銀座のど真ん中、並木通り沿いに建つ老舗レストラン。昭和30年代、手塚治虫先生はこのお店を、上京してきた若いマンガ家たちをもてなすのによく利用していた。もてなされたのは藤子不二雄のおふたり、松本零士氏、水野英子氏などなど。手塚先生は彼らに元気をつけてもらおうと、決まってそのお店の看板メニューを注文したという。しかも何とそのお店では、現在も当時とまったく同じレシピでその料理が提供されているらしい。ということで今回は、銀座で手塚先生のおもてなし料理を味わい、お堀端を経て丸の内まで歩きますっっ!!
銀座・日比谷・有楽町界隈は手塚治虫先生にとってなじみの街だった。お気に入りの映画館や試写会が開催されるホールがいくつもあり、多くの仲間と親交を深めた漫画集団の事務局も銀座にあった。
集英社の手塚賞・赤塚賞受賞記念パーティが開催された帝国ホテルは、手塚先生が年に一度、誕生日に家族と食事を楽しんだ思い出の場所でもあった。
というわけで、銀座・日比谷・有楽町界隈は、虫さんぽでもすでに3度も歩いている。
・虫さんぽ 第10回:東京銀座界隈で、手塚先生のONとOFFの足跡をたどる
・虫さんぽ 第26回:東京・有楽町日比谷界隈 手塚アニメの原点と最晩年の手塚先生の素顔を訪ねる!!
・虫さんぽ 第31回:手塚先生のベレー帽をめぐって東京・銀座を歩く!!
さすがにもうネタ切れだと思うでしょ。それがまだまだあるんです! しかもかつて手塚先生が味わった料理が今も味わえるお店があるというではありませんか。さあ皆さん、お腹を空かせて、いざ散歩に出かけましょう!!
今回のさんぽは銀座のヘソともいえる場所・銀座四丁目交差点から出発だ。
昭和30年代、まだ洋食がハイカラでおしゃれだったころ、手塚治虫先生はここ銀座四丁目交差点からほど近い場所にある、とあるレストランをおもてなしに利用していた。
そこで出されていたメニューは何か。それは行ってからのお楽しみ〜〜〜っ! では、さっそくそのお店を目ざしましょう。
銀座四丁目交差点から晴海通りを北へ向かって歩き出す。この日は快晴で肌をなでるひんやりとした風も心地よく、絶好の散歩日よりだった。
ただしこの記事が公開されるころには晴れるとかなり暑くなっているはずです。散歩される方は、熱中症対策と紫外線対策に十分気をつけてくださいね!
ということで晴海通りを100メートルほど北上したところにそのレストランはある……んだけど、その前に! そのすぐ手前にも手塚スポットがひとつあるのでご紹介いたしましょう。
それは晴海通り沿いに建つゴールドの柱で飾られたおしゃれなビル、その名もアルマーニ/銀座タワー!! その名の通り現在は地下2階から地上11階までブランドショップ「ジョルジオ アルマーニ」がテナントとして入っているおしゃれなビルになっているが、じつはこのビル、昭和30年代の手塚マンガの中で非常に重要な舞台として出てきていたのだ。
その作品とは、1957年から58年にかけて雑誌『少年クラブ』に連載された『旋風Z』である。
このマンガの中で、主人公の少年・Zをつけ狙う悪人たちのアジトが、当時このビルの屋上に建っていた地球儀型広告塔の中にあるという設定だったのだ。
この地球儀型の広告塔、かつての銀座を知る人なら誰もが覚えているであろう銀座名物だった。
資料によれば森永製菓がこの広告塔を建てたのは1953年のこと。直径11メートルという大きさはネオン広告としては当時世界最大だったそうで、50トンもの鋼材を使用して作られた。その後30年間にわたって銀座のランドマークとして親しまれたが、1983年老朽化のために解体されてついにその姿を消したのである。
さあ、そうこうしているうちにちょうどいい具合にお腹も空いてきました。いよいよ手塚先生御用達のレストランへ向かうことにいたしましょう。
『旋風Z』に登場したビルのすぐ先の並木通りを左折してほんの数メートル歩いた左側。そこに赤いテントの張り出した立派なビルが見えてくる。
ここが本日のメインスポット「三笠会館 本店」である。そう、手塚先生がおもてなしによく利用したレストランというのはここ三笠会館なのだった!
