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虫ん坊 2012年09月号:手塚マンガあの日あの時 第24回:手塚治虫、アニメにかけた情熱のルーツを探る!!

虫ん坊 2012年09月号:手塚マンガあの日あの時 第24回:手塚治虫、アニメにかけた情熱のルーツを探る!!

 手塚治虫は、アニメーションの製作に、ときにはマンガ以上の情熱を注いでいた。先ごろ公開された映画『アニメ師・杉井ギサブロー』の中では、手塚が「アニメを作ることには造物主の優越感がある」と語った映像が引用されていた。自分の描いた絵がまるで生命を吹きこまれたかのように動き出す! 幼いころ、そんなアニメの魅力にとりつかれたひとりの少年が、やがて虫プロを設立し、その夢を実現した。今回はそんな手塚少年のアニメとの出会いから、「自分もアニメを作りたい!」という夢を抱くまでの「あの日あの時」を振り返ります!



◎B・Jに登場したアニメ青年!

虫ん坊 2012年09月号:手塚マンガあの日あの時 第24回:手塚治虫、アニメにかけた情熱のルーツを探る!!

講談社版全集第55巻『フィルムは生きている』。初出は1958年の雑誌『中一コース』4月号から、翌59年の『中二コース』8月号まで連載されたもの

 1978年に発表された『ブラック・ジャック』第224話「動けソロモン」は、プールでおぼれかけたピノコがアニメーターの青年に助けられるというお話だった。
 青年はアニメ製作会社で動画を担当していた。青年は自分のまかされた“ソロモン”という名前のライオンを生き生きと動かしたいと、500枚の動画にして会社へ持っていった。だが社長は「これでは費用がかかりすぎて商売にならない」と言ってその動画をボツにする。
 このエピソードに出てきたアニメーターの青年は、これより20年前の1958年に発表された作品『フィルムは生きている』でもアニメーターを演じていた。そしてこちらのお話も、アニメーションの製作に情熱をそそぐふたりの青年を、宮本武蔵と佐々木小次郎の巌流島の対決になぞらえて描いた熱血ストーリーだったのだ。
 両作品とも、アニメへのつきせぬ思いから生まれた傑作と言えましょう。


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虫ん坊 2012年09月号:手塚マンガあの日あの時 第24回:手塚治虫、アニメにかけた情熱のルーツを探る!!

『ブラック・ジャック』の第224話「動けソロモン」は、講談社版全集では第166巻『ブラック・ジャック』第16巻に収録されている。『フィルムは生きている』に登場する宮本武蔵のライバル、佐々木小次郎もワンカット出演しているのでご注目!


◎マンガは本妻、アニメーションは愛人

 そんなマンガ執筆とアニメ製作の二足のわらじをはき続けていた手塚は、かつてインタビューなどで「自分にとってマンガとアニメは何か」と問われると、いつもこう答えていた。
「マンガは“本妻”、アニメーションは“愛人”なんです」
 リードでも紹介した、アニメ監督・杉井ギサブローの半生を追ったドキュメンタリー映画『アニメ師・杉井ギサブロー』の中にも、手塚がこの言葉を語っている映像がおさめられていた。
 話は脱線するけど、名前が出たのでここで杉井ギサブロー監督についてざっと紹介しておこう。
 杉井ギサブローは1958年、18歳で東映動画に入社し、アニメーターとして仕事を始めた。その後1961年、手塚が立ち上げた虫プロに参加。『悟空の大冒険』『どろろ』などで異色の演出が注目された。
 虫プロ倒産後、虫プロ出身の田代敦巳が立ち上げたグループタックで仕事を始めた杉井は、1980年代半ばには、あだち充原作の青春アニメ『タッチ』を総監督。このテレビアニメは社会現象ともいえる一大ブームを巻き起こした。


◎グスコーブドリの伝記がつなぐ師弟愛!

