虫さんぽも今年で10年目に突入! いつも応援ありがとうございます!! 記念すべき2018年最初の虫さんぽは、2017年5月号の横浜さんぽパート1に続くパート2をお届け!! 手塚マンガの悲しい恋の物語の思い出をたどりつつ港町横浜の南西部を歩きます。さらに歴史に埋もれていた手塚治虫先生の横浜サイン会情報も発掘!! 着ぶくれした体を揺らしながら、雨のち晴れの虫さんぽ、出発だ~~~~っ!!
寒~い真冬の休日……。外出するのはちょっぴりおっくうで、こんな日は家でマンガを読んでいるだけで十分幸せなんだけど、今回はそんな真冬ならではの虫さんぽに出かけよう。観光地・横浜は行楽シーズンになると観光客がいっぱいで異国情緒もなにもなくなり人ごみをかきわけながら歩くことになる。だけど今の季節なら人もまばらで横浜本来の大人の街のムードがじっくりと味わえて最高ですぞ!
さて今回の虫さんぽの出発地点はJR根岸線の桜木町駅だ。最初の目的地はこの駅から山側へ15分ほど歩いた場所にあるんだけど……数十年ぶりにこの駅を下りて街のあまりの変貌ぶりに驚いた。いや、ぼくの記憶が1970年代にここを訪れた時のままで止まっているだけなんですけどね。
1970年代、ここ桜木町駅は横浜港方面へ遊びに行く際の玄関口だった。当時はみなとみらい21地区もまだなく、桜木町駅を降りると目の前にはすぐ港町特有の風景が広がっていた。船員相手のマッチ箱のような小さな飲み屋街、巨大な倉庫群、そして木製の小舟が係留された細い水路など。それが今ではすっかりおしゃれなビルが建ち並ぶビジネスとショッピングの街となってしまい、どっちの方向が海なのかも分からなくなっていた。
そんな今回、最初に向かう目的地は、この界隈が港町の香りがいまだ濃かった1970年代に発表された手塚マンガの舞台だ。
小雨の降る中、寒さに首をすくめながら駅前の商店街を抜けて野毛三丁目交差点を右折、野毛坂通りという坂道をゆるゆると登っていく。するとその先にこんもりした森が見えてきた。ここが野毛山公園とそれに隣接する横浜市営の野毛山動物園である。
この界隈が物語の舞台となっている手塚マンガが、1972年から73年にかけて『週刊少年サンデー』に連載された『サンダーマスク』だ。
地球のあらゆる生命体を石に変えてしまう悪の宇宙生命体デカンダー。そのデカンダーを倒すべく立ち上がったのが、宇宙生命体サンダーを体に宿した青年・命光一だった。命光一はサンダーマスクに変身し、デカンダーと戦う!
この作品は特撮テレビヒーロー番組の企画がまず先に立ち上がり、手塚先生はそのヒーロー番組と同じキャラクターを主人公としたオリジナルマンガを雑誌に連載するという、手塚マンガとしては珍しいコラボレーション作品だった。テレビで放送された特撮ドラマと手塚マンガの共通点は基本設定とサンダーマスクのデザイン、そして一部の登場人物の名前が同じというだけで、それ以外はまったく別の物語になっていた。
同題のテレビ番組は当時流行していた特撮ヒーロー番組の典型であったが、手塚マンガ版『サンダーマスク』は悲しくも残酷な恋のお話になっていた。そんな悲恋のドラマの舞台として手塚先生が横浜の港町を選んだのはもちろん偶然ではなく、この町のしっとりとした異国情緒が主人公・命光一の気持ちにぴったりだったからだろう。
その手塚版『サンダーマスク』に野毛山公園周辺が出てくるのは、物語の中盤だ。主人公・命光一にサンダーの魂を託した今は亡き高瀬博士。光一がその愛娘・高瀬まゆみに会いにこの地を訪れる。
東京神田の大学館ビル前で自動車のタイヤに乗り移ったデカンダーを倒した命光一は、その翌日、ここ野毛山公園の丘の上に立って横浜港を見下ろしていた。