手塚先生が三笠会館とここのお店の名物料理について語っているのは、1982年に刊行された単行本に収録されている松本零士先生と大城のぼる先生との座談会の中だ。以下、その部分を引用しよう。
「手塚 藤子不二雄さん(黒沢注:後の藤子・F・不二雄=藤本弘氏と藤子不二雄A=我孫子素雄氏)がはじめて東京に出てきたときに、やあきたかといってね、じゃあ乾杯しようって、それで銀座の三笠会館に行って……。
松本 鳥の唐揚げ──。
手塚 鳥の唐揚げを食べました。コンビの片方の安孫子素雄さんは家がお寺で、ナマグサを食べないんですよね。ぼく全然知らなかったんで(笑)、それでもね、彼は我慢して食べたようでした。ぼくは二人とも食べたのを覚えてるんだね。で、この間聞いたら、御馳走してもらったから無理矢理食べたんだって。──大変な決意だったらしい(笑)。」(講談社版手塚全集『手塚治虫対談集2』より。※初出は『Oh!漫画』1982年晶文社刊)
さらにこの話の続きでは、松本零士先生ご自身が、ここで手塚先生にごちそうしてもらった思い出を語っている。
「松本 私も三笠会館へ連れていってもらった。
手塚 あれはあなたとね、牧美也子さんの新婚旅行のあと、われわれにおひろめパーティがあって……。
松本 いやいや、そうじゃない。それ以前に、東京に初めてきたときに、水野英子さんもいっしょで唐揚げが出たんです。料理にあんなにうまいものがあるんだろうかと(笑)。
手塚 あのころはもう、けっこううまいものがありましたね、安くて。
松本 ありましたね。で、あの日が人工衛星が上がった日なんですね。
手塚 あっ、本当?
松本 タクシーに乗って銀座を走っていたら、朝日新聞かどこかの電光ニュースで、ソ連の人工衛星が上がったと──だから一九五七年の十月四日か五日だったわけです。
手塚 ああそうですか。」(前出の座談会より)
こうして手塚先生が大切な人をもてなすのに使った三笠会館の唐揚げ、虫さんぽでもぜひ食べてみたいなーと思いつつも、まず無理だろうとも思っていた。
何しろ現在の三笠会館 本店は和食、イタリアン、中国料理、懐石料理など、いくつもの名店が集まった高級レストランビルになっている。庶民的な唐揚げはとっくにメニューから消えているだろう。
だけどダメモトで三笠会館に電話で問い合せてみると、何と「今でもありますよ」というお返事が! しかも当時のレシピをかたくなに守り続け昔の味のままで提供されているというではアリマセンカ!!
それはぜひ食べさせてください!! ぜひ! ぜひ!! ということで今回の虫さんぽで紹介できることになったのだ。これは楽しみだぜ〜〜〜〜、うおおお〜〜〜〜っ!!
ではいよいよ三笠会館へ入ろう。うっ、しまったーーーー。ジーンズにカラーシャツという超ラフな格好で来てしまったーーーーっ。ここは高級レストランだぞ、こんな服装で入れるのかーーーーっ!? なぜ気が利かない→俺。
と困って入口の前でウロウロしていたら、中から出てきた清楚な女性が声をかけてくださった。
「虫さんぽの黒沢さんですね。私、三笠会館本社 営業本部で広報・販売促進を担当しております武井美和子と申します」
「あーっ、武井さん初めまして。済みません、じつはジーンズで来てしまいまして……」
「大丈夫ですよ、どうぞどうぞ」
「えっ、いいんですか? うわーよかった」
と、こうしてぼくは無事に三笠会館へ入れることになったのだった(ホッ)。
さっそく唐揚げを食べたいところだけど、まずは情報収集しなくては。
武井さん、手塚先生は対談の中で「三笠会館へ行ったら鶏の唐揚げ」という風に迷いなく語っていますが、そもそもなぜ三笠会館のメニューに鶏の唐揚げがあるんですか?
