手塚治虫先生ゆかりの地をめぐって東へ西へ! 今回の虫さんぽは大東京のど真ん中、東京・銀座を、手塚先生のベレー帽にまつわるエピソードを訪ねて歩きます。ベレー帽といえば手塚先生の自画像に欠かせないトレードマーク! だけどそのベレー帽と銀座には、いったいどんな関係があるのかっ!? 年末のあわただしさをしばし忘れて、皆さんもぜひ、虫さんぽにおつきあいくださいっっ!!
今回の散歩はJR線・有楽町駅からスタートします! ここ有楽町にある手塚先生ゆかりのスポットといえば、まずは映画館・有楽町スバル座だろう。
昭和26年、有楽町スバル座でディズニーの長編アニメーション映画『バンビ』がロードショウ公開されたとき、手塚先生は公開初日から連日通い詰めたという。
そのスバル座はちょうど1年前の冬の虫さんぽで紹介済みだけど、じつは有楽町駅と手塚先生との関係はまだあった! ある手塚マンガの中で、ここ有楽町駅が物語の発端となる重要な事件の場所として登場していたのだ。今回はそこを散歩のスタート地点といたしましょう!!
そのマンガとは、昭和34年、日本初の週刊少年誌として創刊された『週刊少年サンデー』に創刊号から連載された『スリル博士』である。
有楽町駅が出てくるのは『スリル博士』の第5話「私は死にたくない!」の冒頭だ。有楽町駅前のアパートに暮らす少年が、真夜中に駅のホームで起きた殺人事件を目撃してしまったところから物語が始まる。
しかもこの少年の設定がユニークで、じつはこの少年、不眠症に悩んでいるという設定になっている。さらに少年の部屋は映画看板の裏側にあって、少年はその夜も眠れぬまま映画看板に空けられた穴から、深夜の街を覗き見していて、事件を目撃してしまったのである。
有楽町駅前も、当然ながら昭和34年と現在では大きく変わってしまったけど、駅のまわりをぐるぐると歩き回ってみたところ、映画看板と駅のホームとの位置関係が、マンガとちょうどよく似た構図になる場所を発見した。これは駅の北東の角にあたる場所だ。
『スリル博士』を読んでからこの場所に立ち、この看板の裏に不眠症の少年の部屋があったのかも……とか考えるとこのマンガのリアリティがちょっぴり増すのではないだろうか。
それでは次の手塚スポットを目ざしましょう。交通会館の北側を通り、外堀通りを横断して銀座柳通りを南下する。この通りは道の両側に柳の並木が立ち並んでいて、古き良き時代の銀座を
さあ、ここからいよいよ冒頭で触れた、手塚先生のベレー帽にまつわる散歩が始まります!!
中央通りへ出たら左折、舗道を20メートルほど歩くと、右側のビルの1階に、いかにも老舗の風格を漂わせた帽子屋さんのショーウィンドウが見えてくる。銀座トラヤ帽子店である。
もうお分かりですね! 手塚先生はベレー帽を、予備も含めて常時100個以上持っていたそうだけど、その中にこの老舗帽子店で購入したベレー帽もあったのだ!!
ということで、これからトラヤ帽子店におじゃまして話をお聞きする予定なんだけど、その前に手塚先生のエッセイから、先生のベレー帽に対するコダワリを紹介しておこう。
「ベレーはぼくの顔の一部である。めがねやかつらがそうであるように、ぼくはどんなVIPの前へ出ても絶対にとらない。また、どうしてもぬいで出ろといわれるようなところへは行かないことにしている。(中略)
ぼくがベレーをぬぐのは、パスポート用の写真を撮るときと入院したとき、床屋へ行くとき、それにコンビニエンス・ストアに入る際だ。ベレーをかぶって手巻きずしやラーメンを買うと、店員が目を丸くしてベレーと顔とを眺め、「へえー、アトムさんも人並みのものを食べるんですか!」といったりする。情けない。だからベレーをとり、めがねもはずして入る」(講談社版手塚全集第397巻『手塚治虫エッセイ集』第7巻「ベレーは顔の一部です」より ※初出:1985年『週刊朝日』)
トラヤ帽子店さん、おじゃましま〜す! 対応してくださったのは、帽子がバッチリ似合うダンディな大滝雄二朗店長である!!
大滝さんこんにちは、お忙しいところ失礼いたします! さっそくですが手塚先生がこちらのお店にベレー帽を買いにみえたことは、お店の記録に残っていたりするんでしょうか?
「それがですね、あいにくわたくしどもの方には、記録などは何も残っておりませんでした。手塚先生がうちの帽子をご愛用くださっていたということも、先生が亡くなられたずっと後になって知ったんですよ」
ええっ、そうなんですか!?
