福島県会津若松市。手塚治虫先生がこの町を訪れたのは昭和34年、47年、50年の3回。そのいずれもが、親しい仕事仲間や友人、家族を連れての個人的な旅だった。仕事では日本全国を飛び回っていた手塚先生だけど、プライベートで3度も訪れた町は珍しい。そしてこの町にはいまも、先生が訪れた時の思い出を大切に語り継いでおられる人々がいた。今回は前々回に続き、手塚先生が大好きだった町・会津若松の虫さんぽ後編をお届けします!
前々回の虫さんぽ「会津若松(前編)」では、手塚治虫先生が昭和34年4月に初めて会津を訪れたときの足跡を中心に歩いた。
この最初の旅で地元の方々の歓迎を受け、会津に多くの親しい友人ができた手塚先生は、その後、昭和47年に漫画集団の仲間と、そして昭和50年には家族を連れて、あらためてこの地を訪れている。
今回の虫さんぽ「会津若松(後編)」では、その3度の旅で手塚先生がこの地に残した足跡を、前回に引き続き、地元の方々の案内でたどってみた。するとそこから見えてきたのは、手塚先生のあくなき好奇心と、周りの人に対するやさしさや気配り、そして、あふれんばかりのマンガに対する情熱だった。
さあそれでは取材2日目の虫さんぽ、寝不足気味ではありますが、さっそく出発いたしましょう!!
今回もスタートは会津若松駅である。駅前に置かれた巨大なSLの動輪に見入っていると、向こうから会津漫画研究会会長の
白井さんは「どうもどうも、黒沢さん朝早くからご苦労さまです!」とていねいにお辞儀をしてくださったが、お世話になるのはこっちなので、ぼくがさらに腰を低くしてお辞儀をすると、白井さんもますます深くお辞儀をする。おかげでいつまでたっても挨拶が終わらない(笑)。会津の人はあくまでも礼儀正しいのだった。
白井さんの案内で、おみやげ屋さんや飲食店が建ち並ぶにぎやかな中央通りを南下し、日光街道(七日町通り)を西に200メートルほど歩く。すると右手に重厚な3階建ての建物が見えてきた。白井さんによれば、ここが本日ひとつ目の手塚スポットだという。
ここは
以下、白井さんの説明をお聞きしよう。
「手塚先生は、昭和34年に初めて会津へ来られた際に、ここで会津塗りを見学し、ご自分でも工房で絵付けを体験されたんです」
この時、手塚先生を案内したのが、前編でも取材をさせていただいた会津漫画研究会初代会長の
再び取材現場に戻ろう。白井祥隆さんの後について建物の2階へ上がると、クラシックなソファの置かれた応接室があった。そしてその片隅には、まさにこのソファでくつろぐ手塚先生の写真が飾られていた!
その写真と現在の室内をくらべてみると、ほとんど当時のままであることが分かる。50年前に手塚先生が座られたまさにその場所で記念写真が撮れるなんて、手塚ファンにとっては、まるでタイムマシンに乗ってやってきたような感動体験のできる場所でした。
いきなり濃い〜場所に案内されて早くも興奮ぎみのぼくを、白井さんが次に連れて行ってくれたのは、白木屋の斜め向いにある、これまた懐かしさあふれるお店だった。
「昭和なつかし館」と書かれた木製の看板がいい感じのこのお店は、16坪の店内に、昭和30年代の町並みや、一家団らんの場所だった居間の風景が当時のままに再現されている。入館料200円を払って中へ入ると、昭和32年生まれのぼくにとって、そこはまさに少年時代の風景そのものの空間だった! 展示されているおもちゃや雑貨はもちろん、町並みに使われている木材も古い昔の部材だそうで、見れば見るほど細部までこだわって作られていることがよく分かる。手塚マンガのおもちゃもいろいろ置かれていたから、行かれたら、ぜひ宝探しのつもりで見つけてみよう!
再び中央通りへ戻り、南へ下ると通りの名前が
白井義夫さんは当時をこう振り返る。
「手塚先生が会津へ来られて3日目の事でした。
昭和30年代当時、マンガは子どもに悪影響を及ぼすものとして教育関係者やPTAから激しく攻撃されていた。中でも目の敵にされたのが、表現がどぎつく俗悪とされた貸本マンガだった。今年話題になったNHKの朝ドラ『ゲゲゲの女房』にも、PTAの団体が貸本屋へ抗議に押しかけるシーンがあったのを覚えている方も多いだろう。
そこで手塚先生は、そうした人々の誤解を解こうと、あえて自分から批判にさらされながらも一貫して力強くマンガを弁護し続けた。そんな当時の手塚先生の奮戦ぶりは『手塚マンガ あの日あの時』第10回でも紹介した通りである。
そして手塚先生はここ会津でも、わずかな機会をとらえてマンガの楽しさや大切さを地元の人たちに伝えようとしたのだろう。翌日開かれた集まりの様子を、白井義夫さんはこう語ってくれた。
「手塚先生は、出席した先生やPTAの役員さんたちに『マンガはおやつです。主食だけでは子どもたちは心も体もバランスを失ってしまいます』と語り出しましてね、質疑応答にも1問1問ていねいに答えておられました。その後のマンガ教室では模造紙にアトムやリボンの騎士の絵を描いてくださったんですが、これがものすごいスピードで、みんなびっくりしていました。準備はバタバタで最初はどうなることかと心配でしたが、最後には会場から大きな拍手がわきましてね。手塚先生には今も心から感謝しています」
さらに前編でも紹介したように、この時手塚先生は
プライベートで遊びに来たのに、ただ飲んで食って観光地を巡るだけじゃなくて、夜は徹夜でマンガを描き、さらにその土地のマンガ文化の発展のために次々と行動する。手塚先生……ウルトラスーパーすごすぎます!
