手塚治虫は、若く才能あふれるマンガ家が出てくると、まるで同じ世代のライバルであるかのように対抗心をむき出しにしたという。だけどその一方で手塚は、後進のマンガ家を育てることにことのほか熱心だった。これから紹介するように、これほど数多くのマンガ入門書を著したマンガ家は珍しい。戦後ストーリーマンガの始祖といわれ、マンガ界の最前線を駆け抜けた手塚は、自分がただ先頭を走るだけでなく、多くのマンガ家を育て、引きあげ、まさに現代のマンガ界そのものを育ててきたのである。今回はそんな手塚のマンガ家入門書の数々を振り返ります。
手塚治虫が新聞連載マンガ『マアチャンの日記帳』でデビューしたのは終戦から半年もたたない1946年1月のことだ。
その翌年、手塚は酒井七馬原作・構成による描き下ろし単行本『新寶島』を出版すると、以後、関西の出版社から堰を切ったように長編マンガを続々と発表していく。
その手塚が最初のマンガ入門書『漫画大學』を発表したのは1950年8月。自分自身もデビューしてからまだ4年半しかたっていないのに、早くも後進のための入門書を出しているんだから驚く。
『マアチャンの日記帳』から絶筆『グリンゴ』『ルードウィヒ・B』『ネオ・ファウスト』の時代まで、手塚がマンガ家として活動した期間はわずか42年足らず。早熟の天才が最初からいかに生き急いでいたか、こんなことからもそれがうかがい知れますね。
ちなみにマンガ研究家の故・米澤嘉博は、この本を「日本初のストーリーマンガの描き方解説」だったと述べている。
『漫画大學』は、漫画大学の校長兼小使さんを務めるナンデモカデモ博士が学生たちに講義をするというスタイルで、その合間合間に、実例として3つの短編マンガといくつかの4コママンガが収録されている。
分量的には博士の講義より実例マンガの方にはるかに多くのページが割かれていて、今回数えてみたところ、本編158ページのうち実例マンガのページは145ページあり、講義のページは何とその10分の1以下の13ページしかなかった。
というのも、そもそもこのとき手塚にはこの本を本格的なマンガの入門書にするつもりはなかったようで、短編集のひとつの形式として漫画大学の講義という“つなぎ”部分を発想したようだ。
手塚は初版のあとがきでこの本を出した意図を次のように述べていて、マンガ家を目指す読者のために描いたとはひとことも書いていない。
「この本は讀者諸君の御希望によって収祿した短編集であります。
『集』とはいえ、頁の都合で載せたいものを数多く割愛しました。内容は一つの長篇と二つの中篇および四種の短篇マンガから構成され、その各篇を漫画大學という特別な鎖で連絡した点、從来の短篇集といささか趣をかえたものと自負しております」(東光堂版『漫画大學』より)※原文は総ルビ
実際、この本を出した当時は、手塚自身も執筆スタイルや道具などいまだ試行錯誤の最中であり、画材を墨汁から初めて製図用インクに変えてみたのもまさにこのころだったという。以下、松本零士氏、大城のぼる氏との対談からの引用です。
「(手塚が戦後10年くらい、お気に入りの墨を持ち歩き、その都度すって使っていたという話を受けて──)
松本 でも『漫画大学』は、製図用のインクでお描きになったのでは?
