今回の散歩は地下鉄護国寺駅から出発し、早稲田方面へと向かいます。ここにはつい先ごろ全200巻が完結したばかりの講談社版「手塚治虫文庫全集」編集部がっ! そして懐かしの絶版手塚マンガが読める図書館も!! さらに関係者が明かしてくれた、ありし日の手塚先生の素顔とは!? 今回も濃ゆ〜い内容で丸1日た〜〜っぷり歩いちゃうのよさ!!
大都会池袋から地下鉄東京メトロ有楽町線に乗って2駅目、護国寺駅で降りると、そこには昔からの閑静な高級住宅街が広がっている。住所でいうと文京区音羽。東京の外れ、葛飾柴又生まれのぼくには若干ハイソすぎて落ち着かないが、近くに学生時代の友人も住んでるし、昔からよく遊びにきたなじみ深い街です。
そして! 音羽といえば、講談社を中心に、その兄弟会社である光文社やキングレコードなど、いわゆる“音羽グループ”と呼ばれる出版関連会社がいくつも集まっている出版の聖地として知られている。
この音羽グループに対して、千代田区一ツ橋界隈に本社をかまえる小学館や集英社を“一ツ橋グループ”と呼び、この2つのエリアが、東京の出版文化の勢力地図の中で二大派閥を形成しているのだ。
地下鉄護国寺駅から6番出口の階段を上って地上へ出ると、すぐ目の前に建っている重厚なビルが講談社の旧本社ビル。そしてその向かって右隣の高層ビルが現在の本社ビルである。さらに音羽通りをはさんでナナメ向かいに建つ真新しい黒と茶色のビルが光文社ビルだ。
講談社へは後で訪ねることにして、まずは光文社へ行ってみよう。光文社といえば手塚治虫ファンにとっては何といっても『鉄腕アトム』の故郷ですよね!
昭和26年、光文社の月刊少年雑誌『少年』4月号から『アトム大使』の連載が始まり、その1年後、ロボット少年アトムを主人公とした『鉄腕アトム』の連載が始まった。以後『アトム』は昭和43年3月号で雑誌『少年』が休刊となるまで、丸17年間にわたって連載が続いたのだ。
とくに昭和38年から虫プロ製作による国産初のテレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』の放送が始まると『アトム』人気は爆発的なものとなった。さらにそれに続くテレビアニメ作品が続々と登場。現在のジャパニメーションにいたる日本のアニメ文化の基礎はここから始まったのだった。
またこのテレビアニメ版『アトム』の放送当時、光文社からは「カッパ・コミクス」という雑誌サイズのシール付き単行本シリーズで『鉄腕アトム』が毎月刊行されて、これまたものすごい売れ行きとなったのであった。
その『鉄腕アトム』の昭和37年に発表されたお話「宇宙の寄生虫の巻」に“光文社ビル建築用地”の出てくるシーンがあるので紹介しよう。
この物語はあらゆる生物に寄生する宇宙生物が地球へ侵略にやってくるというホラーSFタッチのお話だった。そしてモンダイの“光文社ビル建築用地”が出てくるのはこんな場面だ。
ヒゲオヤジ先生の教え子のキュー太郎くんの家で動く植物が発見され大騒動となる。その翌日、アトムのクラスメートであるタマオが、その事件の新聞記事を読みながら夜道を歩いてきて、この光文社ビル建築用地へと入りこんだ。するとそこにはあり得ないほどの大きさの巨大ネズミが立ちはだかっていた!!
この巨大ネズミが出現した場所というのは、もしかしてぼくがいま立っているこの光文社ビルの場所なのだろうか? ぼくはそれを確かめるべく光文社広報室へ電話をかけた。対応してくださったのは広報室の高沼英樹さんである。
高沼さんは何と、2003年に鉄腕アトムの誕生日を記念して光文社から刊行された『鉄腕アトム ハッピーバースデーボックス』を製作された方でもあった。
さっそく高沼さんに昭和37年当時、光文社ビルの建設がここで行われていたかどうか、おたずねしてみた。すると高沼さんはお忙しい中、わざわざ昔の資料などを調べてくださったのだった。以下、高沼さんのお話。
「おたずねの件ですが、弊社が豊島区池袋3丁目(現在の光文社本社ビルとは別の場所)に最初の自社ビルを建てたのは昭和48年です。またその土地を取得したのも昭和40年代に入ってからのことですので……手塚先生がこの作品を描かれたころは、まだ光文社ビルの建設はされていなかったということになりますね」
ということはつまり、これは手塚先生の創作だったということですね。では当時の光文社はどこにあったんですか?