光一は、デカンダーに殺された高瀬博士の遺言の録音テープを手渡すべく、博士の遺児である女子高生の高瀬まゆみを訪ねてやってきたのだ。
野毛山公園は、関東大震災後の震災復興事業のひとつとして1926年に開園した歴史ある公園だそうである。戦後の1951年にはここに「野毛山遊園地」が開園し、様々な遊具や観覧車などもあった。だが遊園地は1961年に閉園し、かつて園内にあった動物園だけが現在も営業を続けている。
公園の案内板によれば2010年に再整備が成されたというが、公園全体の雰囲気は恐らく命光一がここを訪れたころも、今とほぼ変わらない風景が広がっていたに違いない。
ということで、光一が横浜港方面を見下ろしているマンガの絵に近い場所を探して園内を歩き回ってみた。野毛“山”という名前の通り公園全体が小さな山になっているが、現在は周りに高いビルが建ち並んでいてなかなか見晴らしの良い場所が見つからない。そこで園内案内図を見ると展望台を発見。ここが怪しい。さっそくそこへ向かってみることにした。
案内板に従ってゆるやかなスロープを登っていくと前方にコンクリート製の展望台が見えてきた。横浜市の公式サイトによれば、この場所に初代展望台が設置されたのは1961年で、2011年に現在の二代目展望台がリニューアルオープンしたという。その2代目展望台をエレベーターで3階まで上がるとその場所の標高は57m。目の前には横浜の街が広がっていた。海は見えなかったが、遠くにランドマークタワーや巨大観覧車コスモクロック21などが見える。
やはり光一も、かつてこの場所にあった初代展望台から港の方向を見下ろしていたに違いない。そう思ってマンガの絵と実際の風景を見くらべてみると、コマの左下に描かれているゆるやかなスロープも確かにそこにあったのだ。
マンガではこの後、光一は高瀬まゆみが通っているミッションスクールを訪ねるべく外国人墓地の中を歩いていて、謎の仮面怪人と出会うことになる。だけどネットで検索したところでは、現在の野毛山周辺には外国人墓地もミッションスクールもないようである。恐らくこのあたりは横浜のエキゾチックな雰囲気を演出するための手塚先生なりのアレンジだったのだろう。
外国人墓地は後ほど訪ねることにして、野毛山周辺でマンガに出てきた高瀬邸らしき家を探しつつ、もう少しこのあたりを散策してみることにした。この地域は古くから高級住宅地として開拓された場所だったそうで、曲がりくねった細い坂道に沿って昭和っぽい邸宅や昔風の高級マンションがいくつも建ち並んでいる。
中には高瀬邸っぽい雰囲気の家もあったけど、さすがに無断で他人の家の写真を撮るのははばかられたので写真はありません。でも街の雰囲気は素敵なので、ぜひ皆さんも住人の迷惑にならないように静かに、命光一や高瀬まゆみの気分になって散策してみてください。
いったん野毛山公園へ引き返し野毛坂通りを下ったら、桜木町方面へは戻らずにそのまま野毛坂通りを直進する。そうすると、交差点の左手に24時間歩行者天国になっている賑やかな商店街が見えてくる。商店街の名前は「イセザキ・モール1・2st.」。東西におよそ400mほど続くこの商店街のちょうど中ほどに、我々虫さんぽ隊が目指す次の目的地があるのだ。
野毛山公園からだと徒歩でおよそ20分ほど。桜木町駅を出てからすでに2時間近く歩いているので、このあたりで休憩を兼ねてお昼を食べるのもいいだろう。
歩いているうちに雨も止み、気分も盛り上がってきたところでイセザキ・モールへと入り少し歩くと左手に赤いテントの大きな本屋さんが見えてきた。お店の名前は「有隣堂伊勢佐木町本店」。ここが本日2か所目の手塚スポットなのだ!