手塚 あれはね、
しかし読者の方はというと、この本を単なる短編集とは受け取らなかった。
『新寶島』から始まった手塚マンガショックの洗礼を受けた戦後最初のマンガ少年たちは『漫画大學』を読んでさらに心を揺さぶられ、自らもペンを取ってマンガを描き始めたのだ。
石ノ森章太郎を始め手塚の後を追ってマンガ家になった当時の多くのマンガ少年たちが、後年この本から受けた影響が並々ならぬものだったことを語っている。
そういった意味では、手塚の意図がどこにあったにせよ、この本はやはりまぎれもなくマンガ家入門の本だったのである。
そして次に手塚がマンガ入門マンガを描いたのは『漫画大學』から2年後のこと。学童社の雑誌『漫画少年』誌上で1952年4月号から54年5月号まで、全21回にわたって連載(途中休載あり)された『漫画教室』だった。
『漫画大学』のナンデモカデモ博士が再び登場、今回はより具体的で実践的な漫画技法を紹介している。ペンの選び方から構図の取り方、作品テーマの選び方まで、良い例、悪い例を挙げながらじっくりと講義を行っているのだ。
当時『漫画少年』は新人マンガ家の登竜門となっていたため、手塚も本腰を入れて入門編を描いたという感じだ。
ただしここにも毎回手塚らしい遊び心が込められていて、特に注目なのが第6回目だ。この回からはいよいよ長編マンガの描き方の講義が始まり、そのしょっぱなのテキストとして選んだのが何と手塚が『漫画少年』に同時連載していた『ジャングル大帝』の、その号に載った作品だった。
「(長編は)ざっしにのるときは、とくべつあつかいのよみものとなるから、大へんせきにんがおもい」「よっぽどきをつけて、よいものをかかないと」「読者の反響はことにおそろしい」などと厳しい言葉を並べながら、自分自身の作品にひとコマずつ注釈を加えていっているのだ。
さっきも書いたように『漫画少年』の読者はほとんどが本気でマンガ家を目指している少年たちだったので、作例として作ったものではない自分の連載作品を例に挙げるというのは相当な覚悟がないとできないことだ。
ちなみにこの『漫画教室』の連載では、1954年2月号に掲載したある内容がきっかけでひとりのマンガ家を怒らせてしまうというハプニングが起きている。それについては2013年10月の『虫さんぽ』で紹介しているのでそちらを参照していただきたい。
・虫さんぽ 第30回:東京・総武線沿線、手塚マンガゆかりの出版社を各駅停車散歩!
そして時代は昭和30年代に入りいよいよ本格的なマンガの時代がやってきた。まだ週刊マンガ誌は登場していなかったが月刊マンガ誌はどんどんと厚みを増してゆき、毎号豪華な付録と何冊もの別冊付録が付くようになった。
だが一方でそうした商業主義に背を向けてひたすら良質なマンガ作りにこだわった『漫画少年』は少しずつ時流から外れ、昭和30年(1955年)の10月号を最後にひっそりと休刊した。
その翌年、秋田書店から刊行されたのが『目でみる少年少女入門百科 漫画のかきかた』だ。
この本は、表紙には「手塚治虫 著」としか書かれていないが中ページには著者としてもうひとり「加藤宏泰」という名前がクレジットされている。加藤宏泰氏は学童社を創立した加藤謙一氏の次男で『漫画少年』の最後の編集長だった人である。
手塚の書いた「まえがき」によれば「この本をまとめる仕事は、ほとんどぜんぶ加藤宏泰くんがやってくれました」とあり、恐らく手塚は監修のみで中の記事はほとんど加藤氏が書いたものだろう。
本編は「漫画家の七つ道具」として道具の紹介から始まり「デッサン教室」「構図の取り方」などが順序よく掲載されており、第22章「よい漫画・わるい漫画」という章で締めくくられている。
