昭和20年代初め、大阪で“赤本”と呼ばれる玩具本が流行していた。手塚治虫はその赤本の世界で単行本デビューを果たし、そこを舞台として立て続けに作品を発表していく。その内容はSFから西部劇まであらゆるジャンルにおよんでいるが、今回はその中から冒険・探検マンガに焦点を当ててみた。さらにそこへ、昨年末刊行された『創作ノート』の記述を重ね合わせてみると……何とそこから手塚治虫の創作の秘密が浮かび上がってきた! 果たしてそれは──!!!?
手塚治虫の単行本デビュー作『
この作品について手塚は「スチブンソンの「宝島」と、「ロビンソン・クルーソー」と、ターザンをごちゃまぜにしたようなアクションもの」(『ぼくはマンガ家』昭和44年毎日新聞社刊)と紹介している。
この時、こうした冒険ものがテーマとして選ばれた理由は、当時、絵物語や小説の世界で、秘境探検ものが大ブームとなっていたからだと考えられる。
今回は、そうした戦後の秘境探検ブームの時代に描かれた手塚の赤本マンガをプレイバックしてみよう。
このころ秘境探検モノがブームとなった理由は様々考えられるが、そのひとつは、人々がその日の暮らしにも困る
そして実際に、食糧事情は終戦から1年半がたってもいまだにかなり悪かったようで、手塚は『新寶島』執筆当時の思い出をこう語っている。
「このターザンには参ってしまった。なにしろ、ぼくは当時ひどく痩せこけていたので、
そして実は大阪の赤本は、こうしたモノ不足の時代だからこそ誕生したものだったのだ。それはいったいどういうコトなのか!?
以前から、このコラムを担当する手塚プロの若いプロデューサーIさん(**歳女性・独身)からも「赤本って何なのか、よく知らないんで、どこかで一度詳しく説明してくれませんか」というリクエストをいただいていたので、この機会に、本論に入る前に赤本について紹介しておきますね。「そんなの知ってるよ」っていう方は、ここから小見出し3つくらい飛ばしちゃってください。
赤本というのは、一般の書籍流通ルートで売られる本や雑誌と違い、駄菓子や雑貨を扱う問屋から卸されていた玩具本のことだ。だから書店だけでなく駄菓子屋や夜店に並ぶことも多く、そうした場所で少しでも目立つように、表紙に赤色を多用したことから“赤本”と呼ばれるようになったという。
ではなぜ戦後のこの時期、大阪で赤本が広まったのか? そこには終戦直後という特殊な事情があった。
昭和20年8月、日本の敗戦で太平洋戦争が終わり、日本にようやく平和が戻ってきた。しかし長かった戦争で日本の生産・流通システムはほとんど壊滅しており、物不足は深刻な状態となっていた。
そうした中で食料や衣料・燃料などの生活必需品は“統制物資”と呼ばれ、GHQ(連合国軍総司令部)の指導のもとで国が管理をし、一定量しか売らない配給制が敷かれていたのだ。
そして洋紙もその統制品として指定されていたため、東京の大手出版社は、活動を再開したものの紙がなくて思うように本が出せない状況となっていた。
と、そんな状況を逆に商売のチャンスととらえたのが、ナニワの商人たちだった。統制品に指定されていない“
赤本は紙の質だけでなく内容も低俗でお粗末なものがほとんどだったが、本に飢えていた人々はこれに飛びつき、その部数を加速度的に増やしていった。
そんな当時、この赤本発行の中心地となっていたのが、大阪の松屋町(まっちゃまち)にある駄菓子や雑貨の問屋街だった。問屋は最初、出版社が作った赤本をただ卸しているだけだったが、やがてそれが
こうしてブームがピークとなった昭和23年ごろには、松屋町には何十軒ものニワカ出版社がひしめいていたという。
この赤本時代の手塚作品を見渡してみると、早くも様々なジャンルに手を広げていることが分かる。今回のテーマである冒険ものを始めとして、SFやファンタジー、西部劇、時代劇、名作文学の翻案からマンガ入門書まで!