「三笠会館は、大正14年(1925年)に東銀座の歌舞伎座前でかき氷屋「三笠」として創業しました。その後昭和2年に三原橋に移転して「食堂三笠」がオープンし、大変好評いただいておりました。
ところが昭和7年に開店した支店の経営が不振となり、当時の社長だった
そのときあるコックさんが提案したのが鶏の唐揚げだったんです。豆腐に粉を付けて油で揚げる中国料理をヒントにしたということです。
その後、味付けや衣の付け方、揚げ方などに試行錯誤を重ねて完成させたのが三笠会館名物の「若鶏の唐揚げ」です」
その唐揚げでお店の経営は持ち直したんですか?
「おかげさまですぐに評判となり、連日、押すな押すなの大盛況になったということです」
それは素晴らしい。唐揚げはお店の救世主だったんですね! だけど鶏の唐揚げって当時は珍しかったんですか?
「当時、関東では肉料理といえば豚肉が中心で、鶏肉はあまり食べられていなかったそうなんです。
終戦直後は唐揚げの材料を調達するのが難しい時期もありましたが、それでも努力して提供を続けました。
手塚先生が藤子先生や松本先生とご一緒にお越しいただいた昭和30年代ごろには《銀座に来たら三笠会館で鶏の唐揚げ》と言われるほどの銀座の名物になっていたんです」
いやあ謎が解けました。それでこちらのお店では今もこのメニューを大切にされているわけなんですね!
「若鶏の唐揚げは本店では1階の「イタリアンバール ラ ヴィオラ」で召し上がれますし、ほかの三笠グループ各店でも同じ味が味わえます」
では武井さん、いよいよ銀座名物・若鶏の唐揚げをいただけますでしょうか!? おおっ、これが……手塚先生も食べた鶏の唐揚げですね!! うう〜〜っ感動です。
「練り辛子とごま塩が添えられていますが、唐揚げにも最初からお味が付いていますので、最初はそのまま召し上がっていただいて、途中でお味を変えていただくのがおすすめです」と武井さん。
わかりました。ではまずはぼくも何も付けずにいただきます。パクッ。おおっ! 薄皮衣のサクッとした食感と、ジューシーで柔らかいお肉の味わいが絶妙です。しかもこの深いコク……。
これは1kg前後の若いひな鳥の肉を使っていますね。そして味付けは……薄口醤油に砂糖、焼酎をベースにごま油で香りをつけたものですね!!
「はい、先ほどお渡しした資料に書いてある通りです」
済みません、資料読んでました……。
だけどこの美味しさは資料を読まなくても分かります。この味で手塚先生にもてなされた皆さんも、きっとこの美味しさに感動したことでしょう(肉が苦手な藤子不二雄A先生を除く)。さんぽの際には皆さんもぜひ味わってみてください!!
武井さん、ありがとうございました!!
三笠会館を出たぼくは、晴海通りをいま来た方向へと戻り、銀座四丁目交差点を右折、中央通りを西へと向かった。次の目的地はこの中央通り沿いにあるのだ。
やがて左側に、ヤマハ銀座ビルという、茶色を基調としたカラフルなタイル模様のビルが見えてきた。
ビルそのものは2010年に現在のビルに建て替わってしまったが、旧ビルの時代からこのビルの中には「ヤマハホール」というコンサートホールがあり、音楽イベントだけでなく映画の試写会などさまざまな催しが行われている。そのヤマハホールが今回2ヵ所目の手塚スポットなのである。
1962年11月5日、手塚先生はここヤマハホールで、立ち上げたばかりのアニメーション製作会社・虫プロダクションの「第1回作品発表会」を開いた。
上映された作品は38分の中編『ある街角の物語』と短編『おす』、そして『鉄腕アトム』のパイロットフィルムの3本だった。
例によって手塚先生のこだわりのために完成はギリギリとなり、発表会当日の朝までフィルムの編集が行われていた。そのため音声はフィルムとは別にテープで流し、それを手動でオン・オフさせながらシンクロさせるという超原始的な手法がとられたということだ。
ちなみにこの場所で虫プロ発表会が開かれる9年前、雑誌『少年』1953年6月号に発表された『鉄腕アトム』「赤いネコの巻」の中にヤマハホールがチラッと登場しているのをご存知だろうか。後の単行本ではカットされてしまったシーンなのでぜひここに紹介した絵で確認していただきたい。
