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虫ん坊 2012年05月号:手塚マンガあの日あの時 第22回:逆引き版『陽だまりの樹』創作秘話!!

虫ん坊 2012年05月号:手塚マンガあの日あの時 第22回:逆引き版『陽だまりの樹』創作秘話!!

 徳川300年の太平の世が今まさに終わりを迎えようとしていた幕末時代──。その混沌とした時代を、手塚治虫が自身のルーツにからめて描いた大河ドラママンガが『陽だまりの樹』だ。手塚がこの作品を発想したきっかけは、あるひとりの研究者が発表した論文であったことは、それは前々回『虫さんぽ』第20回で紹介済みだ。そこで今回はその論文や関連する資料を読み解きながら、手塚がそれらからどんなことを発想し、それを作品に昇華させていったのか、そんな創作の秘密を完成作品と資料とを対比させながら、逆順でたどってみた!



◎発想のモトが明らかな唯一の手塚マンガ!

虫ん坊 2012年05月号:手塚マンガあの日あの時 第22回:逆引き版『陽だまりの樹』創作秘話!!

深瀬泰旦先生が1979年7月号の学会誌に発表した論文『歩兵屯所医師取締 手塚良斎と手塚良仙』。深瀬先生は、もともとは地元・川崎の医師、太田道一について調べていたが、その道一の妹が江戸の手塚良仙光照の元へ嫁いでいたことを知り、ここで初めて手塚良仙の名を知ったのだった

 手塚治虫が生涯に発表したマンガは1000作品以上にものぼると言われている。扱ったテーマも驚くほど幅広い。SF、ミステリー、歴史劇、ラブストーリー……およそ考えつくあらゆるジャンルの作品を手がけたと言ってもいいだろう。
  いくつもの作品を同時並行で量産しながらも、次から次へ、こんこんと湧き出て最後まで枯れることのなかった想像力の泉。その手塚の縦横無尽な発想はいったいどこから生まれてきたのか、彼の頭の中はいったいどうなっていたのか、それは手塚マンガを読めば読むほどふくらんでくる永遠の謎である。
  が! そんな広大な手塚宇宙の中で、その発想の出元が明らかになっている恐らく唯一の作品がある。それが『陽だまりの樹』だ!
 手塚がこの作品を思いつくきっかけとなったのは、ひとりの医史学の研究者が学会の専門誌に発表した論文を手塚が読んだことだった。その研究者の名前は深瀬泰旦先生。論文の題名は『歩兵屯所医師取締 手塚良斎と手塚良仙』である。
 論文の内容は、幕末から明治初期にかけて蘭方医として西洋医学の普及に力をそそいだある一族について、歴史に埋もれた資料の中から地道に掘り起こして著した労作だった。そしてそこに取り上げられた手塚一族こそは、何とそれまで手塚治虫本人も知らなかった手塚家の祖先だったのである!
 手塚がこの論文を読んだのは、まさに運命の巡り合わせともいえる複数の偶然が重なったためだった。その経緯については、先々月のコラム『虫さんぽ』第20回・川崎編で、深瀬先生ご本人にお会いして直接お聞きしているので、ぜひそちらを参照していただきたい。


◎自身のルーツから創作を思い立ったそのプロセスとは!?

虫ん坊 2012年05月号:手塚マンガあの日あの時 第22回:逆引き版『陽だまりの樹』創作秘話!!

歩兵屯所附医師となった良庵が、歩兵組隊長の万二郎と出会う場面。ふたりが初めて出会ってから何年も経過しているにもかかわらず、あいかわらずけんか腰の会話であるところが面白い(講談社版全集第335巻『陽だまりの樹』第10巻より)

 と、そんな不思議な縁でこの論文を読んだ手塚は、そこでただ自身のルーツを知って満足して終わることはなかった。この創作の巨人の頭はすぐにフル回転を始め、論文に書かれた事実にどんどんとフィクションの肉付けがなされていったのだ。
 そしてやがて、手塚良仙という古〜い文献の中だけに記されていた人物に新しい命が吹き込まれ、この論文との出会いからわずか半年後には『陽だまりの樹』の連載が始まったのである。
 今回は、手塚のその論文との出会いから、『陽だまりの樹』という作品に至るまでの過程を、その原典と完成した作品とを見くらべながら、どの資料からどんな発想が生まれていったのか、そのプロセスを逆引きで読み解いていこうと思います。こんな読み方ができる手塚マンガは1000作品の中でもただ1本、この作品だけ! ぜひご一緒にお楽しみください!!


