虫ん坊 2010年1月号 トップ特集1特集2オススメデゴンス!コラム投稿編集後記

コラム:虫さんぽ 第10回 東京銀座界隈で、手塚先生のONとOFFの足跡をたどる

コラム:虫さんぽ 第10回 東京銀座界隈で、手塚先生のONとOFFの足跡をたどる

 東京の中心地・中央区銀座。ここではイベントや試写会が毎日のように行なわれ、手塚治虫先生も足しげく訪れていた街だ。今回は、春のうららかな日差しの中、手塚先生の銀座での公私にわたる足跡をたどります。奥様とのロマンチックなエピソードも公開!!



◎コラムニストデビューした長男に手塚先生は……

 今回の虫さんぽは、都営地下鉄線・東銀座駅からスタートする。
 駅から地上へ出ると、すぐ目の前に建っているのが、この5月に建て替えのために閉館になった歌舞伎座だ。
 と、階段を登る途中からなぜかものすごい人、人、人! いったい何だ!? と思ったら、この散歩当日は、歌舞伎座で尾上菊五郎おのえきくごろう松本幸四郎まつもとこうしろうが列席する閉場式が行なわれていたのだった。
 ちなみにこの歌舞伎座の裏手には、雑誌『Hanako』や『クロワッサン』を出しているマガジンハウス本社がある。30年前の1980年秋、ぼくはここで出していた『ポパイ』という雑誌に記事を書いていた。それで、当時自主映画仲間で、まだ19歳の大学生だった手塚眞てづかまことくん(手塚治虫先生の長男)を連れて編集部へ遊びに行ったところ、その場で眞くんのコラム連載が決まったのだった。
 眞くんは、高校生のころから絵も文章も得意だったけど、商業誌に記事をかくのはこれが初めてだった。
 そのため後日、なんと手塚先生自身が『ポパイ』編集部へ突然やってきて「息子をよろしくお願いします」と編集長に挨拶したのだとか。何とも親バ……いや、ゲフンゲフン、ほほえましいエピソードではありますね(笑)。
 

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間もなく見納めとなる歌舞伎座の建物は1924年に竣工しゅんこうしたものだ。戦時中、空襲に見舞われて全焼したが、1950年に修築された。新しい歌舞伎座は2013年春に開業予定だそうです


◎手塚先生と奥様の銀ブラデート

 さて、晴海通りを銀座方向へ歩いていくと、最初に交わる大きな交差点が、銀座4丁目交差点だ。銀座といえば、テレビでも映画でもまずここを映し出す。つまりは銀座の“ヘソ”のような場所である。
 この交差点の西の角、晴海通りをはさんで服部時計店の向い側に建っている円柱形の建物が、ファッション系のテナントが多く入っている三愛ドリームセンタービルだ。


 

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円柱形のデザインが目をひく現在の三愛ドリームセンターは1963年に完成した。晴海通りを挟んで建つ服部時計店とともに、銀座のランドマークになっている。設計したのは、後に新宿NSビルなども手がける林昌二はやししょうじ

 
 そして実はここも、手塚先生ゆかりのスポットなのである。いったいどういうコトなのか〜〜っ!? と、テレビだったらここでCMに入るとこだけど、Webなのでこのまま続きます。
 話は1958年(昭和33年)ごろにさかのぼる。この前年の4月、手塚先生は2年半住んだ豊島区のアパート・並木ハウスから、渋谷区の初台にあるマネージャー宅の二階へ引っ越していた。
 またそのころ手塚先生は、親戚の紹介でお見合いをし、後に奥様になられる岡田悦子おかだえつこさんと、東京と宝塚の間で遠距離交際中だった。
 ただし交際中とはいっても超多忙な手塚先生だから、結婚前のデートはわずか2回だけだったという。
 そしてそのうちの1回が、悦子さんが宝塚からはるばる8時間かけて初めて上京し、一緒に歩いた銀座デートだったのだ。
 そのときのことを電話で悦子夫人にお聞きした。悦子夫人は「もうずいぶん昔のことで、あまりはっきり覚えてないんですけどねぇ……」と照れながらも、懐かしそうに語ってくださった。
「手塚はいつも仕事に追われていましたから、私が東京へ行った日も、仕事のカンヅメ明けだったんです。ですからデートといっても午後から街をぶらぶら歩いて、その後、映画を見たか、お食事をしたか、それくらいなんですよ」

 

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三愛は1946年にこの場所に店舗をオープンした。この写真は1955年冬の創業10周年記念セールのときのものだ。手塚先生と悦子夫人がデートしたときの街角はまさにこの風景だったはず

 

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こちらも同じころの三愛の店頭の写真。確かにショーケースに化粧品が並んでいるのがはっきりと見えますね

 
(写真提供/株式会社三愛)