手塚先生が『サンダーマスク』で野毛山公園周辺を描いてからおよそ5年後の1977年7月23日、このお店で手塚先生のサイン会が開かれた。
講談社から手塚治虫全集の刊行が開始され、その記念すべき最初の8冊が発売されたのが1977年6月15日だから、その直後の出版記念サイン会だったのだろう。
ただし、じつはこのサイン会の記録は手塚プロにも残されていなかった。しかし他ならぬ手塚先生自身がそのことを当時、ある週刊誌に書いていたのだ。
それは1977年の『週刊小説』に掲載された「私の168時間」という日記風のエッセイだ。直近の1週間の行動と出来事を1日ごとに記録したこのエッセイの中に次のような文章があった。
「7月23日(土)
昼、C誌脱稿。蒲田及び横浜の書店にて、午後よりサイン会。約束の時間より二時間ずつ遅れたが、無事、終了。横浜より手塚プロへ。(後略)」(講談社版手塚治虫漫画全集『エッセイ集6』より。※初出は『週刊小説』1977年8月26日号)
記事にはこのようにはっきりと「横浜の書店」と書かれているが、ただ横浜の書店ではあまりにも範囲が広すぎる。仮に片っ端から電話で聞いたとしても、いきなり40年前のことを聞かれてすぐに答えられるお店はほとんどないだろう。
結局この「横浜の書店」を特定するのは難しいと思ってあきらめていたある日、手塚プロ出版局長の古徳稔氏に何気なくそのことを話してみた。すると古徳氏から意外にも即座にこんな返事が返ってきたのだった。
「手塚先生がサイン会をやった横浜の書店? だったら伊勢佐木町の有隣堂さんだよ」
ぼくは驚いた。古徳さん、どうしてそんなに即断できるんですか。すると古徳氏は、
「有隣堂伊勢佐木町本店は老舗の大きな書店さんでね、昔からいろいろな作家のサイン会をやっているんだよ。手塚先生が横浜でサイン会をやったとしたら間違いなくそこだよ」
思いがけず断定口調で店名を教えてくださった古徳さんの言葉に後押しされて有隣堂伊勢佐木町本店に問い合せてみた。すると……果たしてここで当時手塚先生のサイン会が行われたという資料がお店に残っていたのだった!!
あいにくサイン会当日の写真などは残されていなかったが、お店の建物は手塚先生のサイン会が開かれた当時のままの建物だという。そこでぜひ虫さんぽにうかがわせてくださいとお願いし、さんぽ当日を迎えたのだった。
有隣堂伊勢佐木町本店の外観はまるでデパートのような立派な建物だけど、中へ入ると店内もまさにデパートのように吹き抜けになっていて、見上げると1階をコの字形に囲むように2階の回廊が見える。応対してくださったのは、株式会社有隣堂 社長室広報担当係長 志村圭一郎さんである。
と、ここで手塚プロの虫さんぽ編集担当・O山が合流。ここからはO山が志村さんにインタビューいたします。それでは志村さん、どうぞよろしくお願いいたします!!
