昆虫採集などで非常に凝り性な一面を見せている手塚治虫は、マンガを描く際もまったく同じで、あるテーマに興味を持つとそれをとことんまで追求する傾向があった。そのひとつが「ロボット」だ。戦時中の習作から鉄腕アトムまで、昭和20年の手塚マンガには様々なタイプのロボットが繰り返し描かれている。しかもそれらは本物のロボットのように作品の中で少しずつ進化していった!? 今回と次回の2回に分けて、そんな手塚の描いたロボットたちの進化を、時代を追いながら振り返ってみよう!!
手塚治虫が生み出したヒューマノイド型ロボットの最高傑作は、やはり何といっても鉄腕アトムでしょう。
人間の子どもほどの小さな体の中に10万馬力ものパワーを秘め、それでいて心優しく、善悪を見わけ、泣き、笑い、怒るという感情も持っている。アトムは人間の友だちであり、共に働く仲間であり、悪を倒す正義の味方でもある。
そんなアトムに憧れて育った少年たちがやがて大人になって、そのうちの何人かは実際にロボットを研究する科学者になった。「アトムのようなロボットを作りたい」それがロボットを研究する最初の動機だったと語る科学者はかなり多い。
私事で恐縮だけど、ぼくは今、ある仕事で現代のロボットについて調べていて、本を読んだり、何人かの科学者にお会いして話を聞いたりしている。
そんな取材の中で出てきた興味深い話が、「人間型ロボットの開発には、ほかの機械の開発と決定的に違う点がある」というものだった。
何がどう違うのかというと、例えば自動車や洗濯機の発明について考えてみる。その研究は、最初は完成した物の影も形もないところから白紙の状態でスタートする。思い描いた機能を実現するにはどんな形がいいのか、どんな機能を盛り込むべきなのか。様々な試行錯誤をする中で、その形が少しずつ姿を現わしていくのだ。そして生まれたものにこれまた長い年月をかけて改良が加えられてゆき、機能や形が少しずつ洗練されていって、やっと今の自動車や洗濯機の形になるのだ。
だけどヒューマノイド型ロボットの場合はそれとはまったく逆だ。細かいイメージの違いはあっても、多くの人が最初に完成したロボットのイメージを持っている。二本足で立って歩き、人間と会話をし、人間の生活空間で人間と共存して仕事をする。ヒューマノイド型ロボットの研究開発とは、そうした完成形に向かって進んでゆく学問なのである。そしてそのとき、多くの科学者がその究極の形として夢見る姿、そのひとつの到達点が鉄腕アトムなのである。
だけどなぜアトムなのか。アトム以外にもマンガや映画に素晴らしいロボットは数多く出てきているのでは!?
その答えは『鉄腕アトム』という長大な物語を、ロボット開発の歴史と重ね合わせて読んでみると良く分かる。それはアトムが物語の中でロボットゆえに苦しんだり悩んだりする数々の問題、人とロボットが共存する社会で起こる様々な軋轢など。実はそこに描かれている物語は、そっくりそのまま現代のロボット研究者たちに突き付けられている問題そのものだったのである。
現代の最新科学をもってしても解決のつかない問題。決して大げさではなく、そうした問題の答えが、もしかしたら『鉄腕アトム』の中にあるかも知れない! そんな意味でも『鉄腕アトム』は、現代のロボット研究者たちにとってバイブルとなっているのだ。
という話は次の後編で詳しく書くので後のお楽しみとして、今回はその『鉄腕アトム』に至るまでの手塚マンガに出てきたロボットたちを年代史風に概観してみよう。アトム誕生以前、手塚はロボットをどんな存在として見ていたのか、そしてそのロボット観が時の流れとともにどのように変わっていったのか、そんな手塚の思考の中でのロボット開発史を振り返る!