◎思い出の香水《黒水仙》

 そんな短時間のデートの中で、悦子夫人が今でもはっきり覚えていることがあるという。それは、この銀座4丁目交差点の現・三愛さんあいドリームセンターのあたりをふたりで歩いている時だった。再び悦子夫人のお話──、
「この角に化粧品屋さんがありましてね、ショーケースの中に《黒水仙くろすいせん》という香水が置かれていたんです。私がそれを見て手塚に“前に『黒水仙』っていう映画を見たことがあるのよ”と話したら、手塚がその香水を買って私にプレゼントしてくれたんです」
 イギリス映画『黒水仙(原題:Black Narcissus)』は1946年に製作され、日本では1951年に公開された。一方、香水の《黒水仙(Narcisse Noire)》は、フランスの香水メーカー・キャロンが1911年に発売した高級香水で、戦前から日本にも輸入されて上流階級の人々に愛用されていた。そして戦後、映画『黒水仙』のヒットによって、一躍人気の香水になったのだった。

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(左)映画『黒水仙』公開時のパンフレット。監督は『赤い靴』(1948年)のマイケル・パウエルとエメリック・プレスバーガーのコンビ。美術監督のアルフレッド・ユンゲは、ヒマラヤの断崖とそこに建つ古城をまるまるセットで再現し、アカデミー美術賞を受賞した
(右)同パンフレットより、黒水仙の解説文


 映画は現在DVDで発売されている。ぼくもさっそくネットでポチって購入してみた。
 お話はデボラ・カー演じる修道女が、ヒマラヤの山奥の任地で、世俗を捨てた聖職者としての生き方と、過去の恋愛の思い出のはざまで葛藤するというもの。映画の題名の『黒水仙』とはまさにこの香水《黒水仙》のことで、劇中、若いインドの将軍がこの香りをしみこませたハンカチを愛用している。そしてこの香水の香りが、デボラが悩む俗世の象徴として描かれているのだった。
 それにしても、映画が共通の趣味だった手塚先生と奥様らしい、何とも心温まるお話でした。奥様ありがとうございました!
 

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手塚先生と悦子夫人の銀ブラデートのエピソードは、悦子夫人が書かれたこの本の中でも触れられている(1999年、講談社刊)


◎フランス料理まぼろしの名店

 続いてぼくは並木通りを左折し、銀座6丁目方面へと歩く。


 

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銀座6丁目、フランス料理店「レンガ屋」があったあたりの街角に立つぼく。残念ながら、すでにビルごと建て替わっていて、当時をしのぶものは何もなかった

 手塚プロ松谷社長の情報によると、かつてここに手塚先生がよく通われた「レンガ屋」というフランス料理店があったという。
 レンガ屋は、1972年にフランスの超一流料理人ポール・ポキューズ氏が開いたお店で、作家などの著名人も数多く訪れた名店だった。けれども残念なことにすでに閉店していて、お店の場所が特定できない。


 そこで調べたところ、当時レンガ屋で総料理長をつとめていたジョエル・ブリュアン氏が、現在、赤坂の東京ミッドタウンで「キュイジーヌ フランセーズ ジェイジェイ」というお店を開いていることが分かった。
 さっそくコンタクトを取ったところ、地図を描いてファックスしてくださった。また、手塚先生が当時食べたであろう料理の名前も教えていただいた。「スズキのパイ包み焼き」と「ムール貝のスープ」。この2点はまず食べたでしょう、とのことだ。また手塚先生の奥様によると、手塚先生はここのお肉料理が大好きで、ご家族で行かれたときはいつもお肉料理を注文されていたそうである。
 手塚先生が愛した名店の味を味わいたい方は、ぜひブリュアン氏のお店へ行ってみてください。

 

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営業当時のレンガ屋を取材した貴重な記事。ニュースキャスターの磯村尚徳いそむらひさのり氏も常連だったようだ(『週刊女性』1977年1月25日号)


◎ソニービルに集う漫画集団とは!?

 次に向かったのは銀座ソニービルだ。ここの1階の喫茶店で、ある方と待ち合わせているんだけど……と、店内を見回すと、ひと足先に来ていたその方は、初対面ながらすぐに分かった!
 待ち合わせていたのは漫画家の岩本久則いわもときゅうそく先生(71)。岩本先生は手塚先生と同じ「漫画集団」の会員で、かつてともに飲み、旅をし、漫画を語り合った仲間だった。
 漫画集団というのは昭和7年に結成された歴史ある漫画家の集まりで、岩本先生によれば、入会には厳しい審査があるという。すなわち、いわゆる今どきの“コミック”作家は入会できない。笑いと風刺ふうしを旨とした“漫画”を描いていることが入会の条件なのだそうである。


 

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ソニービル。ここの交差点に面した三角形の狭い空間は、様々なオブジェや広告が展示される企画スペースになっている。岩本先生が漫画集団のチャリティショーを仕切っていたころ、ここに赤塚不二夫先生をクレーンで吊るして漫画を描いてもらおうとしたのだが、危険だといって却下されてしまったそうである(笑)

