今回の虫さんぽは北関東、茨城県石岡市を歩くっ!! しかしまたなぜこの地を訪れたのか? じつはここの古〜い神社で、去年から『火の鳥』の絵柄の入った絵馬とお守りが入手できるらしいのだ。石岡市と火の鳥……そこにはいったいどんな関係が!? しかもこの町には『陽だまりの樹』に登場した手塚先生の祖先・手塚良庵の親戚のお墓もあるという。手塚ファンにとってはますます気になる石岡市! いったいどんなところなんだ石岡市!! さっそく散歩に出かけようぜっ!!
JR上野駅から特急「フレッシュひたち」に乗り、常磐線を北上することおよそ52分、車窓にのどかな田園風景が広がってきたころに、列車は石岡駅に到着した。
今回ぼくがここを訪れたのは昨年末のことだ。年の瀬の何かとあわただしい時期だったけど、この広々とした風景を見渡すと、日々の仕事も忘れてホッとひと息つける感じがいたします。
それにしても東京からも手塚先生の故郷である兵庫県の宝塚市からもはるか離れたこの地に、手塚先生とどんな関係があるのか!?
その謎を探るべく、ぼくはまず清凉寺というお寺へ向かった。
石岡駅前の道を西へ向かって歩くと、間もなく二車線の道路に突き当たる。国道355号線だ。この道をぶらぶらと南下して300メートルほど行った先の細い路地を右へ曲がると古いお寺がある。ここが今回の虫さんぽ最初の手塚スポット「清凉寺」だっ!
正式な名称は曹洞宗興国山清凉寺。2001年に開山500年を迎えた由緒あるお寺である。
そしてじつはこのお寺には、手塚先生の祖先である手塚良庵の従兄弟・手塚良運のお墓があるというのだ。しかもその事実が判明したのは、つい最近、なんと1998年のことらしい。
江戸時代からはるか時をへだてた平成の時代に、いったいどのような経緯でそれが明らかになったのか!? その良運のお墓について取材する前に、まずは手塚先生の直接の祖先である手塚良庵について、ざっとおさらいしておこう。
手塚良庵は江戸時代末期、江戸小石川三百坂に暮らし、府中藩の藩医として松平播磨守に仕えた。若いころは大阪で緒方洪庵が開いていた適塾の門下生として福沢諭吉と机を並べて蘭学の勉強に励み、江戸へ帰ってからは父・良仙とともに種痘所の開設に尽力した。晩年は明治政府が設立した軍の歩兵駐屯所医師となるが、出征先の大阪で赤痢にかかり病死した。
この手塚良仙・良庵父子のことは長く歴史の中に埋もれていたが、医史学の研究をされている深瀬泰旦先生が1979年から81年にかけて発表した論文で初めてその事実が明るみに出たのである。
またその深瀬先生の研究の過程で手塚良庵が手塚先生の祖先であることも判明する。
そんなこんなで1981年、手塚先生は良庵を主人公とした大河マンガ『陽だまりの樹』を描いたのである。
このあたりの経緯については、過去の虫さんぽとコラムで詳しく紹介しているのでぜひそちらを参照していただきたい。
『陽だまりの樹』関連記事
・虫さんぽ 第20回:神奈川県川崎市散歩
・虫さんぽ 第22回:東京都内『陽だまりの樹』散歩
・手塚マンガあの日あの時 第22回:逆引き版『陽だまりの樹』創作秘話
さて、お待たせしました。ふたたび石岡市の清凉寺である。このお寺に眠る手塚良運について、住職の曽根田隆光(そねたりゅうこう)氏に話をうかがおう。
曽根田住職、このお寺に手塚治虫の遠縁にあたる良運のお墓があるということが判明したのは平成になってからということですが、いったいどういう経緯でそれが明らかになったんですか!?
