手塚治虫のマンガには、作者本人や本人をモデルとしたキャラクターがしばしば登場してくる。ある人が数えたところ、ヒゲオヤジやランプなどの初期作品から登場しているご長寿キャラとくらべても、手塚治虫自身の出演回数が最多だったそうである。だったらそれを時代順に並べ直してみたら、手塚マンガだけで手塚治虫の自伝ができあがるのでは!? そう思ったらやってみるしかない。題して「手塚マンガで振り返る手塚治虫の生涯!!」。ぜひ読んでみてください!!
手塚治虫が亡くなって25年目の命日となる今年2014年2月9日、東京は前夜からの大雪で一面の銀世界となっていた。
その9日未明(8日深夜)、NHK・Eテレで、手塚治虫のあるドキュメンタリー番組が再放送された。
没後6年目となる1995年にETV特集の1本として制作された『手塚治虫の遺産』と題された前後編の番組で、前編では手塚治虫の日記が題材として取り上げられていた。
番組は、1989年2月に手塚が亡くなってからしばらくして、手塚の書斎から晩年の日記が見つかった、という語りから始まる。
家族さえもその存在を知らなかった日記には、手塚の仕事に追われる超多忙な日々の記録にまじって、成長していく息子や娘を心配する記述や妻を気づかう言葉など、家族に対する深い思いも綴られていた。
番組では手塚治虫の長女るみ子さんが、この父の日記をひもときながら、天才マンガ家だった父の横顔や、父親と自分との関係などを率直に語っていた。
この日記、手塚ファンならぜひ読んでみたいところだけど、プライベートな日記なので永遠に公開されることはないでしょう。
だけど手塚ファンならば、日記や自伝などを読まなくても、手塚がどんなマンガ家人生を歩んできたか、だいたい知っているはずである。
というのも手塚は、冒頭に書いたように、自分自身や自分をモデルとしたキャラクターをマンガの中に盛んに登場させていたからだ。
手塚治虫は、少年時代、どんな子どもだったのか、戦時中はどんな生活をしていたのか、戦後、マンガ家デビューしたころの手塚の周りではどんなことが起きていたのか。ぼくらはそれをほかならぬ手塚マンガの中で読んできたのである。
そこで今回は、そうした手塚マンガの中の手塚治虫と、手塚自身をモデルとしたキャラクターたちを《作品の発表年代順》ではなく、《物語の中の時間軸》に沿って並べ直してみることにした。
するとそこから見えてきたのは、日記や自伝とはまた違う、もうひとつの手塚治虫史だった!
さあ今回もタイムマシンに乗って、手塚マンガの中の“あの日あの時の手塚先生”に会いに行きましょう!!
まず最初に向かったのは江戸時代である。
えっ、手塚治虫が生まれたのは昭和3年じゃないのかって? 正解!
だけど後に手塚治虫に受けつがれるDNAを持った人物が、幕末から明治への時代を描いたある作品に登場しているのだ(回りくどい言い方だな)。
もうお分かりですね。1981年から86年にかけて発表された『陽だまりの樹』がそれである。
この作品には手塚治虫の三代前の祖先にあたる手塚良庵光亨という人物が主人公のひとりとして登場しているのだ。
『陽だまりの樹』の主人公・手塚良庵は、マンガの中ではシャレ者の江戸っ子として描かれているが、実際の良庵も、福沢諭吉の『福翁自伝』にあるように、いつも小ざっぱりとした着物を着こなす遊び人だったようだ。
良庵は、晩年は歩兵屯所附医師となり、西南の役に際して九州へ出征するが、病気にかかり戦線を離脱。明治10年、大阪で没した。
良庵は文久2年(1861年)に長男・太郎をもうけており、その太郎の息子が手塚治虫の父・粲(ゆたか)となる。
さて、いよいよ次は手塚治虫本人の誕生である。
手塚治虫は昭和3年、大阪府豊中市に生まれ、その後、歌劇の町・兵庫県宝塚市へと引っ越している。
その手塚が、自身のもっとも幼いころを描いたマンガに、1955年に発表された『ぼくの少年時代』という2ページの短編がある。
およそ1〜2歳くらいだろうか、赤ん坊の手塚が宝塚歌劇のお姉さんたちに抱かれて「タヌキネエチャン」などと失礼なことを言っている絵がそのファーストカットだ。
当時、赤ん坊だった手塚が彼女たちのことをこう呼んでいたことについては、手塚の自伝にもこう書かれている。