後で紹介するように、これ以後1960年代から70年代にかけて様々なマンガ家がマンガ家入門の本を出すようになるが、マンガ入門書の基本フォーマットはこの本でほぼ確立されたと言える。
画材や印刷技術に関する記述は古びても、ストーリーやコマ運び、構図などに関する部分は、現代のマンガ専門学校で使われているテキストと大きな違いはない。
実際、この本は1962年に新たに冒険王編集部編『ぼくらの入門百科 マンガのかきかた』として改訂版が出され、それから10年以上にわたって版が重ねられ、当時のマンガ家を目指す少年たちの基本図書となったのである。
紹介する順序が前後してしまったが『目でみる少年少女入門百科 漫画のかきかた』に続いて翌年、手塚は集英社の幼年向けマンガ月刊誌『おもしろブック』にマンガ家入門マンガ『漫画中学』を連載している。授業を行うのは、またしてもナンデモカデモ博士。大学から中学へ異動になったのか、はたまた兼務しているのだろうか。
1957年11月号から翌58年2月号まで毎月2ページのごく短い連載ではあったけど「ざっし社のいやがるマンガ」の実例とか「かきつぶしもすてないでためておく」と「あとで役にたつことがある」というワンポイントアドバイスなど、すでにマンガを描き始めている人にも役立つプチ情報が満載の実用的な内容だった。
さて、ここから少し時代が飛んで手塚が次にマンガ入門書を書いたのは1968年のことだ。
集英社の雑誌『少年ブック』の別冊付録として『手塚治虫のマンガ大学』と題した新書判サイズの100ページの本が、1月号と2月号の2回にわたって付いた。しかもさらにうれしいことに今回は監修だけでなく本編でも手塚自身がかなりの絵を描き下ろしていたのだ。
内容は全体がストーリー仕立ての読み物になっていて、主人公はマンガ家を目指す小学校六年生の少年・加藤久男くん。この名前はやはり『漫画少年』を創刊した加藤謙一氏から拝借したものなのだろうか。
それはともかく物語はこの加藤くんが集英社へマンガの持ち込みにやってくるところから始まって、読者は加藤くんと一緒にマンガの描き方を学んでいくことになる。
構成は前編が基礎編で後編が応用編。順序立てて読んでいけば段階を踏んでステップアップできる流れに“一応”なってはいる。
いるんだけど、この『マンガ大学』にはナンデモカデモ博士のような、要点をかいつまんで明快に語ってくれる先生はいない。また秋田書店の『漫画のかきかた』のように学ぶべき内容を理路整然とまとめてくれているわけでもない。
読者は加藤くんと一緒に失敗を繰り返しながらマンガを学び、必要なことを自分自身でくみ取っていくしかない。この大学はどうやら生徒の自主性にまかせたかなりユニークな教育方針を取っているようだ。
この『手塚治虫のマンガ大学』2冊は翌1969年に内容を再構成し、『まんが専科 初級編』というタイトルで虫プロ商事から刊行された。
その巻末の「おわりに」と題された文章で手塚は今後の予定としてこう結んでいる。
「このあと、こんどはすこし専門的なことを勉強しようと思う人たちのために、ぼくなりのまんが論とぼくなりの制作法をくわしく記したものをだそうと思います。また、それぞれの専門パートによって、アニメーションとか、おとなまんがとか、青年まんがなどにも分類して本をだしたいと思います。その本もあわせてぜひよんでください」
しかし残念なことにこの企画はお流れとなってしまったようで『まんが専科』の続刊が出ることはついになかった。「おとなまんが」や「青年まんが」の本が出ていたら手塚はいったい何を書いていたのか。う〜ん、ぜひ見てみたかったですね!!
