手塚治虫先生は昭和29年暮れからおよそ2年半、豊島区雑司が谷のアパート・並木ハウスに仕事場を構えていた。なのでそこから徒歩15分圏内の池袋駅周辺は、まさに手塚先生のホームグラウンドだったのだ。今回はその池袋界隈で手塚先生がマンガ家仲間と集ったお店の跡地や手塚先生の愛した味を訪ねます。それでは、さっそく出発いたしましょう〜〜〜〜〜っ!!
東京都豊島区池袋。渋谷、新宿と並ぶ都心の大都会だ。昭和29年10月、手塚先生はこの池袋にほど近い豊島区雑司が谷、鬼子母神堂近くのアパート・並木ハウスに仕事場を構えた。その後、昭和32年4月に渋谷区の初台に転居するまでのおよそ2年6ヵ月間、手塚先生はこの並木ハウスで数々の名作を生み出したのだった。
この並木ハウスは手塚先生が仕事をしていた当時の面影のまま今もその場所に建っており、虫さんぽでは2011年4月、元講談社編集者で手塚番だった丸山昭さんの案内で訪問している。
・虫さんぽ 第15回:東京・豊島区雑司が谷 並木ハウス周辺を歩く
そして今回は池袋駅周辺を歩きます。そもそも手塚先生が豊島区椎名町(現・南長崎)のトキワ荘から雑司が谷の並木ハウスへ転居したのは、その場所が池袋の映画館街に近く、仕事場を抜け出してすぐ映画を観に行けるからだったとも言われている。その池袋には果たして手塚先生のどんな足跡が残されているのだろうか!?
外は雪。……なんと前日は快晴でさんぽの翌日も快晴。さんぽ当日だけが雪だなんて!! まあそれも冬のさんぽの味わいということで、マフラーに首を埋めてさっそく出発です!!
まずぼくが向かったのは池袋東口の真正面、現在は大型ディスカウントショップ「ドン・キホーテ 池袋東口駅前店」のある場所だ。
営業していた期間は不明だが、かつてこの場所に「
児漫長屋とはどんな集まりだったのか。その始まりは昭和25年ごろにさかのぼる。
当時の漫画界ではいまだ少数派だった児童漫画家の古沢日出夫、馬場のぼる、福井英一らが音頭を取って児童漫画家の親睦と地位向上のためにつくった集まりがその前身だった。
神田で開かれたその第1回目の会合には、まだ関西を拠点にしていた手塚先生も駆けつけ、ゲストには『冒険ダン吉』の漫画家・島田啓三氏が招かれた。手塚先生のエッセイには、その場でのこんなやりとりが記されている。
「『児童漫画家が団結して、いい仕事をとろう!』
『そうだ、東京児童漫画会を結成しよう!』
と、意気
『かたいよ、そんな名前は』と島田啓三氏から声があがり、『長屋がいいよ、和気
島田啓三氏は、生粋の江戸っ子で、落語のファンであった。
『つまりな、みんな熊さん八っつぁんになるんだ。そして、今月の月番と来月の月番を決めて、世話をしてもらおう』
(中略)
こうして、とんでもない名前のサロンができ上がった」(手塚治虫著『ぼくはマンガ家』(平成12年、角川文庫刊)より
昭和20年後半代からは、児漫長屋の拠点は池袋となった。その大きな理由のひとつが、当時西武線沿線に児童漫画家が数多く住んでいたことだ。ここに当時の児漫長屋の交流の様子がうかがえる記事がある。昭和54年の雑誌『コミックアゲイン』に掲載された元児漫長屋メンバーの座談会だ。
参加者は漫画家のうしおそうじ、高野よしてる、古沢日出夫の各氏。そして元『漫画王』『冒険王』編集長で座談会当時は秋田書店取締役編集局長だった阿久津信道氏、『コミックアゲイン』編集長・鈴木清澄氏である。
「うしお 当時の漫画家の分布は西武線グループと世田谷グループに分かれていた。西武線沿線は島田(啓三)さんが住んでいて、だんだん増えていった。
(中略)
阿久津 西武線グループはね、群をつくって押しかける!
高野 行動派だったんだなあ!?
