手塚治虫が生涯抱き続けたアニメーションに対する憧れと情熱──それを形にするべく建てられたのが虫プロだ。その虫プロ最大の功績は、何といっても日本にテレビアニメを普及させたこと。今回は、手塚と虫プロがテレビアニメ時代の幕を切り開いたあの日あの時を振り返る。
昭和38年1月1日火曜日午後6時15分、国産初の連続テレビアニメ番組『鉄腕アトム』の放送が始まった!
1回30分のアニメ番組を毎週放送する。それまで誰もが不可能と考え、誰も手を出そうとしなかったことに手塚治虫が初めて挑戦した画期的な企画だった。
だけどその始まりはひっそりとしたものだった。当時5歳だったぼくは、すでに雑誌の『鉄腕アトム』の大ファンだったが、元旦の放送ということもあってか、残念なことにこの第1話を本放送で見た記憶がまったくナイ!
親に連れられて親戚の家にでも行ってたのか、それとも父親がテレビを見ていたか……。当時は、居間に1台しかないテレビのチャンネル権は、どこの家でも家長である父親が握っていた。正月で父親が家にいれば、子どもが見たいといっても好きな番組を見られるとは限らなかったのだ。
ということで、ぼくがテレビの『アトム』を見たのは、恐らく第2話か第3話からだったと思う。後に手塚治虫が書いた記事によると、最初の数回目までの放送には、オープニングのテーマ曲に歌詞が付いておらず、曲だけが流されていたという。
その記事を読んだ瞬間、ぼくは「アッ!」と叫んだ。頭の奥の深〜いところにずっと埋もれていた記憶が、いきなり鮮やかに甦ったからだった。そう、幼いころ、14インチの白黒ブラウン管テレビで、歌のない曲だけの『アトム』のオープニングを、食い入るように見つめていたあの日の記憶が……!!
見始めてからは、もう毎週、『アトム』の放送が待ち遠しくてしょうがなくなった。友だちの間にも、その評判は口コミでまたたく間に広がっていき、テレビの『アトム』ファンが続々と増えていった。
当時、マンガの『鉄腕アトム』が連載されていたのは、光文社の『少年』という月刊誌だった。『少年』の対象年齢は、今の雑誌で言うと『少年ジャンプ』より若干高め、『少年サンデー』や『少年マガジン』よりは若干低めといったところで、小学校の高学年くらいを主な対象にしていた。
幼稚園児がそんな難しい雑誌を読んでいたの? といぶかる方もいるかも知れない。だけど今の子どもが取り説を読ま(め)なくてもテレビゲームを遊びこなしてしまうのと同じように、あのころの子どもは、ひらがなが読めるようになると、内容が理解できようができまいが、もうマンガを夢中で読みふけっていたのである。
そんなぼくらマンガファンにとっては、テレビのアトムが、たとえ紙芝居のようなギクシャクした動きでも、声が出て音が出て、毎週その活躍を見られるだけで、もう大大大、大満足だったのである!!
しかし、そのころの大人たちは、恐らくぼくら子どもとはまるで違う見方をしていたはずだ。冒頭でも書いたように、テレビで毎週30分のアニメを放送して、それが商業的に成功するなど、ほとんど誰も信じていなかったからだ。
当時、日本で本格的な商業アニメーションを製作していた会社は、昭和31年に設立された「東映動画」しかなかった。
ほかには切り絵アニメーション作家の大藤信郎が主宰する「千代紙映画社」や、マンガ家の横山隆一が立ち上げた「おとぎプロ」が、それぞれ家内制手工業的な作り方で実験アニメーションをコツコツと作っている程度。それ以外には、広告代理店と連携してCMアニメを作る会社がいくつかあるだけだった。
テレビでは、夕飯前の午後6時台に、ニュースや天気予報の合い間に子ども向けアニメが放送されていたが、それらはすべてアメリカ製で、5〜10分程度の他愛ないドタバタコメディばかりだった。
そこへ門外漢の手塚治虫が、いきなり商業アニメ製作会社を設立し、日本初の連続テレビアニメ番組を製作するとブチ上げたのだ。きっと当時の多くの大人が、それをドン・キホーテばりの無茶な挑戦だと冷たく見ていたことだろう。
だけど手塚は本気もホンキ、本気と書いて「マジ」だった! 最初からその志に一点の曇りも迷いもなかったことは、多くの状況証拠がそれを証明している。
昭和35年8月、手塚が嘱託として製作に関わった東映動画の『西遊記』が映画館で公開された。その同じ月、手塚は東京の練馬区谷原町(現・富士見台)の畑の真ん中に、およそ二百坪の土地を買い、そこに自宅兼仕事場を新築した。だけど実際に家が建ったのは、その広大な敷地の一角で、あとの半分以上の土地は空き地のままにされていた。実は手塚は、そこにアニメ製作会社を建てることを、最初から計画していたのだ!
