前回は手塚治虫マンガの復刻本を出版している代表的な出版社を訪ね、復刻マンガ製作の現在を取材した。ではそもそも手塚マンガの復刻はいったいいつ、どのようにして始まったのだろうか。今回は時間をぐぐっとさかのぼり、手塚マンガが復刻された初期の時代を振り返ってみよう。舞台は今からちょうど40年前の1975年。当時、手塚マンガの過去作品はほとんどが絶版となっていて、どうしても読みたい作品があれば何とかして原本を入手するしか手段はなかった。だがこの年、その流れを大きく変える“ある復刻本”が刊行されたのだった。その復刻本とは……!?
1970年代は手塚マンガファンにとっては大変残念なニュースで幕を開けた。
1968年から刊行が始まった小学館版手塚治虫全集が、1970年12月刊行の第40巻目『地球を呑む』第3巻を最後に中断してしまったのだ。出版社によって手塚マンガの全集が企画刊行されたのはこれが3度目だったが、過去の2度とも中断をしていて、今回も、ということで3度目の正直とはならなかったのである。
※手塚治虫の全集刊行歴については過去記事を参照してください。
・手塚マンガあの日あの時 第25回:ファン感涙! 手塚治虫全集創刊のころ!!」
当時中学生で、手塚マンガの魅力に目覚め、コミックスを1冊ずつコツコツと買い集め始めたばかりのぼくにとっては、これは大きな痛手だった。
このころ手塚マンガの過去作品はほとんどが絶版となっていて、1950年代以前の初期作品はおろか、ほんの数年前の作品でさえ、ほとんど読むことができなかったのだ。
そんな中で小学館の全集は過去の絶版作品を多数収録してくれる貴重な媒体だった。例えばこの全集には初期の単行本作品『化石島』が1951年の初刊行以来初めてコミックスに収録されたりしていた。ああそれなのに……!!
1970年代前半はこんな状況で、ぼくは自転車で古本屋を巡りながら、ごくたまに掘り出し本を見つけるなどしては、手塚マンガの旧作に対する渇きを癒やしていた。
そんなぼくにビッグニュースが飛び込んできたのは1974年7月のことだ。2ヵ月遅れで発行された手塚治虫ファンクラブの会報『虫のしらせ』1974年5月号にこんな記事が掲載されていたのだ。
「『虫の標本箱』刊行のお知らせ
手塚作品の限定版を出版したいという企画は、かなり以前からあったようです。しかし手塚先生の「ぼくの作品は、安価のペーパーバックスタイルで、たくさんの人に読んでもらいたい。」という意向や、かんじんな作品の原稿の紛失、その他の事情によりこれまで実現されませんでした。(中略)そこでこの度、私たちは手塚プロの協力をえて、原稿のある20年代の手塚先生の作品を、500部(実売480部)に限定し刊行することにしました。
(中略)当然このシリーズが高価すぎる、発行部数が少なすぎるとの御意見もあることと思われますが、私たちは、この本が手塚漫画の地位を一層揺ぎないものにすることを信じて疑いません。真に良質な本をつくるためには、ある程度の価格、少部数は必要なことと思われます。
以上のような理由で、この本の予約申し込みを受け付けます。(中略)
なおこの本のことはこの会誌にのったのが最初です。できるだけファンクラブの人達に買っていただきたいわけですのでよろしく。」
そしてこの文章の後には、ぼくが表紙写真(それもモノクロで)しか見たことのない幻の初期作品のタイトルが並んでいた。
「『虫の標本箱』 概要
内容
『漫画大学』(1950年)
『平原太平記』(1950年)
『化石島』(1951年)
『ピノキオ』(1952年)
『罪と罰』(1953年)
以上の5冊を発行当時のまま再現。各B6判 美麗カバー付 化粧箱入(分売はしません)
予価
一万二千円」
最後の1行を見てぼくは思わず奇声を発した。一万二千円ンン!? 現在の金銭価値にしたら2〜3倍になるだろうか。このうち『化石島』は前出の小学館版手塚治虫全集で読めるし『罪と罰』は1968年に雑誌『COM』の別冊付録として収録されたことがある。だがそれ以外の3冊は、初刊以来一度も単行本化はおろか雑誌への再録などもされていないのだ。