古沢
高野 夜中すぎると飲み屋はなくなるし金もなくなる。とにかくタクシー代出しあって古沢日出夫ン家に行こう。次に入江しげるン家行こう。ずーっと回ってだんだん数が増えてくるんだよ。(笑)
鈴木 何度かそういうことがあったんですか?
古沢 いや、もういつも(笑)
高野 例会の後は必ず襲撃!!」(みのり書房『月刊コミックアゲイン』昭和54年7月号掲載「COMIC AGAIN 座談会 児漫長屋 第1期漫画黄金時代を語る!」より)
うわ〜〜〜、なんだか毎月ものすごいコトになっていたようだけど、池袋駅から徒歩15分の並木ハウスに住む手塚先生も、当然のごとくこの台風の目の被害には一度ならず遭遇していたようだ。前出のエッセイにはこんな記述がある。
「台風の目が家に襲いかかると、手がつけられない。この台風の音は、
『呑ませろォ』
『飯だあー』
『冷蔵庫どこだあ』
『いっしょに来いー』
と聞こえる。そして、たちまちぼくは台風に巻きこまれて、支離滅裂のまま外へ吹き出される」(前出『ぼくはマンガ家』より)
当然ながら、現在の池袋駅周辺にはその当時の面影はほとんどない。手塚先生や児漫長屋の仲間たちが夜ごと繰り出して熱い漫画談義を交わしていたころの池袋はどんな街だったのだろうか。それを探るべくぼくが次に向かったのは、豊島区立郷土資料館だ。
池袋駅東口から明治通りを南下して、左手にジュンク堂書店池袋本店が見えてきたら、その目の前の南池袋一丁目交差点を右折。びっくりガードをくぐって西池袋方面へと向かおう。消防署のある交差点を左折してすぐ左側にある豊島区立勤労福祉会館の7階が目指す郷土資料館だ。
ちなみに、いま前を通ったジュンク堂書店池袋本店も手塚スポットで、後ほどおじゃまさせていただく予定なんでお忘れなく!!
豊島区立郷土資料館で応対してくださったのは、2009年のトキワ荘さんぽの際にも取材にご協力いただいた豊島区文化商工部文化デザイン課の横山恵美さんだ。
・虫さんぽ 第4回:豊島区南長崎 元トキワ荘周辺・その1
・虫さんぽ 第4回:豊島区南長崎 元トキワ荘周辺・その2
横山さん、今回もお世話になります! 手塚先生たち児漫長屋のメンバーが月に一度の例会で羽目を外していた時代、つまり昭和20年代後半から30年代にかけての池袋は、いったいどんな雰囲気だったんですか?
「池袋駅周辺には、昭和20年の終戦直後から、いくつもの戦災復興マーケット、いわゆる『ヤミ市』ができていました。
ヤミ市については、どこも資料が少ないのですが、池袋のヤミ市については、昭和22年6月に、当時、東京高等師範学校(今の筑波大学の前身)の学生だった星野朗さんという方の行った詳細な調査資料が残されていまして、その後の立教大学の研究などもあり、当時の様子がかなり詳しくつかめているんです」
この地図が当時のヤミ市の分布図ですね!
「はい。星野さんの調査によると昭和21年から22年までの間に池袋駅周辺には東口に5箇所、西口に9箇所のヤミ市が点在していたようですね。
しかし東口では昭和26〜27年ごろから駅前の再開発が始まりまして、ヤミ市は区画整理で次つぎと撤去されていきました」
ちょうど手塚先生が雑司が谷の並木ハウスへ引っ越してきたころですね。
「そうですね。昭和30年には西武百貨店本館と新館の接続工事が竣工していますし、昭和31年には池袋ステーションビルの工事が始まっています。なので昼間は工事の音がかなりうるさい時代だったと思いますよ(笑)。ただし西口はそれより10年ほど遅れて再開発が始まりましたので、昭和36〜37年ごろまでヤミ市が残っていたようです」
うしおそうじ氏の著書『手塚治虫とボク』(2007年、草思社刊)によると、児漫長屋の左党、つまりお酒好きがよく通った「肉豆腐が自慢の平田屋」というお店が西口にあったらしくて、今回このお店も探したんですけど残念ながら見つけられなかったんです。
「そのお店も、もしかしたらヤミ市の名残りのお店だったのかも知れませんね」
引き続き横山さんにお話をうかがいます。手塚先生は映画館が近いから雑司が谷に引っ越したとも言われているんですが、池袋が映画の街になったのはいつごろからなんですか?
