おはようございます、私がいまいる場所は東京都大田区・羽田空港国内線の出発ロビーです。といっても飛行機に乗るわけではありません。今日は皆さんを美容と美食の虫さんぽにご案内いたしましょう。B・Jマスクをかぶって美人になろう? 手塚治虫先生が雑誌のグルメ特集で推薦した“酔蟹”とは何か? そして開業直後の東京タワーで事件が起こった!?!?!? 今回も内容盛りだくさんの虫さんぽ、ただいまより搭乗開始です!!
うおおおおおっ!! 2009年2月に高田馬場駅周辺さんぽからスタートした虫さんぽが今回で50回目を迎えました。これもひとえに皆様の応援のおかげです。深く御礼申し上げます!!!!!
第3回目のトキワ荘周辺さんぽからはイラストマップ制作に手塚プロの野村正さんが加わり、愛らしい手塚キャラと分かりやすい地図でさんぽを盛り上げてくださいました。その野村さんは前々回で惜しまれつつ引退され、前回からは新進気鋭のマンガ家・つのがいさんにバトンタッチしました。新たな黒つのコンビでお送りする今後の虫さんぽに今まで以上の声援よろしくお願いいたします。
これまでさんぽに行った先々で、かつて手塚先生と接点のあった方々にお話をうかがうと、皆さん異口同音に語られるのは手塚先生の誠実で真摯な人柄です。たとえそれが一期一会の出会いだったとしても、手塚先生はそんな出会いをいつも大切にしていました。素晴らしいマンガやアニメ作品を無数に残してくれただけでなく、その人柄でも多くの人を魅了した手塚先生。虫さんぽがそんな手塚先生の知られざる魅力を再発見するきっかけになれば幸いです。
ということでぼくがいま来ているのは羽田空港です。場所は羽田空港ビル=通称ビッグバードの北側、第2ターミナルビル2階の国内線出発ロビーだ。この一角にユニークな手塚キャラのグッズが売っているという情報を得てやって来たのだ。
第2ターミナルビルは縦に細長い形をしており、ネットで調べたところ全長は840mあるという。その片側の壁に沿って国内線航空会社各社の搭乗受付窓口が一列に並んでおり、反対側の壁にはおみやげ屋さんが軒を連ねている。
事前情報によれば目指すお店は“時計台1番前”にあるというのだが……その時計台1番がどこか分からない。フロアガイドマップを見ながら行ったり来たりすること約10分、やっと“時計台1番”の意味が判明した。
細長い通路の真ん中付近に大きな時計の付いた柱が適当な間隔で立っている。それが全部で6基あって、北西側の時計から順に1番、2番と番号が振られているのだ。
それが分かれば簡単だ。ぼくがいま立っているのが時計台6番前だから……って、全然反対側じゃないか!!!!
細長いフロアをほんの840mほど歩いて時計台1番前に到着、目指すお店のブースを発見した。
お店の名前は東京都千代田区麹町に本社を構える「一心堂本舗」、その羽田空港国内線第2ターミナルビル店が最初の手塚スポットだ。
一心堂本舗のブースに歩み寄ると、目的のグッズはすぐに見つかった。「手塚治虫ワールドフェイスパック 鉄腕アトム&ブラック・ジャック」がそれである。
これは美容目的のフェイスパックにマンガやアニメのキャラクターの絵柄が描かれた一心堂本舗オリジナルのフェイスパックシリーズのひとつで、アトムとB・Jのフェイスパックは手塚先生の誕生日である2015年の11月3日に発売されたという。
デジカメでブースの写真を撮っていたら、おふたりの女性が声をかけてくださった。
「虫さんぽの黒沢さんですね」
「あっ、どうも、お約束の時間よりちょっと早く着いたんで勝手に写真撮らせていただいてました」
おふたりは一心堂本舗のスタッフで、営業部エリアマネージャーの安部順子さんと営業部の鈴木美季さんである。日程の都合で今回のさんぽは日曜日だったんだけど、おふたりはこのためにわざわざ羽田まで来てくださったのだ。
さっそくおふたりに話をうかがった。安部さん、そもそも御社が手塚マンガなどのフェイスパックを始められたのはどういう経緯からだったんですか?