「弊社の創業は昭和20年10月ですが、自社ビルができるまでは講談社本社ビル内や、講談社関連会社所有のビルに間借りをしていました。ですので昭和37年当時は講談社本社ビル内にあったはずです」
なるほどー、つまり手塚先生はマンガの中で未来の光文社ビル建設を描いていたわけですね! ハッ、ということはもしかして、いまの光文社ビルを建てるとき、そこに巨大ネズミが出現していたのでは!? ぼくはその質問を高沼さんにぶつけてみた。すると高沼さんは……「はっはっは、そんなことはありませんでしたよ」と軽く一蹴されたのでした。そうですよね。どうもスミマセン。高沼さん、ありがとうございました〜〜〜っ!!
さて次に行くのは「手塚治虫文庫全集」を編集した講談社コミッククリエイト編集部であるっ。手塚治虫文庫全集は、手塚治虫生誕80周年記念企画のひとつとして2009年10月から刊行が始まって、今年2012年5月に全200巻がめでたく完結した。その編集部がこの近くにあるということで、ぜひおじゃまさせていただきたいと、あらかじめお願いしてあったのだ。
お話をさせていただいたのは講談社コミッククリエイト企画編集局・局長の
「よくきてくださいました。だけどもう「文庫全集」の編集は終わってしまっていますから、ここには何もないですよ。それに編集部は昨年別の場所から移転したんですよ」
宮東さんはそう言いながら仕事場を見せてくださった。じつはコミッククリエイト編集部は昨年までは別のビルにあったのだが、東日本大震災でビルが損傷してしまったため、現在のビルへ引っ越してきたんだそうだ。
宮東さんに文庫全集の話をお聞きした。
「そもそもうちで「手塚治虫文庫全集」の企画が立ち上がったのは、A5判の「手塚治虫漫画全集」全400巻が完結してかなり時がたち、最近あまり本屋さんで「全集」を見かけないな〜と思ったところからですね。そもそも手塚マンガはいつでも誰もが手に取れるところにあって多くの人に読んでもらいたいと。そういう意図で作られたのが前の全集でしたから、これではいかんと。そこでここらで新しい風を起こそう、ということでこの企画が立ち上がったんです」
文庫という体裁にしたのには、どんな意図があるんですか?
「まずは判型を変えることで、前の全集を手に取ったことのない人にもアピールしたいということですね。それと文庫ならスペースが大幅に節約できますし、値段も安くなりますから。前の全集の2冊分を1冊にまとめたこともあって、全巻を揃えたとしても、前の全集が22〜23万円したところが16万ほどになるんです。これはかなりおトクですよと!」
なるほど! ぼくは前の全集で全400巻を揃えましたけど本棚を2つ占領してますからねー。安くなってスペースも少なくて済むとなればこれはうれしいですね!!
完結されて、いまの感想はいかがですか?
「大変でしたけど非常にやりがいのある仕事でした。
ありがたいとこに熱心な読者の方もたくさんいらっしゃいまして、全巻ご購入いただいた方に特典プレゼントをお付けしたんですが、それに申し込んでくださった方が予想以上にたくさんいて、われわれにとってはうれしい驚きでした。
それと私自身が全作品を読み返してみて、手塚マンガの面白さをあらためて認識したことも収穫でした。
私は1957年生まれで『ビッグX』や『マグマ大使』などは子どものころから大好きだったんですが、今回『バンパイヤ』は編集していて震えが来るほど感動しましたね。これはすごい話だぞと。この作品が文庫になっていまの若いマンガファンに読んでもらえたら恐ろしいほどの反響が来るかもしれないぞ、と!」
ジッサイの反響はどうでしたか?