「わかったのは1998年のことです。当時、当山では開山500年記念行事のひとつとして寺史を編さんしておりましてね。その過程で、ある日、茨城県立歴史館の主任研究員の方からこんなことを言われたんです。「寺の過去帳に手塚良運という人物の名前があるが、これはもしかしたらマンガ家の手塚治虫にゆかりのある人物かもしれない」と」
曽根田住職は、最初にその話を聞いてどう思われましたか?
「最初は半信半疑でしたよ(笑)。手塚先生のお名前はもちろん知っていましたが、『陽だまりの樹』というマンガは知りませんでしたから。
しかし手塚先生の祖先がここ石岡市の府中藩に仕えていた侍医だったということを聞いて、ならばその手塚姓の人物が手塚先生の血縁者である可能性もあると思い、すぐに手塚プロに連絡を取ってみたんです。
そうしましたところ手塚プロから、手塚先生の祖先について研究されている深瀬泰旦先生をご紹介いただきまして。深瀬先生がお持ちの手塚家の家系図と、当山に保管されている過去帳とが合致したことから、手塚良運は間違いなく手塚家の血縁にあたる人物だということが明らかになったんです」
うおお、なんと見事に無駄のない展開ですね! それで曽根田住職、判明した手塚良運という人は、いったいどんな人物だったんですか? 気になります!!
「はい。『陽だまりの樹』の主人公として描かれた手塚良庵(三代目手塚良仙)の父・良仙光照には女姉妹がおりまして、その女性は府中藩医を婿に取り小石川同心町に分家したんだそうです。その長男として生まれたのが当山に埋葬されている手塚良運でした。ですので手塚良庵とは従兄弟という関係になりますね。
良運は長州藩の侍医で蘭方医だった坪井信道のもとでオランダ医学を学び、府中藩の侍医となりました。
その後、明治時代になって小石川から石岡の鹿の子に移住し、1873年に45歳で亡くなったんです」
しかし曽根田住職、手塚先生の一族のお墓は豊島区にあるのに、なぜ良運はここ石岡に埋葬されたんでしょう。
「良運の祖父の兄弟が清凉寺で僧になっておりますので、恐らくその縁でここに埋葬されたものと推測しています」
なるほどー、よく分かりました! それにしても、こうして曽根田住職や県立歴史館の研究員さん、深瀬先生などが調べてくださったおかげで、またひとつ手塚先生のルーツの一端が明らかになったわけです。曽根田住職、本当にありがとうございましたっっ!!
清凉寺を後にしたぼくは、ふたたび国道355号線を北へ向かって歩く。そして駅へ向かう道の少し手前で路地を左へ折れ、しばらく歩くと、突き当たりに石岡小学校が見えてくる。
この小学校の敷地あたりに、かつて府中藩の陣屋があり、当時使われていた門=陣屋門がそのままの姿で保存されているというのだ。
陣屋とは小藩の大名の居所のことである。といっても当時、大名自身は江戸で暮らさなければいけない決まりになっていたから、江戸に立派なお屋敷を構えていた。そして陣屋には普段は郡奉行などの役人が住んでいたのだ。
直接の手塚スポットではないけど、手塚良庵や良運が生きて活躍していた時代の建築物なのだ。手塚良運もその門を一度ならずくぐったはずである。これはぜひ見て帰らなくちゃ!
住宅街を抜ける路地は昔の道そのままらしく、細くうねうねと曲がりくねっていて分かりにくいが、地図を頼りに向かったら、その場所はすぐに見つかった。
がっ! なんと陣屋門は保存修理工事中で解体され、跡形もなくなっていた。石岡市の生涯学習課に電話で問い合せたところ、2016年に別の場所に移築して再公開される予定だそうである。むむむ、残念っっ!!
気を取り直して次なる手塚スポットへと向かおう。お寺の次は神社だぜ〜〜〜〜っ!!
