虫ん坊 2010年1月号 トップ特集1特集2オススメデゴンス!コラム投稿編集後記

コラム:手塚マンガあの日あの時 第10回:手塚マンガが悪書だった時代

コラム:手塚マンガあの日あの時 第10回:手塚マンガが悪書だった時代

 かつて、マンガは子どもに悪影響を与えるものとされ、排斥はいせきされようとした時代があった。そしてその悪書を生み出す代表として矢面に立たされたのが手塚治虫だった。マンガへの激しい逆風の中で、手塚はいったいどんなマンガの未来を思い描きながら、作品を描き続けていたのだろうか。今回はそんなマンガ批判の時代を振り返ります。



マンガ論争は“懐かしい”!?

 今年3月、マンガの表現の規制をめぐって激しい論争が起こった。
 その具体的な内容についてはネットや新聞でお読みいただくとして、この騒動の最中、不謹慎な言い方をすると、ぼくはある「懐かしさ」を感じていた。
 というのは、昭和30〜40年代に子ども時代を過ごしたぼくらにとって“マンガは悪書だ!”という批判や、マンガを追放しようとする運動は、もう過去にウンザリするほど経験してきたコトだったからである。
 だからぼくにとっては、昨今の大人たちの気持ち悪いほどのマンガ歓迎ムードの方がむしろいかがわしく感じ、「マンガは悪だ! 規制しろ!!」と責め立てられている方が落ち着くのである(笑)。
 ということで今回は、そんなマンガ弾圧の歴史を、手塚マンガを中心に振り返ってみよう。

コラム:手塚マンガあの日あの時 第10回:手塚マンガが悪書だった時代コラム:手塚マンガあの日あの時 第10回:手塚マンガが悪書だった時代

昭和24年、当時人気だった赤本の出版事情について語った業界人の座談会記事。出席者たちは、マンガに対して辛口なコメントをしながらも、手塚マンガはけっこうよく読んでいる様子だ(笑)。『週刊朝日』昭和24年2月6日号


名作『ロスト・ワールド』も批判の的に!

 手塚治虫のストーリーマンガの原点は、昭和22年、酒井七馬さかいしちまとの共著で大阪の育英出版から発行された『新寶島しんたからじま』だった。これは、当時、大阪で大量に発行されていた“赤本”の1冊として刊行されたものだ。
 赤本というのは、紙質も内容も粗悪な玩具本のことで、目立つように表紙にハデな赤色が多く使われていたことからこう呼ばれる。
 戦争が終わったばかりの昭和20年代前半、東京の大手出版社が紙がなくて思うように本が出せないでいる中、大阪の小さな出版社や問屋が、質の悪い紙を使った赤本をバンバン出してそれが売れに売れていた。


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手塚治虫の赤本時代の作品。右から『新寶島』、『ロスト・ワールド 地球編』、『ロスト・ワールド 宇宙編』、『漫画大學』(いずれも復刻版)


 そして、戦後のマンガ批判も早くもこのころから始まっている。今回調べた中でもっとも古かったのは、『週刊朝日』昭和24年2月6日号に掲載された「“浪華赤本なにわあかほん”裏から表から」と題された、出版関係者による座談会記事だった。
 この座談会の中である小売店主が、赤本マンガには文学のような哲学がない、と語り、手塚の『ロスト・ワールド』(昭和23年)を引き合いに出してこう続ける。
 「「ロスト・ワールド」にしても、前世紀の話をして文化を織り込もうと思えば織り込める。そういうことを考えずに何でもかでも売らんかな主義でいいかげんなものをつくった。刺激を強くして一部でも多く売ろうという漫画が多かったために漫画はいかんという声が出て来たんです」
 出版社の人の意見はさらに辛口だ。「長編漫画も作家が筋を書いて、その筋書によって画家が描くのが本当だと思うのですが、全然小説などに縁のない画家が、出たらめな筋をつけて描いたのが悪かったんだ」
 そして最後は「子供に与える美しさがない」とニベもなく斬り捨てる。いや手厳しい(笑)。
 現代の価値観で、当時の人の見方をとやかく言うことはできないけど、マンガ家がストーリーと絵をひとりで手がけることまで批判の対象になっているのはヒジョーに興味深い。


ナンデモカンデモ博士の教え

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ナンデモカンデモ博士が、赤本マンガの現状と、表現やテーマ選びの大切さを語る『漫画大學』のヒトコマ。深い内容を語りながらも、コマごとにギャグが盛り込まれていて飽きさせない。講談社版全集では第39巻に収録。ちなみにオリジナル版は2色刷りだが、ページが進むごとに色がだんだんと増えていく凝った彩色がなされている。

 さて、それじゃあ手塚治虫は、こういった批判に対してどう反応したのか!? この記事の翌年(昭和25年)に発表した『漫画大學』はそのひとつの答えだろう。
 この本の中で手塚は、俗悪で内容もお粗末な赤本マンガが多く出回っていることを認めた上で、大学の校長兼用務員・ナンデモカンデモ博士に、テーマの選び方や表現方法などを分かりやすく説明させている。
 世のマンガ批判に対し、その場に立ち止まって反論するのではなく、より良い作品を生み出す環境を整えてさらに1歩前へ進もうとする! 常にマンガの開拓者であり続けた手塚治虫らしい、実に明快な答えの出し方だと思う。いやお見事!! 実際、石ノ森章太郎など後に世に出た多くのマンガ家が、この本でマンガの描き方を学んだと語っていることからも、手塚の目論見は成功だったと言えるだろう。

子どもマンガ初のキスシーン!