続いて白井祥隆さんは、細い路地を入ったところにある
昭和47年9月、手塚先生は2度目の会津旅行を実現した。しかもこの時は漫画集団の仲間・総勢24人を引き連れての大旅行だった。当時、漫画集団は年に1回、全国各地のお祭りに参加するという
やなせたかし、馬場のぼる、
そしてここ興徳寺の境内では、手塚先生とやなせたかし先生が子どもたちを集めてマンガ教室を開いた。漫画集団のメンバーは大人向けの漫画を描く作家さんが多く、子どもにも知られたマンガ家さんということで、このふたりが代表して教室を開いたのだろう。おふたりは濡れ縁に立ち、壁に貼った模造紙に絵を描きながらマンガの話をした。前出の白井義夫さんによれば、その時はこの静かな
次のスポットまではちょっと距離があるので車で移動する。会津若松駅から西へ5分ほど走って着いたのは飯盛山だ。標高314メートルの小高い山で、中腹には白虎隊のお墓が
昭和34年、手塚先生はここを初めて訪れた際、前編でも紹介した『スリル博士』のお話の中にしっかりと登場させた。博士とケン太が石段を下りてくると、いきなり、ふたりめがけて巨木が倒れてくる、という場面だ。
今回の散歩で、ぼくは手塚先生がこの発想のヒントにしたと思われる木を発見した。ふもとの風景は一変してしまったが、この木の周りだけは50年前のままだった。行けばすぐに分かるから、皆さんもぜひチェックしてみてください。
また昭和50年8月に手塚先生が家族旅行で訪れた際にもここへ来ている。この時のことは、手塚先生の奥さまの
それによれば手塚先生は、子どもたちの夏休みに合わせて家族旅行を計画し、会津行きを決めた。ところが毎度のことながら手塚先生は仕事が終わらず、家族だけが先に出発し、先生は2日目になってやっとタクシーでやってきて合流したという。しかしそれからは先生は全力で家族サービスに努め、会津若松市内だけでなく東山温泉や
るみ子さんにとってこの旅行は、忙しい父親を独占できる数少ない貴重な時間だったのだろう、この時の思い出を詳細に
また、手塚先生はこの家族旅行の時にも白井義夫さんのお店でマンガ教室を開いた。再び白井義夫さんのお話。
「このときは、商店街の近代化事業で私の店の2階に
過去の虫さんぽでも同じような話がたくさんあったように、こうした手塚先生のこまやかな心づかいには本当に頭がさがってしまいます。
ということで今回の虫さんぽはここで日没終了! だけど実はもう1ヵ所、紹介したかった手塚スポットがある。それはJR
そしてここは、手塚先生が学研の学習雑誌『中学一年コース』に昭和34年9月号から連載した『夜明け城』のモデルと言われている場所なのだ。手塚先生はこの連載が始まる5ヵ月前に会津を訪れた。その際、当時アシスタントだった絵本作家の
白井祥隆さんによれば、現在は向羽黒山城の面影をしのぶ
元は郵便局だった建物を利用して新しくオープンしたのは「昭和漫画記念館」という施設。ここは昭和時代の懐かしい漫画を集めて展示した施設で、ここの目玉が、昭和34年に手塚先生が宿泊した部屋をリアルに再現したスペースだとか。前編では「
ちなみに会津若松では現在「手塚治虫先生と歩く会津」というスタンプラリーを実施中だ(2010年11月15日〜12月12日)。このコラムを公開直後に読まれた方はまだ間に合う。ご用とお急ぎでない方は今すぐ会津へ!! それではまた、次回の散歩でお会いいたしましょう。
(今回の虫さんぽ、3時間14分、2215歩)
取材協力/会津漫画研究会、NPO法人・会津マンガ文化研究会、白井義夫、佐久間庄司、長谷川知久満、白井祥隆、関昌邦、白木屋漆器店、昭和なつかし館(順不同、敬称略)
黒沢哲哉
1957年東京生まれ。マンガ原作家、フリーライター。手塚マンガとの出会いは『鉄腕アトム』。以来40数年にわたり昭和のマンガと駄菓子屋おもちゃを収集。昭和レトロ関連の単行本や記事等を多数手がける。手塚治虫ファンクラブ(第1期)会員番号364番