また、マンガだけで、すでにひとりの人間がこなせる仕事量をはるかに超えていたにもかかわらず、慣れない組織の中で2年間も『西遊記』の製作に関わり続けたのも、そこでアニメーション製作のノウハウを学ぶためだったのである。
翌昭和36年6月、手塚は自宅ガレージの二階で念願のアニメ製作会社を立ち上げた。「手塚治虫プロダクション動画部」という仮称でスタートしたその会社の、発足当時のスタッフはわずか6名。
だけど3ヵ月後には早くも空き地に新しいスタジオの建設が始まり、37年1月、社名を「虫プロダクション」と決定(株式会社になったのは同年12月)。4月には、あの独特の外観を持ったスタジオが完成したのだった!!手塚治虫がマンガやアニメで数多くのヒット作を生み続けられた秘密はいくつもあるだろう。その秘密のひとつが、手塚が仕事の上での決断において、実に割り切りがよかったというコトだ。
作品の完成度に対して決して妥協しない姿勢を持ちながらも、ある面では、手塚は一切のこだわりを捨ててスッパリと割り切る才能があった。それがテレビアニメ『鉄腕アトム』でも発揮されている。
当時、東映動画の作る長編アニメーション映画は、6〜7千万円の費用をかけ、400人近いスタッフが1年から2年の歳月をかけて作っていた。
それを手塚は、30分の『アトム』1回分をわずか100万円ほどで、数十人のスタッフが5週間のローテーションで製作すると言う。
そこには数々の割り切りがあった。口や手などを別のセルにして体の一部分だけを動かす。使用した動画を人物ごと、動きごとに分類して再利用する、など。とにかく徹底して動画の枚数を減らしたのだ。それにしても、アニメーションに憧れて作った会社なのに、手塚はなぜ、あえてアニメーションとしての質を落とすような選択をしたのか。ぼくは長い間ずっと疑問だった。
その答えがようやく分かってきたのは最近のことだ。
創立当初から虫プロに参加し、後に『宇宙戦艦ヤマト』などの演出を手がけたアニメーターの山本暎一が書いた、半自伝小説『虫プロ興亡記』の中に、手塚が虫プロ設立に対する思いを語る場面がある。
「アニメはつくるのにお金がかかるし、実験作品はあまり売れないから、そればっかりでは制作活動が尻つぼみになっちゃいます。(略)ぼくは、実験作品をつくる一方で、大衆娯楽作品も作ります。こちらは商品ですから、お客さんの気に入るように、絶対におもしろくて、うんとヒットさせ、お金が儲かるようにします。そのお金で、実験作品を作るんです」
『アトム』は、商業作品として成功させるために割り切るところは割り切る。だけど娯楽作品としてのエンターテインメント性に関して質を落とすことはしない。そんな手塚の開拓者としての姿勢がこの言葉に表われている。また、同じく虫プロの立ち上げに関わったアニメーターの杉井ギサブローも、2008年の手塚治虫ファン大会で、ゲストとして壇上に上がった際に、こんな興味深いことを語っていた。
「あのころ放送されていたアメリカのテレビアニメは、極端なことを言えば、登場人物はネコでもオオカミでも何でも良かったんです。ただそれらのキャラクターがドタバタと面白いことをしているだけだった。
だけど『アトム』の場合は、最初からアトムという個性的な主人公がいて、ドラマチックな物語が存在していた。テレビの『アトム』は、それをアニメとしていかに面白く見せるか、というところからスタートしたんです。これは従来のアニメとはまったく違うアプローチだったんですよ」(※メモを取っていなかったので、記憶による要約です。)
声を出して笑い、泣くアトムをぼくらの元へ届ける、それが出発点だったという杉井氏のこの証言は重要だ。というのは、当時のぼくらが『アトム』を大歓迎したのは、まさしくそのことが最大の魅力だったからである。アニメーションとしてのクオリティ云々の話などは、その先の問題だったのだ。国産初のテレビアニメ『鉄腕アトム』の成功は、たちまち多くの追従者を生んだ。昭和38年の秋には『鉄人28号』、『エイトマン』、『狼少年ケン』の放送が始まり、39年には『0戦はやと』、『少年忍者風のフジ丸』、『ビッグX』の3本が、そして昭和40年からは、その数がさらに倍増し、いよいよ第一次テレビアニメブームへと突入していく。
だが、作品の急増で製作現場はものすごいことになっていたらしい。先日の『虫さんぽ』で虫プロ界隈を案内してくれた元虫プロ社員の石津嵐氏と渡邉忠美氏からも、当時の信じられないほどの過酷な状況を数々お聞きした。自宅に1ヶ月以上帰れず、不眠不休で働き続けることもざらで、当時の石津氏の特技は立ったまま眠ることだったという。また渡邉氏によると、『アトム』の放送も終りに近づいた昭和41年秋、東京を台風が直撃! 次回作『リボンの騎士』の製作準備室だった虫プロ第4スタジオの屋根が、何と突風で丸ごと吹き飛ばされてしまったのだとか。台風までもが嵐の虫プロを祝福していたということか!?
こうして手塚がテレビアニメ時代の扉を無理やりこじ開けたことが、今の日本アニメの隆盛の基礎となっていることは間違いない。もしも手塚が『アトム』を作っていなかったら、あるいは作っても成功していなかったら、現在のアニメ界の姿はなかったかも知れない。だけどその一方で、『アトム』が日本のアニメーションをダメにしてしまった、という意見があることも事実である。
日本のアニメが今後どこへ向かうのか、それはまだ分からない。だけどテレビアニメ第一世代として、その誕生に立ち会ったぼくらは、あのころとても幸福だった。それだけは否定しようのない事実なのだ。
黒沢哲哉
1957年東京生まれ。マンガ原作家、フリーライター。手塚マンガとの出会いは『鉄腕アトム』。以来40数年にわたり昭和のマンガと駄菓子屋おもちゃを収集。昭和レトロ関連の単行本や記事等を多数手がける。手塚治虫ファンクラブ(第1期)会員番号364番