「弊社が最初に開発したデザインフェイスパックは2013年12月発売の歌舞伎フェイスパックです。
じつは弊社は元々は和菓子を製造販売している会社で、美容用品を手がけたのはこれが初めてだったんです。なぜ歌舞伎かというと、2013年4月に東京・銀座の歌舞伎座がリニューアルオープンした際に弊社も出店させていただくことになりまして、何か歌舞伎に因んだ新商品を作りたいということで開発したのが歌舞伎フェイスパックでした。
この歌舞伎フェイスパックは発売後すぐにSNSなどで話題になりまして、メディアでも取り上げられ、2016年5月の伊勢志摩サミットでは参加国代表団に贈られる公式お土産に選ばれました。
いまは弊社を美容用品の会社だと思っておられる方もたくさんいらっしゃいまして、大変ありがたいことなんですが、『一心堂本舗さんはお菓子も売ってるんですね』と言われるとちょっと複雑です。もう慣れましたけど(笑)」
カタログを拝見すると『ドラえもん』や『北斗の拳』、『ちびまる子ちゃん』など人気マンガやアニメのキャラクターがたくさんフェイスパック化されていますが、手塚キャラの中からアトムとB・Jを選ばれたのはなぜですか?
「こちらの羽田空港第2ターミナルビル店などは特にそうなんですが、デザインフェイスパックはお土産やお遣い物として買われる場合が多いんです。ですから誰でも知っている日本を代表するキャラクターとして鉄腕アトムとブラック・ジャックを選ばせていただきました。おかげさまで大変ご好評いただいておりまして、手塚先生のキャラクターの場合、ご家族でいらっしゃるとお子様よりご両親の方が『おおっ』と反応されている方が多いですね」
まさに一心堂本舗さんの狙い通り! といったところでしょうか。安部さん、鈴木さん、本日はありがとうございました!!
おふたりと別れて第2ターミナルビル2階を後にしたぼくは引き続き羽田空港内を歩き回る。
羽田空港は2012年8月の虫さんぽで国際線ターミナルへ一度訪れていて、羽田空港の場面が出てくる『鉄腕アトム』「ぬすまれたアトムの巻」などを紹介したけど、じつはこれ以外にも羽田空港はまだまだ手塚マンガの中で重要な舞台として描かれているのだ。今回はそれを惜しみなく総ざらいしてしまおう。
とその前に前回の羽田空港さんぽは下記のリンクから参照してください。
・虫さんぽ 第23回:東京湾岸 アトム風車と羽田の大鳥居を見に行こう!!
それでは古い作品から年代順に紹介してまいりましょう。まずは雑誌『少年クラブ』に連載された『ケン1探偵長』(1954年~56年)の「北京原人の化石事件」に羽田空港が出てくる。
日中戦争のさなかに中国大陸のどこかで行方不明となってしまった北京原人の化石。その化石をめぐって戦後の日本で子どもの連続誘拐事件が起こる。その事件の謎を追う少年探偵ケン一が、香港へ高飛びした犯人を追って羽田空港へと向かう。描かれている空港のシーンはわずかだが、自動車の下から飛行場を見たアングルは緊迫感を盛り上げる凝った構図だった。
空港はサスペンスドラマの舞台によく似合うということで、1966年から67年にかけて『週刊少年サンデー』に連載された『バンパイヤ』でもサスペンスたっぷりなシーンが羽田空港を舞台に描かれている。
バンパイヤ革命の布石として小型爆弾で各国要人を次々と爆殺していく悪童・間久部緑郎=通称・ロック。彼がパリでの爆弾テロを成功させて帰国したのをバンパイヤの岩根山ルリ子が出迎えたのがここ羽田空港ロビーだったのだ。
だがまさにその時、待合室に置かれているテレビから、誰も知らないはずのバンパイヤの秘密を暴露する特集番組の映像が流れ始めた。愕然とするロックと岩根山ルリ子。じつはこの放送を仕掛けたのはバンパイヤの秘密を知る数少ない人間のひとり、手塚治虫(劇中キャラ)だった!!
