話で、万二郎が全力でこの坂を駆け上がるエピソードにつながったのだろう


◎取材に訪れた手塚先生に偶然の出会いが!

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二次元のマンガで坂道の傾斜を表現するのは難しい。手塚先生はそれをこんなさりげない描写で見せている ※講談社版全集第330巻『陽だまりの樹』第5巻より

 手塚先生は『陽だまりの樹』を執筆する前に、この場所を取材に訪れている。  今回もその取材に同行した手塚プロのSさんにお話をお聞きした。Sさんにはこれまでも何度か『虫さんぽ』にご登場いただいて手塚先生の貴重なお話をうかがっているが、あらためて紹介しよう。Sさんは手塚先生の運転手として昭和40年代から手塚先生の最晩年まで、先生の仕事をずっと見続けてきた方である。以下、Sさんのお話。
「わたしが手塚先生の取材に同行したのは、先生が三百坂と手塚良仙の家へ行ったときですね。でも行く前から場所がはっきりとわかっていたわけじゃなくて、伝通院の裏手あたりということがわかってるだけだったんです。
 それで近くに車をとめて先生とふたりで「どこだろう」なんて言いながら路地を歩き回ったんですが、なかなかわからなくてね。困っていたところへ偶然にも手塚先生のお知り合いとばったり出会ったんです。そしてその方が場所を知っておられたので案内してくださって、「ああここか」とようやくその場所がわかったんです。
 あいにくその方のお名前が思い出せないんですが、手塚先生が「この人も漫画家だよ」と紹介してくださいましてね。年配の方だったので漫画集団の手塚先生の先輩漫画家だったのかもしれません。お孫さんを連れておられて散歩の途中という様子でしたので、恐らくこの近所にお住まいだったんでしょう」


◎手塚先生は江戸時代に思いを馳せた!

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伝通院の本堂。伝通院は応永22年(1415年)に開山した歴史あるお寺だが、太平洋戦争の空襲で建物は全て焼失してしまい、現在の本堂は昭和63年に新たに建立されたものだそうである

 なんと! 観光地でもないこんな住宅街の路地裏で、そんな偶然の出会いがあったとは驚きです。
 手塚先生が『陽だまりの樹』を執筆するまでには、これまでにもいくつもの幸運な偶然が重なっていたことを過去のコラムでも紹介してきましたが、さらにここでも……!!
 これはやはり手塚先生のご先祖様が「手塚治虫よ、このマンガを描きなさい」と言って手塚先生を応援していたとしか思えませんねっ!
 ところでSさん、現地を取材した手塚先生は何か感想を語られていましたか?
「実際に行かれたらわかると思いますが、当時のものが何か残っているわけではないので、手塚先生は「けっこう狭い道だったんだね」と言って昔の風景を思い描きながら、坂の感じや距離感などを印象に刻んでいたようです。
 三百坂を登り切ったところでは、手塚先生は「今は高い建物があって何も見えないけど、昔はここから江戸城が見えたんだろうね」と言ってその方向を見渡しておられました」
 Sさん、今回も貴重なお話、ありがとうございました!!


◎文久3年春、伝通院に集まった浪士たち

 散歩を続けよう。次に向かったのは「伝通院でんづういん」である。正確には「無量山傳通院寿経寺」というが、地元では伝通院もしくは小石川伝通院で通っている。
 その名前の由来は徳川家康の生母・於大の方がここに祀られ、その法名“伝通院殿”にちなむという。
 ここ伝通院は『陽だまりの樹』の後半に登場する。文久3年(1863年)に相馬藩脱藩浪士・清河八郎が中心となり“浪士隊”の隊士を募った。その集合場所がここ伝通院の分院「処静院しょじょういん」だったのだ。
 浪士隊とは将軍の警護役をつとめるために集められた民兵組織で、武士だけでなく農民や町人などを広く募ったのが特徴だった。そしてこれが後の新選組にとつながるのだ。
 どうしても武士になりたいという万二郎の弟子の猟師・平助はこれに応募し、万二郎の家を出て、ひとり伝通院へと向かう。
 当時、伝通院の敷地は今の何倍もある広大なもので、処静院があったのは三百坂を上ってきて坂を登り切った左側、古地図には「所浄院」と記されている所だ。
 現在そこは、近くに文京区教育委員会が立てた案内板が立っているだけで他にはなにもない。ただ伝通院の山門の横に、かつて処静院の前に立っていたという石柱が置かれているので、散歩の折にはぜひそれもチェックしていただきたい。


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猟師の平助が浪士組募集に応じて伝通院へ向かう場面 ※講談社版全集第334巻『陽だまりの樹』第9巻より

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伝通院の山門脇に残る石柱。浪士組募集の場所となった伝通院の分院「処静院」の前に立っていたものだということだ