手塚先生のことだから、もしかしたらすでにこのころから「いずれこのヤマハホールでアニメーションの製作発表会を開きたい」と考えていたのかも知れません。
『鉄腕アトム』の話が出たところで、次に向かう手塚スポットも『鉄腕アトム』に登場した場所である。
作品は雑誌『少年』1955年10月から1956年2月にかけて連載された「人工衛星W47の巻」。この話に登場する麻薬密売組織「赤い馬」のアジトである「まぼろしクラブ」が銀座八丁目にあるという設定なのである。
ただしこのエピソードも単行本化の際に「黄色い馬」と改題され内容も大幅に改変されたため、「まぼろしクラブ」という名前も銀座八丁目という設定も単行本では削除されている。
しかしここは手塚ファンとしては、オリジナル版をイメージしながら「まぼろしクラブがあったのは、この路地の奥だろうか?」なーんて想像しながら歩いてみると楽しいと思います。
続いて外堀通りを越えて日比谷通りへ。ちょっと疲れた方は日比谷公園の木陰でひと休みするのもいいと思います。
ちなみにこの日比谷公園もいくつかの手塚マンガに登場した手塚スポットであり、その向かいにある帝国ホテルもまた同様です。
それについては冒頭で紹介した虫さんぽ 第26回で歩いているのでそちらをご覧ください。
さて日比谷通りをそのまま北上し、皇居外苑のお堀端までやってくると、その向かいに白い大きなビルが見えてくる。
かつてここにあった第一生命館というビルは、終戦直後の昭和20年、GHQ=連合国軍総司令部の庁舎として接収され、アメリカのダグラス・マッカーサー総司令官が執務室を置いていた。
手塚マンガでは、1979年から80年にかけて発表された『どついたれ』にGHQが進駐していた当時のこの建物が登場する。
空襲で両親を失ったウメダの哲こと山下哲はマッカーサーを親の仇として暗殺を企てようと上京し、ここGHQ本部周辺を探るのだ。
第一生命館はその後1995年に改築されて隣の農林中央金庫有楽町ビルと合体し、DNタワー21という新しいビルに生まれかわった。
ただしお堀に面した正面の部分は解体せず、かつての第一生命館のイメージがそのまま残されたので、こちらから見たイメージはほとんど当時のままである。
次の手塚スポットは旧第一生命館のすぐ隣、帝国劇場だ。
昭和31年(1956年)の夏、手塚はここでマンガ家仲間の馬場のぼる、うしおそうじのふたりと一緒にシネラマ映画第2弾『シネラマ・ホリデー』を観たという。以下、うしお氏の著書から、それについて触れている部分を引用しよう。
「手塚治虫とボクを親しくさせたのは、なんといっても二人が大の映画好きであったことによろう。(中略)
一九五六年の夏、ボクはカンヅメ中の宿を知っていたので、手塚に電話して呼び出した。
《なんですか、うしおさん……》と、疲れた声が返ってきた。(中略)ボクは一瞬躊躇したが、思い切って誘った。
《あのう、『シネラマ・ホリデー』を観に行きませんか?》
急に声のトーンがダウンした。しかし音声は先ほどより明瞭に変わった。
《うしおさん、それはいつッ》(中略)
おそらく手塚番たちの耳目がいっせいに彼の方を向いているにちがいない。白い目と聞き耳のたったなかで、彼は言葉を選びながら返事をした。
《あと二日で一段落しますから明後日連絡しますよ……》
“悪かったかな”とボクは独りごちた。」(うしおそうじ著『手塚治虫とボク』2007年草思社刊より)
シネラマというのは、3台のカメラで同時撮影した映像を3台の映写機で超ワイドスクリーンに映し出すという当時最新の映画技術だった。1952年にアメリカで開発されるや、アメリカ本国ではたちまち大ブームを巻き起こした。
日本では東京の帝国劇場と大阪のOS劇場がアメリカのロビン・インターナショナル社と独占契約を結び、日本でただ2館だけのシネラマ常設館となった。
両館では1955年1月からシネラマ第1作『これがシネラマだ』の上映を開始、日本でも大人気を博して1年間のロングラン興業となった。それはもう近ごろの3Dブームの比じゃなかったのだ。手塚先生はこの第1作を大阪のOS劇場で観たという。