 しかし手塚マンガの本当の魅力は、実はそんな理性的な部分だけにあるわけではない。その真骨頂は、あえて火に油を注ぐかのように、騒ぎのド真ん中へ自分から飛び込んでいく、そんな熱すぎる情熱にあるのだ!!
 先の座談会が載った『週刊朝日』の発売からわずか2ヵ月後の昭和24年4月、手塚は『拳銃天使』を発表する(※奥付記載の発行日であり実際の店頭発売日とは誤差があります)。
 この作品で手塚は、子どもマンガ初というキスシーンを描いて、赤本マンガを批判していた人びとをさらにヒステリーにおとしいれてしまった。これを読んだ当時の大人たちの反応を、手塚自身の言葉から引用しよう。
「京都のPTAの会長のような人から手紙で、『こんなハレンチな漫画を描く手塚という男は、子供に害毒を流す敵である』という、激しい抗議を受けた。又、共産党員と称する読者から、『売国奴ばいこくど、すぐ処罰すべし』という脅迫文も受け取った」(講談社版全集『拳銃天使』あとがきより)。
 実際のページをごらんいただくと、そんなに大騒ぎするほどの場面じゃないと思われる方も多いだろう。だけど当時はこれがオトナが卒倒するほどの衝撃シーンだったのである。
 何しろ映画では、この翌年に『また逢う日まで』というメロドラマ映画が公開されて、主演の岡田英次おかだえいじ久我美子くがよしこがキスをするというだけで大変な話題になった。しかもそれもふたりは直接キスをするわけじゃなくて、窓ガラス越しに間接キスをするだけなのだ。いやはや、わずか数十年で日本も変わったものです。
 と、それはともかく、手塚はこうしたショック療法なんかも使いながら、大人たちのマンガアレルギーを少しずつ改善していったわけだけど、マンガはそれを超える勢いで爆発的に増えてしまった。そのため、マンガ批判の声はおさまるどころかますます高まっていったのだった。
 昭和25年、岡山で子どもを悪書から遠ざける初の条例が制定された。その流れはまたたく間に関西を制覇して全国へと拡大。昭和30年には神奈川県が関東で初めて有害なマンガを規制する条項を盛り込んだ「青少年保護育成条例」を制定してニュースとなっている。
 そんなマンガ排斥運動がもっとも激しかったのが、昭和20年代末から30年代初めにかけてのころだったという。
 当時、手塚治虫とともにマンガの最前線でそうした逆風と戦った福元一義ふくもとかずよしさんに、今回、お話をお聞きすることができた。


 

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昭和24年東光堂刊(復刻版)。手塚治虫初の西部劇マンガ。当時、手塚は西部劇の知識がほとんどなく、この前年(昭和23年)に公開されたアメリカ映画『悪漢バスコム』を参考にしたと語っている。講談社版全集では第324巻に収録。

 

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PTAなどから激しく攻撃された『拳銃天使』の問題のキスシーン。いま読むと、このふたりがアッという間に恋に落ちる展開も含めて(笑)、当時のアメリカ映画っぽい雰囲気が実にスマートでいい感じ。


昭和30年代、マンガ批判はさらに激化!!

 福元一義さん(79)は、昭和27年に少年画報社へ入社。手塚治虫の担当編集者をつとめた後、昭和30年、独立してマンガ家となった。そして『轟名探偵とどろきめいたんてい』などのヒット作を生み出したが、わずか2年でマンガ家をやめ、マンガ家・竹内つなよしのプレイングマネージャーに転向。その後、手塚プロダクションへ入社し、手塚治虫が亡くなるまで、手塚の創作活動のサポートを続けた。
「もう昔のことはほとんど忘れちゃったんですよね」と言う福元さん。しかし当時を思い出しながら、ゆっくりと語ってくださった。
「私がマンガ家になったころのマンガ批判というのは、それは厳しかったですねえ。焚書ふんしょと言いましてね、学校の先生やPTAが、子どもたちからマンガを取り上げて集めて、校庭で燃やしたりしたんです」
 それは、福元さんの著書も例外ではなかった。
「ある日テレビのニュースを見ていたら、悪いマンガの例として、私の『轟名探偵』のトビラ絵がいきなり大写しになったんです。「えっ?」という感じで、一瞬、目を疑いました。それはもうショックでしたね。
 当時は娘がまだ幼かったですから、将来、自分の作品のせいでいじめられたらと思うと、とてもマンガは続けられないと思ったんですよ」
 結果、福元さんはマンガ家をやめる決心をした。
「あのころは、私と同じ理由でマンガをやめた人も多かったんじゃないでしょうか。それほどマンガに対する風当たりが強かったということなんですよ」


