今回の虫さんぽは、ひさびさに手塚プロ本社のある町・高田馬場を歩くっ! 2009年の第1回虫さんぽで歩いたこの街だけど、今回は新たに加わった新スポットと、前回紹介できなかった、とっておきの隠れスポットをめぐります!! 手塚先生が愛した本格中華料理と心のこもった手作りの和菓子を味わい、神田川の満開の桜を見て、あのころの手塚先生の超多忙な仕事ぶりに思いをはせる……そんな舌も目も心も暖まる春の高田馬場散歩、さっそく出かけましょう!!
2009年4月に連載がスタートした『虫さんぽ』も4年目の春に突入いたしました! これもひとえにご愛読・応援してくださる皆さんと、毎回こころよく取材に応じてくださる現地の人びと、関係者の方がたのおかげです。深〜〜〜く感謝いたします!!
ということで今回は『虫さんぽ』第1回と第2回で歩いた手塚プロ本社のある街・高田馬場を再び歩くぜっ!!
今回3年ぶりに高田馬場へ戻ってきたのは、つい最近増えた新しい手塚スポットや手塚グルメを皆さんにご紹介したかったのと、川沿いを満開の桜が埋めつくすこの時期にぜひとも神田川沿いを歩きたかったからである。
手塚先生も大好きだった神田川の桜並木──今回はそんな桜色の風景に彩られた美味しくてカラフルな虫さんぽを、現地から手塚プロ直送でお届けしちゃいま〜〜〜〜〜す!!
出発地点は今回も第1回目と同じJR高田馬場駅である。鉄腕アトムのメロディの発車チャイムに出迎えられて駅を降りたら、さっそく早稲田通りを西へ向かって歩こう!
駅前のガード下に掲げられた手塚治虫壁画のいわれや、街路灯ひとつひとつに飾られた手塚キャラのプレートについては『虫さんぽ』第1回と第2回をお読みいただきたい。
それらをながめながら早稲田通りを300mほど歩くと、道路の右側に「セブンビル」が見えてくる。このビルには1976年から88年まで手塚プロが入居し、ここから数々の名作マンガが誕生していった場所である。ビルの1階には当時のままのお店で営業している喫茶店「つかさ」があり、そこのオーナーは手塚先生との思い出を今もずっと大切にされている。
な〜〜〜〜んてわずか3年前の感傷に浸っている場合じゃないぜっ! 時代は日々動いているのだ! 虫さんぽネタもどんどん更新されているのだ!! ということで今回、新たに訪ねたのはセブンビルの真向かいにある、大正14年創業の老舗和菓子屋さん「御菓子司 青柳」である。
甘いものが大好きだった手塚先生は、ときどき仕事をこっそりと抜け出してはセブンビルから道路を渡ってこちらのお店へおまんじゅうを買いに来ていたという。青柳の二代目ご主人・飯田幹夫さん(70)にお話をうかがった。
「手塚先生が甘い物が大好きだったのは有名ですが、特に和菓子がお好きだったんだそうですね。それで先生がお元気だったころはよくお店へ買いに来てくださいました。
だけどとってもお忙しい方でしたでしょう。仕事場へ買って帰って皆さんでゆっくりお茶をする時間なんてないですから、先生はいつもおひとりで見えられて「おまんじゅうくれる?」と言って、その場で召し上がって帰られるんです。うちでお茶を入れて差し上げましてね。
いろいろなものを買っていただきましたが、先生が特にお好きだったのは、そば粉入りの粒あんのおまんじゅう「更科」でした」
そんな手塚先生の和菓子好きは本物で、和菓子のみを話題にしたエッセイも書いているほどだ。以下、そのごく一部を引用してみよう。
「ぼくは(略)、小さいときから、菓子なら
「和菓子は芸術的で美しい、とはだれでもいうことだが、もうひとつ、かわいらしい、という重要な要素がある。なでてしまいたくなるような小ささ──(略)、賞味する、という言葉は本来
そして手塚先生は和菓子の魅力とマンガとを比較して、このエッセイをこう締めくくっている。
「和菓子ひとつひとつにいかに味覚をそそり、美しく温かく見せるかという技術を注ぎこむ努力、そのオリジナリティには、敬服のほかない。その創造性はぼくたちの仕事とまったく同じなのである」
(講談社版全集第397巻『手塚治虫エッセイ集第7巻』「和菓子のかわいらしさ」より。※初出「鶴のれん 秋号」1986年発行)
では再び青柳で飯田幹夫さんからお話を聞こう。
手塚先生が青柳でおまんじゅうを食べながらされた会話で、飯田さんが記憶されているお話はありますか?
