東京のど真ん中にある日本一の繁華街・銀座。その銀座から歩いてわずか数分の距離にありながら、それぞれ雰囲気のまったく違うふたつの街がある。有楽町と日比谷である。今回はこの有楽町と日比谷に、手塚先生の足跡を尋ねてみよう。ディズニーの『バンビ』を見るために若き日の手塚先生が通い詰めた映画館。日比谷の高級ホテルで手塚が最晩年に会見したアメリカの超大物映画監督とは!? 今回も蔵出し情報満載の真冬の虫さんぽ、寒風にブルブル震えながら一緒に歩こうぜ〜〜〜〜っ!!
今回の散歩はJR有楽町駅からスタートだっ! その有楽町駅の中央西口を出ると、まず目に飛び込んでくるのが巨大なビックカメラの建物である。真上から見ると鉛筆の先端のような三角形の土地にそびえ立っているのでヒジョーに目立つ。
かつてはここに百貨店「有楽町そごう」が建っていて有楽町の顔となっていたが、同店は2000年9月に閉店。かわってビックカメラ有楽町店がオープンしたのだ。
有楽町と言えば、年配の方ならフランク永井の歌う歌謡曲『有楽町で逢いましょう』を思い出す人もいるだろう。実はこの歌も、もともとは有楽町そごうが1957年7月に開店した際に、その宣伝を兼ねて発表されたタイアップ曲だったそうである。
しかーーし、今回振り返る手塚先生ゆかりの地の思い出は、何とその有楽町そごうさえまだ影もカタチもなかった昭和20年代の出来事である。そして向かったのは、ビックカメラの斜め前に建つビルの中にある映画館・有楽町スバル座だ!
この有楽町スバル座と手塚先生にはいったいどんな関わりがあるのか!? まずは手塚先生のエッセイから引用した文章をお読みいただきたい。
「ぼくのディズニー狂いは『バンビ』で最高になった。
昭和27年当時、東京の有楽町スバル座は、まだバラック一軒建ての小屋だった。『バンビ』がロードショーにかかった初日の午前九時、ぼくは切符売り場にかけつけ、最終回までの前売り券を買ってしまった。毎回入れ替えの、たしか七回上映だったと思う。初日だけではなかった。その翌日も翌日も、九時には切符売り場に日参した」(講談社版手塚治虫漫画全集第387巻『手塚治虫エッセイ集2』「わがアニメ狂いの記」より、※初出『文藝春秋デラックス アニメーションの本』1977年)
そう、手塚先生がディズニーアニメに魅せられて、後に自分自身もアニメ製作に乗り出す。その原点となった名作『バンビ』を見たのが、まさにこの有楽町スバル座だったのである!
有楽町スバル座がオープンしたのは昭和21年12月31日のこと。このときのプログラムは1942年製作のアメリカ映画『我が心の歌』だった。そして翌年、スバル座はアメリカの配給会社C・M・P・Eと契約を結び、日本初のロードショー館となった。
大映の配給によって『バンビ』がこのスバル座で公開されたのは、手塚先生のエッセイでは昭和27年となっているが、実際は昭和26年のことだった。
さらに今回、スバル座から提供していただいた資料によって、その正確な日まで特定することができた! 資料によれば『バンビ』の日本での初公開日は昭和26年5月26日。スバル座ではさらにその翌月にもアンコール上映を行ったというから、手塚のみならず、当時、この作品がいかに大好評をもって迎えられたかがうかがえる。
『バンビ』はアメリカのウォルト・ディズニー社が1942年に製作した第6作目のカラー長編アニメーション映画である。
森の王の子として生まれた子鹿のプリンス・バンビが、多くの森の仲間たちに見守られながら少しずつ成長してゆき、やがてたくましい森の王となるまでを描いた70分のドラマだ。
動物や昆虫たちの個性的で愛らしい動きや、雨や嵐といった大自然の描写が素晴らしい。また新開発のマルチプレーン・カメラ(動画のセルを平面でなく前後に遠近感を持って配置できる撮影装置)による立体的な映像表現も効果的で、初期のディズニーアニメーションの中でも傑作とされている作品だ。
では手塚先生は当時、『バンビ』をどんな様子で鑑賞していたのか。前出のエッセイの続きを紹介しよう。
「最初の森のたたずまいのマルチ・シーンや、バンビの決闘のアクション・シーンなんかは、ハーハー溜め息をついて見た。ついにはクルリとうしろを向いて、お客の顔ばかり見るのであった。名場面が出てもお客の表情にさして反応がないと、「けしからん、これほどのシーンに感動もせんとは、あきれ果てた奴らだ、この俗物どもめ」と勝手に憤慨し、ギャグにお客が笑いころげると「そうだろう、そうだろう。やはりここは秀逸なギャグだわい」と、ひとりで喜んでいたのだ」(前出「わがアニメ狂いの記」より)
うーむ、これは傍から見たら、かなりアブナい人だったのではないだろうか……。
結局、手塚先生は当時『バンビ』を80回以上も見たという。さらにその後のリバイバルも含めると、この作品を「総計百三十回以上は見たことになる」(前出「わがアニメ狂いの記」より)とのことである。