 

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手塚治虫ファンクラブ会報に連載された福元一義氏のエッセイをまとめた本。この中にも昭和30年代にマンガバッシングにあった思い出が綴られている(2009年集英社刊)。

 

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昭和32年に雑誌『少年クラブ』(講談社)に連載された福元一義氏の代表作。この作品も攻撃の対象になった。ちなみにこの表紙は昭和34年に鈴木出版から刊行された単行本のもので、黒沢が個人所有しているもの。しかし今回この本を福元氏にお見せしたら、なぜか福元氏はこの本をご存知ないという。まさか当時、鈴木出版が無断で出したのか!? 探偵マンガだけに謎は深まるばかりだ。


手塚はあえて火中に飛び込んだ

 では当時、手塚治虫はどうしていたのか。福元さんは言う。
「手塚先生はそれはもう立派でした。誰からどんな風に批判されても、逃げるどころか自分から前へ出て行って、はっきりと意見を述べておられましたからね。PTAの集会なんかにも、つるし上げられると分かっているのに、必ず出席して壇上に上がりマンガの魅力を力説していましたよ」
 またこのころ手塚は、『冒険ダン吉』などで戦前から活躍する児童マンガの大御所・島田啓三しまだけいぞうをかつぎあげ、馬場のぼる、福井英一ふくいえいいちらとともに「児漫長屋じまんながや」という、児童マンガ家だけのグループを結成している。
 福元さんによれば、これも単なる親睦団体ではなくて、子どもマンガの地位向上を目指して内外に発信するメッセージのひとつだったのだという。
 “内外”というのは、当時はマンガ家同士の間にも差別意識があって、子どもマンガ家は大人向けの社会風刺漫画を描く漫画家とくらべて一段低い存在と見られていたということだ。つまりこれは、そういった同業者に向けてのアピールでもあったというワケ。


 

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『日本読書新聞』昭和31年10月15日号の記事。この新聞はたびたびマンガを悪書として取り上げていて、この号では「おそるべき児童読物」と題して少年マンガから少女マンガまで、数多くの作品がヤリ玉にあがっている。画像が小さくて記事までは読めないと思うが、見出しでその雰囲気をつかんでいただきたい。

 

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同記事の少女マンガ批判コーナーでは、手塚治虫の『虹のとりで』が攻撃対象になっている。盗賊たちが歌う場面で、その歌詞が宮沢賢治の詩をもじっているのが「悪趣味」だと言ってバッサリ!


 

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『虹のとりで』の問題とされたシーン(右ページ3コマ目)。普通に読んでいればいちいち引っかかるような場面ではなく、当時のマンガ批判が、最初から「批判ありき」でアラ探しをしながら読まれていたことがよく分かる。講談社版全集第30巻より。


 

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朝日ソノラマ版『鉄腕アトム』第2巻(昭和50年)の冒頭で、手塚治虫自身が、昭和30年代当時のマンガ批判についてマンガでコメントしている。わずか2ページだが、マンガを批判することの矛盾を鋭く皮肉っていて奥が深い。このアトムのシーンが出てくる「デッドクロス殿下の巻」は、講談社版全集では第228巻に収録。


 

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『日本読書新聞』昭和34年3月2日号の記事。冒頭いきなり「最近、子どもたちの間に通り魔ごっこが流行している」と切り出して読者を恐がらせ、そんな世相とマンガとを強引に結びつけた記事。ここでは横山光輝の『鉄人28号』が「どこまで続く暴力と破壊」などというキャプションとともに、厳しく批判されている。ところで当時「通り魔ごっこ」なんてホントに流行ってたのか!?


 手塚のこうした地道な努力と、それに続いて続々と世に出てきた新世代のマンガ家たちの活躍によって、マンガの魅力や価値は少しずつ理解されるようになっていった。
  だが、いい大人が「マンガは文化だ!」などとしたり顔で語れる時代が訪れるのは、まだまだ先のことだ。
  昭和40年代半ば、マンガは再び大きな逆風にさらされることになる。このとき標的にされたのは、永井豪の『ハレンチ学園』に代表されるハレンチマンガだった。
  そしてこの時も、手塚はわざわざその嵐の海へ船出するように、性をテーマとしたマンガを続々と発表していく。果たしてその意図は!? そのあたりのお話は、また次回。




※追記
 今回、分量の関係で紹介できませんでしたが、手塚治虫自身が当時のマンガ批判について語った言葉が以下の本にも収録されています。興味のある方はぜひお読みください。


クレジット
資料協力/財団法人大宅壮一文庫



黒沢哲哉
1957年東京生まれ。マンガ原作家、フリーライター。手塚マンガとの出会いは『鉄腕アトム』。以来40数年にわたり昭和のマンガと駄菓子屋おもちゃを収集。昭和レトロ関連の単行本や記事等を多数手がける。手塚治虫ファンクラブ(第1期)会員番号364番


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