O山「志村さん、1977年当時、こちらの有隣堂伊勢佐木町本店でサイン会が行われたということですが、まずはこちらのお店の歴史を教えていただけますか?」
志村「有隣堂は明治42年(1909)に創業いたしまして、店舗は今と同じこの場所にありました。その後、関東大震災や太平洋戦争時の空襲による店舗焼失を経て、現在の建物は昭和31年(1956)に建てられました。以来、現在に至るまで建物は大きくは変わっておらず、ほぼ、手塚先生がサイン会に来られた当時のままです。」
O山「建物自体も、レトロな雰囲気で素敵ですね!」
志村「床は真鍮の枠を作って、そこに材料を流し込んで当時の職人たちが磨き上げたものがそのまま使われています。店内の柱や壁の一部の装飾は大理石でできていて、こういうのも当時としてはモダンだったことでしょう。店内が吹き抜けになっていたり、オブジェのような照明があったりと、斬新な構造でした。
それから、当時はまだみなとみらいが出来ていなかった時代でしたから、この伊勢佐木町は現在よりもさらに人通りがあったのです。向かいには横浜松坂屋の大きな百貨店もありました。(現在はカトレヤプラザ伊勢佐木)」
O山の志村さんへのインタビューは続きます。
O山「手塚先生がこちらのお店でサイン会を行ったのは1977年ですから、今の店舗と変わらないんですね」
志村「そうです。建物には修繕が加えられましたが大きくは変わっていませんので、手塚先生がお越しになったときと、ほぼ同じ状況だと思います。
サイン会を行った場所は、当時の新聞広告には「イセザキ店1Fで開催」と書かれていますので、恐らく店舗入り口の横だと思います。現在は2階の踊り場でも行うことがあります。」
O山「現在もサイン会は行われているんですね」
志村「もちろんサイン会はよく実施しています。書籍や漫画の著者をお招きする他、最近だとプロレスラーのトークショーとサイン会を行いました」
O山「漫画家、作家だけではなく、バラエティに富んでいるんですね! そういえば店内にマンガの売り場が見当たりませんが……」
志村「この本店の裏にある別館がコミック専門の売り場ですので後ほどご案内いたします」
O山「ところで志村さん、手塚マンガは読まれますか?」
志村「『ブラック・ジャック』は全巻持っていました。小学校の頃にリアルタイムで読んでいましたが、キャラクターの個性が際立っているし、ドラマチックな展開で、まるで映画を見ているような感覚で読んでましたね。しかし当時はストーリーを追うだけで、本質的なテーマは理解していなかったかもしれません。これを機会にまた読み返してみようと思います。大人になっても読み返したくなるマンガって、そうそうないんじゃないかなと思いますよね」
O山・黒沢「志村さん、お忙しいところご案内ありがとうございました!!」
ここでO山と別れたぼくは引き続き虫さんぽを続行する。ただし次の目的地までは少し距離があるのでタクシーを使うことにした。距離にしておよそ3km。車なら15分ほどの所要時間となる。
そして向かった先はJR根岸線山手駅近くにある「根岸外国人墓地」だ。先ほど紹介した『サンダーマスク』の中で光一が野毛山の外国人墓地を歩く場面が出てくるが、実際には野毛山周辺には外国人墓地はなさそうなので、その雰囲気を味わうためにここを訪れることにしたのだ。
横浜の外国人墓地といえば後ほど向かう「港の見える丘公園」にほど近い「横浜外国人墓地」が有名だが横浜外国人墓地は一般人の立ち入りができないので(毎年3月から12月末までの毎週土・日。祭日は「募金の為の墓地内一般公開」※雨天をのぞく)、一般人でも入れるこちらの墓地を訪ねることにしたのだ。
タクシーを降りて細い路地を20mほど入ったところに「横浜市根岸外国人墓地」というプレートの掲げられた門がある。真冬の雨上がり、さすがに墓地の中はひっそりとして人っ子一人いなかった。
崖の傾斜地に沿って外国人墓地特有の十字架や背の低い墓石がまばらに並んでいる。長年風雨にさらされていた墓標や墓石は角がすっかり丸くなっており、中にはそこに刻まれた文字も判別できなくなっているものも多い。遙か昔、遠い異国の地で眠りに就いた人々を訪れる人はいるのだろうか。
と、そんなことを思いつつ歩いていると、墓地を見下ろす高台の上の中学校からオルガンの音が聞こえてきた。マンガの中では外国人墓地にいた光一が、遠くから聞こえてきた鐘の音に導かれるようにしてまゆみのいる学校へ向かった。ぼくもオルガンの音に導かれて中学校へ行ったらまゆみさんに出会えたのだろうか。しかしあいにく墓地から中学校へ通じる道はなく、オルガンの音もいつの間にか止んでしまったのだった。