「ぼくは兵庫県の宝塚に住んでいたので、当然、“ヅカ・ガール”に接する機会が多かった。幼いころ、ぼくは彼女たちをタヌキ姉ちゃんと呼んで、いやな顔をされた。狸ではなく、歌劇といったつもりが、舌が回らなかったのである」(『ぼくはマンガ家』より)
昭和10年、手塚は池田師範附属小学校(現在の大阪教育大学附属池田小学校)に入学する。
その小学生時代の手塚少年をモデルとした主人公の出てくる作品がある。1979年に雑誌『月刊少年ジャンプ』に発表した読み切り『モンモン山が泣いてるよ』がそれだ。
小学4年生のシゲルは弱虫でいじめられっ子の少年だった。
ある日彼は、モンモン山の蛇神社に住む蛇の化身と称する青年と親しくなる。
青年はシゲルにクマゼミの捕り方や木登りを教え、ふたりは楽しい日々を過ごすが、やがて戦争の影が忍び寄ってくるのだった。
戦前の地方都市(作中では地名は明記されていない)を舞台に、ほんの束の間過ごした平和な少年時代。シゲル少年の心情が瑞々しく描かれた傑作短編です。
ちなみに、この“モンモン山”という名前や作中に登場する“蛇神社”など、これらはどれも手塚が、少年時代に自分の行動範囲にあった遊び場に勝手に付けていた名前だった。
またそのほかにも、手塚が“瓢箪池”や“猫神社”などと呼んでいた場所もあり、いずれも2011年7月の「虫さんぽ」で訪れているので、ぜひ参照していただきたい。
・虫さんぽ 第17回:兵庫県宝塚市 手塚治虫記念館周辺を歩く
続いて昭和16年、手塚は旧制大阪府立北野中学校(現在の大阪府立北野高等学校)に入学した。
その旧制中学時代の「手塚」少年が登場する作品を見てみよう。1973年に『別冊少年ジャンプ』に掲載された読み切りで、題名は『ゴッドファーザーの息子』。
この作品では手塚少年がマンガを描くシーンが初めて登場する。
手塚少年は、乱暴な番長の命令も聞かず教室でマンガを描いていて番長に殴られそうになるが、やがて気に入られ、番長のためにマンガを描くようになる。
作中では、後に『ロストワールド』として単行本化される作品の習作なども紹介されていて、マンガ家としてのスタートを切る直前の手塚少年の姿が描かれている。
このころ、昆虫採集とマンガを描くことに夢中だった手塚少年であるが、やがて太平洋戦争が激化し、彼もまた、激動の歴史の中に否応なく飲み込まれていくことになる。
戦時中の手塚自身の姿を描いた作品はいくつかあるが、代表作は1974年の読み切り『紙の砦』だろう。
『紙の砦』は、戦時中の昭和19年の大阪から物語が始まる。
主人公の大寒鉄郎は中学生だが、学校へ行っても授業はなく、軍事教練という名のしごきと工場への勤労動員に明け暮れていた。
やがて空襲が激化し、空襲警報が毎日のように鳴り響くようになる。しかし大寒は、人びとが防空壕へ逃げ込む中、無人となった工場の片隅で、これ幸いとひたすらマンガを描き続けているのだった。
以下、手塚治虫の自伝から引用しよう。
「敗戦の年、ぼくは淀川の軍需工場にいた。(中略)敗北につぐ敗北のニュースは、情報局がひたかくしにかくそうとしても、ぼくらの耳には
『手塚! 空襲警報だ!』
と、どなられようが、油脂
昭和20年8月、日本の敗北で戦争が終わった。しかし食料生産力が激減していた日本を天候不順が襲い、この年の米の生産高は例年の60パーセントにまで落ち込んでしまった。
当時、米などの生活必需品は配給制が取られていたが、配給米だけでは圧倒的にカロリーが足りず、生きていけない。そのため各地に闇市と呼ばれる非合法の市が立った。
この空腹の時代を描いた手塚マンガが『紙の砦』の続編『すきっ腹のブルース』である。
戦争を何とか生き抜いた大寒鉄郎は、空腹を満たすために畑の野菜泥棒をしたり、米兵に美人画を描いてあげてお菓子をもらったりする。
だが、言葉が通じない米兵との行き違いから、理不尽にも一方的に殴り飛ばされてしまう。
ここに描かれているエピソードは、多少の脚色はされているものの、その多くが手塚が実際に体験したことである。
米兵に理不尽に殴られたエピソードもそうだが、街角で行き倒れた死体が誰にも見向きもされずに朽ちていくという記述も自伝の中にある。