ぼくはおよそ2ヵ月間迷いに迷ったあげく、電話でまだ在庫があることを確認し、震える手で貯金を下ろしてついに予約注文をした。
『虫の標本箱』は、編集の途中で当初収録される予定だった『ピノキオ』が『きえた秘密境』に差し替えになるなどの変更もあり、予定より3ヵ月ほど遅れて1975年4月に刊行された(『ピノキオ』が差し替えられた理由は後述します)。
4月、ようやく郵便で届いた本はダンボール箱に収められた箱入りの上製本で、本を取り出すとさらにカバーも付いていた。ページを開くと『平原太平記』の2色刷りページなども当時の味わいのままに再現されている。ぼくは生まれて初めて、手塚治虫の初期作品の風格に直接触れた気がして心が震えた。高かったけど買って良かったとつくづく思ったものだった。
その後、この第1弾が好評だったことから『虫の標本箱』はパート2、パート3と出て最終的にはパート4まで刊行された。
ここで、当時、手塚治虫ファンクラブ会長を務めておられ『虫の標本箱』発行の中心メンバーのひとりでもあった森晴路さん(現・手塚プロ資料室長)に話をうかがおう。
森さん、このコラムではいつもお世話になっています。今回もよろしくお願いします。この『虫の標本箱』第1弾はどんな経緯で刊行されることになったんでしょう。それと最初の5作品というのはどのように決められたんですか?
「今回は手塚マンガの復刻の歴史を振り返るという趣旨の取材だそうですが、じつは厳密に言うと、最初の『虫の標本箱』は復刻本ではないんですよ」
ええっ、どういうことですか?
「これは黒沢くんのもう一つの質問の“どうやって作品ラインナップを決めたか”にも関係してくるんですが、ぼくらは手塚先生の原稿が残っている初期作品を何とか出版したいというところから企画をスタートさせているんです。つまりここにラインナップされた5作品の原稿がほとんど残っていたので、これをぜひ付録でも新書判でもない豪華本で出版したいと企画したのが最初の『虫の標本箱』だったんです。
もちろん原稿がない部分は当時の本から復刻するしかありませんが、気持ち的には手塚先生の新刊を出すつもりでいたんですよ。装丁なども初刊行当時の雰囲気に似せて作ってはいますが完全復刻ではありません。
しかし『化石島』は小学館の新書判で刊行されたときに、ピピちゃんのエピソードなどが描き直されていて、コマ割りなども変わっており、そこは元の版に戻そうなどということで、復刻の部分が増えていきました。そんなこんなで当初の構想からズレていき、ある意味中途半端になってしまいました」
そういうことだったんですね! 奥付では企画と発行が『「虫の標本箱」編纂会』となっていて、製作として、当時雑誌『ガロ』などを出版していた青林堂が名を連ねています。
青林堂はそれまで手塚マンガを一冊も出版したことはなかったですけど、青林堂が協力をしてくれた理由は何だったんでしょうか。
「編纂会のメンバーで復刻用の原本を提供してくださった野口文雄さんが青林堂の長井勝一社長と親交があって、相談を持ちかけたところご了承いただいたんです。ただし値段が高くてリスクが大きいため完全予約制の500部限定ということになりました」
森さんは先ほど『虫の標本箱』第1弾は復刻本ではないとおっしゃいましたが、そうすると手塚マンガの最初の復刻本は何だったんでしょうか。
「初刊当時の装丁をそのまま復刻したものではありませんが、手塚先生の原稿を使わずに本から複写して製作されたという意味では、1972年に筑摩書房から刊行された『少年漫画劇場』シリーズ第3巻『来るべき世界』が手塚先生のマンガの最初の復刻本になるんじゃないでしょうか。筑摩書房はこの2年前にも『現代漫画』シリーズ第6巻として『手塚治虫集』を刊行していて、そこには『メトロポリス』と『ファウスト』も収録されていますが、こちらは手塚先生が原稿を新しく描きおこしたので、復刻ではありませんでしたから」
ああ、この本が最初でしたか! この本で初めて『来るべき世界』を読んだ手塚ファンは多いですよね。
「ぼくもそうでした。これがあの『来るべき世界』か! と(笑)」
