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2011年4月号 コラム:虫さんぽ 第15回:東京・豊島区雑司が谷・並木ハウス周辺を歩く

2011年4月号 コラム:虫さんぽ 第15回:東京・豊島区雑司が谷・並木ハウス周辺を歩く

昭和29年、トキワ荘を出た手塚治虫先生が次に移り住んだのが、豊島区雑司が谷の鬼子母神堂きしぼじんどうにほど近いアパート・並木ハウスだった。今回は、当時のままの建物で今もアパートとして使われているここを、元講談社『少女クラブ』編集者だった丸山昭まるやまあきらさんに案内していただきます。また実はこの町には、手塚先生だけでなく鉄腕アトムも住んでいた!? それはいったいどういうことなのかっ! さっそく行ってみよう!!



◎映画の街・池袋を出発!

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明治通りから鬼子母神西参道商店街への曲がり角。見落としやすいので、このアーケードを目印にしよう

 今回の散歩の出発点は池袋駅である。池袋駅はJR(山手線、埼京線、湘南新宿ライン)を中心に、西武池袋線、東武東上線、東京メトロ(丸ノ内線、有楽町線、副都心線)が乗り入れていて、一日の乗降客数はおよそ270万人。新宿駅に次ぐ全国第2位の巨大ターミナル駅だ。
 また80〜90年代以前の映画青年にとっては、池袋は映画の街という印象が強いのではないだろうか。それは単に映画館の数が多かったというだけでなく、低料金で良質な映画を見せてくれる名画座がいくつもあったからだ。
 ぼくも学生時代には、情報誌『ぴあ』を片手に、学校へは行かず池袋で途中下車をして文芸坐や文芸地下、日勝文化、そして今もあるシネマ・ロサなどへ通い詰めた懐かしい思い出がある。もちろん映画好きの手塚先生にとっても、ここは最高に魅力的な街だったに違いない。


◎鬼子母神は鬼?それとも神様!?

 というわけで池袋駅東口に降り立ったぼくは、かつて何人もの編集者が手塚先生のアパートを目指して歩いたであろう明治通りを南下する。
 そうして歩くこと7〜8分。左側に鬼子母神西参道への入り口が見えてきた。
 その一方通行の細い路地を入ってすぐ目の前の三叉路が、雑司が谷鬼子母神堂ぞうしがやきしもじんどうの入り口だ。ただしこちらは裏手になるので、境内へ入ったら本堂の横をぐるりと回りこむとそっちが正面になる。
 ところで鬼子母神とは何か? 仏教伝説によれば、もともとは子どもをさらって食べる悪鬼だった。だが仏の戒めによって自分のしてきた悪行を悔い、善神となった。以後、子授こさずけけ、安産、子育ての神としてまつられているという。東京ではここ雑司ヶ谷鬼子母神のほか、台東区入谷の真源寺に祀られている鬼子母神も有名だ。

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雑司ヶ谷鬼子母神堂。公式サイトによれば、その由来は室町時代にまでさかのぼるという。そして本殿が建立されたのは寛文4年(1664年)の徳川4代将軍家綱の時代のこと。現在は東京都有形文化財に指定されている。また、ここの鬼子母神様は菩薩のようなやさしいお姿をしているため「鬼」の字の上にノという角がつかない文字を用いるのが正しい

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テレビ番組などでもよく紹介される、鬼子母神の境内にある駄菓子屋さん「上川口屋」。創業はなんと1781年。現在の店主は13代目だそうです。夏の散歩ではここでラムネなどを飲んで休憩するのがいいですね


◎手塚先生が住んだ並木ハウスへ!

