全3回にわたって巡る夏の北海道さんぽ、中編の今回は札幌編をお届けだっっ! 札幌は、北海道内のどこへ行くにも便利な中間地点に位置している。そのため手塚治虫先生も、仕事で北海道を訪れる際にはいつも札幌に宿を取ってここを拠点としていたという。今回はその札幌市内を、手塚マンガに登場した様々な風景を訪ねて歩きます。手塚先生の歩いた札幌の街を皆さんも一緒に追体験いたしましょう!!
北海道さんぽ4日目の朝は、前日までの薄曇りから一転して快晴となった。気温もぐんぐん上昇している。
前夜のうちに屈斜路湖から戻って札幌入りしていたぼくは、デジカメの充電が完了していることを確認し、車で札幌駅へと向かった。ここで手塚プロ編集担当のO山と待ち合わせをしているのだ。
O山は、今回の虫さんぽで記者のぼくだけが北海道へ行くのはずるいと言って会社に掛け合い、この日の札幌さんぽに1日だけ同行することになったのだ。いつもポワンとしていてつかみどころのないO山だが、こういうときの交渉力はなかなかのものがあるようだ。
間もなく、朝一番の飛行機で北海道に着いたというO山と無事に合流。1泊2日の行程で北海道へ来たO山は小さなナップザックひとつ背負っているだけだ。「荷物これだけなの?」と聞くと、「着替えとデジカメだけあれば十分ですから」とのことだ。
そんなO山を助手席に乗せて、この日まず最初に向かったのは札幌駅から東へ15kmほどの場所にある「北海道開拓の村」だ。
北海道開拓の村は北海道百年記念事業の一環として1983年4月に開村した野外博物館だ。54.2ヘクタールの広大な敷地に、明治から昭和初期にかけて北海道内に建築された52棟の建造物が移築・復元・再現されている。
幕末から明治初期にかけての開拓時代の北海道を舞台とした手塚先生のマンガ『シュマリ』。その時代の雰囲気が、ここへ来ればリアルに体験できるのだ!
ちなみに歩いた順序は前後してしまうが『シュマリ』で旧開拓使札幌本庁舎が登場する一連の流れの中に、後ほど訪ねる予定の「札幌市時計台」も出てくるので、ここでまとめて紹介しちゃいましょう。
札幌市中央区北1条にある札幌市時計台は、元々は札幌農学校の演武場という施設(の一部)だった。演武場が建設されたのは明治11年だが、当初時計塔は設置されていなかった。だがその後黒田清隆開拓長官の意見で時計の設置が決まり、アメリカから塔時計を購入した。そして明治14年、演武場に時計塔が増築されたのである。
その後、札幌農学校が明治36年に現在の北海道大学の位置へ移転した際、演武場(時計台)は札幌市が譲り受けることになった。
再び北海道開拓の村へ戻る。村は大きく分けて市街地群、農村群、山村群、漁村群の4つのエリアに分かれている。旧開拓使札幌本庁舎前の道を南東に進むとすぐに市街地群エリアだ。そのメインストリートを鉄道馬車が走っている。料金は大人(15歳以上)250円、小人(3歳以上15歳未満)100円。これに乗ると農村群の入口まで行くことができるけど、今回は初めて来たので建物をひとつひとつゆっくり見ていくために歩くことにした。
市街地群をそぞろ歩いて南東の端まで来ると教会風の建物がある。「旧浦河公会会堂」だ。この建物は明治13年に神戸に設立された「赤心社」という北海道開拓会社の移民たちが北海道へ入植し、明治27年に建てた2代目となるキリスト教の礼拝・集会所だった建物だという。
『シュマリ』では妙の3番目の夫となった華本要男爵が妙と共に教会へ通う場面がある。キリスト教信者で西洋風の生活を好む華本男爵は、妙を毎週日曜日に教会の礼拝へ連れて行っていた。しかし華本男爵は感情をほとんど表に出さない人間で、妙は男爵が自分を本当に愛しているのかずっと疑問に感じていた。また西洋風の生活にもなじめず、どうしても礼拝に身が入らない。男爵はそんな妙の気持ちを察することもなく、妙をこう言ってたしなめるのだった。
「結婚四年目にもなるのに…………」「おまえはまだキリスト教を理解できんのかね」
その教会がこの旧浦河公会会堂だったわけではないが、ここは建物の中も見学できるから、明治期の北海道の教会の雰囲気を生で味わうことができるのでおすすめだ。ここで狭い木製の椅子に座って祭壇を見上げれば、あのとき妙が夫に感じた疎外感や孤独感を追体験できるかも知れません。
