◎まずはお肉屋さんへGO!?
虫さんぽも8回目をむかえ、いよいよ、手塚プロと並ぶ、手塚ファンにとっての、もうひとつの聖地へとやってきた。それは──虫プロダクション!!
虫プロは、手塚プロと混同されがちだけど、実はまったく別の会社である。虫プロは、少年のころからディズニーのアニメーションに憧れていた手塚先生が、「いつか自分もアニメーションを作りたい」という夢をかなえるために作った会社なのである。
詳しい経緯は後で紹介するが、その虫プロはいまも健在で、しかも手塚先生がお仕事をされていた当時の建物の一部が、今もそのまま使われている。うおお、これは楽しみです!!
今回の散歩のスタート地点は、西武池袋線の富士見台駅だ。池袋から各駅停車に乗って7駅目、およそ15分で到着した。虫さんぽは毎回お天気に恵まれているが、今日も天気は上々。数日前までの寒さもやわらいで、絶好の散歩日和である。さあ、行ってみよう!!
駅を南側に出て右折、高架線路ぞいの道をしばらく歩いて、まずぼくが向かったのは、商店街の中ほどにある「越後屋本店」というお肉屋さんである。
「あれっ? 虫プロへ行くんじゃないの?」と思った皆さん、まあ落ち着いて聞いてくださいな。実は、このお肉屋さんも手塚先生ゆかりの場所なんですから。
改札口を出た正面には、鉄腕アトムの絵の入った案内表示板がある。最近は杉並区がアニメーションの町として町おこしに力を入れているが、こちら練馬区も「アニメ発祥の地」という肩書きで、さりげなく元祖をアピール。
◎時間限定の手塚ギャラリー?
1961年にアニメーションの製作を始めた手塚先生は、当初は、同じ敷地内でアニメの仕事もマンガの仕事もやっていた。ところがアニメの仕事が猛烈に忙しくなってきて、落ち着いてマンガを描いていられなくなった。そこで1968年、先生は新たに手塚プロダクションを設立し、そっちはマンガ専業の会社として活動することにしたのだ。
手塚先生の体はひとつなんだから、会社を2つに分けたってどうしようもないだろうと思うんだけど、それでも、どっちもあきらめずに続けちゃうところが手塚先生のすごさだなぁ、とつくづく思います。
ともかく、そうして発足した手塚プロは、最初は富士見台駅前の喫茶店の2階に間借りしていたが、1970年、この越後屋ビルへ移り、1976年に高田馬場のセブンビルへ移るまで、この越後屋の2階と3階を仕事場としていたのだ。
越後屋のご主人・高橋雅美さん(51)にお話をうかがった。
「このお店は、先代である私の父が1957年に始めたんです。その後、1970年にビルに建て替えてテナントを募集したところ、当時の手塚プロが契約してくださいました。2階が事務所とアシスタントさんの仕事場で、3階が手塚先生の仕事場でした」
越後屋本店。1階はお肉屋さんとカレーショップで、ここの2階と3階に、かつて手塚先生の仕事場があった。現在、2階は「ビーフギャラリーエチゴヤ」というお肉料理専門のレストラン。元手塚先生の仕事場で食事が出来るなんて最高だね。
レストランのおすすめは特選和牛を使ったサーロインステーキ5,000円(サラダ、ライスまたはパン付き)。食べ盛りの若者には、しゃぶしゃぶやステーキの食べ放題コース(おとな1名1,980円〜2,980円)もある。
「ビーフギャラリーエチゴヤ」営業時間17:30〜21:00(ラストオーダー) 月曜定休、問い合わせ 03-3926-4560(17:00以降)、03-3999-5177(予約専用17:00まで)
そんな高橋さんのお店には家宝があるという。
「手塚先生から、直筆のパネル原画をいただいたんです。1973年ごろ、手塚先生の仕事場で雨もりがあったんです。父があわてて様子を見に行くと、雨もりしていたのは、何と手塚先生の仕事机の真上でした。それで先生も仕事ができなくて、一緒に工務店の人が来るのを待っていたとき、手塚先生が父にくださったんです」
現在、手塚プロが入っていた2階は、お肉料理がいただけるレストランになっていて、そこにパネル原画の複製が飾られている。またお店の外のシャッターにも、手塚プロの許諾を得て同じイラストがペイントされているから、散歩の際にはぜひチェックしてみよう。ただしこちらは、お店の開いている間は見られない。休みの日と営業時間外にしか出現しない、隠れ手塚キャラなのだ(笑)。
越後屋の2代目のご主人・高橋雅美さん。レストランに飾られている、手塚先生の原画の複製の前で。本物は陽の当らないところに大切に保管してあるそうです。
レストランに飾られているのと同じ絵が、お店のシャッターにも印刷されている。散歩をしたのは午後からだけど、ぼくはこのシャッターを撮影するためだけに、朝8時半に富士見台へ来た(笑)。
◎石津嵐さんと合流。さらに……!!