「ある日、鉄腕アトムの話になりましてね、手塚先生が「鉄腕アトムは高田馬場で生まれたんです」と教えてくれたんです。
昭和16年生まれのわたしは雑誌の『鉄腕アトム』を夢中で読んで育った世代でしたが、そのころはアトムが高田馬場生まれという話はまだあまり知られていませんでしたから、わたしも初めて聞いて「へえ〜、そうなんですか!」と。そうしたら手塚先生は、次に来られたときにその話の載っている本をわざわざ持ってきて見せてくださったんですよ」 それはうれしいですね!
「はい。お忙しい方なのに、そんな何気ない会話をきちんと覚えていてくださったことに感激しました。“実るほど頭を垂れる稲穂かな”という言葉がありますが、手塚先生はまさにそんな方でしたね。律儀で腰が低くていつも笑顔で……本当の人格者というのはああいう方のことを言うんでしょう」
そして! この青柳では現在、この高田馬場生まれの鉄腕アトムの顔をデザインした、何とも“かわいらしい”栗入りのおまんじゅう「くりまんアトム」を発売している。
この商品誕生のいきさつについても飯田幹夫さんにお聞きした。
「「くりまんアトム」を最初に発売したのは2003年です。4月7日のアトムの誕生日に商店街でイベントをやることになりまして、それにちなんだオリジナル商品を作ろうという話が持ち上がり、うちでも挑戦してみようと。
しかし、おまんじゅうにアトムの焼き印を捺すだけでは面白くないですから、立体的なものにしようと苦労しましたね。
最初の試作品はアトムのマスコット人形を買ってきて、その顔を粘土に押しつけて、そこから石膏の雌型を起こして作りました。
現在はオリジナルの木型を製作してそれを使用していますが、くりまんアトムの大きさは、このマスコット人形の顔の大きさから決まったんですよ(笑)」
くりまんアトムの、食べきりサイズでちょうどいいボリューム感は絶妙ですが、この大きさにはそんな秘密があったんですね!
ところでこのくりまんアトム、最初は期間限定商品として2003年4月中の1ヵ月間のみの販売予定だったのが、大好評だったためにその後、毎年4月限定で販売されるようになり、昨年からはいよいよ通年販売されるようになったのだ。 そしてここでスクープ情報! 青柳では現在、ウランちゃんまんじゅうを試作中とのことです。発売時期はまだ未定だけど、楽しみに待とう!!
ちなみに「くりまんアトム」については、通年販売が始まった昨年9月の「虫ん坊」でも取材されています。→その記事はこちら!!