そしてここ北海道開拓の村でも手塚ファン必見なのが農村群エリアに建つ「開拓小屋」だ。これは明治期に北海道へ移住した人が最初に建てた住居を再現したものだという。林を背にしてポツンと建つ掘っ立て小屋は、中へ入るとムシロを敷いただけの簡素な土間があって、その真ん中に囲炉裏がポツンとあるだけ。この必要最低限の生活空間は、まるで縄文時代の竪穴住居のようだ。そしてこの光景はシュマリが暮らす掘っ立て小屋のイメージそのままなのだ。手塚先生が『シュマリ』を描く際に、北海道開拓民の生活をかなり入念に調べていたということが良く分かりますね。シュマリの生活をより知るためにも、できれば雪の積もった季節にも来てみたいです。
村内を時計回りにぐるりとひと回りして、農村群から山村群へ、そして市街地群へと戻ってきた林の中に建っているのが「旧札幌農学校寄宿舎・恵迪寮」(復元)である。元の建物は明治36年に札幌農学校(現・北海道大学)の敷地内に建設されたもので、当時は玄関棟のほかに2棟36室と厨房棟があったが、ここではそのうち玄関棟と2棟12室が復元されている。
『シュマリ』の劇中では、元恋人の妙が今は華本男爵の元で無事に暮らしていることを確かめたシュマリが、毛皮を売り歩きながら札幌農学校へとやってくる。この場面にチラッと描かれているのがこの寄宿舎の建物だと思われる。
シュマリが寄宿舎の玄関を入ると、奥から「とうちゃん!!」と言って現われたのがポン・ションだった。ポン・ションはシュマリが赤ん坊のころに拾って育てたアイヌの孤児の少年である。その赤ん坊がいまや立派な青年に成長して札幌農学校へ入学していたのだ。
この日、シュマリが不意にポン・ションを訪ねたのは、華本男爵の妻となった現在の妙の姿を見て久しぶりに孤独を感じたからだろうか。そして一方のポン・ションも、突然現われたシュマリを見て何かを感じたのだろう。多くを聞かず、多くを語らず、この日はふたりでただただ真夜中まで痛飲するのだった。
そんなシュマリの悲しい酒の話をしながら建物の撮影を終えたところでO山がこう言った。
「あー、シュマリじゃないけど、私も暑いからビールが飲みたくなっちゃいました」
……彼女がシュマリの気持ちを理解するには10年早いようである。
ぼくとO山は北海道開拓の村を後にし、再び札幌市内へと戻る。ここからももう少し『シュマリ』に登場した場所を巡るさんぽにおつきあいいただきたい。
まずはポン・ションが通った札幌農学校=現在の北海道大学のキャンパスを少しだけ見学し、その空気を肌で感じてみることにした。訪ねたのは、大学の東側、北13条通り両側に東西約380メートルにわたって並ぶ70本のイチョウ並木だ。訪れたのがゴールデンウィークだったのでこのときはまだ葉っぱもなく冬枯れの様子を見せていたが、じつはこの並木道の見ごろは秋だという。イチョウの葉が黄金色に紅葉し、黄金のトンネルができるのだとか。紅葉時期は、旅行ガイドブックの情報によると10月下旬から11月初旬ごろだという。さらに毎年その時期に開催される学園祭「金葉祭」の2日間は夜間ライトアップもされるというからこの時期に札幌を訪れる方は要チェックです。
続いて向かったのは、札幌駅の南東、札幌市中央区北2条にある「サッポロファクトリー」だ。ここは明治9年に創業した日本人の手による初のビール工場・開拓使麦酒醸造所(サッポロビールの前身)だった場所だ。当時の建物や施設の一部を残しつつ、現在はショッピング・アミューズメント・レストラン・ホテルなどが併設された複合商業施設に生まれ変わっている。
ここへ来たのはO山がビールが飲みたいと言ったからではない。ここも手塚スポットのひとつなのだ。ここの中庭に、現在は本来の役目を終え、モニュメントとして建っている1本の高い煙突がある。そして『シュマリ』の中に、この煙突を参考資料にしたと思われる風景が描かれているのだ。
その煙突が描かれているのは、物語の中盤、集治監に収容されたシュマリが炭鉱労働に駆り出される場面だ。ここで当時の炭鉱労働がいかに過酷だったかを紹介する展開の中で工場の一風景として描かれているのが、サッポロファクトリーの煙突に良く似たレンガを土台とした鋼鉄性の煙突なのだ。並べてみればこれはもう一目瞭然ですね。
『シュマリ』にまつわる札幌の手塚スポット最後の場所は“北海道開拓のステータスシンボル”とも称される建物「豊平館」である。
豊平館は明治14年に北海道開拓使が作った洋風ホテルだ。当初は現在の札幌市中央区北一条に建っていたが、昭和33年に現在の中島公園内に移築された。
『シュマリ』では、西欧かぶれの華本男爵が妙に西洋風の生活を強いる場面でこの豊平館が登場している。男爵は妙を豊平館で開かれるパーティに三日にあげず連れて行き、男爵の客を相手にダンスを踊らせる。妙が豊平館へ行くのを断ると……。
現在豊平館は国指定重要文化財となっていて、昼間はミュージアムとして有料で館内の見学が出来る。そして夜間は講演会やコンサート、宴会、結婚式場などとしても使われているらしい。