「資料によりますと、池袋周辺で映画館の数が一気に増えたのは昭和25年からですね。昭和25年には分かっているだけで11館もの常設館が開館しています。その2年前の昭和23年に作家の
池袋という街がまさに急速に拓けていった時代だったんですね。
手塚先生はエッセイなどにも映画館名はあまり書かれていないんですが、藤子不二雄A先生の書かれた『トキワ荘青春日記』(昭和56年、光文社刊)には池袋のエトワール劇場や人世坐の名前が出てきます。A先生は昭和31年2月20日には人世坐で『エデンの東』を観たそうで「人世坐、満員なり。通路で座り見」と書かれています。
「当時は娯楽が少なかったので映画館はいつも満員だったようですね」
ぼくが前に調べたところでは、日本で映画の入場者数が史上最高を記録したのは昭和33年(11億2,750万人!)で、映画館数がピークとなったのが昭和35年(7,457館)だそうですから、昭和30年ごろは、いくら映画館が出来ても人が入りきれない状態だったんでしょうね。
ぼくも昭和30年代に地元の映画館で東映の長編漫画映画や東宝の怪獣映画を観た記憶がありますが、あのころの映画館はいつも満員だった印象で、今の映画館とはまるで違う観客同士の一体感がありました。あの熱気の中でもう一度映画を観てみたいですね。
横山さん、本日はどうもありがとうございました!!
豊島区立郷土資料館を後にして、今来た道を戻って向かったのは先ほど前を通ったジュンク堂書店池袋本店だ。正面玄関を入り、まっすぐ向かったのは地下1階のコミック売り場である。
応対してくださったのはジュンク堂書店池袋本店 コミック担当の平田亜弓さんである。ぼくは声を潜めて平田さんに聞いた。
平田さん、こんにちは。さっそくですが“例のブツ”はどこにあるんですか?
「ああ、“あれ”ですね。こちらです」
そう言ってにっこり微笑んだ平田さんが案内してくれたのは売り場の一角。白い柱の壁に大きな額が飾られていた。店内の照明が反射して若干見にくいが、近づいてみるとそれはホワイトのペンで描かれたアトムとレオのイラストである。
そう。すでに知ってる手塚ファンは知ってるし知らない手塚ファンは全然知らないと思うけど、じつはこれは手塚先生の直筆イラストとサインの入った大きなガラス板なのだ。
なぜガラス板? そしてなぜここに飾られている!? それについては去年6月の「虫ん坊」の過去記事をお読みいただきたい。
・虫ん坊 特集 手塚治虫書店仕掛人 岡充孝さんインタビュー!
読むのが面倒な方にあらましをざっくり言うと、このサインは1984年に神戸のジュンク堂書店三宮店を手塚先生が電撃訪問した際にお店のガラス扉にサインしたものだった。しかし三宮店は1995年1月の阪神大震災で被災、そのガラス扉も割れてしまった。
だけど手塚先生のサイン部分だけは奇跡的に無事だったので、1997年、ジュンク堂池袋本店がオープンした際、手塚先生のサイン部分のみをカットしてここに展示したのである。
平田さん、このサインについて、お客様からいわれを尋ねられたりしたことはありますか?
「そうですね、いわれを聞かれたことはあまりないんですが、お客様同士が『サインがあるよ』と言ってこの額を見ながらお話されていることは時々あります。あとたまに写真を撮ろうとされるお客様がいらっしゃるのですが、店内は撮影禁止なので大変申し訳ないですが、そういう場合はお断りさせていただいています」
さんぽで来られた方は写真ではなくぜひ目に焼き付けて帰っていただきたいですね!
それと平田さん、こちらのコミックコーナーは手塚先生のマンガが非常に充実してますね。大型の復刻本から新書や文庫まで、主要な手塚作品はほとんど置いてあるんじゃないでしょうか。
「ジュンク堂書店は新刊やベストセラーだけでなく良い本は積極的に売っていこうというのがモットーですので、手塚先生のマンガもこうして数多く取り扱っています」
前に虫さんぽで、ジュンク堂と同じ系列店の丸善 丸の内本店の「手塚治虫書店」にもおじゃまさせていただきましたけれど、あちらのお店の品揃えに劣らないラインナップですね。
・虫さんぽ 第34回:東京・銀座から丸の内へ 手塚先生のおもてなしメニューを堪能する!!