◎江戸の開業医・手塚家とは!?

虫ん坊 2012年05月号:手塚マンガあの日あの時 第22回:逆引き版『陽だまりの樹』創作秘話!!

深瀬先生が調べた手塚家の家系図(『日本医師学会』1981年1月号『手塚良仙光亨知見補遺』より)。この時点では大月俊斎と結婚した良仙光照の長女・海香は良庵の妹となっていて、手塚治虫もそれを受けて妹という設定でマンガに登場させた。しかし後に良庵の姉であったことが判明したという

 ということで、まずはすべてのオオモトとなったその論文を読んでみなくちゃ始まらない。ちょっと長くなるけど、その論文の中で手塚一族がどのように紹介されていたのか、その紹介から始めよう。といってもカタい部分はざっくり省いて要点だけを紹介しますので、おのおの方ご安心めされよ!!
 深瀬先生の書いた論文『歩兵屯所医師取締 手塚良斎と手塚良仙』は、1979年4月6日に開かれた第80回日本医師学会総会でその要旨が発表され、『日本医史学雑誌』第25巻第3号(1979年7月号)に全文が掲載された。
 内容は、内外の情勢があわただしく変化していた幕末の時代に、幕府が武士ではない一般の農民を徴用して、初の近代的陸軍=歩兵組を組織したという記述から始まっている。『陽だまりの樹』では、伊武谷万二郎が故郷の農民たちを説得してその基礎を作り、その後、隊長に就任したアレですね!
 幕府はこの歩兵組を組織するに当たり、歩兵屯所に専属の軍医である屯所附医師を置いた。そして深瀬先生の調査で、その最初の任に当った9名の中に手塚良仙と手塚良斎というふたりの手塚姓の医師がいたという事実が浮かび上がったのである。


◎深瀬先生が調べた手塚家3代の家系

 深瀬先生の興味はここから一気に手塚一族へと向かってゆく。今は歴史に埋もれてしまい、その名を知る人は少ないが、実は手塚一族が、この時代の西洋医学の普及に大きく貢献していたことが明らかとなってきたからだった。
 深瀬先生は論文の中で、当時、手塚良仙を名乗った人物が3人いたことを明らかにしている。
 初代は武蔵国(現在の東京・埼玉・神奈川にわたる地域の旧国名)大里郡代村出身で冨田与八郎の四男だった良仙光行(明和6[1869]年生まれ)。手塚良意の娘婿となり、常陸府中二万石松平播磨守の侍医となる。小石川三百坂で内科を開業し、文政12(1829)年に死亡した。
 二代目は良仙光照。良仙光行の嗣子しし(あととり)で、良仙光行と同じく松平播磨守の家来となり、小石川三百坂で小児科・産科を開業。文久2(1862)年に62歳で死亡した。
 そして三代目が良仙光照の長男の良庵(良仙光亨)。言うまでもなく、この人物こそが後に『陽だまりの樹』の主人公となる男である。安政2(1855)年に緒方洪庵が大阪に開いた適塾へ入門、その後江戸へ帰ってからは父と共に種痘所の開設などに尽力し、父の死後、良仙を襲名した。そして文久3(1863)年には先の歩兵屯所附医師となっている。
 ただしこの時点では明治3年を最後に良庵についての記録は途絶え、深瀬先生にとっても、手塚一族のその後はいまだ不明のままだった。論文でも「手塚家の菩提寺については現在までのところ不明である」と書きまとめている。
※論文の題名にあって『陽だまりの樹』にも登場している手塚良斎は、手塚家の元々の血縁者ではなく、18歳で医の道を志し手塚良仙光照に入門、弘化元(1844)年に良仙光照の次女と結婚して手塚家の養子となった人物であると論文に記されている。


◎福澤諭吉の著書で良庵に関する記述を発見!!