ところで手塚が1957年に出した『漫画のかきかた』から1968年の別冊付録『マンガ大学』までは11年ものブランクがある。これはなぜなのか。
じつはこの時代はマンガ入門書のひとつのブームが来ており、手塚以外のマンガ家が続々とマンガ入門書を出していたのだ。
そんな中から手塚治虫に特に関係のある入門書をいくつか紹介しよう。
まずは秋田書店から1965年、66年と2冊続けて刊行されたのが石森章太郎(石ノ森章太郎)の『マンガ家入門』正・続編だ。
これは先に紹介した冒険王編集部編の『マンガのかきかた』の上級編をめざして書かれた本だった。以下、正編の冒頭に書かれた石森章太郎のまえがきを引用しよう。
「秋田書店編集部の
じつはこのとき石森章太郎はまだ27歳の若者だった。マンガ家としてはすでに10数年のキャリアがあったけど、自分では飛び抜けたヒット作がないと考えていた。
そんな石森は自分に入門書を書く資格があるのか迷ったというが、最終的には「後輩のために」書くことにしたのだと率直な決意を述べている。
こうした決意からスタートしたこの本は、読み物としての娯楽要素はぐっと後退し、本気でマンガ家を目指す人のための初めての本となったのだ。そして1970〜80年代にかけて第一線で活躍することになる多くのマンガ家がこの本を読み漁り、この本に導かれてマンガ道を歩み始めたのである。
ちなみに手塚が『漫画教室』で自分自身の作品『ジャングル大帝』をテキストに授業を進めたことを紹介したが、石森章太郎もこの本の中で自身の短編『どろんこ作戦』(1963年)と『龍神沼』(1961年)の2編を丸々収録し、そこに随時解説を加えていくという手法で自身のマンガ技法を惜しみなく紹介している。
続いて紹介するのは1966年、67年と2年続けて文進堂という出版社から刊行された『マンガのかき方』と『ストーリーまんがのかき方』の2冊だ。
これは当時関西を拠点として活躍していたマンガ家の西上ハルオが編著をつとめ、監修は『新寶島』の原作・構成をした酒井七馬が担当した本である。
2冊とも作例として掲載されているマンガや全体の構成が、当時からしてもかなり古く感じられるのが残念だけど、内容的には非常に真面目なマンガの描き方についてのノウハウをまとめた本となっており、さらに現役マンガ家へのインタビューなども収録したバランスの良い本になっていた。
ちなみに『マンガのかき方』には手塚治虫へのインタビュー記事も収録されている。
『少年マンガ百科 マンガニカ』は雑誌『少年』1967年9月号の別冊付録として付いたもの。タイトルはマンガ百科ということで百科辞典の『ブリタニカ』をもじったものだ。
表紙には「藤子不二雄・編」とクレジットされていて、当時『少年』で『忍者ハットリくん』を連載していた藤子不二雄Aが全体をまとめているが、作例では赤塚不二夫、石森章太郎、関谷ひさし、ムロタニツネ象らが参加している。
じつはこのころ藤子不二雄のふたり、赤塚不二夫、つのだじろうらはスタジオ・ゼロというアニメ製作会社を興して同じビルで仕事をしていた。
この本はそのメンバーを中心とした合作であり、内容も『マンガタイムス』という新聞形式のコーナーや、北見健一(北見けんいち)による『フジオプロアシスタント日記』などなど、かつてトキワ荘メンバーが『漫画少年』時代にやっていた合作コーナーを彷彿とさせるバラエティ豊かな濃い内容の本になっている。
手塚治虫が『マンガ大学 基礎編』『同 応用編』を出した翌年、同じ『少年ブック』の別冊付録として刊行されたのが、赤塚不二夫の『マンガ大学院 第1巻らくがきコース(入門編)』と『マンガ大学院 第2巻アイデアコース(基礎編)』だ。手塚の『マンガ大学』の後に出る本だから『大学院』というのは自然な流れだが、著者が赤塚不二夫だから、こちらは当然ギャグマンガの教科書となっている。なのにあえて“ギャグ”ということばを表紙に一切うたわず『マンガ大学院』としたところが赤塚不二夫らしいお遊びだ。
ちなみに第1巻の巻頭に書かれている赤塚総長の「おことば」は以下の通り。
「みなしゃーん。この本はギャグまんがを中心にした『まんがの 書き方』の本でしゅ。
それと同時に、実習ノートでもありまーしゅ。
きみたちみんなが、プロまんが家になれるように、心をこめて 書きおろしました。