 鬼子母神様にお参りをし、境内けいだいを通り抜けさせてもらって正門を出ると、石畳の両側にケヤキ並木が立ち並んだ素敵な道があらわれた。今は冬だからどの木も丸裸だけど、もうしばらくすると若葉が一斉に芽吹き、青々とした葉っぱの間から木漏れ日が射しこむ気持ちのいい並木道になるはずだ。
 この並木道の途中の路地をちょっと入ったところに、かつて手塚先生が住んだアパート・並木ハウスがある。
 昭和27年、手塚先生が郷里宝塚から東京へと拠点を移して最初の仮住まいとしたのは、前回の虫さんぽで訪ねた新宿区四ッ谷の下宿だった。次に豊島区椎名町(現・南長崎三丁目)のトキワ荘へと引っ越し、さらに昭和29年10月に移り住んだのが並木ハウスだった。
 後で詳しく話をお聞きする予定だけど、この並木ハウスの大家さんも手塚先生がここへ入居していたころの思い出をとても大切にされていて、建物は当時の面影をそのまま残している。しかも今もアパートとして現役で使われているため、人の息づかいの感じられる生きた資料館になっているのだ。
 手塚ファンにとっては、四ッ谷の下宿もトキワ荘も今や跡形もないだけに、この当時の手塚先生の仕事場の雰囲気をうかがえる唯一の貴重な場所と言えるだろう。
 しかも今回は、その当時の手塚先生のことをよ〜くご存知の方に案内していただきます。どっかのCMじゃないけど、なんてぜいたくなんだァ〜!!


◎案内人・丸山昭さんと合流!

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今回の散歩案内人・丸山昭さん。並木ハウスとの10年ぶりの再会にとても懐かしそうにされていました

 ということで並木道に立って待っていると、待ち合わせ時間の午後2時ぴったりに現れたのが、案内人をお願いした元講談社編集者の丸山昭さん(80)だった。さすが元敏腕編集者!
 昭和5年山梨県生まれの丸山さんは学習院大学を卒業後、昭和28年に講談社へ入社。『少年クラブ』編集部などを経て昭和29年『少女クラブ』編集部へ異動した。当時、手塚先生は同誌で『リボンの騎士』を連載中で、丸山さんはその担当を命じられ、以後、手塚番としてのハードな日々が始まることになった。ということで丸山さんが先輩編集者に連れられて初めて手塚先生を訪ねたのも、この並木ハウスだったという。
 さっそく丸山さんと一緒に路地を入ると、正面にクリーム色の木造モルタル2階建ての建物が建っている。ここが並木ハウスだ。


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丸山昭さんの著書『トキワ荘実録 -手塚治虫と漫画家たちの青春-』(1999年小学館刊)。表紙に使われている写真は、昭和29年ごろに並木ハウス前で撮影したもの。左が丸山さんで右が手塚治虫先生だ。この本にはここに紹介した内容のほかにも、手塚先生やトキワ荘のマンガ家たちとの貴重な交流の思い出がたくさん綴られている。機会があればぜひ一読していただきたい

 そこに立った丸山さんの第一声は「いや〜懐かしいなぁ」というものだった。丸山さんもここへ来られるのはおよそ10年ぶりだそうで、今日の散歩を楽しみにしてくださっていたのだ。
 そして今回は何と、並木ハウスの大家さんと、現在、手塚先生のいた部屋を借りておられる借り主さんのご厚意で、部屋の中まで見せていただけることになった。皆様ありがとうございます!
 ちなみにこの建物は、さっきも書いたように今もアパートとして使われていて建物内部の一般公開はされていません。皆さんが散歩をされる際には、決して敷地内には立ち入らないようお願いします。それと門の前で記念撮影などされる際には、近隣の方々の迷惑にならないよう、くれぐれもお静かに!!

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並木ハウスの外観。手前が路地なのでなかなか建物全景を写真に納めるのはむずかしい

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玄関を室内側から見たところ。シンプルでレトロでありながら殺風景に感じないのは、ちゃんとここに人が住んでいてその息づかいが感じられるからだろう。ちなみにこうしてメディアで紹介されると、必ず「空き部屋はありますか?」という問い合わせがあるそうだが、現在は11室すべて入居者で埋まっているそうだ


◎国立美術館初のマンガ展ポスターを発見!!