ということで、石岡小学校から路地まで戻り、住宅街の中を100メートルほど南下すると、右手に大きな石灯籠と西へまっすぐに延びた長ーい参道が見えてくる。この神社「常陸国総社宮(ひたちのくにそうしゃぐう)」こそが次なる手塚スポットなのである!!
お寺が手塚スポットというのも変わっていたけど今度は神社??? いったいどういうことなのか〜〜〜〜っ!?
説明しよう! 昨年2013年、この常陸国総社宮と手塚プロダクションの奇跡のコラボレーションが実現。この神社で手塚先生の『火の鳥』の絵柄が入った絵馬とお守りを扱うようになったのだっ!!
だけど、そもそもマンガの神様が神社とコラボするなんてあり得るのか? しかもなぜ火の鳥!? 頭の中は疑問だらけである。
われわれ虫さんぽ隊は、さっそく境内へ突入し、常陸国総社宮の
※崎の字は正しくは山へんに竒。
石崎さん、さっそくですが、今回の『火の鳥』の絵馬とお守りの企画は、いったいどのような経緯で実現したんですか!?
「ここ石岡市は歴史の町で、古くは古代の古墳から近世・近代の歴史的建造物まで、数多くの歴史遺産が残されているんです。
ところが残念ながら、そのことがいまいち全国的にはあまり知られていません。
私はそのことをずっと残念に思っていましてね。そんな折、昨年2013年が常陸国風土記の編さんが始まってちょうど1300年目となる年だったものですから、市内でさまざまな催しが企画されていたんです。
そこでその一環として、総社宮(うち)でも何かできないかと考えて、ひらめいたのが手塚先生の『火の鳥』とのコラボだったんです」
でも石崎さん、それだけではまだ『火の鳥』とこちらの神社とが結びつかないんですが……。
「ははは、そうですよね。そもそも風土記というのは、日本各地の気候や文化・風土などを記録した朝廷への報告書だったんです。それを作れという詔が1300年前の713年(奈良時代)に天皇から出されたんですね。
ですから風土記は、当時かなりの数が編さんされたのですが、現存しているのは常陸国風土記を含めてわずかに5つだけなんです。
その貴重な常陸国風土記には、手塚先生のマンガ『火の鳥』にも登場する日本武尊(ヤマト・タケル)のことが詳しく書かれています(※)。また総社宮の境内には、日本武尊が東国を旅した際に腰を掛けて休まれたと言い伝えられている腰掛石もあります。
そこで『火の鳥』とコラボできないかと考えたわけです」
※石崎さんによれば、常陸国風土記には「倭武天皇」と表記されているそうですが、常陸国総社宮では「日本武尊」と表記しているとのことです。また、日本武尊をカタカナで表記する場合、通常は黒点を入れないで「ヤマトタケル」としますが、このコラムでは手塚先生の『火の鳥』に合わせて「ヤマト・タケル」で統一させていただきました。
なるほど! ヤマト・タケルから『火の鳥』ですか!! 石崎さん、やっと分かりました。
「私は現在35歳で、もろにアニメとマンガで育った世代ですので、そこからの発想だったんです。
子どものころは車田正美の『聖闘士星矢』とか、ゆうきまさみの『機動警察パトレイバー』が大好きで単行本を買い揃えていました。手塚先生の作品では『ブラック・ジャック』を夢中になって読んでいました。
もっとも、最初は単なる思いつきで、本当に実現するとは夢にも思っていませんでした。しかし一方で、手塚先生の遠縁にあたる手塚良運のお墓も石岡市にあるし、まったく無縁ではないだろうということで、当たって砕けろくらいの気持ちで手塚プロに打診したんですよ」
その結果、OKが出たときにはどう思われましたか?
「うれしかったですね。手塚プロさんは特定の宗教には協力しないとうかがっておりましたので難しいかなとも考えていましたから。しかし手塚プロのご担当者さんによると、今回は石岡市の町おこしの一環としてご了承いただいたということでした。
そしてさっそく昨年9月の例大祭から『火の鳥』の絵馬とお守りの領布を開始させていただいたのです」
最初の反響はどうでしたか?