『虫の標本箱』の話に戻りますが、当初予告されていた『ピノキオ』が途中で『きえた秘密境』に変更になりましたね。
「『ピノキオ』はご存知の通り、ディズニーアニメのキャラクターを引用して描かれていますからディズニープロに相談をしたんですが、このときは残念ながら断られてしまったんです。それでやむを得ず『きえた秘密境』に差し替えとなりました。
代替作品を『きえた秘密境』にした理由も簡単で、原本を野口さんがお持ちで、特に好きな作品だったからです。当時はコレクター同士のネットワークなどありませんでしたから、パート2以降の『虫の標本箱』のラインナップも、基本的には野口さんがお持ちの本を復刻するということでラインナップを決めていったんです」
ああ……そういう理由だったんですね。ぼくの手元に、当時予約者に送られてきた作品変更のおわびの手紙がありますが、その文面からも森さんたちの無念さがにじみ出ています。
でもその『ピノキオ』が、同じようにディズニーアニメを下敷きにした『バンビ』と2冊セットで2005年に講談社から復刻刊行されたんですよね。
「あの時はディズニープロの方からお話をいただいたんです。『バンビ』のDVDが出るので、そのプロモーションの一環として手塚先生の『バンビ』を出版しませんかと。それでぼくの方から、だったら『ピノキオ』も一緒にどうでしょうか、と提案をして2冊同時に出版することが決まったんです」
『虫の標本箱』のころとはまったく逆の展開になったわけですね。そのとき森さんとしてはどんな感想を持たれましたか?」
「『ああ、そんな時代になったのか』という思いでしたね。ついにそういう時代が来たのかと」
森さんのそのひと言に万感の思いが込められている気がします!!
『虫の標本箱』の編集は大変でしたか?
「私は最初のプランニングだけで何もしていませんが、網かけの作業が大変だったようです。今でしたら原稿でも本でもそれをスキャンして製版すればいいわけですが、『虫の標本箱』のときには青林堂の長井さんが昔ながらの手作業の網かけにこだわりましてね。当時、すでにひとりかふたりしか残っていないと言われた職人さんを探してきて、その方に昔通りの方法で網版を作ってもらったんです。その際、原稿にはすでに網用の着色がしてあるので、それを一度ホワイトで消して、あらためて職人さんに網かけをしてもらうという(笑)」
うはー、大変な二度手間ですね。じつはぼくも『虫の標本箱』シリーズが刊行されていたころ、直販の本を買いに何度か青林堂へ行ったことがあるんですが、そのとき若いスタッフが2〜3人で手塚マンガのコピーを黙々とホワイト修正しているのを目撃したことがあるんです。
「まさにそれです。そうやって原本の網を消す作業をやっていたんですよ。長井さんは昔ながらの出版人でしたので、写真製版よりも人件費の方が安いという認識がおありだったんだと思います」
確かに日本も昔はそうでしたからね。だけど1970年代半ばごろには、すでに人件費の方が高かったような気もしますが……。でも結果的には『虫の標本箱』シリーズがそのように作られたことで、かつての製版技術を今に伝える貴重な資料にもなりましたね!
「話は変わりますが、じつはこの第1弾のときにはカバーについてもぼくらと長井さんとで意見が分かれたんです」
どういうことですか?
「手塚先生は初期の単行本では初版と再版でわざわざ表紙の絵を描き変えているんですね。『虫の標本箱』ではその手塚先生のカラー絵をできるだけ多く収録したかったので、初版の絵を本の本体の表紙にして、再版のカバーの絵は箱に使用しています。『漫画大学』と『平原太平記』は3版のカバーの絵があるので、それをカバーの絵にしようとしたんです。だけど長井さんは箱入りでカバー付きの本などないと、かたくなにおっしゃるんですね。しかしここはどうしてもカラーを多く見せたいということで説得をしてご理解いただきました」
この『虫の標本箱』第1弾が好評だったことから、1年後の1976年1月には『虫の標本箱 PartII』として待望の初期SF三部作が復刻された。
森さん、『PartII』としてこのSF三部作が選ばれたのはどういう経緯だったんでしょうか?
