今回の虫さんぽは、総武線沿線の出版社をめぐる散歩だっ!! 虫さんぽではちょうど1年前、講談社や光文社など文京区の出版社を訪ね歩いた。だがしかし! 手塚治虫先生が作品を発表した出版社は文京区だけじゃない!! 今回は総武線沿線の出版社を訪ね、かつて手塚先生とご縁のあった編集者の皆さんに案内をしていただく予定だ! ちなみに快速電車は水道橋、飯田橋、市ヶ谷には停まらないので注意しよう。ではさっそく出発だっ!! 「ご乗車ありがとうございます。快速高尾行き、次の停車駅は四ッ谷です」うあぁ、しまったーーーっ!!
秋もすっかり深まり、今年の夏のあの猛烈な暑さもそろそろ遠い記憶となりかけて来ました。
そんな散歩日和のこの季節、今回は総武線沿線に点在する、手塚先生ゆかりの出版社を訪ねてそぞろ歩いてみようと思います。
スタート地点はJR総武線水道橋駅。最初に目ざすのは「少年画報社」だっ!
水道橋駅西口を出たら大通りを10mほど南下、路地を入ってすぐのところに建つ5階建てのビル、ここが少年画報社である!
だがちょっと待ったーっ! 編集部へおじゃまする前に、なぜここ少年画報社を、今回の散歩の最初の目的地としたのか、その理由を説明しておこう。
昭和21年、プロのマンガ家としてデビューした手塚治虫先生は、最初は関西の出版社で単行本を中心に活動していた。しかし昭和25年、学童社の雑誌『漫画少年』の初連載『ジャングル大帝』を皮切りに、手塚先生はいよいよ東京へと進出する!
すると東京のほかの出版社からも、手塚先生に我も我もとマンガの執筆依頼が殺到するようになった。
そして、そうした東京の出版社の中でもいち早く手塚先生獲得に動いたのが少年画報社だったのである!
手塚先生のマンガが少年画報社の雑誌『少年画報』に初掲載されたのは、昭和25年11月号の読み切り『鳩時計事件』である。そして同誌の昭和26年4月号からは早くも『サボテン君』の連載が始まっている。
だけど手塚ファンにとっての当時の少年画報社の功績は、何といっても、手塚先生の読み切り短編作品を雑誌の別冊付録として何冊も刊行してくれたことである。
ここに紹介した付録の数々。このカラーの表紙を見てるだけで美しさに目まいがしてきそうだぜ〜〜〜っ!!
この少年画報社を案内してくださるのは、現在の少年画報社取締役社長・戸田利吉郎さんである。うおお〜〜〜っ、社長じきじきのご案内ありがとうございます!!
戸田さんが少年画報社へ入社したのは昭和43年4月。最初に配属された『週刊少年キング』編集部では、手塚先生の同誌での初連載作品『ノーマン』の原稿取りを経験するなど、手塚先生の仕事ぶりを間近で見てきたひとりである。
それでは戸田社長、まずは会社の沿革からお聞かせ願えますか? ピキーン(緊張している音)
「はっはっは、そう堅くならずに(笑)。小学館出身の創業者・今井堅が、少年画報社の前身である明々社を創立したのは終戦直後の昭和20年10月のことです。そして昭和23年には児童向け読み物雑誌『冒険活劇文庫』を創刊しました。これが後に改題して『少年画報』となったのです(昭和25年2月〜)。さらに昭和31年5月には社名も株式会社少年画報社とあらため、新たな出発を切りました」
なるほどー、『少年画報』の創刊は、手塚先生が東京で活躍を始められたころとぴったり一致するわけですね!
「まさにそうです。当時は児童向けの読み物が、絵物語からマンガへと急速に移行している時代でしたから、うちとしても手塚先生にはぜひ描いてもらいたいと早くから考えていたようです」
お話をうかがった後、戸田社長には、少年画報社の書庫へも案内していただいた。
厳重なセキュリティのロックを解除して入れていただいた広いフロアには、ガラス扉のついたスチール製本棚が整然と並び、その中には背表紙をチラッと見ただけでもそれと分かる超貴重な本や雑誌がギッシリ詰まっている!! うおおっ!!