 そして今年2012年7月には、杉井が監督・脚本を担当した劇場アニメ『グスコーブドリの伝記』が公開された。
 同題の宮沢賢治の童話を原作としたこのアニメ映画は、もともとはグループタックが製作していた。しかしその製作のさなかに代表の田代が亡くなり、グループタックは倒産してしまった。そのため一時はお蔵入りになりかけたが、手塚プロが製作を引き継ぐことになり、無事公開にこぎつけたのだ。
 手塚のもとでアニメを学んだ杉井が情熱を注いだ作品がお蔵入りになりかけた。その製作をめぐりめぐって手塚プロが引き受けた。アニメ業界は狭いとはいえ、こうした不思議な縁の根底には、亡き手塚先生の思いが働いていたとしか思えません。


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ドキュメンタリー映画『アニメ師・杉井ギサブロー』のチラシ。監督はアンダーグラウンドな世界のドキュメンタリーを多く手がけてきた石岡正人。杉井はこの映画の中で手塚治虫からの影響を大いに語っており、また懐かしい手塚のインタビュー映像や虫プロのアニメ映像も満載だ。公開館が少ないので、公式サイトでチェックして、お近くで上映されていたらぜひご覧になってみてください。手塚アニメファンは必見の映画です。公式サイト→映画『アニメ師・杉井ギサブロー』公式サイト

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杉井ギサブローが監督した最新の劇場アニメーション映画『グスコーブドリの伝記』のチラシ。宮崎駿のアニメーションともまたひと味違った、幻想的なファンタジーの世界観が何とも心地いい映画でした!


◎アニメーションは手塚の幼なじみ!

 さて、話を元に戻そう。「マンガは“本妻”、アニメーションは“愛人”」という手塚の言葉である。
 ここにはマンガとアニメに対する距離感の違いや、つきあい方、お金のかかり方(笑)など、両者に対する思いがひとことでスパッと説明されている。まさに名文句と言えるだろう。
 だけどここでぼくがもうひとつ付け加えさせてもらうと、この手塚の愛人であるアニメは、じつは本妻と同じくらい長いつきあいの“幼なじみ”でもあったのだ。


◎漫画映画大会でアニメ初体験

 手塚がアニメを初めて見たのは小学生のころのことだという。
「大阪の朝日会館で、毎年正月に漫画映画大会をやる。それを母に連れられて正月三日に観にいくのが、わが家の恒例であった。「ポパイ」や「ベティ・ブープ」ものといっしょに、当時まだ珍しかったディズニーのカラー漫画をやっていた」(講談社版全集第383巻『手塚治虫エッセイ集1』より)
 そしてそんな中で手塚はミッキーマウスとも出会った。以下、別のエッセイより。
「小学校二年生のとき、ぼくはマンガ映画大会ではじめてミッキーマウスに対面した。そしてパテー・ベビーという古めかしい家庭用映写機を父が買ってきて、フィルムの何本かを揃えたとき、そのうちの一本は『ミッキーの突進列車』であった」(講談社版全集第387巻『手塚治虫エッセイ集2』「ウォルト・ディズニー -マンガ映画の王者-」より)


ベティ・ブープを生んだフライシャー兄弟の兄、マックス・フライシャーの仕事と生涯を振り返った伝記本。著者はマックス・フライシャーの息子で映画監督のリチャード・フライシャー。リチャード・フライシャーが監督した特撮映画『ミクロの決死圏』は、手塚治虫のマンガ『吸血魔団』(1948年)と、それを元にテレビアニメ化した『鉄腕アトム』「細菌部隊の巻」(1964年)をヒントにしたとも言われていて手塚マンガとも縁がある

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こちらは手塚の『リボンの騎士』のサファイア。サファイアの髪の毛がツンツンととがっているところは、ぼくは明らかにベティ・ブープの影響だと思うんですけどいかがでしょう


◎自宅アニメ劇場の思い出

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1923年パテ・ベビー映写機の広告(※Wikipediaより引用)

 この『ミッキーの突進列車』というフィルムは、当時としてはデラックスなサウンド版だったそうで、手塚はさらに別のエッセイでそのしくみについて詳しく書いている。
「これ(『ミッキーの突進列車』)にはレコードがついていて、いざ映写を始めるという時に、ワンツースリーでレコードに針をのせる。すると、画の動きの伴奏やセリフを、レコードがやってくれるのである。だんだん画と音とがずれてくるのだが、うまくしたもので、ハンドルをガシャガシャ回しながら映す手動式の機械だったから、ハンドルを適当に加減するとまた音があってくる」(講談社版全集第387巻『手塚治虫エッセイ集2』「わがアニメ狂いの記」より)
 当時の映写機はひじょうに高価だったし、うっかり触ると火傷をしてしまうから、子どもには絶対に触らせてもらえなかった。
 だから手塚少年も、父親が映写機を操作している様子を、尊敬と羨望のまなざしで横からジーッと観察していたのだろう。そんな手塚家の上映会の様子が目に浮かんでくるような文章だ。