「それほどでもなかったですね(笑)。やはり買ってくださる方の年齢層の中心は40代以上なんですね。手塚マンガをいまの若いマンガファンの手に取っていただくのは難しいことなんだというのも実感いたしました。
だけど一度手に取って読んでいただければ、手塚マンガのすごさ、面白さは絶対にわかっていただけると思ってますので、これからも若い読者に向けたアピールはどんどん続けて行きたいですね。
とくに私は手塚マンガの恐い話が好きなんです。人間の心の闇を描いた恐い恐い短編がいくつもありますでしょう。これはいまの若い読者にも絶対にうけると思うんですよ」
確かにおっしゃるとおり、若い人の目にとまらないだけで、本当は読んだらきっとハマるに違いない手塚マンガはいっぱいありますよね! ぼくも記者として応援させていただきたいと思います。
さて次の目的地へは宮東さんに案内していただいた。残暑厳しい9月の午後2時、講談社コミッククリエイト編集部を出て、ジリジリと照りつける太陽の中を歩くこと約2分。宮東さんが「ここです」と言って示してくれた場所には真新しい高層ビルが建っていた。
このビルにはいまはテナントとして別の会社が入っているが、かつてここに講談社の「第一別館」という、と〜ってもクラシックな洋館が建っていた。その洋館の別名は「カンヅメの館」。
この場合の「カンヅメ」は鯖缶とか蟹缶などの缶詰めのことではない。漢字で書くと「館詰め」。締め切りの迫った作家先生に旅館などの一室にこもっていただき、そこで脇目もふらず執筆に専念していただくことを「カンヅメ」と言うのだ。講談社はこの第一別館をカンヅメの館として使っていた。
講談社の社史によれば、ここでカンヅメになった作家には高見順、安岡章太郎、小島信夫、花田清輝、埴谷雄高などそうそうたる名前が並ぶ。最長滞在記録は小田実で、昭和38年の1月から8月まで半年以上ここに居つづけて1200枚もの大長編を書き上げたという。
昭和30年代にはマンガ家もよく利用し、とくに手塚先生はここの常連だった。またほかによく利用したのは高橋真琴、石森章太郎(石ノ森章太郎)、赤塚不二夫、水野英子、ちばてつや、桑田次郎(桑田二郎)などなど。
いまは当時の面影がまったくなくなってしまったので、講談社の社史から当時の建物の写真を引用させていただこう。これを見ると、まるで映画かドラマに出てくるような立派な建物だったようですね。う〜ん、素晴らしい!!
この建物は、もとは昭和11(1937)年に旧三井財閥の三井
戦後は一時GHQ(連合国軍総司令部)が接収していたが、昭和28年に講談社が譲り受けた。
屋根は赤いスペイン瓦。玄関を入って絨毯の敷かれた階段を上がるとステンドグラスの大きな窓がある。玄関脇には大理石の暖炉がある大きな応接間。一階の中央を走る廊下の東側にはロココ調の食堂、和室、洋室など。二階にもロココ調の洋室や英国風の書斎などがあり、全体の部屋数は30室近くあったという。
ここ第一別館での手塚先生のエピソードを、講談社の雑誌『少女クラブ』の元編集長だった丸山昭さんが証言されたお話が、講談社の社史の中で記事になっているのでそれを紹介しよう。
「(丸山昭氏によれば)手塚治虫は、一階奥の仏間が気に入って、来るたびにそこを占拠して連日原稿を描きつづけた。仕事が一段落した深夜、カンヅメ仲間の漫画家を訪れては、「あの部屋には、夜な夜な乱れた髪の女の影が壁に浮かぶ」というような怪談を創作しては、みんなを怖がらせて喜ぶという悪癖があった。おかげで第一別館は、漫画家仲間から“お化け屋敷”といわれるようになってしまった」(『物語 講談社の100年』(2010年講談社刊 ※非売品)より。
また丸山昭さんご自身の著書の中にも、丸山さんの文章でそのことが紹介されています。一部内容が重複してますが、その微妙な違いも面白いので続けて引用しますね。
「(講談社第一別館の)廊下の奥に隠し階段があって、それをあがると隔離された畳敷きの一室があります。カンヅメになった手塚先生が、夜中に女の泣き声がするとか、ありとあらゆる怪談を
『トキワ荘実録 -手塚治虫と漫画家たちの青春-』(丸山昭著、1999年 小学館刊)より。
この第一別館はいつまでここに建っていたのか、宮東さんにお聞きした。
「建物が取り壊されたのは2006年です。大変貴重な建物でしたから、そのまま残して欲しいという要望も数多くあったようです。私も非常にもったいないと思ってました。