「一部、倉庫に保管しているものもありますが、ここにはうちの過去の出版物がまとめて収蔵してあります」
戸田社長によれば、初期の古い雑誌は傷みを防ぐために合本して表紙をつけて保管し、最近の雑誌などはすべて3冊ずつ保管しているという。
懐かしい『少年画報』や『少年キング』のバックナンバーも並んでますが、過去の雑誌は全巻揃っているんですか!?
「それがあいにく欠けているところもあるんですよ。最初はきちんと保管してあったということですが、イベントで貸し出したり資料として持ち出したりして返却されないものがありましてね。特に残念なのが手塚先生の別冊付録がまとめてなくなっていることです」
うおお、それは残念ですね!
「ですから後に古書店で買って補充したものもかなりありますよ」
戸田社長、貴重なお話をありがとうございました!!
さて、少年画報社の話題はまだ終わりません。昭和29年、ここ少年画報社を舞台として、手塚先生を主役としたある“事件”があったのをご存知だろうか。それを紹介しよう。
事件の発端は、昭和29年、手塚先生が学童社の雑誌『漫画少年』に連載していた『漫画教室』という作品から始まる。
同誌の2月号が発売されて間もなくのことだから1月初旬のことだろう。少年画報社の編集部でカンヅメになって仕事をしていた手塚のもとへ、マンガ家の福井英一がタクシーで乗り付け、怒鳴り込んできた。
当時『少年画報社』の編集者だった福元一義氏の著書『手塚先生、締め切り過ぎてます!』(2009年集英社刊)によれば、それは深夜11時過ぎごろだったという。福井氏とともに、手塚とも親しいマンガ家の馬場のぼるも同行していた。
以下、手塚先生のエッセイから引用しよう。
荒れ模様で入ってきた福井氏は、開口一番、手塚先生にこう切り出したという。
「「やあ、手塚、いたな、君に文句があるんだ」
「な、なんだい?」
「君は、おれの作品を侮辱した。中傷した。謝れ、謝らないならおもてへ出ろ」」(講談社版手塚治虫全集第383巻『手塚治虫エッセイ集』第1巻より)
何やら、ただならぬ様子だが、いったい何が起きたのか!?
じつは福井氏は、手塚先生が『漫画少年』2月号に掲載した『漫画教室』の内容に怒っていたのだった。
この号で手塚先生が、悪い手抜きマンガの例として描いた見本の絵が福井英一の『イガグリくん』そっくりだ、と福井氏は主張していたのである。
結局、その日、手塚先生は仕事を中断し、福井氏と馬場氏の三人で池袋の飲み屋へ行って話し合い、手塚先生が謝罪したことで一件落着となった。
手塚先生はその顛末をこう書いている。
「正直なところ、そのころのぼくは、福井氏の筆勢を羨(うらや)んでいたのだった。それが無意識に『イガグリくん』的漫画に対する中傷として、『漫画教室』という作品ににじみ出てしまったのだ。いわれてみるとたしかに思い当たり、言い訳のしようがない。ぼくはやりきれない自己嫌悪に陥り、
「すまなかった」
と、頭をさげた」(前出『手塚治虫エッセイ集』第1巻より)
ちなみに少年画報社の戸田社長によれば、この当時の少年画報社の編集部は、現在の場所ではなく、水道橋駅をはさんだ反対側の都立工芸高校近くにあったということです。
少年画報社を後にして次に向かったのは、お隣の飯田橋駅だ。東口を出て大通り沿いに南下すると、1階に紳士服屋さんが入った8階建てのビルが見えてくる。
ここはかつて手塚先生が『ブッダ』や絶筆『ルードウィヒ・B』を発表した雑誌『コミックトム』などを出版していた潮出版社のあった建物だ。その潮出版社は現在、千代田区一番町へ移転しているので、そちらへは後ほどうかがいます!
そしてその旧・潮出版社の建物の先を左へ曲がると突き当たりがホテルメトロポリタンで、その右角に建つ大きなビルが『週刊少年チャンピオン』を出している「秋田書店」である。
秋田書店は、元小学館の編集者だった秋田貞夫氏が同社を退社した後、昭和23年に設立した出版社だ。 翌昭和24年1月には児童向けの読み物雑誌『少年少女冒険王』を創刊、同誌は後に『冒険王』と改題し、次第にマンガ中心の雑誌になっていった。また昭和26年12月にはより低年齢向けの児童マンガ誌『漫画王』も創刊している。 『冒険王』も『漫画王』も、手塚先生が東京進出直後から初期の連載や読み切りを数多く発表した雑誌だ。 それから、これはまた後で詳しく紹介するが、昭和20年代、手塚先生はこの秋田書店編集部で寝泊まりしながら原稿を描いたこともよくあったということだ。
そして! 秋田書店で手塚先生の代表作といえばもちろんコレ! 1970年代に『週刊少年チャンピオン』に連載されて大ヒットした『ブラック・ジャック』だっ!