そして待望のシネラマ映画第2弾として公開されたのが『シネラマ・ホリデー』だった。
以下、ふたたびうしお氏の著書から引用しよう。当日の手塚先生の無邪気な様子が活写されている。
「約束の日、帝劇の前に三人集まった。
ボクと馬場のぼるに少し遅れて手塚治虫が来た。手塚の顔は晴れ晴れとして相好が崩れっぱなしである。手塚はベレー帽のてっぺんを持ち上げてわれわれに会釈すると、鼻に皺を寄せ高笑いした。(中略)
靴の沈むような赤じゅうたんの指定席はリクライニング・シートになっていて、手塚は隣の馬場に親切に椅子の倒し方を教え、二人は仲よく悦に入っている。」(前出のうしお氏の著書より)
しかしこの『シネラマ・ホリデー』は、手塚先生とうしお氏にとっては、残念ながら第1作目ほどの驚きや感動はなかったようで、「ボクも手塚もがっかりだった」とうしお氏は言葉少なに述懐している。
帝国劇場の先を右に曲がり、さらに左へ。東京駅丸の内口へと向かう。
この赤レンガ造りの東京駅の丸の内駅舎は1914年に竣工したが、太平洋戦争末期の1945年5月、空襲で屋根が完全に焼け落ちてしまい、内装もすべて焼失した。
戦後、この駅舎を修築する際には、予算的にも時間的にも制約があったからだろう、創建当時の丸屋根ではなくて、シンプルな三角屋根の形で修築が成された。
この当時の東京駅の駅舎が、先に紹介した『どついたれ』にも描かれているので紹介しよう。
現在の駅舎は、2007年から5年の工期を経て2012年、創建当時の姿に復元されたものである。
さて、いよいよ今回の虫さんぽ最後の目的地へと向かおう。東京駅丸の内口の北側にあるショッピングビル・丸の内オアゾ内にある「丸善 丸の内本店」がそれである。
ここ丸善 丸の内本店の中に、今年2014年4月7日「手塚治虫書店」がオープンしたという。
手塚治虫書店というのは、現在流通している手塚治虫に関する書籍を全て揃える事を目指したインショップである。インショップというのはお店の中にあるお店という意味だ。
さっそくエスカレーターで、手塚治虫書店のある3階へと向かった。
その登りエスカレーターの正面に見えてきた、落ちついたウッドカラーの本棚。そこに輝く「手塚治虫書店」の文字。
そしてその棚に右から左までギーッシリと詰まった手塚マンガ、手塚マンガ、手塚マンガ、まさに手塚マンガまみれ!! 手塚ファンにとってはまさに夢にまでみた本屋さんがココにあるっっ!!
と、ひとりでハァハァしているぼくを出迎えてくださったのは丸善 丸の内本店 副店長の永田一成さんである。永田さんよろしくお願いします!!
さっそくですが永田さん、じっさいにうかがってみると、棚いっぱいに手塚マンガが並んでいるというのは感動しますね!
「ありがとうございます。手塚治虫書店がオープンして数ヶ月がたちましたが、おかげさまでたくさんのお客様からご好評いただいております」
どんなお客さんが多いんですか?
「当店は丸の内という立地から、平日は近くの会社にお勤めのサラリーマンの方が多くご来店され、休日は遠方から来られたお客様が多いのですが、そのいずれの方々にもお買い求めいただいています」
よく売れるのはどんな本ですか?
「新書版のコミックスがいちばん多く出ますね。しかし中には高価な復刻版をまとめて買っていかれるお客様もいらっしゃいました。こうした高価な本をまとめて置いている書店は少ないですから、実際に目で見て買えるのが喜ばれているようです」
手塚マンガということで、やはりメインのお客さんは年配の男性の方が多いんでしょうか。
「私どもも意外だったのですが、若い女性の方がけっこう多いんです。若い女性に人気なのは『ブラック・ジャック』や『リボンの騎士』などですね」
ところで永田さん、今回はこちらでしか買えないオンデマンド書籍を4冊出されていますが、こちらの評判はいかがですか?
「おかげさまでこちらも大人気で、品切れも出るほどです。通販では買えませんのでぜひお店にいらして買っていただきたいですね」
手提げ袋も付きますからね。ぼくも一冊買わせていただきます。永田さん、本日はありがとうございました!!