「当店は大正6年に東京千代田区の神田神保町で創業しまして、銀座に移転したのは昭和5年からになります。おかげさまで当店の帽子は、各界の著名な方々にもご愛用いただいていますが、私どもがそれを知るのは、雑誌などで紹介されたりして初めて、ということがほとんどなんですよ」
では手塚先生の場合も雑誌の記事か何かで?
「いえ。手塚先生のときは、手塚プロからご連絡をいただいたんです。先生の遺品の中に、うちで販売させていただいたベレー帽があったということで。それがご縁で、一時期、手塚先生のベレー帽のレプリカをお作りして兵庫県宝塚市の手塚治虫記念館での販売用に卸させていたいておりました」
ああ、あの手塚記念館の売店で売られていたベレー帽には、そんないわれがあったんですね!!
ところで大滝さん、遺品にあったというその手塚先生のベレー帽はどんなものだったんですか?
「現在もうちで扱っておりますフランス製のバスクベレーです」
バスクベレーとはどんな帽子ですか?
「スペインとフランスの国境地帯のバスク地方で農民がかぶっている帽子がバスクベレーです。
バスクベレーの特徴は、頭頂部に小さなつまみ状の飾りが付いていることですね。元々は糸で編まれたニット帽でしたが、後にフェルトの帽子も出てきて、手塚先生が愛用されていたバスクベレーもフェルト製のものでした。
バスク地方では村ごとに帽子の形が微妙に違っていて、かぶっている帽子を見れば、どこの村の住人かが分かるそうですよ。
英語ではツバのある帽子をハットと言い、ツバのない帽子はキャップと呼ばれていますが、ベレー帽はキャップに分類されます」
ここまで話をうかがって、手塚ファンならば今すぐにでもベレー帽を購入し、手塚先生っぽくかっこよく決めてみたい! という方もいらっしゃるだろう。そこで大滝さんにベレー帽の選び方とかっこいいかぶり方を聞いてみたぞ!!
「フェルトは熱で縮む性質がありますから、かぶっている間にも体温で少しずつ縮んでくるんです。ですから買うときは、頭のサイズよりも気持ち大きめのものを買うことがポイントです。そうすると、だんだんと頭の形になじんで、その方の専用品のようになってくるんですよ」
おお! 大滝さんがいまおっしゃったのと同じようなことを、手塚先生もエッセイに書かれています。ちょっと紹介させていただきますね。
「ベレー帽というものはおもしろい。そんなにたくさんサイズがあるわけじゃないので、買った当初は、頭にまったくあわないのだ。
横にぺたんとひろがってぶざまだ。大黒様の頭巾のように見える。
ところが一か月くらいたつと、ふしぎに形が変わってくる。一年くらいかぶるともう注文品のように、ピッタリ頭にあう。
まことに奇妙なもんです」(講談社版手塚全集第398巻『手塚治虫エッセイ集』第8巻「ベレーの下」より ※初出:1982年『キネマ旬報』)
大滝さん、ベレー帽のかっこいいかぶり方というのはありますか?
「そうですね。ベレー帽は水平にかぶらずに、正面から見て左右どちらかにごくわずか傾けるようにするといいでしょう。かぶる深さは、片方の眉が隠れるくらいがベストです」
最後に、帽子のマナーについても教えていただけますか? ベレー帽は室内では脱ぐべきなんでしょうか。
「一般的には、ベレー帽も帽子なので屋内では脱ぐのがマナーとされています。ただ手塚先生のようにベレー帽がトレードマークとして定着しておられる方の場合は、周りの人が先生をご存知の方ばかりなら、屋内で帽子をかぶっていてもマナー違反と考える人はいないでしょう。
しかし周りに手塚先生をご存じない方がいて、その方が不快な思いをされたとしたら、それはやはりマナーとして好ましくないということになります。
大切なのはルールではなく、周りの人の気持ちに配慮してTPOを考える気持ちということですね。
ちなみに松本零士先生がかぶっておられるような、頭にピッタリとしたニット帽のような帽子は室内でかぶっていも問題ありません。
帽子は、ときにフォーマルなときにカジュアルな装いを演出する最高の小道具です。周りへの気配りを忘れずに、紳士淑女らしくかぶりこなしてみてください」
大滝さん、ありがとうございましたっ!!
トラヤ帽子店を後にしたぼくは、何となくダンディになった気になり、気取った足どりで中央通りを南西へと歩き出した。やがて見えてきたのが銀座四丁目交差点である。
このあたりの風景は手塚マンガの中にもたびたび登場しているが、今回は『スリル博士』とほぼ同時期の昭和35年、雑誌『小学四年生』に掲載された『冒険放送局』を紹介しよう。
この作品は、孤児の兄妹ミノルとマリモが、謎の博士の発明品・モシモ1号の力によって“もしも”の世界へ入り込み、さまざまな冒険をするというお話だ。
このお話でふたりが最初に行ったのは「もしも人間がぼくたちふたりだけだったら」という世界だった。
ふたりはそこで、人っ子ひとりいなくなり荒れ果てた無人の銀座四丁目交差点だった。あんなにたくさんいた人間たちはどこへ行ってしまったのかっっ!?