ということで、今回秋田書店を案内してくださるのは、現在、同社AS企画副編集長であり、かつては『ブラック・ジャック』の三代目担当編集者だった青木和夫さんである。
青木さんは昭和50年に秋田書店に入社、すぐに『少年チャンピオン』編集部に配属され、『ブラック・ジャック』の担当、つまり手塚番を命じられた。
その青木さんは、先ごろテレビドラマ化もされて大人気のマンガ『ブラック・ジャック創作秘話〜手塚治虫の仕事場から〜』(原作/宮崎克、漫画/吉本浩二)にも登場しており、その中では「『ブラック・ジャック』の原稿をもっとも数多くとった男」と紹介されている。※宮崎克氏の崎は正しくは(山へんに竒)です。
青木さん、初めまして! かつて手塚先生が泊まられた編集部というのはココにあったんですか?
「いいえ、秋田書店がここに移転して現在の社屋を建てたのは、私が入社する2年前の昭和48年3月のことです。それ以前は、水道橋駅に近い千代田区三崎町に本社があったんです。
さらにそれより前は、駿河台下に古い建物を間借りしていたそうですが、さすがにそのころのことは私も知りません」
手塚先生がこちらの新社屋に来られたことはあるんですか?
「はっきり覚えているのは、わたしの担当時代だった『ブラック・ジャック』の連載中に、ここの7階の会議室に詰めて仕事をされたことですね」
ええっ『ブラック・ジャック』のころにですか!? 手塚先生があちこちの出版社や旅館に詰めて仕事をされていたのは昭和30年代の前半までだったと聞いていますが、そのときはどんな事情があったんでしょう?
「よっぽど締め切りがギリギリだったのか、どこかへ旅行に出かけられる直前だったのかもしれません」
青木さん、貴重なお話をありがとうございます!!
青木さんには次回のコラム「手塚マンガあの日あの時」でもゆっくりとお話をお聞きする予定です。お楽しみにっ!!
さて、次はふたたび総武線に乗って次の市ヶ谷駅で下車をする。目ざすのは先ほどもチラッと名前を出した潮出版社の新社屋なんだけど……、
その前に! ここ市ヶ谷駅は『鉄腕アトム』の初期のエピソード「フランケンシュタインの巻」(昭和27〜28年)にワンカットだけ描かれているのでソレも忘れずチェックしよう。
そして、ここから徒歩10分ほどの場所にあるのが現在の「潮出版社」である。
こちらで案内をしてくださるのは、現潮出版社取締役総務局長の大浦静雄さんである。大浦さんは昭和51年に潮出版社へ入社。雑誌『希望の友』編集部へ配属され、間もなく当時手塚先生が同誌に連載中だった『ブッダ』の担当となった。そして以後、『少年ワールド』、『コミックトム』と掲載誌を変えながら『ブッダ』の連載は続き、大浦さんは足かけ8年にわたって手塚番を務めたという。
それにしても大浦さん、手塚番8年というのは長くないですか?
「恐らく長い方でしょうね。手塚番は体力的にハードですから、大手の出版社は若い新人編集者に担当させて、大体3〜4年で交代します。しかしうちは大手とは規模が違いますから(笑)」
そんなベテラン手塚番だった大浦さんから、今回、手塚先生のとても貴重な写真をお借りしました。この写真はいつ撮られたものなんですか?
「1984年の11月に中野サンプラザで開かれた私の結婚式のときの写真です。手塚先生がゲストでお越しくださって、ステージで模造紙に絵を描いていただいたんです。
まず最初に私と妻がアルファベットで名字と名前を書くでしょう。そして後からそこに手塚先生がマジックで加筆されましてね、アッという間にこんなイラストにされたんです」
うおおっ、これはうらやましいですね。手塚先生が講演などでよくやられていた即興パフォーマンスですよね!!