言うまでもなく、ビデオなんてない時代のことですからね。恐ろしい数ですよ、これは。
ちなみにこのころ、手塚先生はまだ東京にはアパートも借りておらず、宝塚の実家と東京の出版社とを行き来する日々を送っていた。つまり前回の虫さんぽ第25回で歩いた、手塚先生が都内の旅館を渡り歩きながら仕事をしていた最初の時期とほぼ重なるわけですね。
ということで昭和26年、手塚先生がスバル座へ日参するには、どこかに宿をとる必要があった。ふたたび先生のエッセイからの引用です。
「もちろん毎晩の宿はスバル座の近くにとらなければならなかった。有楽町のガード下に、有楽町ホテルとかいう、ちっぽけな連れ込み宿があったので、そこを根城に決めた。最終回が終わるのが九時半で、それから宿屋に帰って寝る。するとムンムンむれたベッドに、南京虫かダニが多く(刺されたところが一センチもふくれるのだから、明らかに南京虫だ)、一晩中ボリボリ掻き続けて眠れないのである。しかも朝八時半には、まっ赤な目をこすりこすり、宿のチェック・アウトもそこそこにスバル座にかけつける、といった具合だ」(前出「わがアニメ狂いの記」より)
今回の散歩でも、このガード下にあった「有楽町ホテルとかいうちっぽけな連れ込み宿」を探してみたけど、当然のことながらすでに影も形もなかった。
ただしガード下などこの周辺には昭和時代の面影を残した風景がいまだ随所に残っているので、皆さんも散歩をされるときには目的地だけでなく、ぜひ周囲を当てもなくぶらぶらと歩きまわってみていただきたい。ふとした瞬間に、手塚先生が『バンビ』を見た時代の空気が感じられるかも知れませんよ!
ではその昭和26年当時のこの界隈というのはどんな雰囲気だったのだろうか。スバル座からは今回、当時の貴重な写真もお借りすることができたので、それらを見ながら当時の有楽町駅界隈の風景を振り返ってみよう。
終戦直後の昭和20年代初め、有楽町駅周辺には広大なヤミ市が広がっていた。
ヤミ市というのは、政府の管理下にあって配給制が取られていた食料品や生活用品など(統制物資という)を違法に売りさばく店が密集した自由市場のことだ。モノが不足し流通が混乱していた当時の都市部では、こうしたヤミ市が各地で半ば公然と営業をしていたのだ。
しかし昭和26年ごろになると、そうした混乱もずいぶんおさまってきていたようだ。現在、有楽町駅の東側に東京交通会館ビルというビル(昭和40年竣工)があるが、昭和20年代の後半ごろから、このあたりにヤミ市の名残りともいえる小さな飲食店が数多く建ち並ぶようになった。やがてそこは誰が呼んだか、通称“すし屋横丁”と呼ばれるようになり、サラリーマンのオアシスとして親しまれたという。
一方駅の西側、スバル座の向かって左、現在は有楽町電気ビルが建っているあたりには、ちょっぴりハイカラな店が軒を連ねた“スバル街”という飲食店街があった。
手塚先生も『バンビ』を見終えた後には、もしかしたらこのすし屋横丁かスバル街で遅い夕食をかきこんだのかも知れませんね。
ではそろそろ次の目的地へと向かおう。冷たい北風を避けるように日比谷の映画街をジグザグに縫って歩き、向かったのは日比谷公園である。
資料によれば日比谷公園は明治26年、当時の東京市が、日比谷練兵場跡地を整備して作った公園だという。しかし終戦後は、日比谷公会堂など園内の施設の多くをGHQ(連合国軍総司令部)が接収していたため日本人は使用することができなかった。
それが手塚先生が『バンビ』を見に通った昭和26年にやっと接収が解除され、公園の再整備が始まったのである。
だから手塚先生も恐らくこのころ日比谷公園を初めて歩いたのだろう。そしてそのときの印象が強かったのか、初期の手塚マンガには日比谷公園が舞台としてたびたび登場している。目に付いたものをいくつか紹介したのでぜひご覧ください。
と、そんな中でちょっと注釈しておかないといけないのが、雑誌『少年』の昭和31年Ⅰ月号別冊付録として発表された『鉄腕アトム』「アルプスの決闘の巻」だ。
このお話、初出時の展開では、物語の冒頭でアトムの両親がまぼろしクラブという集団に誘拐され、現場に残されていた置き手紙には「大みそかの晩に日比谷公園へ来い」と記されていた。
ところがこの部分、後の単行本では公園の名前がなぜか「上野公園」に改められているのだ。それはなぜか。ぼくなりに推理すると、このあとお話の舞台が日本アルプスへと移っていくので日比谷公園よりも電車で行きやすい上野に改められたのでは……? とも思ったんだけど、別に有楽町の隣の東京駅からだって行けるしなぁ……。それにアトムたちは電車に乗らないで空を飛んで行っちゃってるから電車は関係ないかなぁ。ということで、やっぱり謎です!