さらに『冒険放送局』の別のエピソードには、三越ならぬ“四越デパート”が登場する。
この話では、ミノルとマリモのふたりは透明人間になって“まぼろし兵団”という悪の組織の謎を追う。
その捜査の過程で、まぼろし兵団一味が四越デパートに潜んでいるということを知ったふたりは、さっそくデパートへと乗り込んだのだ!
ということで、今回の虫さんぽでも、銀座三越にチラッと寄ってみた。ほほう、ここがまぼろし兵団が潜んでいたという四越デパートか(違うって!)。
銀座四丁目交差点からは晴海通りを北上し、次の手塚スポットを目ざそう。じつはそこもまた手塚先生のベレー帽にまつわるエピソードが残されている場所なのだ。
銀座ソニービルの北側をぐるっとまわって外堀通りを渡り、みゆき通りを北へ進むと、右手にクラシカルな建物の小学校が見えてくる。明治11年創立の泰明小学校である。この小学校の卒業生には、北村透谷や島崎藤村など、さまざまな作家、文化人、芸能人などが名を連ねる歴史ある学校だ。
昭和4年に建設された鉄筋コンクリート製の校舎も有名で、経済産業省の近代産業遺産にも指定されているという。
次の手塚スポットであるバー「数寄屋橋」は、かつてこの泰明小学校にほど近い路地の奥にあった。
このバーで、いったい手塚先生のベレー帽にまつわるどんな出来事があったのか。さっそく手塚先生のエッセイから紹介しよう。
そのお話は、オペラ『唐人お吉』などで知られる作曲家・高木東六氏のこんなエピソードから始まる。ちなみに「数寄屋橋」の店名は、このエッセイの中ではイニシャルで「S」と紹介されている。
「あるとき、
《手塚さん、うちに純フランスベレーがあるけどあげましょうか》
といわれた。
《どうもすみません!》
とありがたく頂戴してしばらくたったとき、例によって、銀座のSで飲んでいた。ホステスが、《手塚さァん、そのベレーちょうだいィ、ねェ、ほしいわァ》としつこいので、《いいよもってけ!》と酔ったいきおいで渡してしまった。
酔いが覚めてから、
《しまった! ありゃ高木先生のベレーだ!》
と気がついたがもう遅い。悪いことに、当の高木先生がそのあとSへ飲みにきたのだ。
後日、高木先生が、
《手塚さん、私のさしあげたベレーをホステスにゆずったのですか?》
酔ったいきおいでつい……といえばいいのに、
《ハア……ムニャ、ムニャ……すみません》
《いや、私はうれしいのですよ》
と先生は気楽におっしゃったが、ぼくは赤面、それ以来、高木東六先生には合わす顔がなくて恐縮していた。
ところがつい先日、横浜の女性から連絡があって、
《手塚さんがSでなくしたベレー、うちにあるわョ》
というのだ。
なんで横浜にあるのかわからない。ベレーにきいてみたい」(前出のエッセイ「ベレーの下」より)
この「数寄屋橋」は、あいにく今はもう跡形もなくなってしまったが、その場所については、峯島正行の著書『さらば銀座文壇酒場』に収録されたマップに詳しい。
峯島氏は元実業之日本社の編集者で、1959年、同社から創刊された『週刊漫画サンデー』の初代編集長を務めた人物だ。
手塚先生は『週刊漫画サンデー』に『人間ども集まれ!』(1967〜68年)、『上を下へのジレッタ』(1968〜69年)など異色の青年マンガを数多く発表しているが、そのきっかけを作った最初の仕掛け人が峯島氏だったのだ。
戦後から1980年代末のバブル崩壊ごろまで、夜の銀座は作家や文化人たちが数多く集まる大人の社交場だった。
エリアでいうと晴海通りと並行して南北に走るみゆき通りの西側から新橋にかけての一帯、銀座6〜8丁目あたりには、小さなバーやクラブが密集しており、そこには作家たちのたまり場となっている酒場が何軒もあったのだ。
峯島氏の著書は、そうしたいわゆる文壇酒場を惜別の思いを込めて振り返った名エッセイである。
峯島氏は、昭和30年代以降はマンガ家とも多く銀座を飲み歩いていたそうで、その先頭に立ってはしご酒をしていたのがマンガ家の横山隆一氏であった。また横山氏に誘われていつも行動を共にしていたのが、同じ漫画集団に所属する近藤日出造や杉浦幸雄、そして手塚先生だったのだ。
手塚先生はお酒はあまり強い方ではなかったというが、人づきあいが好きだから酒席にもまめに顔を出し、一時期は夜の銀座でもかなりの顔だったらしい。