テレビにはルリ子の写真が映し出され、タマネギの臭いを嗅ぐとオオカミに変身すると明かされる。ルリ子の存在に気付いた群衆から容赦なくタマネギが投げつけられる。たちまち変身しかけるルリ子。誰かが大量のタマネギをお土産として持っていたのだろうか。ロックとルリ子は車に飛び乗り、あわてて空港を後にするのだった。
羽田空港を舞台とした手塚マンガはさらに続きます。
芸術とは聖と俗の混沌から生まれるものだ。そんな芸術の本質を体現したような謎のフーテン娘・ばるぼら。彼女の目を通して病める現代を描いた異色の青年コミック『ばるぼら』。1973年から74年にかけて雑誌『ビッグコミック』に連載されたこのマンガの中にも羽田空港が描かれている。
ある日、作家の美倉洋介がばるぼらを連れて車で羽田空港へと向かっていた。その目的はウルカ共和国の急進派作家スゥオンダ・ルサッカを出迎えることだ。間もなく空港へ降り立ったルサッカ。その彼は到着ロビーで待っていたばるぼらを見るなり驚きの声を上げる。
「バ…ル…ボ……ラ!」
空港から美倉の自宅へ向かう車の中、ルサッカはずっと黙りこくったままだった。じつはルサッカは、美倉も知らないばるぼらの過去を知っていたのだ。果たして彼が知るばるぼらの過去とは……!?
各作品に描かれたシーンを思い浮かべながら空港内を歩いてみたが、現在の近代化された羽田空港に当時の面影はなく、それらしい風景を写真におさめることはできませんでした。そこでぼくのコレクションから昔の記念絵はがきをご紹介。これを手がかりに手塚マンガに描かれた時代の羽田空港を思い浮かべていただければ幸いです。
ということで羽田空港を後にしたぼくは、第2ターミナル地下から出ている東京モノレールに乗って次の目的地へと向かうことにした。
東京モノレールは東京オリンピックに合わせて1964年9月に開業した。1998年に京急線が羽田空港へ乗り入れるまではこのモノレールが唯一の乗り入れ路線だった。だからぼくも子どものころ、知人の見送りや出迎えに行くときは、親に連れられて何度も乗った記憶があるが、最近はもっぱら京急線を利用しているため乗るのは久しぶりだ。
ちなみにこのモノレールは先ほど紹介した『ばるぼら』にも1カットだけ描かれているのでお見逃しなく。
終点の浜松町駅でモノレールを降り、世界貿易センタービルの中を通り抜けて芝大門の通りに出る。
通りをそのまま西へ歩き、大門をくぐり抜けると正面が増上寺だ。そしてその真うしろにせり上がるように見えてくるのが東京タワーである。
1958年12月23日に開業した東京タワーの高さは333m。完成当時、フランスのエッフェル塔の320mを抜いて世界最高の高さを誇った。正式名称は日本電波塔。東京タワーは開業当初から東京の新観光名所として人気となり、開業翌年の昭和34年には年間およそ520万人が訪れたという。
ということで本日2ヵ所目の手塚スポットはここ東京タワーである。増上寺を迂回するようにぐるりと回り込み、信号を渡ると東京タワーの足下に至る。東京タワーは最近はスカイツリーに人気を奪われて寂れているかと思いきや、さんぽ当日はマンガ『ワンピース』のイベントが全館ジャックして大々的に開催されていて若い人たちで大いに賑わっていた。
さっそく東京タワーが出てくる手塚マンガを紹介しよう。
まずは『ケン1探偵長』の「殺人アブ事件」のプロローグから。
東京で人がいきなり死ぬ原因不明の連続死亡事件が発生する。その3人目の犠牲者が出たのが東京タワーの下だった。すぐさま現場へと向かったケン一は、そこでひとりの男が意味深な言葉をつぶやくのを耳にする。
「犯人は人間じゃなかろう…………」
この言葉をつぶやいた人物、それは物理学者の黒住博士だった!!
このお話は雑誌『少年クラブ』1956年1月号から4月号まで連載された。あれ? てことはこれは東京タワーが開業する3年近く前の作品???