青柳でくりまんアトムと更科まんじゅうをたっぷり買いこんだぼくは再び早稲田通りを西へと歩き出す。
青柳のご主人・飯田さんのお話にも出てきたけど、2003年4月、この早稲田通りの沿道は鉄腕アトム誕生を祝うパレードの参加者と、見物に集まった人びとで埋めつくされたという。高田馬場西商店街からそのときの写真がお借りできたので紹介しよう。
パレードはコンテスト形式で開催され、優勝したのはアトムとお茶の水博士に扮した「モンキーズ」チーム。準優勝は小さな女の子たちがメルモちゃんの曲に合わせてかわいいダンスを披露した「Child Dream」に決まったということだ。ぼくはこの日、仕事だったんだよなぁ、見たかったなぁ〜。
さて、そうこうしているうちに、お昼を回ってそろそろお腹が空いてきた。何か食べるかな〜、なんて考えながらさらに歩いていると、美味しそうな中華料理店を見つけた。店名は「中国厨房 一番飯店」とある。
「よし、今日のお昼はここにするか」
な〜んて偶然を装って紹介したけど、実はこのお店も今回の目的地のひとつ、立派な手塚スポットなのである! いったいこのお店に手塚先生とどんな関わりがあるのか!? さっそく店内へ入ってみよう!!
案内されて2階の席に着く。でも店内を見回してみても特に手塚先生ゆかりの品が飾られているわけでもないし、どこに手塚先生の足跡が……と、メニューを開いた瞬間、こんな文字が目に飛び込んできた!
「特製上海焼きそば 1,380円 故・手塚治虫先生が愛した焼きそばです。先生考案の具沢山のあんかけが乗ってます。」
うおお〜〜っ! ついに発見!! ぼくはもちろん迷わずこの特製上海焼きそばを注文した。
待つことしばし、ちょうどいい具合にお腹が鳴り出したころ、特製上海焼きそばが運ばれてきた。大きなお皿にたっぷりと盛られたボリュームたっぷりのあんかけ焼きそばである。それにしても具が多すぎて麺が見えないぞ!
この焼きそばと手塚先生のいわれはもちろん気になるが、空きっ腹には勝てないので、まずはアツアツのうちにいただこう。
たっぷりと盛られた具は大小2種類のエビのそれぞれ違う赤と、飾り包丁によってタンポポのように花開いたイカの白が絶妙の彩りを見せている。また、きくらげ、しいたけ、ふくろ茸の3種類のきのこの、ひとつひとつ違う食感がエビやイカの食感と相まって、ひと口ごとに違う食感を楽しませてくれる。味と香りに独特の深みとコクがあるのは、ぜいたくに加えられたアサリのむき身と鶏肉に秘密があるのではないか。
麺はもちもちの麺の片面だけを中華鍋でカリッと焦がしてあって、そのお焦げの香ばしさがまた最高。んー、これは手塚先生ゆかりの味ということを抜きにしても大傑作の焼きそばです!!
ということで、お待たせしました! 一番飯店のご主人・山本義家さん(58)に、この特製上海焼きそばと手塚先生とのゆかりについてお聞きしましたっ!!
「正確な時期は記憶していないんですが、この特製上海焼きそばは、先代であるわたしの父(健二氏)が考案したものです。
うちの店は昭和29年に父がここ高田馬場にオープンいたしまして、その後、手塚プロがセブンビルに入居してからは、よく出前の注文をいただくようになりました。
手塚先生は八宝菜がお好きでよく注文されていたんですが、あるとき父が手塚先生から「この八宝菜を焼きそばに乗せたものができないか」というご注文をいただいたそうなんです。それで父が考案したのがこの特製上海焼きそばでした」
エビやきのこを複数使うなど、具にこだわりを感じましたけど、これにも理由があるんですか?
「はい。まずはお忙しくて食事も不規則な手塚先生にバランスのよい料理をたっぷり召し上がっていただこうということですね。
また、父は昔気質の料理人でしたから、美味しいものを作るには材料と手間を惜しむな、というのがポリシーだったんです。なので八宝菜といえば普通はニンジンが入りますが、ニンジンを入れると安っぽくなるから使わないと。赤味が欲しければエビを使えと。そんなこだわりでひとつずつ選んだ材料を使ってます。採算的には厳しいんですけどね(笑)。それから、ふくろ茸は手塚先生がお好きだったのでぜひ入れてくれというリクエストがあったそうです」
完成した焼きそばに手塚先生の感想はいかがでしたか?