「大阪駅前の焼け跡に、いつからか、行き倒れの死体がころがっていた。それが、だれも片づけようとしないので、だんだん腐っていって、ウジが食いちらし、しまいには骨だけになった。それも野犬が持っていくのか、手や足がすこしずつなくなって、
手塚は、終戦のひと月前、昭和20年7月に大阪帝国大学附属医学専門部へ入学した。そして終戦と同時に大学へ通いながら、マンガの執筆を本格的に始めている。
未完となった晩年の作品『どついたれ』(1979〜1980)に登場する青年・高塚修には、ちょうどこのころの手塚の姿が投影されている。
高塚は街角で戦災孤児の少年たちに物乞いをされ、得意げに自分の描いたマンガの下描きを見せる。
高塚は彼らに「コドモ新聞にのせてるやっちゃ」といっているから、これは昭和21年に『少国民新聞』に連載した『マァちゃんの日記帳』のことだろう。
やがて初めての単行本『新寶島』を刊行した高塚は、本格的にマンガ家への道を歩み出す……のだが、残念ながらこの作品は未完で、その後の高塚の人生がどのようなものだったかは不明だ。
昭和22年刊行の『新寶島』を皮切りに、手塚は大阪の出版社で精力的に描き下ろしマンガを発表していく。
そして手塚が自分自身を作中に登場させた最初の作品がこのころ誕生している。
現在分かっているところでは、昭和24年に大阪の東光堂から刊行された『奇蹟の森のものがたり』がもっとも最初ではないだろうか。
手塚はこの作品の冒頭とラストに、物語を解説する語り部として登場している。
さらに昭和25年刊行の『ふしぎ旅行記』でも手塚は同様の手法を用いており、作者としてのメッセージを直接読者に届ける試みとして、成功したという確かな手応えを得たに違いない。
そして昭和26年年の『化石島』では「マンガ家の手塚」というひとりのキャラクターとして、物語の中に完全に入り込んでしまっている。
このことについて触れた手塚の文章を紹介しよう。
「ぼくの初期の単行本、『奇蹟の森のものがたり』や『ふしぎ旅行記』などから、さかんにこの手法(※黒沢注:プロローグやエンディングで作者自身が作品や主人公を紹介する手法)でぼく自身を登場させていましたが、それはぼく自身のイメージを読者によく知ってもらうために役立ちました。そこで、さらに一歩すすめて、ぼく自身をキャラクターの一人として物語にとけこませたらどうかと考えたのです。(中略)
そうなると、ぼくは作者をはなれて、キャラクターとして立派に独り立ちできました(講談社版手塚全集『紙の砦』あとがきより)
手塚自身が物語にひんぱんに登場するスタイルは、こうして確立していったのである。
そして昭和26年、手塚はのちに自身の代表作となる永遠の名キャラクターを生み出している。鉄腕アトムである。
昭和26年4月から雑誌『少年』で連載が始まった『アトム大使』は、翌年、ロボット少年アトムを主人公とした『鉄腕アトム』に模様替えをして大ヒットとなった。
手塚がこのアトムというキャラクターを思いつくきっかけが、ほかならぬ『鉄腕アトム』の一エピソードの中で描かれているのでぜひご覧いただきたい。タイムマシンで過去へ飛んだアトムが、昭和26年当時の手塚治虫の仕事場に一瞬だけ顔を出し、それを見た手塚は……。
昭和27年、手塚は東京の出版社への本格進出を決め、東京・四谷の八百屋の二階に下宿を借りた。
そのころの四谷を舞台としたマンガが1976年に発表された読み切り『四谷快談』である。
だがこの下宿にはほとんど住まず、翌年には東京・豊島区椎名町のトキワ荘へ引っ越し。さらにそこにもほとんど住まないまま、東京・豊島区雑司が谷の並木ハウスへと引っ越した。
この当時の手塚の生活が描かれている作品が『トキワ荘物語』と『がちゃぼい一代記』だ。
昭和29年、関西長者番付の画家部門でトップとなった手塚が、取材にきた新聞記者にみすぼらしく書かれたために見栄を張ってピアノやソファなどを買いまくるという描写は、誇張ではなく事実だったらしい。
昭和37年4月、手塚は念願のアニメ制作会社・虫プロダクションを立ち上げ、マンガとアニメの二足のわらじで、以前にも増して多忙な日々を送るようになる。
このころの手塚の生活は『がちゃぼい一代記』を読むと良く分かる。