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玄関に飾られた鉄腕アトムのポスター。白黒で控えめなところがまたいい。あのアトムの丸い家は雑司ヶ谷のどこにあるんだろう

 大家さんの奥様の案内で、建物の中へ。そこでさっそく丸山さんが目を止めたのは、玄関を入ってすぐの壁に飾られていた大きな鉄腕アトムのポスターだった。これは手塚先生が亡くなられた1年後の1990年に竹橋の東京国立近代美術館で開催された『手塚治虫展』のポスターだ。
 今でこそ博物館や美術館でマンガ展が開催されるのは珍しいことではないが、当時は国立美術館でマンガ展を開くなんて前代未聞ぜんだいみもんのことであり、賛成意見ばかりでなく多くの批判があった。丸山さんも「これがわずか20年前のことなんですからねぇ……」と、感慨深げな様子だった。


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コの字形に曲がった廊下。デザインのユニークさだけでなく、各部屋のドアを開けた際、お互いの部屋の中が丸見えにならないようにという配慮でもある

 この並木ハウスの部屋は1階と2階合わせて全部で11室ある。手塚先生が借りていたのは、2階のいちばん奥、裏階段に隣接した角部屋の6畳間だった。
 廊下はコンクリート張りで、靴は各部屋を入ったところで脱ぐようになっているため廊下や階段を歩く人の足音はほとんど気にならない。またその廊下は上から見るとコの字型に曲がっていて、各部屋の間取りがそれぞれ違うという、とても凝った造りになっている。


◎手塚先生の住んだ部屋を拝見!

 それでは2階へと上がりましょう。「いやあ〜楽しみだな。昔はこの階段を登るときはいつも足が重かったんだけどね(笑)」と丸山さん。
 そしていよいよ手塚先生の住まわれていたお部屋へ入らせていただいた。この部屋は現在、グラフィックデザイナーの方が仕事場として借りている。茶色い柱と白い壁という和風の部屋には、この方がご自分で持ち込まれたというクラシックな茶だんすが1つ。そして机の上に3台並んだパソコンのモニターが妙にこの空間とマッチしている。とっても居心地がよさそうな部屋である。
 丸山さんによれば、手塚先生がいた当時は、この6畳間に先生の仕事机のほか、大きなソファベッドが1脚、茶だんすがひとさお、レコードプレーヤーと山積みのレコードがあって、さらにアップライト型のピアノまで置かれていたという。しかもそんな狭いところに常時2〜3人の編集者が詰めかけ、時には藤子不二雄Aふじこふじおえー氏などがアシスタントに来ていたというから、夏などはもう想像するだけで熱中症になりそうだ(笑)。

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いよいよ手塚先生のいた部屋へおじゃまする。タイル敷きの土間が何ともいい感じ

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ここが手塚先生の部屋だっ! 現在はグラフィックデザイナーの方が使っているが、その前に入居されていた方もイラストを描く人だったとか。また現在、世界的な建築写真家として活躍している二川幸夫ふたがわゆきお氏も、学生時代に並木ハウスの住人だったそうだ


◎手塚宅を訪れた3人の若者の正体は!?