「地元の新聞が記事として取り上げてくださいましたので、すぐにその影響がありました。「『火の鳥』のお守りがあるって聞いたんですけど」という問い合わせの電話などですね。またフェイスブックやツイッターでも話題になっていたようです」
歴史ある神社がマンガのキャラクターをあつかうということで批判の声などはありませんでしたか?
「最初は、ある程度の批判は覚悟していました。ところがむしろ神社にお詳しい方がたの方が積極的に賛同してくださったので驚きました。
私の父で宮司の石崎雅比古も、この企画を話したときはとくに何も意見は申していなかったのですが、反対もされませんでしたので、無言で私の背中を押してくれていたんではないでしょうか。
それに今はもうマンガ、イコール悪書という時代じゃありませんから。手塚先生は世界的なクリエイターで日本の歴史に1ページを刻んだ方なんですからね」
おっしゃる通りです! 石崎貴比古さん、ありがとうございましたっっ!!
さて、今回の石岡市さんぽはこれで終わりなんだけど、ここから車で30分ほど北上した茨城県水戸市の“とある公園”に、手塚マンガに登場したキャラクターとも関わりのある“あるもの”があるというんで前から気になっていたので、ついでにそこまで足をのばしてみることにした。
しかもそれは石崎さんの話に出てきた「常陸国風土記」とも関係があるという。それはいったい何なのか〜〜〜〜っ!?
石岡市から車で常磐自動車道を北上。友部ジャンクションで北関東自動車道へ入り、4つ目のインターチェンジとなる水戸大洗ICで高速を降りる。するとそこからわずか3分の場所にあるのが、今回の最後の目的地「大串貝塚ふれあい公園」である。
大串貝塚ふれあい公園は、国指定遺跡である大串貝塚周辺を整備して平成3年にオープンした公園だそうで、古墳時代の住居が復元されていたり、ここで発掘された埋蔵物を展示した施設があったりして、公園全体が歴史を見て触って学べる学習施設になっているのだ。
そして! 駐車場に車を止め、公園の方へ向かって歩き出すと、見えてきました。広場の真ん中にデデーンと座っている高さ15メートル25センチもある巨大な像の背中が! これが、今回見に来た巨人ダイダラボウの像なのだっっ!!
ダイダラボウとは、この地方に昔から言い伝えられている伝説の巨人の名前で「常陸国風土記」にはダイダラボウについて次のような記述があるという。
「その体はきわめて大きく、丘の上にいながら、その手は海辺まで伸びて貝をほじくり、その食べた貝がらが積もり積もって丘となった」
それが大串貝塚のいわれだと「常陸国風土記」は伝えているのである。
またじつは、これと似た巨人伝説は日本全国にあって、地域によってデーダラボウとか、ダイダラボッチなどさまざまな呼び方がされている。
しかもどの言い伝えもデタラメなほどスケールが大きいのが特徴だ。大きな池や沼がダイダラボウの足跡だと言われるのがもっとも一般的で、ほかにはダイダラボッチは筑波山に腰かけて霞ヶ浦で足を洗ったとか、筑波山と富士山の重さをくらべるために両方をてんびん棒に乗せてかついだなどという言い伝えも残されている。
手塚マンガでは『鬼丸大将』に、この「だいだらぼっち」を名乗る怪力の大男が登場している。
ただし『鬼丸大将』に出てくるだいだらぼっちは、伝説に出てくるほどのべらぼうな巨人ではないので、大男であるために後からつけられたニックネームのようなものだろう。
ということで今回も真冬の一日、虫さんぽにおつきあいくださいましてありがとうございます。本日はこの公園を終点として散歩を終えたいと思います。ぜひまた次回の散歩にもおつきあいください。解散っっ!! みんな風邪引くなよ〜〜っ!!