◎手塚マンガが丸っこい絵になった理由

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手塚治虫がアニメ技法について語ったエッセイの中に挿入したイラスト。円と曲線を基本としたクラシカルなアニメーション表現のイメージが端的に語られている(講談社版全集第387巻『手塚治虫エッセイ集』第2巻「アニメーションは“動き”を描く」より[初出は『12人の作家によるアニメーションフィルムの作り方』1980年、主婦と生活社刊])

 この漫画映画大会とパテー・ベビーでのミッキーマウスとの出会い以後、手塚はあの曲線を基本とした丸っこい絵柄にたちまち魅せられていった。手塚はこの丸っこい絵柄を「ぬいぐるみスタイル」と呼んでいる。
「ぼくは、はじめ田河水泡氏と横山隆一氏のマンガに私淑していた。それがディズニーに傾倒してからというものは、俄然、このぬいぐるみスタイルを必死になって模写し修得して、とうとういまの画風になってしまった」(前出「ウォルト・ディズニー -マンガ映画の王者-」より)
 手塚によれば、ディズニーに限らず当時のアニメーションがこうした丸っこい絵柄を採用していた理由は次のようなものだっという。「動きをギクシャクさせずスムーズに見せるためには、円運動を基本としたアクションが必要であり、それにはあのスタイルが、もっとも便利だからなのだ」(同エッセイより)。


◎中国初の長編アニメーションに大感激!

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『西遊記 鐵翁公主の巻』より。孫悟空はなかなかヤンチャそうな顔をしているが、実際もかなりとんでもないことをしでかすいたずら者だ。右下は牛魔王が自家用車のようにして使っている恐竜

 こうして次第に“漫画映画”に夢中になっていった手塚少年に、さらなる衝撃を与える作品が登場する。それは日中戦争のさなかの1942年(昭和17年)に日本で公開された。中国アニメ『西遊記 鐵翁公主の巻』(1941年製作)である。
 これは『西遊記』の中の牛魔王のくだりをアニメーション化した73分の作品で、中国初にして東洋初の長編アニメーション作品だった。
 作ったのは籟鳴(らいめい)・古蟾(こせん)・超鹿(ちょうか)の萬(はん)兄弟。彼らはこれより前の1926年に『アトリエ騒動』という中国初のアニメーション作品を作ったが、残念ながらこちらのフィルムは現存していない。
 お話は火焔山へやってきた孫悟空らの一行が、牛魔王とその妻・羅刹を相手に丁々発止の妖術合戦をくりひろげるというものだ。


◎『ぼくの孫悟空』のルーツはこれ!

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手塚治虫のマンガ『ぼくの孫悟空』は、雑誌『漫画王』に1952年から1959年にかけて連載された長編作品だ。これは「火焔山のたたかい」のエピソードを丸々収録した『漫画王』1954年5月号別冊付録(※画像は復刻版)

『西遊記 鐵翁公主の巻』は、手塚少年にとって相当大きなインパクトがあったようで、それから10年後に手塚が『ぼくの孫悟空』を描いた際にも、いまだにその影響から抜けきれなかったということを告白している。
「『ぼくの孫悟空』には、この『鉄扇公主』の影響がかなりつよくでています。ことに「火焔山と牛魔王」のくだりは、はらいのけようと思ってもあのアニメのイメージが心にちらついて、とうとう、ほとんどイミテーションにちかいものになってしまったくらいです」(講談社版全集第19巻『ぼくの孫悟空』第8巻あとがきより)
 両者を見くらべてみると確かに『ぼくの孫悟空』のコマ運びや構図、キャラクターの造形など、随所にこのアニメーションの影響が見て取れて面白い。


◎独自の技法をきわめた東洋タッチの傑作

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火焔山の炎の中で戦う孫悟空と牛魔王。『西遊記 鐵翁公主の巻』の展開と確かによく似ている