 

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岩本久則先生は、ネイチャー漫画家のハシリのような方だ。著書にはバードウォッチングやホエールウォッチングなどをテーマにした作品が多い


 さて、なぜ岩本先生にここまで来ていただいたかというと、ここソニービルでは、かつて毎年“漫画集団”主催のチャリティショーが開かれていて、それに手塚先生も参加されていたからなのだ。
 その内容は、漫画家が持ち寄った品物や本を売ったりサイン会を開いたりして、その収益金を交通遺児育英会に寄付するというもので、1966年に第1回が開催され、70年代の終わりまで続いた。
 岩本先生に当時のことをお聞きした。


 

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日本と中国の国交が回復(1972年)して間もないころ、手塚先生(左)は中国美術協会の招きで北京へ行った。その旅行に岩本先生(右)も同行。中央は中国の漫画家さんだそうです(写真提供/岩本久則氏)

 「そもそもこのチャリティショーの始まりは、『アッちゃん』を描いた漫画家の岡部冬彦おかべふゆひこ氏が、ソニー創業者の井深大いぶかまさる氏と親しかったので、そこから話が出たようですね。一時期は私がショーの企画と運営をすべてまかされてずっと担当していました。
 手塚さんは忙しいのに、こうした漫画集団のイベントや集まりには必ず参加していましたね。気のおけない仲間と騒ぐのが楽しかったんでしょう。いつもニコニコと笑っておられた記憶がありますよ。
 さっきも言ったように、メンバーが漫画家ばかりですから。手塚さんにとってコミック作家は年齢に関係なくみんなライバルでしたが、漫画集団の漫画家はライバルではなくて仲間だったんです」


◎『ワンサくん』のサインをもらった!

 このソニービルのチャリティショーには、ぼくも高校時代、1973年から3回ほど通った。初めて手塚先生の姿を生で見たのもこのときだ。もちろんサイン会にも並んだ。今から思うと夢のようなことだけど、当時はまだのんびりした時代だったから、ひとりひとり、先生に何を描いて欲しいかをリクエストして、先生がその場で絵とサインを描いてくれたのだ。
 ぼくは『ワンサくん』の絵をお願いした。先生は「時間があればもっと色を付けたいんだけどね〜」と言いながら、色紙にワンサくんとみどりちゃんの絵を描き、首輪をブルーに塗って手渡してくれた。か、感動!
 この色紙は部屋にずっと飾ってあったので焼けて真っ黒になってしまったが、もちろん今でも大切に保管してある。
 ちなみにこの日、ぼくはお金を使いすぎて帰りの電車賃がなくなり、家に電話をかけて母親に銀座まで迎えに来てもらったことは誰にもナイショである。


 

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1973年12月に開催された漫画集団チャリティショーの手塚ファンクラブ会員向け案内状(左)と、その模様を報じた翌月の会報。2ページ目の右下の写真に、疲れた様子のぼくが写っている(笑)


 ところで岩本先生には、手塚先生にまつわるスポットを他にもお聞きしたので、また機会をあらためて歩いてみたいと思います。


◎由季江さんのドイツ料理店はどこにある!?

 と、今回の散歩は、当初はこれで終わりのはずだった。ところが下取材の最中に新たな情報がもたらされた。
 これまでにも何度か虫さんぽの取材に協力いただいている手塚先生の元運転手・Sさんから、こんなお話をお聞きしたのだ。
「手塚先生が『アドルフに告ぐ』で、ゾルゲの話を描かれていたころですね。銀座の有楽町寄りの路地を入ったところにあるドイツ料理店を取材するということで、お送りしたことがあるんですよ。だけど詳しいお店の場所までは忘れてしまったなぁ……」
『アドルフに告ぐ』の中で、ちょうどゾルゲの登場するエピソードの後に、由季江がドイツ料理店を開店するシーンがある。恐らくその取材だったのだろう。
 ぼくはSさんからお聞きしたエリアを歩いてみたが、残念ながらドイツ料理店を見つけることはできなかった。
 何か情報をお持ちの方がいらっしゃいましたらぜひお教えください。
 ではまた次回の散歩でお会いいたしましょう!!


 

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『アドルフに告ぐ』より、由季江がドイツ料理店をオープンするシーン。講談社版全集では第375巻『アドルフに告ぐ』第4巻に収録されている


(今回の虫さんぽ、3時間7分、4256歩)


取材協力/株式会社三愛キュイジーヌ フランセーズ ジェイジェイ岩本久則、ヒサクニヒコ(順不同)
資料協力/財団法人大宅壮一文庫

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黒沢哲哉
1957年東京生まれ。マンガ原作家、フリーライター。手塚マンガとの出会いは『鉄腕アトム』。以来40数年にわたり昭和のマンガと駄菓子屋おもちゃを収集。昭和レトロ関連の単行本や記事等を多数手がける。手塚治虫ファンクラブ(第1期)会員番号364番


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