 手塚治虫が、運命のいたずらによってこの論文を読むことになったのは1980年秋のことだった。だけどこの時点では、手塚自身もこれが新たな作品創作のタネになるなんて夢にも思っていなかったコトでしょう。
  そんないまだ発動していない手塚の創作意欲を大きく揺さぶることになったのは、この論文をきっかけとして、手塚自身が良庵について記した“新たな資料”を発見したからだった。以下、手塚自身の言葉でそれを紹介しよう。
「もしや、と思って私は『福翁自伝』をひもといてみた。すると、果たして適熟時代の記述の中に、あった。手塚良仙のエピソードがあった」(講談社版全集第336巻『陽だまりの樹』第11巻あとがきより ※初出は『日本興業銀行新聞』1986年9月号に寄せたエッセイ)
『福翁自伝』というのは、福澤諭吉が晩年の明治30年に自分自身の生涯について口述筆記を行い、それを元に書きまとめた自伝である。
  手塚良仙(良庵)が、緒方洪庵の主宰する適塾へ第359番目の門人として入塾したのは安政2(1855)年11月25日のこと。一方、福澤諭吉はその8ヵ月前の同年3月9日に第328番目の門人としてすでに入塾しており、早い話、ふたりはほぼ同時期に入門した適塾の同期生だったのだ。


虫ん坊 2012年05月号:手塚マンガあの日あの時 第22回:逆引き版『陽だまりの樹』創作秘話!!

虫ん坊 2012年05月号:手塚マンガあの日あの時 第22回:逆引き版『陽だまりの樹』創作秘話!!

現在の大阪市中央区北浜に現存する適塾の建物(左)と、その敷地に置かれている緒方洪庵の銅像(右)。2011年6月に公開した『虫さんぽ』第16回で同所を取材したときの写真だ。詳しくはそちらの記事もぜひ読んでみてください


◎福澤諭吉が見た江戸っ子良庵の横顔とは!?

虫ん坊 2012年05月号:手塚マンガあの日あの時 第22回:逆引き版『陽だまりの樹』創作秘話!!虫ん坊 2012年05月号:手塚マンガあの日あの時 第22回:逆引き版『陽だまりの樹』創作秘話!!

1978年岩波文庫版『新訂 福翁自伝』(左)と福澤諭吉の肖像写真(『生誕150年記念 福澤諭吉展 図録』1984年福澤諭吉展委員会編より引用)。『福翁自伝』はさまざまな出版社から様々なバージョンが刊行されているので、好きな版で読めばいと思います

 福澤は『福翁自伝』全15章の中で適塾時代の記述にたっぷり2章を割いて、当時の塾生たちの自由気ままな生活や、ひたすら学問に打ちこむ姿について生き生きと描写している。
 さっそく読んでみると、「江戸から来ている手塚という書生」についてのくだりはすぐに見つかった。
『福翁自伝』によれば、手塚良庵という男はこんな人物だったようだ。「親の拝領した葵の紋付を着て、頭は塾中流行の半髪で太刀作たちづくりの刀を挟しているという風だから、如何いかにも見栄があって立派な男であるが、如何どうも身持ちが善くない」
 短い文章の中にも良庵のこざっぱりとした身なりが活写されていて、江戸っ子らしいシャレ者だった様子が目に浮かんでくる。
 しかし適塾へは勉学のために来ているのに真面目に勉強をしないのはよろしくない。ということで福澤は仲間たちと一計を案じ、『陽だまりの樹』にも描かれた「遊女からの偽手紙作戦」を遂行するのだ。
 福澤たちの書いた偽手紙にだまされてホイホイと女郎屋へ足を運んでしまった良庵が、あくる日、福澤たちに丸坊主にされそうになり、それを許してもらう代わりに酒や料理をおごらされるというくだりは、ほとんどそのまま『福翁自伝』からの引用だ。


◎手塚治虫は適塾に虫プロの気風を見た!

虫ん坊 2012年05月号:手塚マンガあの日あの時 第22回:逆引き版『陽だまりの樹』創作秘話!!