それで別の場所へ移築することも検討されたようですが、調べてみるとかなり老朽化していて、耐震補強するにも移築するにもばく大なお金がかかると。それで結局、取り壊しが決まったそうです」
残念ですが、それじゃ仕方ないですね。
ちなみに宮東さんによれば、現在、講談社の第一別館という名前がついた建物が建っている場所と、かつての旧・第一別館とは別の場所だそうですのでご注意を(このページの一番下のイラストマップを参照)。
かつてはこのエリア一帯がすべて第一別館の敷地で、現在、新・第一別館のあるところに正門があり、そこを入ってずっと奥まった場所にお屋敷が建っていたんだそうである。
続いて宮東さんに旧・講談社本社ビルを案内していただいた。かつての第一別館が跡形もなくなってしまったいま、この旧・講談社本社ビルは、手塚先生が仕事をされていた時代の講談社の面影を偲ぶことのできる貴重な建物である。
講談社が創業時の東京市本郷区駒込坂下町(現在の東京都文京区千駄木三丁目)から、ここ音羽へ本社を移したのは昭和9年のことだった。もとは明治時代、山田顕義伯爵の邸宅があったという6500坪の土地を50万円で取得。社屋の設計は当代一流の建築家に依頼したいということで、慶應義塾大学図書館旧館などを手がけた曾禰・中條建築事務所に決まり、およそ二年半の歳月をかけて昭和9年7月29日に落成した。
受付で入館証を発行してもらい、胸にバッジを付けて建物の中へ入る。
宮東さんによれば、現在、この建物には主に広告や宣伝の部署が入っているそうで、いくつかの部屋は今風のオフィスに改装されているが、廊下などは昔の雰囲気が残っていて素晴らしい。そして4階には、かつて作家や外部の記者が詰めて仕事をしたという部屋が今もあり、もしかしたら手塚先生もそこで仕事をされたことがあったのではないだろうか、とのことでした。
宮東さん、長時間、おつきあいくださいましてありがとうございましたっっ!!
ここで宮東さんとお別れし、ぼくはひとりで早稲田方面へと向かった。次に行くのは「明治大学 現代マンガ図書館」である。
音羽通りを南下し、江戸川橋の交差点で新目白通りを右に曲がる。すると500メートルほど歩いた鶴巻町交差点の左角にその看板が見えてきた。
ここは東京近郊にお住まいのマンガファンならご存知の方も多いと思うけど、1978年にオープンした日本初のマンガ専門図書館で、現在はマンガの雑誌や単行本がおよそ18万冊も収蔵されている。その中にはもちろん貴重な手塚マンガもいっぱいだ。
初めて来るとちょっと入り口が分かりにくいかも知れないけれど、建物の右手にまわってマンションの入り口のような階段を上がる。するとすぐ2階が「現代マンガ図書館」の入り口だ。
システムは入館料が一般300円、閲覧料が1回1冊につき100円。閲覧は館内のみで館外貸し出しはない。また1970年以前の蔵書の閲覧は、蔵書の傷みが激しいため、年会費を支払って入会する友の会の会員に限られる(詳しくは「現代マンガ図書館」公式ホームページを参照のこと)。
ドアを開けて中へ入るとすぐそこが閲覧室だ。テーブルが2つあり椅子は8席。ぼくが行ったときはそこで3人ほどのお客さんがマンガを読んでいた。
壁にはマンガの入った本棚がびっしりと並び、さらにその前にもマンガの本や雑誌がうずたかく積んである。だけどここにあるのは蔵書のごくごく一部で、ほとんどの本は書庫にしまわれているのだ。利用者はカウンターに並んでいる分厚いバインダーに綴じられた手書きのインデックスから、著者名、作品名などで読みたい本や雑誌を探し出し、それを指定して書庫から出してきてもらうのだ。
などと言いながらふとカウンターの奥を見ると、壁に手塚先生のサイン色紙が2枚、額に入れて飾られているではないですか。うおおっ!! すぐにでもこの色紙の話をお聞きしたいところだけど、まだこの図書館の沿革も紹介していない。ここは焦らずそんな話からうかがっていこう。
話をしてくださったのは「現代マンガ図書館の設立者である故・内記稔夫さんの次女で、株式会社ないき 代表取締役の内記ゆうこさんである。ゆうこさんドゾー。
「ここ「現代マンガ図書館」は、もともと貸本屋を経営していた私の父・内記稔夫が自分で集めた2万7000冊の本と、全国の貸本屋から寄贈していただいた3000冊の本を併せて、1978年に3万冊の蔵書でスタートしたものです。当時は日本で初めてのマンガ図書館ということで、テレビや新聞などマスコミからずいぶん取材を受けたと聞いています」
内記氏がマンガの図書館を作ろうと思い立ったきっかけは何だったんでしょう?
