手塚治虫先生は、膨大な量のマンガを、殺人的なスケジュールで描き続ける一方、アニメーションにも、それと同じか、それ以上の情熱をそそいでいた。今回は、そんな手塚先生の夢の結晶だった虫プロとその周辺を、当時、虫プロで仕事をされていた方々に案内していただきました。
虫さんぽも8回目をむかえ、いよいよ、手塚プロと並ぶ、手塚ファンにとっての、もうひとつの聖地へとやってきた。それは──虫プロダクション!!
虫プロは、手塚プロと混同されがちだけど、実はまったく別の会社である。虫プロは、少年のころからディズニーのアニメーションに憧れていた手塚先生が、「いつか自分もアニメーションを作りたい」という夢をかなえるために作った会社なのである。
詳しい経緯は後で紹介するが、その虫プロはいまも健在で、しかも手塚先生がお仕事をされていた当時の建物の一部が、今もそのまま使われている。うおお、これは楽しみです!!
1961年にアニメーションの製作を始めた手塚先生は、当初は、同じ敷地内でアニメの仕事もマンガの仕事もやっていた。ところがアニメの仕事が猛烈に忙しくなってきて、落ち着いてマンガを描いていられなくなった。そこで1968年、先生は新たに手塚プロダクションを設立し、そっちはマンガ専業の会社として活動することにしたのだ。
手塚先生の体はひとつなんだから、会社を2つに分けたってどうしようもないだろうと思うんだけど、それでも、どっちもあきらめずに続けちゃうところが手塚先生のすごさだなぁ、とつくづく思います。
ともかく、そうして発足した手塚プロは、最初は富士見台駅前の喫茶店の2階に間借りしていたが、1970年、この越後屋ビルへ移り、1976年に高田馬場のセブンビルへ移るまで、この越後屋の2階と3階を仕事場としていたのだ。
越後屋のご主人・高橋雅美さん(51)にお話をうかがった。
「このお店は、先代である私の父が1957年に始めたんです。その後、1970年にビルに建て替えてテナントを募集したところ、当時の手塚プロが契約してくださいました。2階が事務所とアシスタントさんの仕事場で、3階が手塚先生の仕事場でした」
この方は、名前を渡邉忠美(わたなべただよし)さんと言い、年齢は石津さんと同じ71歳。東映動画でCM製作にたずさわった後、石津さんより2年遅れて虫プロへ入社した。そして虫プロ在籍当時から、ずっとこの近くにお住まいなのだという。
もちろんぼくは、渡邉さんにも散歩への同行をお願いした。そして快諾をいただいたものの、渡邉さん「本屋へ寄ってすぐ帰るつもりだったのに、えらい人たちに会っちゃったなぁ……」とさかんにぼやいておられる。そんな渡邉さんに石津さんがひと言、「そういう運命なんだよ、俺たちは!」と豪快に笑われた。
そして駅からおよそ10分。住宅街の中に虫プロの建物がひっそりと建っていた。屋根や壁のラインがスパッと斜めにカットされたモダンな建物に「虫」の文字。写真や手塚先生のマンガで見た、まさにあの建物だ!
1962年1月、ここに発足した株式会社虫プロダクションは、1973年11月に一度倒産した。しかし1977年、新たに虫プロダクション株式会社として再スタートを切り、今もここで旧虫プロ時代の作品の著作権管理とアニメーションの製作を行なっている。
続いて、渡邉さんが、虫プロのスタッフがよく通ったおそば屋さんが今も営業されているというので行ってみた。虫プロから500メートルほどの場所にある「そば処更科」だ。
石津さんによると、当時、虫プロの社員には、手塚先生のお母様から、1日100円のお昼代が支給されていた。石津さんが、その100円玉を握りしめて毎日のように通ったのがこのお店だったという。
お店は開店準備中だったけど、中からおかみさんが出てきて話をしてくれた。斉藤ヤエ子さん(75)は、1960年の春に、ご主人とふたりでここにお店を開いた。
「あのころは虫プロのお客さんがいっぱい来てくださいましてね、もう毎日、目が回る忙しさでした。それで主人も私も気が短いから、お客さんがいてもかまわず大声で怒鳴り合いながら仕事をしてましたよ(笑)」
当時、石津さんは、いつもここで90円のたぬきソバと大盛りライスのセット「たぬきライス」を注文した。そのおつりの10円を貯めておいて、9日目に90円たまると、またたぬきライスを注文する。これが当時の虫プロスタッフの食生活だったのだ。
「何しろ給料が安かったからな、あの100円は本当にありがたかったなぁ」と、しみじみ語る石津さん。
けれども後年、石津さんがそのことを手塚先生に話したら、全くご存じなかったという。きっとその100円は、手塚先生のお母様がスタッフを気遣って独断でされていたご好意だったんでしょうね。
当時、虫プロ社員が通った「そば処更科」。
営業時間11:00〜14:00・17:00〜19:00 木曜定休、問い合わせ03-3999-2658。
一方、渡邉さんも、食べ物屋に関してはつらい思い出があるという。
「虫プロのすぐ近くにね、うなぎ屋が出来たの。でもそんなの食べるお金なんてないからさ、前を通ると、いい匂いだけかがされるんだよ。ひどいもんだよ!」
どうやらうなぎ屋は、出店場所を間違えたようである(笑)。
次に向かったのは、虫プロスタッフ御用達だった銭湯「大富湯」。銭湯はここ以外にも何軒かあったそうだけど、今も営業を続けているのはここだけ。入り口付近が改装されているが、建物は昔ながらの銭湯のままだ。
手塚先生のお父様が銭湯が大好きで、石津さんはよく、「アオちゃん(石津さんの愛称)、銭湯行こう!」と誘われて行ったそうです。
さて、今回の散歩もいよいよ終盤だっ。
当初6人で始まった虫プロは、最盛期には400人もの大所帯となった。そこで、近くにできたアパートを借りては第2、第3とスタジオを拡張していき、最終的には第5スタジオまであったという。
さて、今回は虫プロの詳しい作品や仕事の話までは触れられませんでした。ですのでそれは、次回の『手塚マンガあの日あの時』でご紹介したいと思います。ぜひまたお付き合いください!!
(今回の虫さんぽ、3時間57分、2788歩)
黒沢哲哉
1957年東京生まれ。マンガ原作家、フリーライター。手塚マンガとの出会いは『鉄腕アトム』。以来40数年にわたり昭和のマンガと駄菓子屋おもちゃを収集。昭和レトロ関連の単行本や記事等を多数手がける。手塚治虫ファンクラブ(第1期)会員番号364番