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手塚先生が描いた並木ハウスの俯瞰ふかんイラスト。確かにこれは狭い! あとで紹介する雑司が谷案内処の2階に飾られているパネルもこの絵だ。(講談社版全集第398巻『手塚治虫エッセイ集8』より)
※初出は『キネマ旬報』1985年10月下旬号

 またこの部屋は丸山さんにとって、編集者として数多くの才能と出会った場所でもあった。
 そのひとつが昭和30年8月10日のことだ。以下、丸山さんの著書『トキワ荘実録』からその日の状況を引用しよう。
「息もつまるような暑い午後、私は座り込みの何日目かを迎えていました。担当の『リボンの騎士』が、締め切りを過ぎたのにまだ出来ていないんです。当然、居催促の私もイライラの限界に来ている」
 と、そのときドアをノックする音がして、丸山さんがドアを開けるとそこには学生風の若者が3人が立っていた。丸山さんはファンが押しかけてきたのだと思い、けんもほろろに断ってドアを閉めた。だが若者たちは帰ろうとせずに、ドアの外から名前を名乗った。
 するとそれを聞いた手塚先生がすぐに彼らを部屋へ招き入れてしまった。


 実はその3人は、雑誌『漫画少年』(前回の『虫さんぽ』参照)を中心に作品を発表し、めきめきと頭角とうかくを現わし始めていたマンガ家の卵たちだったのだ。その3人の名前は石森章太郎いしのもりしょうたろう(石ノ森章太郎)、赤塚不二夫あかつかふじお長谷邦夫ながたにくにお
 最初は「時間がないんだよなあ、もう」と聞こえよがしにイヤミを言っていた丸山さんだったが……「けっきょく私まで話の中に引きずり込まれちゃって、手塚先生の仕事はいつの間にかそっちのけ。一同まんが談義にのめり込んでいました」(前出『トキワ荘実録』より)ということです(笑)。

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丸山さんに、手塚先生がこの部屋で仕事をされていたときの様子をその場所で再現していただいた。近眼の先生はこのように猫背になって原稿に目をくっつけるようにしてマンガを描いていたという

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丸山さんが、雲隠れした手塚先生の帰宅を待ち伏せて徹夜で張り込みしたという裏階段


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丸山さんの著書『まんがのカンヅメ 手塚治虫とトキワ荘の仲間たち』(1993年ほるぷ出版刊)。『トキワ荘実録』はこの本を改訂したもの

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『まんがのカンヅメ』巻頭グラビアより、手塚先生が描いた若き日の赤塚不二夫、石森(石ノ森)章太郎、長谷邦夫3氏の肖像(各左から)。昭和30年8月10日、3人が並木ハウスの手塚先生を訪ねたときに描いたものが、当時、石森らが出していた肉筆回覧同人誌『墨汁一滴』第6号に綴じ込まれていた


◎徹夜明けのパンと牛乳

 また藤子不二雄のかたわれ安孫子素雄あびこもとお氏、つまり後の藤子不二雄A氏と丸山さんが出会ったのも、ここ並木ハウスだった。
 当時、マンガ家がアシスタントを専属で雇うというシステムはまだなく、手塚先生は忙しいときに若いマンガ家に応援を頼んでいた。そんなときによく駆り出されたのが安孫子氏だったのだ。
 朝、徹夜明けで手塚先生が仮眠を取っている中で、丸山さんは、安孫子氏が買ってきたパンと牛乳を、先生を起こさないように息を殺して食べた思い出を語ってくださった。「ちょうどぼくらが食べ終わったころに手塚先生が起きてきましてね、「ぼくの分はないんですか?」と聞かれて、安孫子さんが「あっ、忘れました!」なんてこともありましたね(笑)」

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藤子不二雄A氏が徹夜明けにパンを買いに行ったお菓子屋さんはこの場所にあった。砂金さんによれば、当時はここに2軒のお店が並んでいて右半分がそのお菓子屋さんだったという

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現在は診療所となっているお菓子屋さんの向かい側に銭湯があった。並木ハウスには風呂がなかったため、手塚先生もよくここへ通われたという


◎もうひとりの散歩案内人登場!!