「父は当時からマンガを大衆文化と捉えていたそうです。特にマンガ雑誌は読み捨てられてしまうので、マンガ好きの仲間が集まると、これは誰かが残さなければいけないという話になっていたんだそうです。 それで、蔵書が沢山あることやビルのテナントが空いていたことなど、条件が揃っていたので、ならば自分がやろうと決めたそうです」
しかし日本で初めてということは、集めたマンガをどのように管理するか、どういう形で閲覧してもらうかなど、ノウハウもなくて大変だったんじゃないですか?
「確かにそのあたりはいろいろと苦労したようです。当時、父が目標としていたのはあくまでも“資料館”でしたので、とくに参考になったのは世田谷区の八幡山にある「大宅壮一文庫」だったそうです」
ジャーナリストの大宅壮一が収集した膨大な雑誌コレクションを公開している私設図書館ですね。あそこもいまはパソコンで検索ができますが、昔はズラッと並んだ引き出しの中に手書きのカードになったインデックスがギッシリ入っていて、そこから読みたい雑誌を探して書庫から出してきてもらうというシステムでした。
「父が参考にしたのも恐らくそうした部分だったと思います。父は検索リストにはとくにこだわっていました。本をただ並べて読んでもらうだけでは貸本屋と変わらないと。インデックスがあって、そこから検索ができることで初めて図書館として意味があるんだと言っていました」
おー、確かにおっしゃる通りですね。ぼくも過去にマンガ関連の記事を書くために何度もこちらを利用させてもらいましたが、このバインダーがあることで、探しているマンガにすぐにたどり着けましたからね!
書庫の中ではマンガはどのように分類管理されているんですか?
「一般の図書館の場合、すでに決まった分類法がありますけど、マンガの場合はそういうものがありませんので、父が独自に考えた分類法をとっています。といってもそれほど大げさなことではなくて、まず本の大きさ別に分けて、それを作家別に50音順、さらに作品別に50音順に並べるというものです。
蔵書が当時の6倍に増えた現在もその方法で問題なく管理しておりますから、結果としてはこれがベストな方法だったのだと思っています。最近は全国に公立のマンガ図書館がいくつもオープンしていますが、そういうところから見学に来ることもありますよ」
なるほどー、内記さんご自身が図書館を作る前からご自分でマンガをコレクションされていたから、そうした管理方法もすでに身についておられたんでしょうね!
さて、ここでいよいよ手塚先生のお話をうかがいます。さっきから気になっているんですが、あの色紙にはどんないわれがあるんですか?
「あれはこの「マンガ図書館」がオープンして3日目に、突然、手塚先生がこちらへ来られて、そのときに描いていただいたものです」
突然……ですか!?
「はい。ここがオープンしたのが1978年11月1日だったんですが、そのオープンの少し前から建物の外壁に「マンガ資料館近日オープン」というような垂れ幕をさげていたんです。
手塚先生は当時から高田馬場に事務所をかまえていらっしゃいましたから、恐らく車で移動される途中でその垂れ幕をごらんになっていたんでしょうね。11月3日に突然、手塚先生がこちらへ立ち寄られたんです」
アポなしでですか!? それは何とも手塚先生らしいですね! じつはこうやって手塚先生の関係者にお話をおうかがいすると、アポなしの電撃訪問というのは手塚先生の得意ワザだったようです。締め切り間際の殺人的スケジュールの中で、絶対そんな場所にいるはずがないのに、パーティとか試写会とかに「やあやあ」と言いながら、笑顔でヒョッコリと姿を表すんだそうです。
「そういう方だったんですね(笑)。その日もそうだったようですよ。オープン直後ですから館内には一般のお客様もたくさんいらっしゃったんですが、手塚先生が見えたら、その方たちがなぜか急にサーッといなくなってしまって、しばらくして全員が色紙を買って戻ってきたそうです」
お約束の緊急サイン会ですね!