ということでぼくらが最初にタイムマシンで向かうのは、手塚がマンガ家としてデビューする前の戦時中の大阪である。
手塚が初めて自分のマンガに初めてロボットを登場させたのは、昭和20年4月から6月にかけて描かれた『幽霊男』という作品だった。このマンガは手描きした原稿をそのまま綴じて製本し、表紙を付けて友人たちに回覧されたものだった。
「虫さんぽ第16回・大阪編」の中で、手塚が戦時中に焼け野原となった大阪で、瀬尾光世監督の長編アニメーション『桃太郎海の神兵』を見て感動したという話を書いたけど、それが昭和20年4月12日のこと。そして当時の手塚の日記によれば『幽霊男』を描き始めたのは、それから10日ほど後の4月24日からだった。
『幽霊男』のストーリーは、山田野博士が発見したあらゆるものを溶かす液体をめぐって、ヒゲオヤジ探偵が悪の結社と戦うというものだ。
そしてここには2種類のロボットが登場している。人間の奴隷として大量生産された「人造人間プポ氏」とその仲間、そしてそのお目付役ともいえる、それより少しだけ知能の高い女性型ロボット「毒蛇(コブラ)姫」である。両方とも悪の結社の首領で科学者でもあるゴンドラ・カヌー博士によって作られたものだ。
この2種類のロボットは、ともに人間のために働くように設計されていて、基本的にはただ命令に従うことしか出来ない。“ロボット”という言葉は、もともとチェコ語で“労働”を意味する「ロボタ」からきていて、ロボットとは人に従属して働くものを意味していた。そうした点からも、プポ氏と毒蛇姫はまさしく原初的な意味でのロボットだったわけだ。
ところが! 毒蛇姫には善悪の判断能力が少しだけあって、ゴンドラ博士が悪い人間であることにだんだんと気がつき始める。そしてついに博士の命令に逆らって抵抗を試みるのだ。
ここでこの作品は、早くもロボット開発の際に科学者が必ず直面する大きな課題を浮き彫りにしている。それは、「ロボットは誰の命令で動くのか」というものだ。
ロボットが人間のために働くという大前提で作られるとしたら、ロボットは人間のくだした命令には絶対に従わなければならない。だからそういう設計思想で造られたプポ氏はどんな命令にも従い、文字通り通り壊れるまで働き続ける。
ところが毒蛇姫は人間の命令に背いた。それは博士の命令に背くことが結果的には人間に利することだと判断したからなんだけど、ロボットが勝手にこうした判断をくだすのは非常にヤバイ。それはもしもその判断が間違っていたら逆に大変な事態を招いてしまうからだ。
この作品の中には、そんな毒蛇姫の無知で独善的な危うい怖さと、逆に従順すぎるプポ氏の薄気味悪さが、それぞれ対照的に相手を際立たせながら、結果的に全体が悪夢のような怖さをかもし出しているのだ。
こうした悪夢のようなロボットが生まれた背景には、戦時中という暗い世相が反映していたことももちろんあったに違いない。だけど実はそこにはもうひとつ、手塚が幼いころに見たある「夢」にそのルーツがあったのだと、手塚は後のエッセイに書いている。少し長いけど以下にその文章を引用しよう。
「私は、幼いころよくこんな夢を見た。どこからか棺桶のような箱が送られて来、開いてみると等身大の人形が入っており、リモコン操縦器とおぼしきものを握ってスイッチを押すと、あやしげな煙とともに、その人形は立ち上がって、私に迫ってくるのだった。私は必死で部屋の中を逃げまわり、ついにすみに追いつめられる。人形は私の体をいじくりまわして、分解しようとし始める。戦(おのの)きながら私は操縦機のスイッチを再び押すと、バンという音とともに人形はあっけなく箱の中に戻る。よせばいいのに、私は再び操縦器のスイッチを押す……。
なにか幼い日に見た怪物映画の記憶の変形なのかもしれない。この不気味な夢はふしぎに何度も見つづけた。
私はこの夢体験を、後日、習作の中に登場させている。『幽霊男』という題名の作品で、ちょうど中学三年のときだった。私がマンガの中でロボットを描いた第一号である」(講談社版全集第392巻『手塚治虫エッセイ集4』「産業用ロボットと鉄腕アトム」より)
スイッチひとつで自在に操れる等身大の人形、それは子どもにはものすごく魅力的なものだろう。ところがそれが突然自分の制御を外れて襲いかかってくる恐怖。それはまさしくプポ氏や毒蛇姫の存在そのものだったのである。
続いて注目すべきロボットの出てくる作品は、昭和22年10月に発表された『火星博士』だ。これは、昭和22年1月に手塚が酒井七馬との共著で『新寶島』を刊行してプロのマンガ家としてデビューしてからおよそ10ヵ月後のことである。
この作品には、プポ氏や毒蛇姫がもう一歩進化した形で登場している。
お話は、嵐で遭難した船からケン一とブートン博士が誘拐され、クラゲ島という人工島へ連れてこられるところから始まる。この島の地下ではポッポ博士という人物が怪しい研究を行っており、ブートン博士はその研究に協力させるために誘拐されてきたのであった。