じつはこのお話、例によって単行本化の時に手塚先生が大幅な描き直しを行っている。連載当時は隅田公園が舞台だったのを、1959年4月に鈴木出版から『手塚治虫漫画選集第4集 ケン一名探偵』として刊行された際に、開業間もない東京タワーを舞台に変更したのである。そのため東京タワーそのものの描写は少ないが事件現場を真上から見下ろしたカットなどは、「東京タワーの下です」というセリフのすぐ後で見ると、まるで東京タワーから見下ろしているように見えるから、さすがです。
続いて『鉄腕アトム』「うそつきロボットの巻」にも東京タワーが出てくる。このお話には嘘ばかりついて世間を騒がせている少年ロボットが登場する。その少年ロボットが東京タワーの鉄骨に座って自殺騒動を起こし警察が出動する事態となる。さっそく駆けつけたアトムがこの少年ロボットを捕まえようとするが少年は抵抗、激しい空中戦となる。
これは『鉄腕アトム』の最初のテレビアニメが放送されていた当時、虫プロから発行されていた『鉄腕アトムクラブ』1964年9月号に掲載されたお話だ。わずか9ページの短編ながらロボットによる介護の問題が扱われており、現代のロボット開発に深い示唆を与えている傑作である。
1970年に雑誌『週刊少年キング』に連載された『アポロの歌』にも東京タワーが1カットだけ登場している。
時代は近未来、世の中は合成人が支配しており、人間は山のふもとに貧しいコロニー(集落)を作ってひっそりと生活していた。人間的な感情を持たない合成人は山を切り取り富士山を削って都市を作った。その結果、死の街となってしまった都市の風景を描いたカットに東京タワーが描かれている。
『アポロの歌』は連載当時、性教育マンガとして発表され、神奈川県で有害図書指定されるなど物議をかもした作品だけど、いま見ると当時の殺伐とした時代の空気感が生々しく描かれていて妙に懐かしい。現在は講談社の手塚治虫文庫全集で読むことができます。機会があったらぜひ読んでみてください。
さてここからは少し距離があるけど徒歩で赤坂を目指します。
東京タワーの北側の芝公園を抜けて神谷町を通過、ホテルオークラやANAインターコンチネンタルホテルの脇をかすめてさらに北西へ歩く。事前にスマホのナビで調べたところ所要時間24分と出たので甘く見ていたけど坂が多いので想像以上にキツいです。ただ周りの風景はエキゾチックな大使館や高級ホテルが次々に目の前に現れるので、東京の都心の雰囲気はたっぷり味わえます。
東京メトロ銀座線・南北線の溜池山王駅が見えてきたら目的地はもうすぐだ。一日歩いてちょうどいい具合にお腹が空いてきたところで、本日の虫さんぽ最後の目的地は老舗の中国料理店である。田町通り沿いにあるそのお店の名前は「樓外樓飯店」!
ここは手塚先生が大切なお客さんをもてなす際によく利用されていたお店で、1981年のエッセイの中では次のように書いている。
「この一年間に中国からのお客を何度か迎え、こちらも中国を訪れたりして、おたがいにお国自慢をご馳走しあったりで、大いに交歓した。中国の人はなかなか外国の料理に馴染まないというので、日本側ではできるかぎり中国料理店へ招待する機会を多くする。『日本風の味付けですね』というのがたいがいの店の味への感想なのだが、『これはほんものだ!』と賞められたのは楼外楼の食事だった。みんなは大満悦で
また雑誌『マリ・クレール』1986年1月号に掲載されたアンケート記事「112人が選んだ、私の好きな店、好きな料理」の中でも京都の名店などとともにこのお店の名前を挙げてこう紹介している。「楼外楼は中国人も賞める山東料理。酔蟹がおいしい」。
ではさっそくお店に入りましょう。と、ここでさんぽ人がひとり増えます。手塚プロの虫さんぽ担当・O山さんです。O山さん、どうも!
「今日は蟹食べられるんですよね、わー、楽しみです」
樓外樓飯店のコース料理はおふたり様からの注文となるため、このお店のさんぽのみO山さんに合流していただくことになったのだ。それに中国料理はひとりよりもふたり以上で食べる方が美味しいですもんね。
すっかり蟹モードになっているO山さんの気持ちを落ちつかせながら、道路から奥まった玄関を入り、お店の方に名前を告げると、事前に取材のお願いをしてあったので、樓外樓飯店代表取締役・沈納勇(シン ナーヨン)さんが出迎えてくださった。
初めまして沈さん、本日はどうぞよろしくお願いします!