丸善 丸の内本店では手塚マンガを買っていかれるお客様は意外にも女性の方が多くて『リボンの騎士』などがよく売れているとうかがったんですが、こちらはどうですか?
「うちは手塚マンガを買っていかれるのは男性のお客様が多いですね。作品では『ブッダ』や『ブラック・ジャック』など、やはり定番作品が人気です。あとうちは外国のお客様も多くいらっしゃるので、手塚マンガを買っていかれる外国の方もけっこういますよ。
これはお客様から教えていただいたのですが、秋田書店の新書版コミックスなどは、全部の漢字にルビがふってあるから日本語が苦手な人でも読みやすいというんです。なので外国のお客様にどの手塚マンガを買ったらいいか尋ねられたときには新書版のコミックスをお薦めしています」
それはいいことを聞きました。こんどからミーも外人のフレンズにアスクされたときには新書版のカァミックスをレコメンドしようと思いマース。
平田さん、本日は貴重なお話センキューでしたーっ!!
ここからは雪の中を少し歩いてサンシャイン60へと向かう。現在サンシャイン60が建っている場所は昭和史的にはさまざまな曰くのある場所で、戦前から戦中にかけては未決囚を収容する「東京拘置所」があった。
手塚先生の『アドルフに告ぐ』に、この東京拘置所が出てくる。昭和16年10月24日、スパイ容疑で逮捕され、東京拘置所に収監されていたリヒャルト・ゾルゲが取り調べを受ける場面である。
この日、罪を認めたゾルゲは、マンガには描かれていないが太平洋戦争末期の昭和19年11月7日、ここ東京拘置所で死刑が執行された。
それからサンシャイン60についてはもうひとつ! じつは手塚マンガにサンシャイン60そっくりなビルが出てくる作品があるのをご存知だろうか。『週刊少年チャンピオン』1977年2月28日号に掲載された『ブラック・ジャック』第161話「上と下」がそれだ。
この物語の主人公は高層ビルにオフィスを構える大企業の社長だ。そしてその社長の会社が入居している超高層ビルのデザインがサンシャイン60とうり二つなのである。
サンシャイン60の建設工事が始まったのが1973年、開業が1978年4月だから、手塚先生が「上と下」を発表した1977年初めごろは、サンシャイン60がもうかなり上層階まで出来上がっていたと思われる。手塚先生はそんな建設中のサンシャイン60を見上げながら、この物語の構想を練ったに違いありません。
なのでサンシャイン60をイメージしながらこの作品を読むと、マンガが発表された当時の東京の空気感なんかも伝わってくるのではないでしょうか!
さて、真冬の雪中さんぽも最後の目的地となりました。サンシャイン60から再び池袋駅東口へと戻り、向かったのは西武百貨店池袋本店地下のお総菜コーナーです。
その一角に「ホワイトベアー」という、ハンバーグやグラタンなど洋食系の料理が並んでいるお総菜屋さんがある。ここが手塚スポットなのである。
ということで、このお店の前である方と待ち合わせをしているんだけど……と、ぼくがあたりを見回していると、にこやかな笑顔の女性が歩み寄ってきた。
「こんにちは。ホワイトベアーの古屋です」
この方が本日のラストとなる手塚スポットの案内人・株式会社ホワイトベアー 専務の古屋聖子さんだった。古屋さん、どうぞよろしくお願いいたします!!
それにしてもデパ地下のお総菜屋さんがどうして手塚スポットなのか?
じつは「ホワイトベアー」はかつて池袋の東口駅前でレストランを経営していた。そして並木ハウス時代の手塚先生もしばしばそこを利用していたのだ。
場所を西武百貨店内の喫茶店に移して、古屋さんにさっそく当時のことをうかがった。
古屋さん、まずはホワイトベアーの沿革をお教えいただけますか?