この島にはポッポ博士の作ったロボットたちがたくさん働いている。そして博士の説明によると、ここのロボットには「A型」と「B型」の2種類がいるというのだ。A型はただ命令に従って力仕事に従事するだけのロボットで、B型は知恵を持ち、計算能力に長けていて細かい作業を担うものだという。
実はこの作品のこの後の展開には一部『幽霊男』のプロットがそのまま流用されていて、両方の作品を読みくらべると、ポッポ博士の言うA型ロボットとはすなわち『幽霊男』におけるプポ氏のことであり、B型ロボットとは毒蛇姫を指していることが分かる。
だけどここで微妙に違うのは、プポ氏と毒蛇姫はお互いの役割や性格付けがまだはっきりと分かれておらず、お互いに混沌とした部分があった。それがこの作品になると、両者がA型とB型にはっきりと分類され、別々の開発思想にもとづいて作られたものだと明確に区分けされたことだ。
そして何よりの大きな違いは、B型ロボットの「ピイ子」にあった。クラゲ島で事務員として働くピイ子は、背中に天使のような羽根を持ち、その羽根で自由に空を飛ぶことができる。そして胸のボタンが「自意識」をオン・オフするスイッチになっていることなど、明らかに毒蛇姫の発展型である。だけどもピイ子は毒蛇姫よりもはるかに感情表現が豊かであり、笑ったり驚いたりと様々な表情を見せる。
そしてそれによってピイ子からは、毒蛇姫にあった怪しさやうさん臭さがきれいさっぱりと消えて、彼女はケン一たちを助けてくれる、親しみやすく頼もしい“仲間”として認識されるのだ。人間とロボットの関係からすると、これはものすごい進歩だろう。
仮にここで手塚マンガにおけるロボットの進化の系統樹を描くとしたら、プポ氏と毒蛇姫から始まった原始ロボットの系統はここで終わりを迎え、それがA型ロボットとB型ロボットとに枝分かれをしたことになる。そしてピイ子から始まったB型ロボットの系統は、やがてぐんぐんと枝を伸ばし、その先に、知性を持った究極のヒューマノイド型ロボット鉄腕アトムを誕生させるのである。
だけどアトムの完成はまだもう少し先だ。その前に、手塚はある作品にアトムにもっとも近い少年ロボットを登場させている。そのロボットとは……!?
ぼくがアトムの直系の先祖だと考えている少年ロボット、それは昭和23年8月に刊行された『大空魔王』に出てきた「リューちゃん」である。
リューちゃんは花丸博士が、親友の火毛博士の息子であるケン一くんをモデルに製作したロボットだ。体は鋼鉄のように硬く、怪力を持ち、普段は頭の中に収納されているプロペラで空を飛ぶこともできる。だけどそうした秘められた能力を発揮しない限り、見た目はまったく普通の少年だ。
レストランで暴れている男を止める際に、「おじさん ぼくが十かぞえないうちに やめないと ひどいめにあうぜ……」などとちょっと不良じみた言葉を使っているのは、リューちゃんが未完成のロボットだからではなく、手塚の中でまだキャラクターが固まっていなかったせいだろう(笑)。
花丸博士がなぜリューちゃんを開発したのか、そしてその際になぜケン一くんをモデルにしたのか。それは作中では語られてないが、もしかしたら息子の身代わりとしてアトムを作った天馬博士のように、花丸博士にも、どうしても子どもが欲しい事情があったのかも知れない。
しかしリューちゃんに至ってもまだ、やはり人間とは一線を画す違和感がどこかにあった。それは感情の乏しさ、あるいはよそよそしさとでもいうような漠然としたものなのだが……。
そして、その違和感の壁をついに完全に乗り越えて、手塚マンガの中で初めて人間に最も近いヒューマノイドとなったのが、昭和24年9月に刊行された『メトロポリス<大都会>』のミッチイである。
ミッチイは太陽黒点の影響によって、それまで未完成だったロートン博士の人造細胞が偶然に活性化し、それによって生まれた人造人間だ。つまり機械によって組み立てられたロボットとは違うのだが、そもそも最初にロボットという言葉が使われた、チェコの作家カレル・チャペックの戯曲『R・U・R(ロッサム万能ロボット会社)』(1921年)に出てくるロボットも機械仕掛けではなく、人工合成された細胞で作られた人造人間だったのだ。そうした意味では人造人間もロボットもまったく同類と考えていいだろう。
では、そのミッチイと同じジレンマを内包して誕生したアトムは、その問題を自分自身の中でいったいどう解決したのか。そしてアトムは人間社会の中で自分自身の存在意義をどのように見出していったのか。そこには「人はなぜヒューマノイド型ロボットを作ろうとするのか」という根本的な命題も内包されている。
その話については次回また、皆さんと一緒に考えてみたいと思います。ぜひまたお付き合いください!!