さて今回の虫さんぽの最終目的地は、日比谷公園の真向かいに建つ日本を代表する超高級ホテル「帝国ホテル」である。
ここは、小学館や講談社などの大手出版社が今でもよくパーティを開いており、かつては手塚先生もゲストとして招かれていた。また手塚先生がご家族とここのレストランを愛用していたなど、公私ともに縁の深いホテルだったのだ。
だけど今回は、ぼくがこのホテルで目撃した手塚先生最晩年のお姿を振り返ろうと思ってやってきたのだ。
と、そのとき、思いがけない偶然の出会いがあった!
ぼくが日比谷公園の散歩を終えて帝国ホテルに向かって横断歩道を渡ろうとしていたら、反対側で金髪の青年がニコニコとした笑顔をたたえて手を振っていた。何とそれは手塚先生の長男で現・手塚プロ取締役の手塚眞氏だったのだ!!
「黒沢さん、何してるんですか、こんなところで?」
眞氏が、あの手塚先生によく似た鼻にかかったバリトンの声で聞いてきた。いや、それはこっちが聞きたいし!
聞けば眞氏は手塚プロ社長の松谷氏とたまたまこの近くで打ち合わせを終えた帰りだったそうで、それはそれで珍しくないことなのかも知れないが、ぼくが虫さんぽの取材中にバッタリ出会ってしまうというのがものすごく珍しい。
「びっくりしたなあ、すごい偶然だなぁ!」と興奮するぼくに対して眞氏はいたって冷静で、「うちの仕事でしたかー、寒いのにご苦労さまです黒沢さん」と終始ニコニコするばかりでありました。こういう泰然としたところも手塚先生そっくりなんだよなぁ。
今年最初の虫さんぽでこんな出会いがあるなんて、これはもう手塚先生が会わせてくださったに違いないと思うのだった。
帝国ホテルの看板前で眞くんの写真を撮らせていただき、彼と別れたぼくは、ふたたび散歩を再開した。
今回振り返る手塚先生の帝国ホテルでの思い出、それは1988年10月14日のことである。
この年『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の監督として知られるアメリカの映画監督ロバート・ゼメキスが、アニメと実写の合成による新作映画『ロジャー・ラビット』を完成させた。
この映画の12月3日からの日本でのロードショウ公開に先立ってゼメキス監督が来日し、帝国ホテルでマスコミ向けの取材がセッティングされたのだ。
ゼメキス監督はあらかじめ帝国ホテルのスイートルームに待機しており、そこへ各メディアの取材陣が時間差で訪問し、インタビュー取材をおこなうという段取りだ。
この日、手塚先生は雑誌『SPA!』の取材でゼメキス監督と対談をすることになっていた。
一方、私事で恐縮だけど、このころぼくは雑誌『週刊少年ジャンプ』で時どき映画の紹介記事を書かせてもらっており、この日も巻頭グラビアの取材でゼメキス監督の少年誌独占インタビューをおこなうことが決まっていた。
取材当日、僕と編集者、そしてカメラマンが予定時間の少し前に帝国ホテルへ到着し、待機のために用意された部屋で待っていると、スタッフが「前の取材が終わりましたのでどうぞ」とぼくらを呼びに来た。
エレベーターに乗ってスイートルームのあるフロアへ上がる。フカフカの赤絨毯の上を歩いて一番奥の部屋へと向かうと、部屋のドアが開いて出てきたのは手塚治虫先生だった! ちょうどぼくの前の取材というのが手塚先生の『SPA!』の取材だったのだ。
手塚先生はすれ違うぼくらに軽く会釈をすると、あの独特の前屈みの姿勢でせかせかと足早に歩き去った。
ぼくが手塚先生のお顔を拝見したのは数年ぶりだった。このころ手塚先生はすでに病気で入退院を繰り返しており、連載もとどこおりがちとなっていた。「病気の状態はあまり良くないらしい」というウワサは各出版社に広まっていた。
実際、あのふっくらしていたお顔がかなり痩せていたのには驚いたが、その足どりが意外なほどしっかりとしていたのでホッとした気持ちもあった。
手塚先生が亡くなったのは、それからわずか3ヵ月半後、1989年2月9日のことだった。結局、ぼくにとってはあの日、帝国ホテルの廊下ですれ違ったのが、手塚先生の姿を見た最後となったのである。
今回、帝国ホテルに当時のスイートルームを取材させていただけないかと相談をしたんだけど、応対してくださった広報の方のお話によれば、あいにく当時の資料が残っておらず、どの部屋だったかが特定できないという。またその後、室内の大規模な改装がなされており、当時とは部屋割りも部屋の数もまったく違ってしまっているとのことで、室内の取材はできませんでした。
代わりに『マグマ大使』の中に描かれたホテル内の様子から、かつての帝国ホテルのイメージをふくらませてみてください。
ではまた次回のさんぽでお会いいたしましょう!!