 実際、『西遊記 鐵翁公主の巻』は当時としてはかなり画期的な作品だった。  西洋アニメの影響と思われるバタ臭いギャグが随所に散りばめられている一方で、悟空たちにせまりくる炎や風の表現には独自の工夫がある。立体感を見せながらメラメラと前後に揺れ動く炎などは、その熱気さえ感じられるほどだ。
 また時代的に見ても、ディズニーが世界初のカラー長編アニメーション『白雪姫』を公開したのが1937年のことだから、それからわずか4年後ということを考えると、これはかなり驚いていいだろう。
 しかもディズニーの『白雪姫』が日本で初めて公開されたのは太平洋戦争が終わって5年後の1950年のことだから、手塚少年も、この時点では『白雪姫』はまだ観ていなかったのだ。
 ちなみに手塚はさらに後年、虫プロでもテレビアニメ『悟空の大冒険』(1967年、フジテレビ)を製作しているが、こちらは前の方で紹介したように杉井ギサブローが総監督を担当した。
 杉井は手塚から「好きにやっていい」という言葉を得て、その通りの型破りでハチャメチャな演出を試みた。そのシュールでサイケでブッ飛んだ演出は、いま観てもかなり先を行っているものだ。


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虫プロが製作したテレビアニメ『悟空の大冒険』の放映当時、文具店などで売られていたサンスター文具のビニール製パス

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『西遊記 鐵翁公主の巻』に出てきたような恐竜も登場!


◎終戦間際に出会った幻の傑作アニメ!

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『桃太郎 海の神兵』より。海軍省が全面的に協力しているだけあって、ファンタジーな映像の中で、兵器の描写が妙に生々しいのが恐ろしい。しかし右下のカット、お猿の水兵さんが草原でくつろいでいると、タンポポの綿毛が風に飛ばされてフワフワと舞っていく。その平和なシーンに一転、軍用機の爆音と落下傘降下の音声がダブる。そこでお猿の水兵さんはフッと顔を曇らせる。そんな密かな戦争批判が込められているシーンも数多い

 そして手塚のアニメーションへの思いを決定的とする作品との出会いがあったのは、太平洋戦争の末期、日本が連日空襲にさらされているころだった。
 タイトルは『桃太郎 海の神兵』。1945年4月12日、終戦のわずか4ヵ月前に封切られた上映時間74分のこの長編アニメーションは、当時の松竹動画研究所が、海軍省からの依頼を受けて製作した国策映画だった。
 国策映画というのは、国威発揚を目的としたプロパガンダ映画のこと。つまり日本軍の戦争を正当化し、市民の戦意をあおるためにつくられた映画ということだ。
 したがってお話の中には日本の戦争を賛美する表現や、逆にアメリカやイギリスなどを卑怯で野蛮な敵国としておとしめる表現が随所に出てくる。
 だけど当時としてはこれはもうどうしようもないことであり、製作者たちはその限られた条件の中で、子どもたちに夢を届けようと必死になって努力している様子もうかがえる貴重な作品となっていた。
 監督は戦前の1930年代から自身の動画スタジオを持って漫画映画の製作を行っていた瀬尾光世。そのほか原画/桑田良太郎、音楽/古関裕而、作詞/サトウ・ハチローなど、当時の最高のスタッフが集結していた。
 しかしこの映画が封切られたのは前述したように終戦間際のことであり、日本はすでに完全な負け戦となっていた。都市部では連日激しい空襲があり、製作者たちがこの作品をもっとも観てもらいたいと願っていた子どもたちは、田舎に疎開して、すでに都会からは子どもの姿がほとんど消えていたのである。


◎アニメ映画製作を決意する!

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同じく『桃太郎 海の神兵』より。里山の自然の美しさを描いた場面や、年少者や小動物を愛する場面など、敗戦直前とは思えない平和な場面も数多い。右下は捕虜となった敵国の将校たち。あくまでも卑怯で言い訳に終始するぶざまなキャラクターとして描かれている

 そんな中、当時旧制中学の学生だった手塚は、勤労動員の工場を休んで大阪・道頓堀の映画館へ行き、この映画を観た。以下、エッセイからの引用。
「ぼくは焼け残った松竹座の、ひえびえとした客席でこれを観た。観ていて泣けてしょうがなかった。感激のあまり涙が出てしまったのである。前編にあふれた叙情性と童心が、希望も夢も消えてミイラのようになってしまったぼくの心を、暖かい光で照らしてくれたのだ。
「おれは漫画映画をつくるぞ」
 と、ぼくは誓った。
「一生に一本でもいい。どんなに苦労したって、おれの漫画映画をつくって、この感激を子供たちに伝えてやる」」(講談社版全集第383巻『手塚治虫エッセイ集1』より)
 手塚のアニメ製作への思いが決定的となった瞬間だった。
 ちなみにこの『桃太郎 海の神兵』のフィルムは戦後、占領軍によって焼却され幻のフィルムになっていたと思われていた。ところが1982年、松竹の倉庫でネガが見つかり、37年ぶりに劇場公開されたのである。
 その後、テレビで放送されたりビデオソフト化もされているが、DVDソフトにはなっておらず現在は絶版となっている。貴重な文化遺産として、ソフト化していつでも観られる状態にしていただきたい。