石津嵐さんと合流。駅前の風景を見て「いやもう、全然変わっちゃったなあ」と驚いておられた。
さて、ここでぼくはいったん駅へ戻り、今回の散歩案内人と合流した。元・虫プロ社員で、現在は磐紀一郎というお名前で作家として活躍されている石津嵐さんである。
石津さんは、『鉄腕アトム』のテレビ放送が始まる直前の1962年暮れに虫プロへ入社。最初は制作進行を担当し、後に脚本部へ異動した。
石津さんとぼくが駅前で立ち話をしていると、その横を自転車を押したひとりの男性が通りかかった。すると石津さんがその男性に「あれ? ナベちゃん?」と声をかけた。
実はその人、何と! かつて虫プロでプロデューサーをしていた方だったのだ。驚くべき偶然! まさに富士見台の奇跡!!
この方は、名前を渡邉忠美(わたなべただよし)さんと言い、年齢は石津さんと同じ71歳。東映動画でCM製作にたずさわった後、石津さんより2年遅れて虫プロへ入社した。そして虫プロ在籍当時から、ずっとこの近くにお住まいなのだという。
もちろんぼくは、渡邉さんにも散歩への同行をお願いした。そして快諾をいただいたものの、渡邉さん「本屋へ寄ってすぐ帰るつもりだったのに、えらい人たちに会っちゃったなぁ……」とさかんにぼやいておられる。そんな渡邉さんに石津さんがひと言、「そういう運命なんだよ、俺たちは!」と豪快に笑われた。
と! そこへ、運命のめぐり合わせか、神の采配か、たまたま自転車を押して通りかかった、元虫プロの渡邉忠美さん。そのまま虫さんぽに同行することに(笑)。
◎いよいよ虫プロへ到着!!
閑静な住宅街を、一見、謎の3人組がキョロキョロとあたりを見回しながら歩く。めちゃめちゃ怪しすぎる。
ということでパーティに仲間がひとり増えた我らが「虫さんぽ隊」は、いよいよ虫プロへと向かった。石津さんも虫プロを訪ねるのはおよそ30年ぶりだということで、昔の記憶をたぐりながら、住宅街の中を歩いていく。
そして駅からおよそ10分。住宅街の中に虫プロの建物がひっそりと建っていた。屋根や壁のラインがスパッと斜めにカットされたモダンな建物に「虫」の文字。写真や手塚先生のマンガで見た、まさにあの建物だ!
虫プロに到着。48年前に建てられたとはとは思えないほどに、いま見てもおしゃれな建物だよねぇ。
手塚先生自身がキャラクターとして登場する『バンパイヤ』の第1話に、この虫プロの建物が描かれている。講談社版全集では第142巻に収録。
1962年1月、ここに発足した株式会社虫プロダクションは、1973年11月に一度倒産した。しかし1977年、新たに虫プロダクション株式会社として再スタートを切り、今もここで旧虫プロ時代の作品の著作権管理とアニメーションの製作を行なっている。
石津さんと渡邉さんのお話によると、1960年代当時、周囲はほとんど畑で、虫プロの横の、動物病院となっている所には、何と牛小屋があったという。
虫プロの建物も、現在は当時の4分の1ほどの面積になっているが、かつてはその区画全部が虫プロの敷地で、そこにアニメを作る部署の建物と、マンガの製作スタッフが働く建物、そして手塚先生の自宅が建っていたとのこと。さぞかし賑やかだったんだろうなぁ。
実際、当時の虫プロは、24時間365日、常に誰かが仕事をしており、不眠不休の不夜城だったという。さらに狭いスタジオに人がすし詰めで働いていたもんだから、室内はまるで蒸し風呂状態で、そこから「虫プロ」と名づけたのだと、手塚先生も、自伝『ぼくはマンガ家』の中で、冗談まじりに書いている。
虫プロの玄関の中へ入らせてもらった。石津さんが座っている階段は、当時、不眠不休で働いていたころ、よく座って眠った場所だとか(笑)。
◎“100円玉とおそば屋さん”秘話
続いて、渡邉さんが、虫プロのスタッフがよく通ったおそば屋さんが今も営業されているというので行ってみた。虫プロから500メートルほどの場所にある「そば処更科」だ。
石津さんによると、当時、虫プロの社員には、手塚先生のお母様から、1日100円のお昼代が支給されていた。石津さんが、その100円玉を握りしめて毎日のように通ったのがこのお店だったという。
お店は開店準備中だったけど、中からおかみさんが出てきて話をしてくれた。斉藤ヤエ子さん(75)は、1960年の春に、ご主人とふたりでここにお店を開いた。