適塾時代の手塚良庵。『福翁自伝』に記された江戸から来たシャレ者というイメージを手塚治虫流に見事にキャラクター化している(講談社版全集第328巻『陽だまりの樹』第3巻より)

 それにしても、これを読んだだけで良庵という男が何とも人間味にあふれた憎めない男であったことがうかがえる。恐らく手塚もそう感じたに違いなく、これを読んだあたりから「この人物を主人公にマンガを描きたい」という構想がふくらみ始めたということはほぼ間違いないだろう。
 また『陽だまりの樹』の適塾時代の場面には、ほかにもこの『福翁自伝』から多くのエピソードが引用されている。例えば、肉屋からもらってきた豚の頭を解剖して食べる話、福澤が全裸で階段から降りてきてそれを洪庵の妻に見られてしまった話、馬の爪をいぶしてアンモニアを抽出しようとする話などがそれだ。古い本だけど非常に平易な文章で書かれていて読みやすいので『陽だまりの樹』ファンはぜひ一度読んでみていただきたい。
 手塚はこうした塾生たちの破天荒な生活や、それとは対照的に真剣に勉学に打ちこむ姿を、かつて自らが立ち上げた虫プロの姿に重ね合わせた。以下、前出の講談社版全集『陽だまりの樹』の手塚のあとがきより。
「個人的な体験にて恐縮だが、私は、適塾における雑然たる中に爆発的なエネルギーと摂取力を持った集団のイメージを、かつて私が主宰した虫プロダクションの内部に見た。虫プロのスタジオにみなぎる活気と、うらはらに誰もが貧しく、秩序も統制もないばらばらの個性の衝突、混乱の中に試行錯誤をつづけたあの時代。──今思うと、あれこそ、アニメという新しい映像文化の黎明期の象徴だった。そして、その中から、現在のアニメブームの中心的役割をになう人々が実に数多く、巣立っていったのだった」


虫ん坊 2012年05月号:手塚マンガあの日あの時 第22回:逆引き版『陽だまりの樹』創作秘話!!

虫ん坊 2012年05月号:手塚マンガあの日あの時 第22回:逆引き版『陽だまりの樹』創作秘話!!

福澤諭吉らがねつ造した遊女の偽手紙にまんまと乗せられて、夜中に適塾を抜け出し、遊郭へと向う良庵……。ちなみにマンガの中で良庵は遊郭で「鉄川」と名乗っている設定になっていたが、この名前も『福翁自伝』の中に登場する


虫ん坊 2012年05月号:手塚マンガあの日あの時 第22回:逆引き版『陽だまりの樹』創作秘話!!

虫ん坊 2012年05月号:手塚マンガあの日あの時 第22回:逆引き版『陽だまりの樹』創作秘話!!

しかし翌朝、良庵は諭吉にあっさりと捕まり、坊主にするぞと脅されて、塾生一同に酒と鶏を奢らされるのだった(講談社版全集第330巻『陽だまりの樹』第5巻より)


◎伊武谷万二郎というキャラはどこから生まれたか

虫ん坊 2012年05月号:手塚マンガあの日あの時 第22回:逆引き版『陽だまりの樹』創作秘話!!

昔の江戸絵図に記された手塚良仙の家(赤枠は黒沢が加筆)。ちょっと見にくいけど良仙の家の前の通りには「三百サカ下トオリ」と書かれている。この地図で言うと、その三百坂をくだった左上にあるのが松平播磨守のお屋敷だ。そこから良仙宅の前の三百坂をずーっと上っていった先に江戸城がある(深瀬泰旦著『歩兵屯所医師取締 手塚良斎と手塚良仙』より孫転載)

 こうして手塚が『福翁自伝』を読んで、良庵という人物の人柄を知り、適塾に虫プロの熱気を感じた。
 と同時に頭の中には『陽だまりの樹』の漠然とした構想が芽生えたとしても、それがひとつの作品として昇華するためには、もうひとりの主人公が誕生しなければならない。それが、この物語のために手塚が生んだ架空の青年武士・伊武谷万二郎だ。
 陽だまりで立ち枯れていく樹木のように衰退への道を突き進む江戸幕府。そんな幕府の現状を目の当たりにしながらも、万二郎は最後まで幕府への忠誠を尽くし、武士としての生涯を貫く。
 手塚良庵とは時代のとらえ方も生き方もまるで対照的なこの男を物語の中心に据えることで、『陽だまりの樹』は幕末という激動の時代を活写することができたのだ。
 ではこの万二郎というキャラクターはどこから生まれたのか。そのヒントは再び深瀬先生の論文の中にあった!


◎三百坂に今も残る松平家の家臣教育法

虫ん坊 2012年05月号:手塚マンガあの日あの時 第22回:逆引き版『陽だまりの樹』創作秘話!!