◎アニメーターに押しかけ志願! だが……

フライシャー兄弟の 『ガリヴァー旅行記』は現在DVDソフトで観ることができる。このIVC版は映画評論家・淀川長治氏の映像解説入りだ (発売元:アイ・ヴィー・シー 定価:(税込):3675円)

 戦争が終わると、有言実行の男・手塚治虫はただちに行動を起こした。芦田巌という、当時数少ないマンガ映画スタジオを持つアニメ作家のもとを訪ね、弟子入りを志願したのだ。以下、手塚の文章から。
「昭和二十一年に上京した際、ふらりとあるマンガ映画プロダクションへ飛び込んで「僕を使って下さい」と執拗に頼み込んだ。
「だめだ、君は映画に向かん」と所長は、私の作品を見ていった。
「実力がありませんか?」がっかりしてきくと、
「一度、出版界の味をしめてしまうと、報酬その他、割りがいいもんだから、ケタ違いに不利な動画などは、とても作る気になれないよ」
「縁の下の力持ちで何でもやります。やとって下さい」
「あきらめるんだな」
 私はがっかりして、以後、マンガ映画をつくることなど、すっかり忘れてしまった」(『東京新聞』「私の人生劇場」昭和42年11月3日[山口且訓・渡辺泰共著『日本アニメーション映画史』1977年有文社刊]より孫引用)
 昭和21年(1946年)といえば、手塚の出世作となった『新寶島』(1946年1月、育英出版)が刊行される直前である。もしもこのとき芦田が手塚をアニメーターとして採用していたら……後のマンガ家・手塚治虫は存在していなかったかも知れない!?

◎届かないアニメへのラブレター

 と、それはともかく、ここでアニメ作家への夢をいったん断ち切られた手塚は、やむなく(?)マンガに打ちこむことになる。
 しかし、当然のことながらアニメへの思いを完全に忘れてしまうことはできなかった。しかもこのころは、戦争でずっと輸入されていなかった戦前のアニメーションが日本に続々と入ってきており、また新作アニメーションなど、海外の優れた作品が山のように公開されていたのだ。
 もともとマンガの中に世相を引用するのが大好きな手塚先生だ。それが片想いの相手のアニメとなればなおさらだ。
 手塚はあるアニメを見ては、すぐそれに感化され、そのギャグをマンガの中に取り込んだ。またほかの作品を見て感激しては、その動きを再生するようにマンガ化した。
 いわばこの時期の手塚マンガというのは、アニメへの断ちがたい恋心(しかも片想いの!)を描いた、決して相手に届かない、悲しい悲しいラブレターなのである!


◎戦後のアニメ体験が手塚マンガを育てた

同『ガリヴァー旅行記』より。右上の3人組が本文でふれたボンボ国のスパイたちだ。そして右下が、手塚のキャラクター造形に影響を与えたという小人国の人びと

 その一例をあげてみよう。1948年7月、手塚は『假面の冒險兒』というヨーロッパ童話調の冒険活劇マンガを発表している。
 そしてこの作品を描く直前、手塚は出版社の社長から「もう少し子どもマンガ風の絵で描いてもらいたい」という注文を受けていた。
 しかし……そうは言われたものの、子どもマンガ風の絵とはどのようなものなのか。悩んだ手塚がヒントをつかんだのが、ちょうどこの年の4月に公開されたアニメーション映画『ガリヴァー旅行記』を観たときだった。
『ガリヴァー旅行記』は、『ポパイ』や『ベティ・ブープ』で知られるフライシャー兄弟が1939年に発表した作品だが、戦争のため日本ではずっと公開されていなかったのだ。
「『ガリヴァー旅行記』の小人達のコロコロしたキャラクターは、たしかに劇画ふうになりかかっていたぼくの人物たちに、あるヒントをあたえてくれたのだと思います」。(講談社版手塚治虫全集第173巻『珍アラビアンナイト』あとがきより)。
 こうして『假面の冒險兒』は刊行された。この作品にはフック伯爵の手下として3人組の探偵が出てくるが、これは『ガリヴァー旅行記』のボンボ国の3人組スパイへのリスペクトだろう。


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『假面の冒險兒』は1948年、大阪の東光堂から描き下ろし単行本として刊行された。講談社版全集では第324巻『拳銃天使』に収録されている。また、昨年2011年に小学館クリエイティブから刊行された『手塚治虫初期名作完全復刻版BOX(2)』には、当時の装丁のままの単行本として復刻されたものが収録されている。※図版は復刻版

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『假面の冒險兒』の丸っこく愛らしいキャラクターたち。

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この3人組がフック伯爵の手下のちょっとまぬけな探偵たちだ


◎ソ連の名作アニメを70〜80回も観る!