「はい。手塚先生はそれでも嫌な素振りも見せず、ものすごいスピードで色紙にマンガの絵とサインをなさっていって、しかもそれが1枚1枚全部違う絵柄だったそうなんです。それを見ていた父は「全部欲しい」と思ったそうですよ(笑)」
ぼくも欲しいです(笑)
さて「現代マンガ図書館」がこうして内記稔夫氏の手によって私設図書館としてオープンして以来30余年、蔵書の数は現在18万冊にまで増え、建物こそ小さいものの、日本でここでしか閲覧できないマンガも多数あるなど、貴重なマンガ図書館として運営が続けられている。1997年には「現代マンガ図書館」の業績に対して内記氏に「第1回手塚治虫文化賞 特別賞」が贈られた。
だがその内記稔夫氏は今年6月に亡くなった。気になる今後の運営はどうなってしまうのだろうか。ゆうこさんにお聞きした。
「それはまったく心配いりません。この図書館の蔵書は、じつは父が健在だった2009年に、すでにすべて明治大学へ寄贈していたんです。そして現在は株式会社ないきが、明治大学からの委託を受けて管理しているという形になっています」
あーっ、そうだったんですか!! 内記さんは今後のことまでちゃんと考えておられたんですね。立派な方だなぁ。では今後もこの形で運営を続けて行かれるんですね。
「いえ。明治大学は2014年にマンガ・アニメ・ゲームなどの資料を収蔵した「国際マンガ図書館」(仮称)をオープンする予定で現在、準備が進められています。ですので、そこが完成したら「現代マンガ図書館」もそちらに併合される予定なんです。
ただ、その図書館がつくられる場所もまだ未定で、現在の明治大学キャンパスがある神田駿河台なのか、来年新しくできる中野キャンパスになるのかも分かっていません」
現代マンガ図書館のホームページはこまめに要チェックということですね!
それにしても、その明治大学のマンガ図書館ができたら、この場所がなくなってしまうっていうのは寂しいなぁ。これを読まれている皆さんも、手塚先生が電撃訪問された開館当時の雰囲気をそのまま残しているこの場所に、ぜひ足を運んでみてください。
内記ゆうこさん、ありがとうございました!!
さあ、いよいよ今回の最後の目的地へ向かおう。「現代マンガ図書館」から新目白通りをさらに西へ歩き、リーガロイヤルホテル東京の前を通り過ぎたら細い路地を左折する。すると道が開けたところにあるのが早稲田大学の正門だ。
現在、キャンパスの一部が工事中だけど、この正門を入って20〜30メートルほど行った正面に立っているのが早稲田大学創立者・大隈重信の銅像である。
大隈重信は1889年10月、外務大臣だった当時、その政策に反対する過激派の青年から爆弾を投げつけられ、右足を失った。したがってこの銅像も左足で立って杖を突いたものになっている。
それにしてもナゼ、この大隈公の銅像が手塚スポットなのか!?
じつは昭和39年11月、手塚先生が、当時の早大切手研究会のためにイラストを描き下ろしていたのである。大隈公の銅像の顔がお茶の水博士になっていて、それをアトムと宇宙人(?)が見ているというイラストだ。このイラストがどういう経緯で描かれたものかは不明だけど、なんともユニークなものである。
ということで今回は、手塚マンガを末永く読みつがれるべき“古典”として、その出版に情熱をかたむけた人、マンガを貴重な文化遺産として保存することに生涯をかけた人の足跡を訪ねる、何とも意義深い散歩になりました。
でもまだ歩き足りないと思われる方は、地下鉄東西線の早稲田駅から高田馬場へ出て、高田馬場虫さんぽを続けるというのはいかがでしょう。また都電荒川線に乗って鬼子母神で下車、手塚先生がかつて住まわれていた並木ハウス見学もオススメです!
まー、しかしぼくは、たっぷり歩いてお腹がペコペコになっちゃったので、早大近くのボリューム満点の学生向け食堂で満腹になることにいたします。
今回もおつきあいくださいましてありがとうございました。ぜひまた次回の散歩でお会いいたしましょう!!