「これはもう最初の『虫の標本箱』が売れたので次はぜひSF三部作を出そうということです。ただし『来るべき世界』などは原稿がないので復刻でいくしかないと。背表紙のデザインも第1弾では“虫の標本箱”という文字とナンバリングの入った統一デザインでしたが、『PartII』からは原本の背表紙をそのまま復刻しています。一方で全巻箱入りカバー付きという部分は第1弾を踏襲しました。
じつは手塚先生の初期作品で箱入りだったのは『平原太平記』、『メトロポリス』、『ファウスト』、『ふしぎ旅行記』の4作品だけなんですね。でも『虫の標本箱』シリーズは『PartIII』も『PartIV』も全巻箱入りにしましたから、多くの読者に元の本もすべて箱入りだったと勘違いさせてしまったかも知れません」
まさにその通りです。ぼくもつい最近まで全巻箱入りだと思ってました(笑)。
ここで少々マニアックな話をすると、この『虫の標本箱 PartII』が出た直後、手塚ファンの間でちょっとした騒動があった。それは、先に紹介した筑摩書房『少年漫画劇場』版『来るべき世界』と内容が違う、というものだ。
じつは手塚先生は初版と再版で表紙の絵を描き変えるだけでなく、再版の際に中のページを丸々描き変えることがあった。『来るべき世界』の前編がまさにそれで、初版と再版では冒頭の24ページがまったく違う展開になっているのだ。
前出の筑摩書房『少年漫画劇場』版『来るべき世界』は再版バージョンを底本としており、『虫の標本箱 PartII』では初版を底本としたため、違いが出たわけである。
手塚マンガの初期作品に関する情報がほとんどない中、そんな手塚先生の作品に対するこだわりを初めて知ることが出来たのも、この『虫の標本箱』の功績だったと思います。
ちなみに現在は『来るべき世界』前編の初版と再版、両バージョンの復刻本を収録した『手塚治虫SF3部作完全復刻版と創作ノート』(小学館クリエイティブ)も刊行されている。興味のある方はぜひそちらを参照していただきたい。
こうして『虫の標本箱』は定期購入ファンを獲得し『PartII』発売からわずか3ヵ月後の1976年4月には早くも『PartIII』の発行案内ハガキが届いた。ラインナップは『吸血魔団』(1948年)、『拳銃天使』(1949年)、『奇蹟の森のものがたり』(1949年)、『有尾人』(1949年)、『ふしぎ旅行記』(1950年)の5冊。限定750部、定価12,000円は『PartII』と同じだが、すでにこの金額にも慣れてしまったぼくは、ハガキを読み終えるやいなや音速で自転車を飛ばし、銀行から貯金を下ろして注文をした。そして9月、送られてきたセットの限定番号は56番であった。
このセットがこれまでの2セットと異なるのは、表紙カバーが付かなくなり本が箱にそのまま入れられていることと、解説の小冊子が付かなくなったことだ。
第1弾と『PartII』の、いかにもファンが作りました的な手作り感満載のセットと比べると、ソツなく安定した完成度にはなっているものの、何となく商業主義が前面に出てきてしまった気がしてちょっぴり残念な気持ちになったのも正直なところだった。あ、もちろん手塚マンガの旧作が読めたことそのものには感動しましたよ!
それとこのセットの中で特徴的だったのが『吸血魔団』で、これは手塚先生の原稿が使用されたページと元本から復刻したページとが混在しており、ページの下端に、そのどちらであるかがいちいち注釈として書き添えられていた。これは手塚先生の原稿と描き版との違いが比較できてとても良い試みでした。
さて、『虫の標本箱』はここに紹介した『PartIII』発刊の案内ハガキにもあるように、当初は『PartIII』で完結する予定だった。ところがそれから3年後の1979年8月、『PartIV』の発行案内ハガキが届いた。えーっ!?