『陽だまりの樹』連載第1話のトビラ(『別冊太陽 子どもの昭和史 手塚治虫マンガ大全』1997年平凡社刊より孫転載)

 深瀬先生の論文には、手塚良庵が祖父の代から自宅兼診療所として住んでいた場所が当時の古地図付きで紹介されている。小石川三百坂というのがその場所で、古地図にもはっきりと「手塚良仙」という名前が見える。現在の住所で言うと文京区小石川4丁目だ。
『陽だまりの樹』第1話の冒頭は、この三百坂を主君の乗った駕籠を追って全力で駆け上がる万二郎を、良庵が自宅前の道ばたでニヤつきながら見送る場面から始まっている。
 ふたりの立場や生き方の違い、そして後につながる確執を一場面で表現した印象的なオープニングである。そして実はこのエピソードは史実にもそのままあったものなのだ。
 かつてこの坂を下った先には松平播磨守のお屋敷があった。その松平家の主君が江戸城へ登城する際に、新入りの武士を鍛えるために、従者たちにこの坂を毎朝全力で駆け上がらせた。そして坂を上りきるまでに主君に追いつけなかった者には罰金として三百文を支払わせた。このことから、昔は“三貊(さんみゃく)坂”という名前だったこの坂が、いつしか“三百坂”と呼ばれるようになったのだという。
 良庵の住まいである三百坂について調べた手塚はこのエピソードを知り、すぐにこのオープニングシーンの展開を思いついたに違いない。
 毎朝、坂を必死の形相で駆け上がってくる青年武士と、それをニヤつきながら見送る軟派な青年医者。この構図が思い浮かべば、天才・手塚にとっては万二郎という人物像が誕生するまでなんてほんの一瞬だったんじゃないでしょうかね。


虫ん坊 2012年05月号:手塚マンガあの日あの時 第22回:逆引き版『陽だまりの樹』創作秘話!!

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虫ん坊 2012年05月号:手塚マンガあの日あの時 第22回:逆引き版『陽だまりの樹』創作秘話!!

主君の乗った駕籠を追いかけて三百坂を駆け上がる万二郎と、それを見送る良庵。ふたりの立場とキャラクターがこの数コマで見事に表現されている(講談社版全集第326巻『陽だまりの樹』第1巻より)


◎良庵と万二郎の顔はこうして決まった!?

 こうして『陽だまりの樹』のふたりの主人公の輪郭が整うと、次は顔の造形をどうするかだ。ふたりの顔については、まず当時の写真が残されている良庵の顔の造形が決まって、次にそれと対比する形で万二郎の顔が考えられたとみるのが順当だろう。
 写真に写った良庵は面長で、『福翁自伝』で書かれた通りのナイーブで理知的な男のように見受けられる。一方の万二郎はごっつい顔立ちで、口をいつも“への字”にひん曲げた、いかにも実直で頑固そうな男になった。手塚マンガのキャラクターとしては、この“への字”型の口は珍しい。
 当初ぼくは、万二郎の造形はあまりに無骨すぎて主人公として華がないんじゃはないかな〜と思っていたんだけど、話が進むにつれてこの無骨さが良庵との絶妙な対比となって際立ち、この顔以外には考えられなくなった。


虫ん坊 2012年05月号:手塚マンガあの日あの時 第22回:逆引き版『陽だまりの樹』創作秘話!!

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緒方洪庵の14回忌に駿河台の緒方邸で撮られた記念写真。中央最前列に軍医の制服に身を包んだ手塚良仙(良庵)の姿がある。撮影は明治9年、良庵が戦地で病死する1年前だ(この写真の現物は大阪の適塾に展示されている)


◎執念の調査で明らかとなった良庵の最期

虫ん坊 2012年05月号:手塚マンガあの日あの時 第22回:逆引き版『陽だまりの樹』創作秘話!!

戦地で重傷を負った万二郎を良庵が治療。何とか一命はとりとめたものの、万二郎の顔にはブラック・ジャックのような大きな傷跡が残ってしまった(講談社版全集第335巻『陽だまりの樹』第10巻より)