「よく来てくださいました。マンガは私も大好きで、手塚先生のマンガもたくさん読んでいるんです。子どもの時には『鉄腕アトム』を読んでいましたし、日本に来てからは『火の鳥』にはまりました。ですからいらしていただいて大変うれしいです」
沈さんは1986年に中国から来日し、現在は三代目としてこのお店を切り盛りされている。まずは沈さんにお店の来歴をうかがった。
「樓外樓飯店は私の祖父の城利夫が1958年にオープンさせたお店です。開店当初は現在の場所ではなくもう少し溜池山王寄りの場所にあったのですが、5年前にこちらへ移転しました。“樓外樓”という店名の由来ですか? これは宋林升という詩人が書いた中国の古い漢詩の一節から引用しているんです。店内にも掲げていますが、それがこの詩です。
山外靑山樓外樓,
西湖歌舞幾時休。
暖風薫得遊人醉,
直把杭州作汴州。
林升が杭州の西湖という湖を前にしたときの印象をうたったもので、冒頭の一節は『山の向こうに美しい山がまたある、美しい街の向こうにまた街がある』という意味なんですね。さらに西湖の畔には『楼外楼』というレストランの名店がありまして、戦後、祖父が日本へ来てレストランを開くときに、日本にはまだないこの店名にしようと決めたのだと聞いています」
さんぽ当日は日曜日だったので、ぼくとO山さんは土日祝日限定の「飲茶コース」(3,300円 ※税別)をオーダーした。それから沈さん、手塚先生の文章に出てくる「酔蟹」をいただきたいんですが。
「蟹の老酒漬けですね。今は上海蟹がちょうど旬ですので上海蟹の老酒漬けをお出しできますよ。蟹の老酒漬けはうちが初めて作った料理なんです。もともと中国には
と、そうこうしているうちに料理が運ばれてきた。日によって内容は変わるというが、まずはお通しの大根の漬け物、前菜として青菜と紋甲イカの海鮮サラダ。続く点心の海老蒸し餃子と餅米の焼売が出てきたあたりで、後を追うように待望の「上海蟹の老酒漬け」が登場した。
お皿の上に老酒に浸った上海蟹が1匹丸ごと置かれている。沈さんによれば上海蟹の旬は10月上旬から1月中旬までで、売り切れたら終わりだということだ。いい時期にさんぽに来られて良かったです。
それでは手塚先生も食した酔蟹をさっそくいただきます。フィンガーボウル(指先を洗う水)も用意されているので、遠慮なく手づかみでいっちゃいましょう。まずは甲羅の中の蟹味噌と内子から。んー、うまい。蟹味噌はウニのような濃厚な味わいで、内子はさらに甘さとコクが加わった感じ。そしていずれもとろけるような舌ざわりの滑らかさが独特です。
沈さんのお薦めは老酒を飲みながら食べることで、そうするとより味がまろやかになるんだそうです。
この後、コース料理は大根餅とニラ焼き餃子、甘酢や山椒塩を付けて食べる樓外樓飯店名物の海老団子と続くが、沈さんにお話もうかがわなければいけません。
沈さん、手塚先生がこちらへ来られたことはどなたかご存じでしたか。
「それが、今回お話をいただいてから、昔を知る人に当たってみたのですが、あいにく手塚先生がいらしたことを記憶している人はおりませんでした。そのころ私がいればすぐに飛んで行ってご挨拶させていただいたのですが、大変残念です」
沈さんによれば、こちらのお店は場所柄、政治家や実業家のお客様が多いというが、作家やマンガ家の先生も良く来られるそうで、手塚先生がライバル視したという伝説が残る某有名マンガ家の先生もお客さんとして来られたことがあるという。
そしてコース料理はいよいよメインが登場。骨付き豚肉の豆鼓蒸し、鶏と青菜の煮込みそばが出て、この日のデザートはタピオカ入りマンゴーミルクでした。
沈さん、貴重なお話ありがとうございます。そしてお店の方々、最高の雰囲気と美味しい中国料理ごちそうさまでした!!