だが今回のラインナップもまたまた魅力的だった。『怪盗黄金バット』(1947年)、『一千年后の世界』(1948年)、『ターザンの秘密基地』(1948年)、『ジャングル魔境』(1948年)、『タイガー博士』(1952年)の5冊。もちろん初刊以降一度も再刊されたことのない作品ばかりである。ぼくは光の速さで原付バイクを飛ばし、銀行から貯金を下ろして注文をした。翌年1月、予定より2ヵ月遅れて1979年末に届いたセットの限定番号は130番。今回も解説小冊子は付かず、本にカバーも付いていなかった。
ちなみに『ターザンの秘密基地』は、後年刊行された講談社版手塚治虫漫画全集版(第138巻『ジャングル魔境』に収録)や角川文庫版では、大人の事情で『シャリ河の秘密基地』に改題されている。
こうして5年がかりで完結した『虫の標本箱』シリーズ全4セット。送料や振込手数料を入れると5万円超の買い物は当時まだ高校〜大学生だったぼくには想像を絶する懐の痛さだったが、全巻揃えたという達成感と満足感は言葉には尽くしがたいものだった。
だが、そんなぼくを数ヶ月後、大変な衝撃が襲うのだが、それについてはまた後ほど……。
引き続き森さんにお話をうかがいます。初期の復刻本としては、1975年から81年にかけて文民社から全8巻が刊行された『手塚治虫作品集』がありましたね。
「はい。しかしあれも第7巻までは手塚先生の原稿がほとんどありましたので、本から復刻をしているのは第5巻の『少女まんが集』、第6巻の『児童まんが 1(ガムガムパンチ)』、第7巻の『児童まんが 2(ぼんご・ロップくん)』の一部と、第8巻の『カラー作品集』だけです」
そして、1980年4月です。『虫の標本箱 PartIV』発行のわずか4ヵ月後、名著刊行会から『虫の標本箱』全4セットとほぼ内容のかぶる全22冊プラス解説本1冊を加えた『手塚治虫初期漫画館』の刊行が発表されました。
「あれは青林堂が名著刊行会に権利を譲ってしまったんですね。でもまったく同じではあんまりだということで学童社版の『ジャングル大帝』2冊を新たに復刻して追加しています。それと『虫の標本箱』第1弾は背表紙や見返しページなどが原本と異なっていますので、そこも原本通りに復刻しています」
このセットの刊行は1980年4月に東京の九段会館で開催された第2回手塚治虫ファン大会の会場で初めて発表されたんですよね。会場のロビーに長机が置かれていてそこで出版社の人たちがチラシを配って、その場で予約注文も受け付けていました。当然分売不可で現金定価が75,000円!! 一瞬、目の前が真っ暗になりました。4ヵ月前に『虫の標本箱』をコンプリートした際に感じたあの充実感はいったい何だったんだ、と! だけどやはり『ジャングル大帝』の魅力に負け、「これは予約するしかない」と思ってその場で申し込んだんです。帰宅してから親にものすごく怒られましたけど。でも最終的には泣きついて買ってもらいました。
「理解があったんですね」
おかげさまで、いまこうして大好きなマンガを仕事にしています(笑)。
ところで『虫の標本箱』シリーズの刊行と同じころ、商業出版としての手塚マンガの復刻以外に、ファンが同人誌的に出版する復刻本がポツポツと刊行され始めていますね。
「1973年から76年にかけて全日本マンガファン連合が『まんがのむし復刻シリーズ』というものを4冊出したのが最初でしょうか。その第1号が1954年に『おもしろブック』の別冊付録として発表された読み切り作品『黒い峡谷』でした。
この復刻にはぼくも関わっていたのでお恥ずかしい話なのですが、いかにもアマチュアの仕事だなというのは、原本が古本だったので裏表紙に所有者の名前のハンコが捺されていて、それを消さずにそのまま復刻しているんです」
確かにそうなってます(笑)。これには当時ぼくも呆れました。後に重版されたときには消されたようですが。
全日本マンガファン連合の『まんがのむし復刻シリーズ』はこの後『レモン・キッド』、『宇宙狂想曲』、『丹下左膳』と1950年代の別冊付録作品を4冊復刻しています。当時はどれも原本を入手するしか読む手段のない作品でしたのでとても貴重でした。ぼくはこの4冊がぴったり入る箱を自作し、箱の背に『虫の標本箱』に倣って『虫の罐詰』と書いて本棚に並べて悦に入っていました。
このシリーズに関しては何か思い出はありますか?