 深瀬先生の論文との運命的な出会いからおよそ半年後の1981年3月15日、手塚は編集者とともに深瀬先生のお宅を訪問し、『陽だまりの樹』の構想を説明して、深瀬先生の論文をこのマンガの参考資料として使いたい旨を申し出た。
 これについても『虫さんぽ』第20回で紹介した通りなんだけど、実はこの間、深瀬先生の研究にもさらなる進展があった。深瀬先生の最初の論文では良庵の明治3年以降の消息が不明だったが、その後の執念の調査で、それが明らかとなっていたのだ。
 その深瀬先生が新たに発表した論文が『手塚良仙光亨知見補遺』(『日本医師学会』第37巻第1号 1981年1月号掲載)である。
 この中で深瀬先生は良庵が明治10年、近衛歩兵連隊の軍医として出征し、赤痢にかかって死亡していたことを突き止めた。さらに『明治十年西南戦役衛生小史』(大正元年)という文献には、西南戦役における傷病者の治験の一例として、手塚良仙(良庵)の発病から死亡までが詳しく記されていたことを発見したのである。
 この『陽だまりの樹』誕生までのいきさつには、これまでもいくつもの幸運な偶然が続いたが、この深瀬先生の大発見もまた、そのひとつと言っていいだろう。


◎良庵の最期を記した文献から

 以下、その良庵の最期の部分を深瀬先生の論文から引用してみよう。 「鹿児島城の急趾諏訪の馬場にあった小繃帯所に勤務していた手塚良仙が発病したのは、戦火がすでにおさまった九月二六日のことである。「下痢に罹り上●数行、食嗜振ハス。身神安カラ」ざる状態であった。ただちに海路により神戸港を経由して大阪にいたり、二九日に大阪城内にあった臨時病院士官室に入院した。(略)
 赤痢であった。佐藤進軍医監(略)などの回診をうけ、諸種の治療をほどこされたが、その甲斐なく、明治一〇年一〇月一〇日午前一一時二〇分、ついに死亡した。この日は征討総督有栖川宮熾仁親王が東京に凱旋した日にあたる」
※●=口の中に
 1981年3月、深瀬先生の元を訪ねた手塚に、深瀬先生が新たに判明した良庵の最期の様子を伝えると、手塚は「何ともあまりカッコのいい話ではありませんな」と言って「寂しげな面もちで微笑」んだという(小学館文庫版『陽だまりの樹』第1巻の巻末エッセイ「手塚家のルーツと『陽だまりの樹』深瀬泰旦著より)ことだ。


虫ん坊 2012年05月号:手塚マンガあの日あの時 第22回:逆引き版『陽だまりの樹』創作秘話!!

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死地へおもむくために兵士を治療する。良庵が軍医という仕事の空しさを吐露するシーン。手塚治虫自身が、もしかしたら軍医として戦地へ行っていたかも知れない。手塚はそんな思いを込めながらこの場面を描いたのだろうか(講談社版全集第336巻『陽だまりの樹』第11巻より)


◎不思議な偶然の重なりから生まれた名作

 こうして、いくつもの幸運な出会いと発見がいく重にも積み重なった結果として『陽だまりの樹』というマンガは誕生した。
 いま、そうしたこの作品の背景を知ってから、あらためて読み返してみると、手塚良庵と手塚治虫の人生にも、いくつもの不思議な重なりがあったことに気がつく。
 良庵は江戸に生まれて大阪の適塾に学び、江戸で種痘の不朽などに尽力したが、その後、進む道を変えて軍医となり大阪で亡くなった。
 一方手塚治虫は関西で生まれ、昭和20年7月に大阪大学の医学専門部に入学した。この医学専門部というのは戦時中に軍医を養成するために設立された学部で、その校舎は何と、適塾とは徒歩数分の位置である中之島にあったのだ。だが日本が戦争に負けたために手塚は軍医になることなくマンガ家になった。そして良庵がたどったのとは逆の道をたどって東京へと出てきたのである。
 あそこで戦争がもしあと1年、いや半年続いていたら、手塚は軍医として戦地に赴き、そこで良庵のように命を落としていたかも知れない。
 そんなことをあれこれ考えていると『陽だまりの樹』誕生までの不思議ないきさつも、本当はすべて必然だったのではないかと思えてくるのである。さて皆さんはいかがお考えだろうか。
 それではぜひまた次回のコラムにもおつきあいください!!


黒沢哲哉
 1957年東京生まれ。マンガ原作家、フリーライター。手塚マンガとの出合いは『鉄腕アトム』。以来40数年にわたり昭和のマンガと駄菓子屋おもちゃを収集。昭和レトロ関連の単行本や記事等を多数手がける。手塚治虫ファンクラブ(第1期)会員番号364番


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