「それはもう、ものすごく喜んでくださいまして、たびたびご注文いただくようになりました」
それにしても、この特製上海焼きそば、ぼくは最近までまったく知らなかったんですが。
「それもそのはずです。うちのメニューに載せたのは昨年の9月からですから」
ええ〜〜っ、そんなに最近なんですか!
「もともとこの料理は、手塚先生がご健在のころに先生だけにお出ししていた裏メニューですので、うちとしては今後も表に出す予定はまったくなかったんです。それが昨年、商店街の集まりで何気なくその話をしたところ、それはぜひ売り出すべきだと言われましてね。
でも最初は迷ったんですよ。ひいきにしていただいた手塚先生との思い出を商売にしていいものかと。
しかしその後、よくよく考えてうちだけでなく高田馬場の地域振興のためになるなら手塚先生も喜んでくださるのではないかと思うようになったんです」
それはもちろん、手塚先生ならば喜んでくださることでしょうね! 先生が健在のころは商店街のイベントにも積極的に協力し、今でも手塚プロは全国の町おこし・村おこしに協力しているんですから!!
そして何より、ぼくら手塚ファンとしては、先生が味わった味となればぜひ食べてみたいですので、一番飯店さんの英断には大感謝です!!
最後に山本さんにも手塚先生にまつわる思い出を聞いてみた。すると山本さんは「わたしは手塚先生とは出前の時にご挨拶をするくらいでしたから、大した思い出はないですが……」と前置きをされて、こんなエピソードを話してくださった。
「今でも覚えているのは、手塚先生が『陽だまりの樹』を連載されていたころのことですね。
わたしが手塚プロへ出前を持っていくと、スタッフの人たちが手塚先生を囲んで、何やら難しい顔で話し合いをされていたんです。どうやらその時代のお葬式の場面の資料がないらしく、どう描いたらいいか、ああでもない、こうでもないと真剣に議論をしてたんですね。
それを見てわたしは「わずか数コマのためにこんなに手間をかけているなんて、マンガというのは大変な仕事だな〜」と思いました。
だけど一方で、焦っているのはスタッフだけで、手塚先生は泰然とされていましたから、それもさすがだと感心しましたけどね!(笑)」
山本さん、美味しい焼きそばと楽しいお話、ありがとうございました!!
さあいよいよ今回の散歩も後半に入ります。次に向かうのは、現在の手塚プロ本社である!
一番飯店からおよそ350mほど西へ行ったところの路地を左へ折れ、そこから200mほどのところにあるのが現在の手塚プロ本社だ。
手塚プロは1976年に練馬区富士見台から前出の高田馬場セブンビルへと移ってきた。その後、セブンビルが手狭となったため、手塚先生最晩年の88年に埼玉県新座市に新たなスタジオを作り、制作部のみがまずそちらへ引っ越した。そういえばこの制作部の移転に際しては、当時、候補地として埼玉県飯能市の名前もあがっていたことは『虫さんぽ』第5回、第6回でもご紹介しましたね!
その後、手塚先生が亡くなってからも本社はしばらくセブンビルにあったが、1995年に現在の建物へ移転したのである。
建物は全面が濃いブルーのタイルでおおわれたスマートなもので、看板と壁面には鉄腕アトムの大きな絵が掲げられている。
そして見どころは半地下になった正面玄関の前に置かれているアトムの石像だ!
これは1998年4月に墓石メーカーの大野屋が創設した「こころをかたちに賞」の第1回受賞者に手塚先生が選ばれ、それを記念して大野屋から手塚プロに贈られた白御影石製の像なんだそうである。
最初は白っぽい色だったこのアトム像、年月を経るにしたがって次第に黒光りしたいい色ツヤになってきた。さすが墓石メーカー謹製ですね! 散歩の際にはぜひこのアトム像、チェックしてみてくださ〜〜〜〜い!!