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並木ハウス大家の砂金宏和さん。手塚先生が並木ハウスに住まわれていたころはまだ1歳から3歳でほとんど記憶にないが、後年、手塚先生は宏和さんの誕生日にいつもおもちゃを送ってくれたという。その中で今でもはっきり覚えているのがリモコンで操作して走るバットマンカーだったそうである

 並木ハウスを出てちょっと休憩。ここでもうひと方、散歩案内人に加わっていただきました。並木ハウスの大家さん・砂金宏和いさごひろかずさん(58)です。さっそく砂金さんから並木ハウスの歴史についてお話を聞きました。
「私の祖父が並木ハウスを建てたのは昭和28年です。祖父はそれまで東京文化教材社という模型飛行機の会社を経営しておりまして、並木ハウスの場所は元々、その工場だったんですよ」
 砂金さんは現在、一級建築士としてお仕事をされていて、天王洲アイルてんのうずあいるの開発などにも関わられたという。
「やっぱり私も祖父の血を受け継いでいるんでしょうか。祖父は普請道楽ふしんどうらくで、並木ハウスは祖父が自分で設計して建てたんです。例えばその際、電気メーターが表に並んでいるのは美しくないから室内に付けるとか、いろいろこだわりがあったみたいです(笑)」


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丸山さんと砂金さんは今回が初対面だった。丸山さんは「ぜひお会いしたかったんですよ!」と、砂金さんとお会いできたことがとてもうれしそうだった

 手塚先生が並木ハウスに入居するきっかけは何だったんでしょう?
「母から聞いた話では、当時、学童社で『漫画少年』の編集をしていた加藤宏泰かとうひろやす氏(学童社の創立者、加藤謙一かとうけんいち氏の次男)が先に入居されていて、手塚先生に紹介したということです」


◎大家さんが語る手塚先生の思い出

 砂金さんのお母様は4年前に亡くなられたが、手塚先生が並木ハウスで暮らしたころの思い出をずっと大切にされていたという。
「生前、母は私たちにこう言い続けていたんです。『私の目の黒いうちは、手塚先生のいた部屋はぜったい誰にも手を加えさせません。ただし私が死んだらあなたたちが好きにしなさい』と。それで母が亡くなったときには、もうそうとう建物の老朽化ろうきゅうかが進んでいましたから、兄弟で相談してどうしようかという話になったんですが、結局、リフォームすることにしました」
 そのリフォームも、おじいさまの思いを受け継いで細部までこだわったという。
「例えば窓枠も、普通ならアルミサッシに変えてしまうところですが、わざわざ木枠で作り直しました。真鍮しんちゅうのドアノブなどは今はレトロブームなので新品が買えますが、ドアに入っている模様ガラスはもう手に入りませんので、昔のものを大切に流用しました。あと窓の手すりのサビを落としたら、下から最初に塗られた薄緑色のペンキの色が出てきたんです。それで当初の予定を変えて、その元の色で塗ることにしました」
 最後に、砂金さんがお母様からお聞きしたという忘れられない手塚先生の言葉を教えてくださった。
「ある日、母が手塚先生に聞いたことがあるそうです。『先生はどうしてそんなに根を詰めて仕事をなさるんですか? もう少しお休みになられたらいいのに』と。そしたら手塚先生は『子どもが待っていますから、休むわけにはいかないんです』と答えたそうです。母はその言葉にとても感動したと言ってましたね」
 砂金さん、貴重なお話をありがとうございました!!


◎雑司が谷散歩の情報収集はココで!

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雑司が谷案内処。開館時間:10:30〜16:30、休館日:原則毎週木曜、問い合わせ:03-6912-5026

 丸山さんとぼくが最後に向かったのは、並木ハウスから徒歩15秒のケヤキ並木沿いにある「雑司が谷案内処」だ。この建物も砂金さんの土地に建っており、昭和8年に建てられた建物が改修して使われているという。そして実はここも手塚スポットなのである! その紹介はのちほど!!
 まずは案内処応援倶楽部メンバーの石田勝彦いしだかつひこさん(71)に、案内処についての説明をお聞きしよう。
「雑司が谷案内処は、雑司が谷周辺の観光と地域交流の拠点として2010年7月にオープンしました。私たち案内処応援倶楽部のメンバーが持ち回りで当番を勤めて運営しています」