いやー、それにしても50回記念にふさわしい虫さんぽ史上最高級の料理を味わったさんぽでした。皆さんもぜひ特別な日に手塚先生も味わった上海蟹の老酒漬け、堪能してみてください。季節によっては渡り蟹の老酒漬けが楽しめるそうですよ。
と、ここで今回のさんぽは終わるはずだったのだが、じつはまだ続報がある。それは樓外樓飯店で手塚先生と一期一会の出会いをされた方がいらっしゃったのだ。しかもその時手塚先生からサインももらっていた!
その方のお名前は柚木惇(ゆのき じゅん)さん。本名ではなくブログで使用しているハンドルネームである。その柚木さんのブログに、昔、樓外樓飯店で柚木さんがたまたまた手塚先生にお会いしてサインをもらった思い出が書かれていたのだ。そこでぼくはさっそく連絡を取り、後日、電話での取材を快諾していただいた。柚木さんは昭和25年生まれで手塚先生と出会った当時は金融系の会社に勤めておられたという。
・柚木さんのブログ:さすらいの天才不良文学中年
もしもし、初めまして柚木さん。さっそくですが樓外樓飯店で手塚先生とお会いしたときのことを聞かせていただけますか?
「分かりました。あれは1984年の確か10月ごろだったと思います。私は会社の上司と取引先のお客様と3人で午後6時半ごろにお店へ入ったんです。
そうしましたら7時ごろでしょうか、手塚先生が入ってこられたんです。手塚先生は上品なブルゾンを着ておられましてね、スーツ姿の妙齢の女性とご一緒でした。女性は書類入り封筒を持っておられましたから編集者だと思います。おふたりは私たちのテーブルのすぐ近くの席に案内されました。私は手塚マンガの、特に『鉄腕アトム』の大ファンでしたので、すぐに手塚先生だと分かりましたが、実際にお見かけするのは初めてでしたから、背が高い方だなというのが第一印象でした。
こんなチャンスはめったにないですから、私は何とかしてサインが欲しいと思ったんですが、居酒屋ではありませんので、こうした店でいきなり声をかけるのはあまりにも失礼かなと。それでしばらくためらっていたんですが、やはりどうしてもサインが欲しくて、そのことを上司と私のお客さんに相談したんです。ふたりとも気心の知れた間柄でしたので。
そうしたらふたりとも『ぜひもらいに行くべきだ』と言うんですね。そこで私としては何とか非礼にならない方法をあれこれ考えまして、ふとあることを思いついたんです」
柚木さんが思いついた妙案って何ですか?
「私は小学生のころからヒョウタンツギの絵をよく描いていましたから、それをお店の箸袋の裏に描きましてね、手塚先生のところへ持っていってこう言ったんです。
『手塚先生、大変失礼ですが、ヒョウタンツギを描いてみたんですが、うまく描けないんです。どうかお手本を示していただけないでしょうか』と。
すると手塚先生はにっこりと微笑んで『いいですよ』と快諾してくださったんです。そして私の差し出した箸袋の裏に、私の渡したボールペンでヒョウタンツギを描いてくださったんです。同席されていた女性の方もその間、終始微笑んでおられて、とても和やかな雰囲気の中で描いていただき、サインまでいただきました。
自分の席へ戻ると上司とお客様も『素晴らしい』と感激し『手塚先生は立派な方だ』という話で盛り上がりました。
私はこの奇跡の出会いの翌々年に転勤しましたので、手塚先生とお会いしたのはこのとき一度きりですね。
上海蟹の老酒漬けですか? 手塚先生も恐らく召し上がっていたと思いますよ。我々も樓外樓飯店へ行けば、旬の季節には必ず注文していましたから。
ヒョウタンツギの絵は帰宅してすぐに額装して今も自宅の書斎の真ん中に鎮座しています。もう30年以上前のことですが、あの日の思い出とともに、私の大切な一生の宝物ですよ」
柚木さん、貴重なお話をありがとうございます。
それでは今回の虫さんぽも赤坂駅でゴールです。風邪など引かないように、体に気をつけて、ぜひまた次回のさんぽにもおつきあいください!!
黒沢哲哉
1957年東京生まれ。マンガ原作家、フリーライター。手塚マンガとの出会いは『鉄腕アトム』。以来40数年にわたり昭和のマンガと駄菓子屋おもちゃを収集。昭和レトロ関連の単行本や記事等を多数手がける。手塚治虫ファンクラブ(第1期)会員番号364番