一方、手塚は昭和34年に岡田悦子氏と結婚し、昭和36年には長男・眞氏が誕生している。このころ手塚は、仕事のみならず、プライベートでも大きな動きのあった、ものすごく充実した時代だったのだ。
この私生活の部分に関しては、手塚が家族の生活を描いた唯一のマンガ『マコとルミとチイ』を参照していただきたい。
しかし良いことばかりではない。昭和30年代は悪書追放運動が盛んになり、マンガがその槍玉にあげられた時代でもあった。
『がちゃぼい一代記』の中で悪書追放を叫ぶ識者が手塚に詰め寄る場面もまた、誇張ではなく、こうしたことが実際にあったという重要な証言でもあるのだ。
また1960年代後半から70年代にかけては、劇画が台頭し、手塚が自身の作風に悩んでいたころでもあった。
この時代を描いている晩年の作品『ネオ・ファウスト』(1988)の中に、このころの手塚の姿が描かれている。
日本初の超高層ビル霞が関ビルが竣工した1968年、東京のホテルでパーティが開催されている。そのパーティ会場を俯瞰したモブシーンの中に手塚治虫がいるのだ。
手塚はマンガ評論家から「あんたの時代は終わった!」と厳しい言葉を投げかけられている。
ついでに、この時代1970年代の手塚の仕事場の様子は『サンダーマスク』に描かれているので、ぜひこちらも併せて見てみるといいでしょう。
1980年代以降の作品においても、手塚自身をモデルとしたキャラクターはたびたび登場している。
しかしその多くはマンガ家・手塚治虫として登場するのではなく、ひとりの役者として顔出しをしているケースがほとんどである。
『ブラック・ジャック』では、手塚は医者として何度か登場していて、これはもしも自分がマンガ家ではなくて医者になっていたら、というパラレルワールドを楽しんでいたのではないだろうか。
『七色いんこ』には手塚が作者本人として何度か登場しているが、これは、物語が主人公・いんこの思い通りの展開にならなかった場合に、いんこが作者を責めるというメタフィクション的なギャグとしての顔出しとなっている。
さて、いよいよ締めに入るわけだけど、手塚が最後に自分自身をマンガに登場させた作品は何だったのか。
作品の発表年代で言えば、先に紹介した『ネオ・ファウスト』が最後となるが、作中での年齢ということになると、ぼくが調べたところでは『アトムキャット』が最後ではないかと思われる。
『アトムキャット』は1986年から87年にかけて雑誌『ニコニココミック』に連載された作品で、宇宙人によってアトムのような能力を持ってしまった猫が大活躍するコメディだ。
その第1話、街の上空を飛んでゆくアトムキャットを見て驚いた人びとが「アトムだ!」と叫ぶ中、ヒトコマだけ手塚自身が姿を見せている。
以上で手塚マンガで振り返ってきた手塚治虫史は完結です。
しかし! じつはもう1作、幻の手塚治虫主演マンガがあった!?
それは、冒頭で紹介したNHKのドキュメンタリー番組の中で紹介されていた、手塚の日記の中にあった。
手塚の日記は、手塚が亡くなるひと月前の平成元年1月15日で終わっていた。そしてその日のラストページには、手塚が考えたマンガのアイデアが記されていたのだ。
番組内で紹介されたその全文をここに引用しよう。
「今月素晴らしいアイデアを思いついた! トイレのピエタというのはどうだろう。ガンの宣告を受けた患者が、何ひとつやれないまま死んでゆくのはばかげていると、入院先のトイレに天井画を描き出すのだ。彼はミケランジェロさながらに寝転びながらフレスコ画を描き始める。彼はなぜこうまでピエタにこだわったのか。浄化と昇天、これがこの死にかけた人間の、世界への挑戦だったのだ」(平成元年1月15日、手塚治虫最期の日記より)
病の床に伏し、乱れた文字で綴られた日記は、この文章を最後に途切れていたという。
もしもこのアイデアが実現していたら……そのマンガの主人公は、まぎれもなく手塚治虫自身の姿で描かれていただろう。
では次回のコラムにも、ぜひまたおつきあいください!!
1957年東京生まれ。マンガ原作家、フリーライター。手塚マンガとの出会いは『鉄腕アトム』。以来40数年にわたり昭和のマンガと駄菓子屋おもちゃを収集。昭和レトロ関連の単行本や記事等を多数手がける。手塚治虫ファンクラブ(第1期)会員番号364番