「当時の記録がほとんど残っておりませんのでざっくりしたお答えしかできませんが、私の祖父が池袋駅の東口前にお店を開いたのは昭和27年ごろのことだそうです。
祖父は最初は文具店を経営していたそうですが、昭和30年ごろに改装して食事も出す喫茶店を始めたということです。グリルといいますか、いわゆる洋食屋さんですね」
まさにそのころのことだと思いますが、手塚先生がエッセイにお店のことを書かれていますので紹介しますね。
「池袋東口にホワイトベアーというこぢんまりしたキッチンがあって、そこでぼくは来月号の執筆順を編集者といっしょに決めながらめしを食べた。その店の名物はバナナ入りカレーライスという珍品だった。ふつうのカレーを甘くしてスライスしたバナナを混ぜてあるという代物で、まともなカレーを食べ慣れている人間ならみんな敬遠する。
『まんが道』の本に、藤子氏をこのホワイトベアーにぼくが招待したことが描かれてあるが、そのとき藤子氏にバナナカレーライスを食べさせたかどうかは残念ながら記憶にない」(講談社版手塚治虫漫画全集『手塚治虫エッセイ集6』「トキワ荘前史」より。※初出は1987年、蝸牛社刊『トキワ荘青春物語』)
古屋さん、このバナナ入りカレーというのは本当にあったんですか?
「分からないです(笑)。祖父ももういないですし、母にも聴いてみたのですが記憶にないそうです。ただ、これははっきりしたことではありませんが、うちのお店の2〜3軒先に喫茶店(このお店も今はもうありません)がありまして、もしかしたらそこで出していたかも知れないということです」
なるほど、その可能性はありますね! 手塚先生は驚異的に記憶力が良かったですが、エッセイなどでもたまにボタンをかけ違って記憶されていることがありますので! ちなみに「ホワイトベアー」で手塚先生にごちそうしてもらったという藤子不二雄A先生は『まんが道』の中ではステーキを食べている様子を描いておられます。
「はい。ステーキならメニューにあったと思います(笑)」
それで古屋さん、洋食屋さんはいつごろまで営業されていたんですか?
「昭和48年ごろまでです。その数年前から私の父がお店を手伝っていたのですが、父はもともと六本木のイタリアンレストランでチーフとして働いていましたので、父がお店を継ぐことになったときに、洋食屋から本格的なレストランに改装したんです」
六本木のイタリアンレストランって、もしかして“C”ですか? だったら手塚先生も行っていたとエッセイに書かれていたお店です! もしかしたら古屋さんのお父様は、手塚先生が行かれていた際にも、お料理を作っておられたかも知れませんね!
「そうかも知れません」
「ホワイトベアー」が西武百貨店の中でお総菜屋さんを始めたのはどういう経緯だったんでしょうか。
「昭和48年前後のことですが、うちのお店にお客さんとしていらしていただいていた方の中に池袋西武本店の方がいて、その方からお誘いをいただいたんです」
今のお総菜屋さんで売っておられる商品の中で、手塚先生が通っていたころのお店の味に近いものはありますでしょうか?
「えーと、そうですねえ……、グラタンはもしかしたら当時の味に近いかも知れません。今もうちの厨房で作っていますから」
おお、グラタンですか! さっそく買って帰ります! そうだ古屋さん。今のホワイトベアーのメニューにバナナカレーを復活させるというのはどうでしょうか? うん、これは名案だ。ぜひやりましょう!!
「えーと、そうですね……考えておきましょう……」
どうも失礼しましたー。古屋さん、本日は貴重なお話ありがとうございました!!
ということでぼくが「ホワイトベアー」で帰りに買ったのは「オムライスグラタン」520円と「デミグラスハンバーグ」650円の2つ(各税別)。帰宅後、電子レンジで温めてフタを取ると、ふわっと立ちのぼった湯気からは、ぼくが子供のころに味わった懐かしい洋食屋さんの香りがした。
グラタンをスプーンですくって口に含むと、味は今風に洗練されてはいるものの、その奥には確かに昭和20年代から続く洋食屋さんの素朴な味わいがあった。しかもそれは手塚先生も味わった「ホワイトベアー」の味なんだと思うと、ぼくにはこのグラタンが特別な料理に思えてくるのだった。皆さんも虫さんぽの帰りには、ぜひ「ホワイトベアー」のグラタンを買ってみてください!
それでは皆さん、今回も真冬の虫さんぽにお付き合いくださいましてありがとうございます。春はもうすぐそこまで来ています。次回はもっと暖かいさんぽでご一緒いたしましょう!! は、は、はっくしょん!!
(今回の虫さんぽ、3時間17分、3225歩)