『せむしの仔馬』は現在は『イワンと仔馬』と改題されてDVDリリースされている。これは三鷹の森ジブリ美術館ライブラリーシリーズの1本として発行されているもの。1948年のソ連製短編アニメ『灰色首の野がも』が同時収録されている

 またその翌年の1949年3月には、当時のソビエト連邦で製作された、ソ連初のカラー長編セルアニメーション映画『せむしの仔馬』(1947年製作)が公開されている。
 監督はロシアアニメーションの父といわれたイワン・イワノフ=ワノー。ロシアの昔話を題材にしたこの物語は、グズでのろまで兄からもバカにされていたイワン少年が、ある日、不思議な白馬と出会い、せむしの仔馬をもらったところから始まる。その仔馬は超能力を持っており、イワン少年はその仔馬の助けを借りることで王様に重用され、やがて立派な王子へと成長してゆくのである。
 手塚はこのアニメーションにも大いにハマり映画館へ通い詰めた。エッセイの中ではこのアニメを「大阪や神戸で七、八十回は見た」と語っている。
 そして手塚は、翌年1月に刊行された『ファウスト』の中で、さっそくこのアニメを引用している。
『ファウスト』は言うまでもなく、同題のゲーテの戯曲を手塚が自分流にマンガ化したものだけど、その基本設定を大きく外れ、展開の随所に『せむしの仔馬』の影響が見られる。
 王様がファウストに次から次へと無理難題を要求し、最後には美の女神ヘレネを連れてこいと命じる。ファウストは苦労しつつメフィストの力を借りてヘレネを連れ帰る。すると王様はそのヘレネに恋をしてしまい求婚をするのだが……というこの流れは、ファウストをイワンに、メフィストを仔馬に置きかえれば、まさに『せむしの仔馬』そのものなのである。
 また両作品には絵柄にも共通する部分が多々ある。手塚マンガの発想のルーツに興味のある方は、ぜひ両者を見くらべてみていただきたい。


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手塚治虫の描き下ろし単行本『ファウスト』(1950年1月刊)※図版は『別冊太陽 子どもの昭和史 手塚治虫マンガ大全』(平凡社刊)より孫転載

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『ファウスト』より。

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火の鳥もチラッと登場していますが、このあとのコマでは何と丸焼きにっっ!!


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雑誌『COM』版『火の鳥・黎明編』第1話の冒頭シーン。ウラジが火の鳥を捕えようとする場面は、『せむしの仔馬』でイワンが火の鳥を捕えようとする場面をかなり意識していると思われる。講談社版全集では第201巻『火の鳥』第1巻に収録


◎『バンビ』との出会い!

 そしてさらに翌1951年、手塚は彼にとっての運命の作品ともいえるアニメーションと出会う。ディズニーの『バンビ』である。
 この『バンビ』との出会いが、手塚の一度はあきらめかけたアニメーション製作への情熱をふたたび火をともした。そしてその火はやがて虫プロダクション設立となって実を結ぶんだけど……。
 ここから先もまだまだ道のりは平坦ではなくて山あり谷ありだったわけであり、その話はまた稿をあらためることにしよう。
 今回も長文をお読みくださいましてありがとうございます。ぜひまた次回のコラムにもおつきあいくださいね〜〜〜〜っ!!

(C)2012「アニメ師・杉井ギサブロー」製作委員会 
(C)2012「グスコーブドリの伝記」製作委員会/ますむらひろし


黒沢哲哉
 1957年東京生まれ。マンガ原作家、フリーライター。手塚マンガとの出会いは『鉄腕アトム』。以来40数年にわたり昭和のマンガと駄菓子屋おもちゃを収集。昭和レトロ関連の単行本や記事等を多数手がける。手塚治虫ファンクラブ(第1期)会員番号364番


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