峯島氏の著書によれば「数寄屋橋」は昭和43年ごろにオープンした、銀座の文壇酒場としては新参の店だった。それだけに若いマンガ家が多く集まるようになったのだという。
また漫画集団のマンガ家たちと同時に、当時やっと注目され始めたばかりのSF作家たちも集まった。星新一、筒井康隆、眉村卓、田中光二、半村良などそうそうたる人物の名前が並ぶが、当時はいまだ大家ではなく、絶賛売り出し中のイキのいい新人たちだったのである。
手塚先生はSF作家とも多く親交があったけど、このお店で深めた親交もあったに違いない。
その「数寄屋橋」があった路地をそのまま西へ向かって歩き、ほとんど新橋駅に着く直前の、クランク型に折れ曲がった路地に面してあったのが「バー小うた」だ。
峯島氏の著書ではこう紹介されている。
「『バー小うた』、ここはバーの椅子に腰掛けて、客が小唄を歌えるという異色の酒場であった」
ここは横山隆一氏がはしご酒の最後に立ち寄る店だったそうで、その理由は駅から近いので、終電ギリギリまで飲める、ということだったらしい。
いよいよ今回最後の手塚スポットへと向かおう。外堀通りを銀座西6丁目交差点で渡り、そのまま南下。交詢ビルというビルの真向かいにあったバーが「エスポワール」である。
この店は銀座の文壇酒場の中でも名店といわれた店で、ここに集った作家・文化人の名前を列挙するだけでもそうそうたるものがある。
源氏鶏太、丹羽文雄、石川達三、川口松太郎、東郷青児……。
それだけにこの店は高級で値段もハイクラスであり、ここでお酒を飲むことは作家にとって一種のステータスである一方で、敷居の高さ、居心地の悪さを感じる若手作家たちも多かった。
横山隆一氏らも最初はエスポワールに集まっていたが、やがて数寄屋橋へとその活動拠点を移していったのである。
ちなみに1971年に刊行された『まんが宣言』という小冊子にも『漫画家のたまり場めぐり 銀座の巻』という小さなコラム記事が掲載されていて、そこにも今回訪ね歩いた3店を含む5つの酒場が紹介されていた。あとの2つは外堀通りの電通ビルの並びにあった「ラモール」というお店で、もう1店が「コウ」というお店である。
「コウ」という店名はマンガ家の小島功氏にちなんで命名されたもので、宣伝マッチのマッチデザインも小島功氏の手によるものだったというが、峯島氏の著書にもその場所は記されておらず、その場所は特定できなかった。いずれまた判明したらご報告いたします。
さて銀座をぐるーっと大きくひと回りして銀座四丁目交差点まで帰ってきた。今回の虫さんぽはここで終了。今回のちょっぴりアダルティでダンディな銀座虫さんぽ、いかがだったでしょうか。
ここで最後に、手塚先生が先のエッセイの中で書かれているベレー帽のウンチク(?)を紹介し、今回の散歩を終えたいと思います。
「「ベレーの十徳」というのがある。
ベレーには、ほかの帽子にくらべて十のすぐれた点があることになっている。
「男女ともにかぶれる」
「前もうしろもない」
「しわくちゃになっても元に戻る」
「裏返しても使える」
というのはあたりまえだが、
「ベレーをまわすと、みんながお金を入れてくれる」
なんていうこじつけもある。
「食事のとき、脱がなくともすむ」
これは、実際試してみると、おおかたの海外のレストランではOKであった。いくつかのレストランでは、やや顔をしかめて遠慮がちに「おとりください」といった。(中略)
つまりベレーに対する解釈の違いだと思う。
ぼくは、ぼくのベレーはカツラだと思っている。つまり頭の一部なのだ。いうなれば入れ歯とか、眼鏡と同じ性質のものだ。(中略)
どうしてもとらねばならない場合のためにぼくはひとつのアイデアを考えた。
ベレーそっくりのカツラをつくったらどうだろう?(中略)
このアイデアをカミさんに話したら、ふきだした。そんなにおかしいのかな。黒柳徹子女史の頭みたいに、ひとつのシンボルになるんじゃないかと思うのだが」(前出のエッセイ「ベレーの下」より)
……ちなみに話はこのまま横道にそれてしまい、最初に「十徳」と言っておきながら六つの徳しか紹介しないまま終わってるんですが。……まーそれもまた手塚先生らしいトバし方でしょうかね!?
ではまた次回の散歩でご一緒いたしましょう!!