◎福沢諭吉の『福翁自伝』からのエピソード

 伝通院からは再び春日通りに出てそれを少し西へ戻り、細い路地を左へ折れる。ここも急な下り坂となっていて「金剛寺坂」という名前が付いている。この近くにかつて森山多吉郎という英語の通詞(通訳)が住んでいた。
 福沢諭吉の著書『福翁自伝』によれば、福沢はこの通詞に英語を教えてもらいたくて、鉄砲洲(現在の中央区湊あたり)の自宅からここまで日参した。しかし帰りはいつも真夜中になってしまい、途中、追いはぎが出るとうわさされた寂しい道を通らなければならず、ひじょうに恐かったと述懐している。
 ……というこの『福翁自伝』のエピソードを手塚は『陽だまりの樹』に取り入れている。福沢に誘われた良庵が福沢と一緒に森山の家を訪ねるのだが、案の定、帰りは深夜となってしまう。そして通りかかった追いはぎの出るというウワサの場所で、前方から怪しい人影がっ……!!


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金剛寺坂。松平播磨守のお屋敷から長い坂をずーっと上ってきて、ここまで来ると、こんどはまた急な下り坂となっている。福沢諭吉は当時、鉄砲洲(現在の中央区湊)にあった奥平中屋敷に住んでおり、そこからこの場所までおよそ7kmを歩いて通訳の元へ通った

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福沢諭吉と手塚良庵が夜道を恐ごわと帰る場面。マンガに描かれたこの場所は、今回の散歩では訪ねなかったが、かつての地名を護持院ヶ原ごじいんがはらといい、現在の神田錦町2〜3丁目あたり。当時、その一帯は火除地(防火用地)として広大な原っぱとなっており、昼間でも人通りの少ない寂しい場所だったという ※講談社版全集第332巻『陽だまりの樹』第7巻より


◎伊武谷の人生に道を与えた藤田東湖の最期

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小石川後楽園北側の道。この写真の左側はすぐ車道で自動車がバンバン走っているんだけど、右側の塀だけを見るとまさに気分は江戸時代だ!!

 もう夏も近いというのに何だか背筋がゾクゾクしてきたので先を急ごう。
 小石川後楽園と東京ドームの北側を通って水道橋駅方面へと南下する。すると歩道の脇に「藤田東湖護母ごぼ致命のところ」と記されたジミな看板がひっそりと立っている。
 ここ東京ドームと小石川後楽園のある場所にはかつて水戸藩のお屋敷があり、藤田東湖はその敷地内に母とともに暮らしていた。ところが安政2年(1855年)の大地震で藩邸が倒壊。東湖は倒れてきた家の鴨居を肩で支えて母を庭に出し、自らはそこで命を落とした。『陽だまりの樹』にも描かれた藤田東湖の最期の姿である。
 かつてこの場所にはもっと立派な石碑が建っていたが、白山通りが拡張された際に、その石碑は小石川後楽園内に移設された。


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藤田東湖終焉の地を示す案内板。東京ドーム脇の歩道に立てられているが、これに目を止める人はほとんどいない

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安政の大地震で藤田東湖の屋敷が倒壊する場面 ※講談社版全集第327巻『陽だまりの樹』第2巻より


◎漢方医の牙城「医学館」跡を訪ねる

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医学館は当初、明和2年(1765年)に私塾・躋寿館せいじゅかんとして設立されたときには、神田川のほとりの神田佐久町にあった。しかし寛政3年(1791年)、幕府公認の官立・医学館となり、現在、案内板のある場所へ移転したのだ ※講談社版全集第330巻『陽だまりの樹』第5巻より

 ここで江戸時代へのタイムスリップはいったん強制的に小休止となる。散歩当日は土曜日だったため、この周辺には東京ドームシティアトラクションズへ向かう“イマドキのヤングなピーポー”であふれ返っていたからだ。
 だけどここではあえてそれに逆らわず、20世紀文明の利器である電車を利用して一気に次の目的地へと向かうことにしよう。
 電車を降りたのは浅草橋駅。その西口を出て、北へ少し歩いた道沿いに、かつて「医学館」があった。幕府の奥医師・多紀元孝によって建てられた漢方医たちの牙城である。
 ここも現在は、近くの建物の角に台東区教育委員会の立てた案内板があるだけだけど、皆さんがここを歩かれる際には、ぜひこれから向かう、お玉が池種痘所との位置関係を地図で確かめていただきたい。神田川を挟んで漢方医と蘭方医たちがにらみ合っていた、その位置関係がよ〜く見えてくると思います。


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医学館のあった場所(左)と、そこに立てられている案内板


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現在の神田川。水はあまりきれいではないが、水鳥がのどかに泳いでいた