チビシク練習して一流まんが家になってチョーライ」
さらに第2巻の巻頭では、総長は生徒のチビ太を次のように厳しく叱っている。
「チビ太くん 授業中に百科事典なんかよむなっ!! まんがを読めまんがをっ!!」
こんな風に紹介するとかなりナンセンスな内容を期待しそうだけど、中味の方はじつはいたって真面目だ。さらに実習コーナーや宿題など読者が実際に課題や問題を解きながらマンガを学んでいくという構成になっていたりして、意外にも(?)実用的な入門書になっている。本当はとっても真面目な性格だったという赤塚先生の人柄が良く出ている本である。
さらに1972年には、今度は藤子不二雄Aが雑誌『週刊少年チャンピオン』に『チャンピオンマンガ科』というマンガ入門講座の連載を始めている。
この連載は毎回4ページのうち前半2ページがマンガ家入門者のための講座で後半2ページは藤子不二雄自身をモデルとした半自伝的なマンガ史マンガとなっていた。そのタイトルは『まんが道』。後に藤子不二雄Aの代表作となる作品はこうしてマンガ入門講座のおまけとしてスタートしたのだ。
連載はおよそ2年間続き、1977年からは『まんが道』のみが独立して『週刊少年キング』で新たに連載が始まった。
話を手塚治虫に戻そう。手塚が最後に書いたマンガ入門書が光文社のカッパ・ホームズという新書のシリーズで刊行された『マンガの描き方』(1977年)だ。
この本のまえがきは「ひとつ、あなたも漫画をためしに描いてみませんか。」という書き出しから始まっている。
新書というスタイルから、この本はプロを目指すマンガ家のためというスタンスではなく、誰もが自己表現のひとつとしてマンガを描いてみては? という提案をしている本なのだ。第1章第1項の見出しは「漫画は落書きからはじまる」。
計算するとこの本が出てから38年がたった。その間、同人誌やインターネットのマンガ投稿サイトなどの普及で、マンガ家のプロとアマチュアの境界線はほとんどなくなった。
一億三千万人総マンガ家時代。手塚が38年前に提案したそんな時代が今、ようやくやってきたとも言えるのだ。
最後に、手塚治虫が亡くなった後で刊行された本を1冊紹介しよう。
1992年に講談社から刊行された『漫画の奥義』は、評論家の石子順が1975年から最晩年の88年までの間に取材した既発表・未発表のインタビューをまとめた本である。
手塚がマンガ家として生きてきた人生、影響を受けたマンガ、映画、アニメ、そして今思うこと、これからやりたいことなどを率直に語っている。
なのでここまで紹介してきたマンガ入門書とは趣きが異なるが、この本もまたマンガ家を目指す人には、手塚のひとことひとことから得ることの多い内容となっている。
一部を引用してみよう。
「手塚 漫画はよく夢を描いているからおもしろいっていうんですけど、これはいい方を換えると、漫画ほど読んでいる人間をその世界に取り込んでしまうメディアはないということなんですね。自分が主人公になってしまうという錯覚を起こす。つまり同化してしまうんですね、その世界に。これは子ども漫画の独自な魅力なんですね。
これは読んでいる側だけでなしに、描いている側にもあるんですよ。
(中略)
同化できるのはなぜかというとね、非常にリアリティがあるからなんです。
(中略)
漫画の場合は、我々が見ている実際の世界じゃないんだけれども、そこに立体的な新しい宇宙があるわけなんです。
この宇宙は、非常に精密に、描いている側も自分のイメージをたたき込んでいましてね。たとえば、漫画のコマのなかに描かれているもの以外に、この枠の外に何があるかということも、読む人にも大体わかっているわけですよ。
もうそれは、空想の世界というより現実の世界なんです。だから読み手が非常にとけ込みやすい。そこで活躍しやすいわけです」
いかがでしたでしょうか。もうね、手塚先生は自分の知るテクニックからアイデアまで、全時代を通していつでも惜しみなく披露してきていたことがよく分かったんじゃないでしょうか。
ということで締めくくりは手塚先生が『漫画教室』の最終回に掲載した「漫画家十訓」を紹介して今回のコラムを終わりたいと思います。
ではまた次回のコラムにもお付き合いください。礼っ!!