 この案内処の1階には地図や豊島区の観光案内パンフが置かれていて自由に閲覧できる。また分からないことがあれば石田さんたちが直接答えてくれる。物販コーナーには地元で作られた民芸品などのおみやげが並ぶ。雑司ヶ谷鬼子母神の縁起物として有名な「すすきみみずく」もあった。


 また2階は展示ギャラリーとなっていて、散歩当日は、この地域で発掘された陶器や料理をされた跡の残るたいの骨などが展示されていた。

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鬼子母神の郷土玩具「すすきみみずく」は雑司が谷案内処でも販売中。その由来は、昔、孝行娘が鬼子母神様のお告げに従ってススキの穂でみみずくを作ったところ、それが売れて母親の薬が買えたという故事から来ている

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雑司が谷案内処2階で、石田勝彦さん(中央)から、並木ハウスのパネルの説明を聞く丸山さん(左)


◎隠れた手塚スポットでアトムと対面

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並木ハウスのパネルの隣には、アトムが雑司が谷に住んでいるという記事が掲げられている。※画像をクリックすると雑誌掲載時のページ(復刻版)が拡大表示されます

 そしてお待ちかね、手塚スポットはその2階の一角にある。ここには手塚先生が描かれた並木ハウス時代の仕事風景のイラストが拡大されパネルになって展示されているのである。
 石田さんに案内されて、丸山さんと一緒にそのパネルを見ていると、ふとその横にある小さなパネルが気になった。
 そちらも雑誌のページを複写したものらしく、アトムのイラストが入っていて、アトム本人が読者に向けてあいさつをしているような文章が書かれている。
 それを読んで驚いた。
「いま、ぼくは東京の雑司ヶ谷に、一年あとで生まれた、ロボットのおとうさんとおかあさんといっしょにすんでいます」


 ええ〜〜っ、手塚先生だけでなくアトムも雑司ヶ谷に住んでいたっっ!?


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アトムが「雑司が谷に住んでいる」と自己紹介してるのはこの付録だっ! 雑誌『少年』昭和30年新年号別冊付録『鉄腕アトム 電光人間の巻』。※画像は復刻版

 それは雑誌『少年』の昭和30年新年号別冊付録として付いた「電光人間の巻」の表紙裏のページだった。昭和30年といえば、手塚先生がまさに並木ハウスに住んでいた時期だ。どうやらその時期にアトムもここ雑司ヶ谷に住んでいたようだ。
 と、手塚先生は雑誌連載中によくこうしたお遊びをやっていた。だけどこうして60年近い時を経てから読むと、何だかアトムも本当にこのあたりに住んでいたんじゃないかと、ふとそんな気もしてくるのでありました。
 それは単なる思い込みでなく、ぼくらがつい先ほどまで、当時のままに残る並木ハウスにいて時間旅行から戻ったばかりだったからかも知れないが……。
 ではまた次回の散歩にも、おつきあいください!!


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並木ハウスから徒歩30秒で鬼子母神駅に着く。テレビの散歩番組で必ず狙うお約束のアングルからぼくも都電をパチリ!

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帰りは都電にのってのんびりと帰宅。今回は最後まで昭和テイストな散歩でありました



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(今回の虫さんぽ、3時間17分、3773歩)



取材協力/丸山昭、砂金宏和、大橋久美、並木ハウス、雑司が谷案内処(順不同・敬称略)


黒沢哲哉
1957年東京生まれ。マンガ原作家、フリーライター。手塚マンガとの出会いは『鉄腕アトム』。以来40数年にわたり昭和のマンガと駄菓子屋おもちゃを収集。昭和レトロ関連の単行本や記事等を多数手がける。手塚治虫ファンクラブ(第1期)会員番号364番


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