「大変だったのが『丹下左膳』のときですね。評論家の小野耕世さんに巻末解説をお願いしたんですが、なかなか原稿を上げてくださらなくて。『もう間に合いません』と言うと、いついつ上がるからと言われて、指定された日時に喫茶店で待ち合わせたら、その場でペンと原稿用紙を取り出して書きはじめられたんです。小野さんから原稿をいただくのは大変だとは聞いていましたが……でもいただいた原稿はとても素晴らしいものでしたよ」
少し遅れて1976年から手塚治虫ファンクラブ・京都でも手塚マンガの復刻を開始しました。最初が1952年の『少年画報』別冊付録だった『ピストルをあたまにのせた人びと』で、その後『少女クラブ』版『火の鳥』の別冊付録、『火星からきた男』(1952年『少年画報』別冊付録)と続いて、以後、続々と復刻本を出すようになりました。
手塚先生はもともと昔の本を復刻するのはあまりお好きではなかったということですが、こうした同人誌的な復刻本についてはどう思っておられたんでしょう。
「手塚先生はファンにはやさしいですから、内心では別の思いがあっても、発行を断るということは決してなかったですね。一方でファンの方も営利目的ではなくファン活動の一環だと思って復刻本を出していますから、当時は、出版前に手塚先生の了解を得ていなかったものもけっこうあったと思いますよ。本が出来てから『手塚先生、今度はこんなの作りました』と言ってお渡しするという」
ああー、そのときの手塚先生の表情が目に浮かびます。若干困惑した表情を隠しながら、「よく元の本を見つけてきましたね」とかいう感じで、必ずひとつかふたつ褒めるポイントを探してから笑顔でお礼を言うという。
「恐らくそんな感じです(笑)」
そろそろまとめに入りたいと思いますが、最後に森さんがイメージされる理想の復刻本、あるいは今までに出た復刻本のなかで思い入れの強い本はどれでしょうか。
「ぼくは必ずしも絶版本を初版当時のままの形で復刻するのがベストだとは決して思っていないんですよ。例えば当時の広告をそのまま入れるというような……。当時の雰囲気は出ますが、復刻なので、先生と関係のないところまでこだわる必要はないんじゃないかと。誤字やページの入れ違いもあります。それらは当然正しいほうが良いわけですから、直します。
それからこれは後期の作品ですが『アドルフに告ぐ』は例によって単行本化の際に大幅に加筆修正されていて、雑誌連載時とは内容が大きく変わっているんですね。しかも単行本の方が完成度が高い。そうなると資料的な価値は別にすると、雑誌連載時のものをオリジナルとして復刻することにどれだけの意義があるのかということです。逆に『ブッダ』などは、単行本にするとき何百ページも削られている。こういうのは先生の創作過程が垣間見えて、価値があると思います。
それよりもぼくがむしろこだわりたいのは、手塚先生の絵の魅力をより多くの人に知ってもらいたいということですね。特にカラーページの素晴らしさです。連載時にカラーだったものが単行本でスミ1色になってしまうのがぼくは残念で仕方がないんです。
そういう意味でぼく的にいい本が出来たな、と思っているのは2004年にジェネオン エンタテインメントから出版された『リボンの騎士 少女クラブ カラー完全版』ですね。
これはぼくがずっと前からやりたかった企画で、それが思い通りの形で本になったのでとても大好きな本です」
なるほど! でもそうすると今の手塚マンガの復刻ブームは手塚先生にとってはもとより、森さんにとっては不本意なものということになりますか?
「確かにいまぼくが携わっている復刻本というのは、手塚先生が健在だったら絶対に許可を出さなかったものですね。ぼくなんか、もうクビどころじゃないかも知れません(笑)。でも、手塚先生が亡くなられたいま、手塚先生が単行本化のたびに作品を描き変えるなど、命を削るようにしてこだわっていた部分。その情熱や努力を広く知ってもらい後世に伝えるためには、先生に叱られても仕方がないと思っていまの仕事に携わっているんです。
手塚先生は努力や苦労を決して人に見せない方でしたからね。誰かが伝えなければみんな忘れてしまいますので」
おっしゃる通りです。森さん、本日はありがとうございました!!
いやー、今回も手塚マンガにかける森さんの熱すぎる思いがうかがえました。と同時に、手塚マンガがいつまでもファンの心をとらえ続けている秘密の一端も垣間見たような気がいたします。今日はこれから、久々に書庫から出してきた虫の標本箱を、初めて手に取ったときのあの興奮を思い出しながら読み返そうと思います。
ではまた次回のコラムにもぜひおつきあいください!!
取材協力/手塚プロ資料室、森晴路(順不同・敬称略)