ちなみに建物の外観を見ると、窓枠や軒の縁取りに使われている、何とも形容しがたい絶妙の深みがある水色が印象的だが、この部分には“ウルトラマリンブルー”という青く澄んだ顔料が使われているという。昭和57年から61年にかけて行われた大規模修復工事の際に専門家が調査したところ、建設当初の塗料が出てきたため、その色を最新技術で分析して復元したものだそうである。
札幌市時計台が面している北1条宮の沢通と並行して東西に延びる細長い公園が大通公園である。この公園をメイン会場として毎年2月上旬に開催されるのが「さっぽろ雪まつり」である。大小様々な雪像や氷像が展示され、多くの観光客で賑わう。
この雪まつりの季節の札幌を舞台とした手塚マンガが、1986年から87年にかけて雑誌『週刊少年チャンピオン』に連載された『ミッドナイト』の第40話(講談社版手塚治虫漫画全集『ミッドナイト』第4巻ACT.9)だ。
この話では、タクシードライバーのミッドナイトが東京から北海道までの長距離客を乗せて札幌へとやってきたところから物語が始まる。客から運賃のほかに1万円のチップをもらったミッドナイトはラーメンを食べて雪まつり会場をそぞろ歩いている時に、偶然、カササギ運輸の女社長・
さんぽ当日はゴールデンウィーク中だったため、大通公園は多くの人、人、人で賑わっていた。手をつないで歩く家族連れ、芝生に座って談笑している若者グループ、ベンチに寄り添って座り語らうカップルなど。しかしこの季節に雪まつりのころの風景を想像させるようなものはあいにく何もなかった。
ちなみに過去の雪まつりでは手塚キャラの雪像が出品されたこともあったが、来年の雪まつりでも手塚キャラの雪像が見られたらいいなー。そしたら北海道また来ちゃおうかなー、なんて!
さて北海道さんぽ中編・札幌さんぽもいよいよ最終スポットです。札幌市内が舞台となった手塚マンガをもうひとつ紹介して本日のさんぽの締めくくりといたしましょう。
その作品はご存知『ブラック・ジャック』第168話「三者三様」だ。高校受験に失敗した少年が、死に場所を探して九州から北海道へやってきた。そこへ声をかけてきたのがガス工事現場で働く中年男・加藤清正だった。ところが加藤は、少年を励まして別れた直後にガス爆発事故によって両腕と片足がもぎ取れる瀕死の重傷を負ってしまう。
このガス爆発事故の現場が、作中では北海道警の目の前という設定になっている。場所は先ほど紹介した札幌市時計台のある北1条宮の沢通を西へ200mほど歩いたところ。道路に面して「中央警察署」があり、この建物の斜め後ろに「北海道警察本部庁舎」が建っている。爆発はまさにこのあたりで起きたという設定だったのだろうか。
このときB・Jはたままた警察署内で無免許医として取り調べを受けており、無罪放免を条件に加藤の手足の接合手術を引き受けることになる。
ということで、今回のさんぽは再び札幌駅前でゴールです。ぼくは車で次の目的地へと向かい、O山はビールを飲みにナップザックを揺らしながら夜の町へと小走りに消えて行った。今夜はマンガ喫茶に泊まって明日のお昼ごろに東京へ帰るのだという。飲み過ぎるなよO山! では後編もお楽しみに!!
……っと、これで今回は終わりのハズだったのですが、帰宅後に取材写真を整理していて痛恨のさんぽ漏れが発覚いたしました。『ブラック・ジャック』のこのお話にもう1ヶ所、札幌のある場所が描かれていたのです。
それが札幌駅南口にある「牧歌の像」です。少年が駅へと歩いて行く画面の奥にさりげなく描かれた5体の像。これは昭和35年に彫刻家の本郷新が製作した「牧歌」というタイトルの彫刻だったのです。ぼくもO山も北海道にまったく土地勘と基礎知識がなかったために見落としておりました。皆さん申し訳ない。
ということでお願いです。北海道在住、あるいは北海道へ行かれた方でこの彫刻の写真を撮影したよ、という方、ぜひ写真をご提供いただけないでしょうか。提供してもいいよという方は手塚プロまでご連絡を。後日追加掲載させていただきます!!
それでは、北海道さんぽ・後編にもまたおつきあいください!!
※募集は締切りました。ご協力いただき、ありがとうございました!
「牧歌の像」についての追記はコチラ!
黒沢哲哉
1957年東京生まれ。マンガ原作家、フリーライター。手塚マンガとの出会いは『鉄腕アトム』。以来40数年にわたり昭和のマンガと駄菓子屋おもちゃを収集。昭和レトロ関連の単行本や記事等を多数手がける。手塚治虫ファンクラブ(第1期)会員番号364番