それまで戦争によって抑えつけられていた「マンガを描きたい!」という手塚の欲求が一気に解放され、しかもその発表の場を得たことで、創作欲が、まさにビッグバンのごとく一気に弾けたという感じだ。
1作1作手に取って見ると、もうあれも描きたい、これも描きたいという手塚の気持ちが物語の端々からあふれ出てくるような気がするし、実際そうだったに違いない。
特にSF作品に関しては、物語展開も独創性にあふれ、早くも意欲的な表現手法が随所に試みられていて、手塚がプロとしてデビューするはるか前からSFマインドやセンス、発想といったものを磨いてきていたことが良く分かる。
ところが、このころのSF作品と、今回のテーマである探検・冒険ものの作品を読みくらべてみると、両者の間の面白い違いが浮かび上がってきた。それは、探検・冒険ものマンガの方が、同時期に発表したSFとくらべて、既成の小説や映画の影響をよりストレートに受けているということだ。
もちろん古今の名作からヒントや刺激を受けて物語を作ることは恥ずべきことではないし、むしろそうした積み重ねの中で物語の歴史はつむがれてきた。そして手塚マンガだってもちろんその流れの中にあるのだ。
だけどこのころの手塚のSFの独創性とくらべると、冒険・探検マンガではその引用がちょっと“生”っぽいかな〜と言うコトなのだ。
ここで具体的な作品名を挙げてみると、昭和22年に発表された『キングコング』は、1933年にアメリカで製作された映画『キング・コング』を下敷きにしたものだし、ターザンは前出の『新寶島』のほか、昭和23年の『ターザンの秘密基地』などいくつもの作品に登場している。
また同じく昭和23年に出版された『ジャングル魔境』には、アフリカの奥地で原住民を従えている白人の女王が出てくるけど、この女王のキャラクターは、冒険小説家H・R・ハガードの代表作『洞窟の女王』(1887年)のアッシャという女王を下敷きにしたことを、手塚自身が講談社版全集のあとがきに書いている。
『有尾人』(昭和24年)は、同題の
ね、SF作品の独創性とくらべるとその違いはかなり大きいでしょ。この違いはどこから来るのか? ぼくはそれは手塚の“新しもの好き”というところに尽きるのではないかと思っている。
前述したようにこの時代、日本では秘境探検ものの映画や小説、絵物語が大ブームとなっていた。これに手塚がハマらないわけがない。そしてそれに感化された手塚が自身の作品にそのアイデアを次々と反映させていったのだ(というぼくの想像)。
では実際に当時、どんなものが流行していたかというと、まず映画の世界ではアメリカから『ターザン』映画が続々と輸入され公開されていた。
アメリカの小説家エドガー・ライス・バローズの創造したターザンはアメリカでは戦前から人気で、すでに何人もの役者によってターザン映画が作られていた。それらは戦前も日本に入って来ていたが、戦争で一時中断していた。それが戦後になって過去の作品から最新作までが一気に押し寄せてきたことでブームとなったのである。
この『ターザン』ブームは、絵物語の世界では
また、こうしたブームを受けて海外の秘境冒険小説も続々刊行された。前出したハガードの小説『洞窟の女王』は戦前にも邦訳が出版されていたが、手塚が『ジャングル魔境』を発表した昭和23年にも玄文社という出版社から新訳版が出ていたから、もしかしたら手塚もそれを読んでいたのかも知れない。
さて、ここで話を終えてしまったら、何だかこの当時の手塚の冒険・探検マンガはすべてパクリだった、みたいな結論になってしまうから、そうではないということをハッキリ述べておこう。
このころ日本では著作権や創作物のオリジナリティに関する
またそれはマンガに限らず、家電製品やカメラ、高級ライターなど、あらゆるものにおよんでいた。今でこそ日本製品と言えば高品質と世界から認められているが、昭和30年代まで日本製品と言えば、ほとんどが安物のコピー品を意味していたのだ。