◎お玉が池種痘所とお玉稲荷

 ということで次に向かうは「お玉が池種痘所」跡地である。手塚良仙たちが文字通り命を賭けてその設立に取り組んだ江戸で初めての種痘所で、勘定奉行・川路 聖謨かわじ としあきらの屋敷内に設けられたという。
 現在はその場所に建っているビルの外壁に、地元の史跡保存会によって立てられた記念プレートと石碑がある。


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お玉が池種痘所跡地に建つビルの外壁に、記念碑とプレートが掲げられている。かつてこのあたりは神田松枝町といわれていた。この地域に種痘所跡地があったことを記念する石碑は、すぐ近くの岩本町三丁目交差点にもある


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マンガの中に描かれた、お玉が池種痘所とその跡地の碑 ※講談社版全集第331巻『陽だまりの樹』第6巻より


 資料によるとこのあたりには、徳川家康が江戸に幕府を開くまでは不忍池よりも大きい池があったという。しかし幕府の都市開発計画によってその池はどんどんと埋め立てられていった。
 そしてかつて桜が池と呼ばれたその池が、江戸時代にお玉が池と呼ばれるようになったその由来は、池のほとりの茶屋にいた、お玉という看板娘からきているという。お玉は今で言う三角関係に悩み、池に身を投じてしまった。そしてその亡骸を供養するために建てられたのがお玉稲荷であり、ここをお玉が池と呼ぶようになったのだと。
 そのお玉稲荷はビルの谷間にいまもひっそりとあるので、散歩の折にはぜひお参りをしましょう。


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お玉稲荷。お社の向かって右横には小さなお社がもうひとつあり、お玉が池という名前の由来を示すかのように、その下が水を張った池になっている


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マンガに登場したお玉稲荷。万二郎はここで、かつて一度引き分けた清河八郎と再び刃を交えようとするのだが…… ※講談社版全集第326巻『陽だまりの樹』第1巻より


◎スタンプラリー感覚でいよいよゴール!

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「右文尚武」と書かれた碑。千葉周作の玄武館の西隣には、漢学者・東條一堂が開いた瑶池塾があり、この石碑はその両者を顕彰するために建てられたものだった

 そして今回の散歩もいよいよ最後の目的地となる。千葉周作の剣の道場「玄武館」跡である。『陽だまりの樹』では、千葉周作危篤の知らせを聞いて道場へかけつけた万二郎が、そこで清河八郎と出会い、河原で決闘をすることになる。
 その道場跡には、廃校となった小学校の門の奥に、それを記念する石碑が建っているのみだ。


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千葉周作の北辰一刀流剣術道場「玄武館」のあった場所は、今は廃校となった千桜小学校の校門の中にある。この門はふだん閉まっているので入るのをためらうが、開けて入ってかまわないそうだ。ただし帰るときはまたきちんと閉めておくように


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手塚良庵を襲った暴漢を斬った万二郎。だがその暴漢はじつは玄武館の兄弟子たちだった。これはその翌日、呼び出しを受けた万二郎が玄武館へ出頭する場面 ※講談社版全集第326巻『陽だまりの樹』第1巻より

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安政6年(1859年)刊行の「尾張屋版江戸切絵図」の「日本橋北神田浜町絵図」(部分)。中央上部に白バックで大きく「市橋壱壹岐守」と書かれているお屋敷の左隣に「千葉周作」の名前が見える。そこから右斜め下へ視線を移すと、赤バックになって鳥居が描かれた場所があり、そこがお玉稲荷だ。残念ながら種痘所のあった場所はこの古地図では特定できなかった。※『江戸切絵図集成第四巻』(昭和57年中央公論社刊)より引用


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今回の散歩のゴールは流行の最先端の町・秋葉原だ。はるか江戸時代から、再び一気に現代へと戻ってきた感じがしますね!

 今回の散歩は、ほとんどのスポットが現存しないため、それを記念する案内板や石碑だけを訪ねる散歩となった。だけど実際に歩いてみると不思議と江戸時代の空気が感じられ、東京という街が、江戸の歴史の上に成り立っていることを実感として感じていただけるはずだ。
 まずはぜひスタンプラリー感覚で案内板や石碑を探しながら歩いてみていただきたい。天気のいい日ならばきっと素敵な『陽だまりの樹』散歩になると思いますよ!
 ではまた次回の散歩にも、ぜひまたご一緒くださいね〜〜〜〜っ!!

虫ん坊 2012年04月号:虫さんぽ 第21回:東京都新宿区・高田馬場、手塚グルメを味わう春のお花見さんぽ!!


(今回の虫さんぽ、4時間15分、3345歩)


黒沢哲哉
 1957年東京生まれ。マンガ原作家、フリーライター。手塚マンガとの出会いは『鉄腕アトム』。以来40数年にわたり昭和のマンガと駄菓子屋おもちゃを収集。昭和レトロ関連の単行本や記事等を多数手がける。手塚治虫ファンクラブ(第1期)会員番号364番


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