「前任の先輩編集者が結婚されたときには、手塚先生は忙しく出席できず祝電だけだったそうで、『大浦、もっと感謝せーい!』と、羨ましがられましたね(笑)」
いえいえ、これは手塚番8年の役得ですよ!! 大浦さん、ありがとうございました!!
さていよいよ散歩も終盤である。市ヶ谷駅からふたたび総武線でお茶の水へ戻り、駿河台下交差点へ向かって坂を下ってゆく。
すると右手の小高い丘のてっぺんにクラシカルなホテルが建っている。昭和29年開業の「山の上ホテル」である。
今回の出版社巡りというテーマからは外れるけど、潮出版社の大浦さんが手塚番だったころ、ここにカンヅメになっていた手塚先生のもとへ何度か原稿取りに訪れたそうなので、ここも立派な手塚スポットとしてぜひ立ち寄ってみていただきたい場所だ。
続いてその先の路地の奥には、創業したばかりの秋田書店編集部が間借りしている建物があったという。
残念ながら秋田書店にも当時の資料は残っておらず正確な場所を特定することはできなかったが、手塚先生にとって当時の秋田書店編集部はとても思い出深い場所だったようだ。以下、手塚先生の文章より引用してみよう。
「(秋田書店の)当時の社屋は二階建ての木造事務所で、まあ、見ばえのする会社ではありませんでした。しかも、二階は「ラッキー」という別の娯楽雑誌の出版社で、せまい階段はギシギシ音がし、その階段の下には、返本や発送前の「冒険王」や単行本が山積みされていました。ぼくはよくこの社内で、しめ切りギリギリの原稿をかいたものです。ときには編集部の机の上にふとんをしいてねたこともありました」(講談社版全集第19巻『ぼくの孫悟空』第8巻あとがきより)
当時の出版社の風景や手塚先生の仕事ぶりが目に浮かんでくるような文章ですね。
そしていよいよ最後の目的地へと向かおう。駿河台下交差点から靖国通りを西へ向かい、神保町交差点を左へ曲がる。すると共立女子大学のキャンパスの手前に建っている大きなビルが旧・小学館本社ビルである。
この小学館ビルは昭和42年に竣工。しかし耐震性の問題からこの9月に解体されることが決定した。新社屋の完成は2016年春の予定だという。
小学館といえば、手塚先生が創刊号から数々の名作を発表した『週刊少年サンデー』の出版元であり、手塚先生との縁も深い場所だった。またひとつ手塚先生ゆかりの建物がなくなるというわけだ。
ところでこの小学館ビルの取り壊しが始まる直前の8月、にわかにこの建物に注目が集まった。社屋の解体を惜しむ有名マンガ家たちが集まって、建物の壁やガラス面などにたくさんの落書きをしたのだ。
落書きといってもプロのマンガ家による直筆の絵である。このことがマスコミで報道されると、マンガファンが続々と見学に訪れ、解体寸前の小学館ビルは、にわかに観光名所と化したのである。
ところで、じつは手塚先生も、このビルの礎石に自分自身の似顔絵を落書きしていたことをご存知だろうか。いや、実際の建物に落書きをしたわけではない。マンガの中でそんなお話を描いていたのだ。
それは手塚先生が昭和47年から48年にかけて『週刊少年サンデー』に連載した『サンダーマスク』の中でだった。この作品の中に、小学館ビルをモデルとした「大学館ビル」という建物が登場する。そしてそのビルの礎石には、何と手塚治虫そっくりの顔が浮かび上がるという荒唐無稽な設定で、そのとぼけた絵が描かれているのであった。
そう! つまり現代のマンガ家たちが2013年に落書きするより41年も前に、手塚先生はしっかりとこのビルに落書きをしていたのである(マンガの中で)! マンガの世界では何でも一番であることを目ざした手塚先生らしいエピソードと言えよう。いや、いくらなんでもこれは強引か!?
では今回も長時間の散歩におつきあいくださいましてありがとうございます。ぜひまた次回の散歩でもご一緒いたしましょう!!
ところで、今回案内人としてご登場くださった少年画報社の戸田利吉郎さん、秋田書店の青木和夫さん、潮出版社の大浦静雄さんですが、三人の手塚番だった当時のお話など、皆さん、ぜひもっとお聞きしたいと思いませんか? そこで! 次回のコラム『手塚マンガあの日あの時』では、もう一度お三方にご登場いただき、その当時のお話をじっくりうかがっちゃおうと思います! お楽しみに〜〜〜〜っ!!