そして、こうした当時の著作権事情について、手塚治虫が前出の講談社全集版『ジャングル魔境』のあとがきで、注目すべき証言をしている。
この本には『ターザンの秘密基地』も収録されているが、タイトルは『シャリ河の秘密基地』と改題されている。
これはもちろん著作権に配慮したものだが、実はこの作品を発表した昭和23年当時から、早くも海外作品の名前を勝手に使用することはまずいという認識が起こりはじめていたというのだ。以下、その部分を引用してみよう。
「ターザンは、ご存じのとおりエドガー=バロウズの原作で、著作権は彼とか映画会社が持っています。無神経にターザンを登場させていた日本の漫画家も、うかつにこの密林の王者の代名詞を使えなくなりました。「ターザンの秘密基地」のネームは、下がきの段階ではたしかにターザンとなっていたのですが丸山東光堂の社長の申しいれで、
しかし表紙だけはもう製版もすんでいましたし、タアザ(※「タアザ」に傍点)では売れゆきに支障をきたすということで原題のまま出す、というおかしななりゆきになってしまいました」(講談社版全集第138巻『ジャングル魔境』あとがきより)
昭和20年代前半の、しかも赤本の世界で、すでにこうした動きがあったというのは注目すべきことだと思う。
そして手塚は同じあとがきの中でこう続けている。
「それやこれやで、最初ははりきってかいていたぼくのファイトは途中で急に失われてしまい、どうでもいい気持ちになって手をぬいて仕上げてしまいました」
実際、この物語の後半は、いきなり何の
では手塚が『ターザンの秘密基地』で本来描くはずだった後半はいったいどんなストーリーだったのか。それはもう永遠に
ところが! 先ごろ刊行された『手塚治虫 創作ノートと初期作品集』を見て驚いた。何とそこに収録されている1冊のノートに、そのあらすじがほとんど終わり近くまで記されていたのだ!
それは表紙に『有尾人2』と書かれたA4判のノートだった。このノートの前半は『有尾人』のコマ割りされた下書きが30数ページにわたり描かれている。表紙に2とあるように下書きは途中からで、1は失われてしまったのだろうか。だが完成した作品にはない、ピギイ(下書きノートでは“ピート”)とランプの漂流シーンなどもていねいに描かれていて、見れば見るほど興味深い。
そして問題の『ターザンの秘密基地』のあらすじは、このノートの最後の方に記されていた。
それによれば後半、ターザンはローラから文明社会の話を聞いてそれに憧れ、ジャングルの動物たちに教育をほどこし、そこを文明社会のようにしようと試みるはずだらしい。
と、ここまでお読みになれば、手塚ファンの中にはピンと来られたかたもおられるだろう。そう! この展開は後に『ジャングル大帝』で文明社会からジャングルへ戻ったレオがやったこととほとんど同じなのである!!
手塚治虫の頭の中では、この2つの作品がひと続きの構想の中で生まれたことを示す、超超超〜貴重な資料と言えるだろう。
いやー、驚きました。この『創作ノート』は大きな箱入りでけっこうなお値段がしますが、今後もここから多くの研究者によって様々な分析がなされていくのではないでしょうかね。
手塚治虫の冒険・探検テーマの作品は、こうした赤本の習作時代を経て、いよいよ『ジャングル大帝』に到達する。
そして、さらにそれ以後はどうなっていったかというと、SFと探検・冒険ものの作品は融合し、地球の兄弟星への冒険を描いた『ロック冒険記』や、尻尾のはえた少年の話から壮大な異世界冒険ロマンへと発展していく『0マン』など、独創性にあふれた手塚流の秘境ワールドが続々と顔を見せていくことになるのである。
その話はいずれまた! ぜひまた次回のコラムにもおつきあいください!!
黒沢哲哉
1957年東京生まれ。マンガ原作家、フリーライター。手塚マンガとの出会いは『鉄腕アトム』。以来40数年にわたり昭和のマンガと駄菓子屋おもちゃを収集。昭和レトロ関連の単行本や記事等を多数手がける。手塚治虫ファンクラブ(第1期)会員番号364番