さて、最後に向うのは神田川だ。神田川は『虫さんぽ』第19回で歩いた井の頭公園内の井の頭池を源流とし、杉並区、中野区を通ってこの新宿区へと流れ込む。そしてさらに皇居の北側を通り、隅田川へと注いでいる。
かつて杉並区・中野区では大雨のたびに神田川が氾濫し、周辺の住宅街を浸水させるやっかいな川だったが、2005年、環状7号線の地下に巨大な地下調整池が完成し、洪水の心配はほとんどなくなった。
そしてこの神田川流域は、都内でも有数の桜の名所となっている。普段は家やビルの谷間を流れるコンクリートで護岸された味気ない川だけど、春のほんのわずかな時期だけ、満開の桜によって桜色一色に染まるのだ!
手塚先生はそんな桜が大好きだった。以下、先生のエッセイから引用しよう。
「花のなかでなにかひとつ挙げよといわれれば、文句なくぼくはサクラの花を推す。(略)なぜサクラが好きかというと、ぼくの故郷である大阪近郊の宝塚は、サクラの名所でもあるからだ。(略)宝塚周辺には「一目千本」といわれたサクラの林もあり、パッといっせいに開花すると、はじめて春の実感が湧いたものだ。
最近でさえ、東京のお堀端あたりに咲きはじめたニュースを耳にするともうじっとしていられなくなる。そして見ないうちに散ってしまうと、俄然何日間かは、ぼくは不機嫌なのである」
(講談社版全集第397巻『手塚治虫エッセイ集第7巻』「私の好きな花 サクラ」より ※初出「草月」95号 1974年)
手塚先生がこの神田川に近いセブンビルに事務所をかまえたとき、ここが桜の名所であることを意識したかどうかは分からないが、手塚先生の運転手を昭和30年代から最晩年まで務めたSさんから、こんな話をお聞きした。
「桜が大好きだった手塚先生は、春になると「そろそろ咲くかな」「まだかな」なんていつも開花の時期を気にされていましたね。
でも仕事が忙しくてとても花見なんて出かけられませんから、車で移動する際に車窓から見る桜だけが、手塚先生の唯一の花見だったんですよ。
ですからわたしも、神田川の桜が咲いたのを確かめると、ちょっと回り道をして桜の見える道を通ったりして、後続の車が来ないのを見計らって徐行したりして、先生にお見せしたんですよ。
すると先生も「ああ、もう春だね」なんて言って、うれしそうに見てらっしゃいましたねえ……」
手塚先生が亡くなられたのは仕事場を新座の新スタジオに移してからわずか1年後の1989年2月9日のことだった。この年の春、先生は桜を見ることができなかったのだ。
それから23年、日本にはさまざまな出来事があった。良かったこと、辛かったこと、悲しかったこと──。
だけど神田川の桜は今年もまたいつものように咲きほころび、ぼくらの目を、心を潤わせてくれるだろう。
今回の散歩の終点は神田川のすぐ近くにある西武新宿線下落合駅とした。ここからは新宿まで2駅で出ることができる。
また、まだちょっと歩き足りないという人は駅前から関東バスの「江古田方面行き」(宿02系統)に乗って「南長崎二丁目」まで足をのばすというのはいかがだろう。ここで降りると『虫さんぽ』第3回と第4回で紹介したトキワ荘周辺がもう目の前だ!
それでは次回の散歩にも、ぜひまたおつきあいくださいね〜〜〜〜〜っ!!
(今回の虫さんぽ、3時間44分、2934歩)
取材協力/御菓子司 青柳、中国厨房 一番飯店、高田馬場西商店街(順不同・敬称略)
黒沢哲哉
1957年東京生まれ。マンガ原作家、フリーライター。手塚マンガとの出会いは『鉄腕アトム』。以来40数年にわたり昭和のマンガと駄菓子屋おもちゃを収集。昭和レトロ関連の単行本や記事等を多数手がける。手塚治虫ファンクラブ(第1期)会員番号364番