「あのころは虫プロのお客さんがいっぱい来てくださいましてね、もう毎日、目が回る忙しさでした。それで主人も私も気が短いから、お客さんがいてもかまわず大声で怒鳴り合いながら仕事をしてましたよ(笑)」
当時、石津さんは、いつもここで90円のたぬきソバと大盛りライスのセット「たぬきライス」を注文した。そのおつりの10円を貯めておいて、9日目に90円たまると、またたぬきライスを注文する。これが当時の虫プロスタッフの食生活だったのだ。
「何しろ給料が安かったからな、あの100円は本当にありがたかったなぁ」と、しみじみ語る石津さん。
けれども後年、石津さんがそのことを手塚先生に話したら、全くご存じなかったという。きっとその100円は、手塚先生のお母様がスタッフを気遣って独断でされていたご好意だったんでしょうね。
当時、虫プロ社員が通った「そば処更科」。
営業時間11:00〜14:00・17:00〜19:00 木曜定休、問い合わせ03-3999-2658。
一方、渡邉さんも、食べ物屋に関してはつらい思い出があるという。
「虫プロのすぐ近くにね、うなぎ屋が出来たの。でもそんなの食べるお金なんてないからさ、前を通ると、いい匂いだけかがされるんだよ。ひどいもんだよ!」
どうやらうなぎ屋は、出店場所を間違えたようである(笑)。
昨年発売された『虫プロてんやわんや 誰も知らない手塚治虫』(創樹社美術出版)の中で、石津さんが磐紀一郎名義で、このおそば屋さんと100円玉のエピソードを書かれている。
◎おふたりの思い出は走馬灯のように……
次に向かったのは、虫プロスタッフ御用達だった銭湯「大富湯」。銭湯はここ以外にも何軒かあったそうだけど、今も営業を続けているのはここだけ。入り口付近が改装されているが、建物は昔ながらの銭湯のままだ。
手塚先生のお父様が銭湯が大好きで、石津さんはよく、「アオちゃん(石津さんの愛称)、銭湯行こう!」と誘われて行ったそうです。
懐かしの銭湯「大富湯」。石津さんは、たまに仕事を抜け出して、ここへ気分転換に来たこともあったとか。
さて、今回の散歩もいよいよ終盤だっ。
当初6人で始まった虫プロは、最盛期には400人もの大所帯となった。そこで、近くにできたアパートを借りては第2、第3とスタジオを拡張していき、最終的には第5スタジオまであったという。
お互いに記憶を補完し合いながら、思い出の場所を探すおふたり。渡邉さんが同行してくださって本当に助かりました。これは絶対に、手塚先生が出会わせてくれたに違いありません。
あいにくそれらの場所は、どこも新しい住宅が建ち並んでしまい、当時の面影はまったくなかった。特に第5スタジオのあった駅の北側は、変わりすぎてしまって、おふたりの記憶を合わせても、その場所を特定することすらできなかった。
だけど石津さんと渡邉さんの目には、きっとそのころの風景が、はっきりクッキリと浮かんでいるんだろうなぁ、と思うと、ぼくにも、何となく当時の虫プロの熱気が伝わってくるような気がした。
おふたりの遠い記憶をたぐりながら、虫プロ周辺を歩いてきた今回の虫さんぽ、ぼくらが最後に立ち寄ったのは、駅の北側にある小さな木造2階建ての家だった。ここにはかつて「羽越」という名の居酒屋さんがあったという。
その名のとおり、東北の地酒を飲ませてくれるお店で1合100円。貧しかった虫プロ社員たちのたまり場になっていたという。
すでにないお店の前で、石津さんと渡邉さんは、当時のことを楽しそうに語ってくださった。
出てくるのは、仕事がきつかったという話と、お金がなかったという話ばかり。だけどナゼかおふたりとも、当時の話をするのが、ものすごく楽しそうなのが印象的だった。
かつて居酒屋「羽越」だった建物。お店はなくなったが、建物だけは残っていた。
さて、今回は虫プロの詳しい作品や仕事の話までは触れられませんでした。ですのでそれは、次回の『手塚マンガあの日あの時』でご紹介したいと思います。ぜひまたお付き合いください!!
(今回の虫さんぽ、3時間57分、2788歩)
黒沢哲哉
1957年東京生まれ。マンガ原作家、フリーライター。手塚マンガとの出会いは『鉄腕アトム』。以来40数年にわたり昭和のマンガと駄菓子屋おもちゃを収集。昭和レトロ関連の単行本や記事等を多数手がける。手塚治虫ファンクラブ(第1期)会員番号364番