ここからは再びタクシーを利用して次の目的地へ。およそ10分で到着したのが、先ほどチラッと話題に出した「港の見える丘公園」だ。その名の通り横浜港が一望できる公園として有名な観光スポット……というより恋人たちのデートスポットである。
うわ~、しまった! O山にもここまでついてきてもらうんだった。こういう場所をカメラを持ってひとりで歩いていると、時に他人の視線が激しく痛かったり、自分の心が激しく痛かったりするのだ。うう……。
だけどまあ気を取り直してさんぽを続けよう。この場所が描かれた手塚マンガは『ブラック・ジャック』第50話「めぐり会い」だ。
このお話の中でB・Jは如月慧という男性から電話をもらい港の見える丘公園で待ち合わせをすることになった。如月慧はB・Jがかつて愛していたが今はこの世にいないひとりの女性の兄であり船医をしている。その彼が横浜港へ寄港したために久々に連絡をくれたのだ。
ここでB・Jの元恋人と聞いて激しく反応したのが、自分こそがB・Jの奥さんだと自認するピノコだ。ふたりの再会の場までついてきたピノコは、B・Jと慧をまんまと引き離すことに成功し、慧とふたりきりで会話をする。そしてB・Jの過去にあった悲しい恋の物語を知るのだった。
ここへ来るまでに天候はすっかり回復して港の見える丘公園からは晴れた横浜港が見下ろせた。ぼくは予想通りのアウェーな空気の中でさんぽを強行する。
事前にコピーしてきた『ブラック・ジャック』の絵を見ながら、それと似た場所を探すのだが、この作品が発表されたのは雑誌『週刊少年チャンピオン』1974年11月24日号である。当時とは公園の雰囲気もすっかり変わっているはずだ。
なかなかそれっぽい場所はないなあ、と思いつつ、多くの人が集まって記念写真を撮っている展望エリアを離れ、園内を歩いていると、人通りの少ない、まるでエアポケットのような静かな場所を見つけた。丘が海側に向かってテーブルのように突き出していて、そこに小さなベンチが3つ並んでいる。
このマンガのようにセンチメンタルなお話には最高の場所だ。こここそがB・Jと如月慧が再会した場所と認定し、ぼくはカメラに収めたのだった。それにしても手塚先生、よくこんな秘密のデートスポットのような場所をご存知でしたねぇ……。
せっかくここまで来たので港の見える丘公園から徒歩1分の横浜外国人墓地へ行き外側から見学する。ネット情報によれば一般公開日もあるようだけどぼくは運が悪いのか一度も公開日に行き当たったことがない。ちなみに横浜の外国人墓地にはここと先ほどの根岸外国人墓地の他にも、横浜市中区の中華義荘(主に中国人を埋葬)、横浜市保土ケ谷区の英連邦戦没者墓地(主にイギリス連邦将兵を埋葬)がある。
太陽も西に傾いてきたので、本日最後の目的地へと向かおう。
それは「山下公園」だ。大桟橋ふ頭の南側の海沿いに細長く伸びた公園で、昭和5年に関東大震災で出た瓦礫を埋め立てて作られた公園だそうである。ぼくがここを初めて訪れたのは小学校6年生だった1969年、学校で来た社会科見学の時だった。しかしこの公園から見た公園や港の風景は、遠くに見える高層ビル以外は当時とほとんど変わっていない。
そしてここもまた有名なデートスポットではあるが、こちらは外国人の団体さんや、ジョギングや散歩をしている地元の人もたくさんいて、港の見える丘公園よりアウェー度ははるかに低い。
この公園(らしき風景)が登場するのは先ほどから紹介している『サンダーマスク』だ。野毛山の高瀬邸へ博士の遺言テープを持参した光一。そこで出会ったまゆみと別れ、光一がひとり物思いに耽りながら歩いている海沿いの公園。このロケーションはまさしく山下公園に違いない。
だがその後光一は、まゆみの抱えた悲しい運命を知り、ふたりには悲しすぎる未来が待っているのだが……この恋の行方を知りたい方はぜひマンガをお読みいただきたい。
ではまた次回のさんぽにもぜひお付き合いください!!
黒沢哲哉
1957年東京生まれ。マンガ原作家、フリーライター。手塚マンガとの出会いは『鉄腕アトム』。以来40数年にわたり昭和のマンガと駄菓子屋おもちゃを収集。昭和レトロ関連の単行本や記事等を多数手がける。手塚治虫ファンクラブ(第1期)会員番号364番