昭和20年代初頭、終戦直後の大阪。手塚治虫は医大生として、当時、中之島にあった大阪大学附属医学専門部へ通いながら、一方でマンガ家としても続々と大作を発表、本格的な活動を開始した。今回の虫さんぽは、そんな手塚先生のマンガ家としての原点を探る散歩です。まもなく始まる夏休み、皆さんも、手塚先生の初期作品などを読みながら、都会の小旅行はいかがでしょう。
今回と次回の2回にわたり、虫さんぽは「夏休み特別編」として、初の関西さんぽをお送りします。
前編となる今回は、手塚先生が医大生として、またマンガ家として二足のわらじを履いて活動していた昭和20年代初頭の足跡をたどるっ。ジャジャジャーン!!
スタート地点は、阪急宝塚線・石橋駅にほど近い、大阪大学豊中キャンパス内にある「大阪大学総合学術博物館」からだ。現在、この博物館では『阪大生・手塚治虫 -医師か?マンガ家か?-』と題した企画展が開催されている(6月30日まで)。そう、まさしく今回の虫さんぽにぴったりの展示内容なのである。しかも入場無料! うおおっ!! ということで、まずはここで阪大時代の手塚先生について、予習をしてから散歩に出かけよう!
解説をしてくださったのは、同館館長で、大阪大学大学院理学研究科教授も兼務する
「手塚治虫先生は、終戦直前の昭和20年7月に大阪大学医学専門部へ入学しました。医学専門部というのは、戦時中に軍医を育成する目的で設立された学部で、昭和26年3月に教育制度改革によって廃止されるまで存続していました。手塚先生の卒業は1年遅れの昭和26年で、その翌年には医師国家試験にも合格されています。
手塚先生は、ファンの皆さんがよくご存知のように、その阪大在学中にマンガ家として活動を始めましたが、さらに当時は「学友座」という学生劇団にも所属していて、演劇にも熱中していました。そんな多忙な学生時代の日々を振り返ったのが今回の企画展です」
引き続き、江口館長に、企画展開催のきっかけをお聞きした。
「当館ではちょうど1年前に、『えがかれた適塾』と題した企画展を開催しました。
またそのとき同時に、手塚先生が阪大の卒業生だということを知らない学生が意外と多かったということもあって、あらためて学生や地域の皆さんに知っていただこうと。それも大きな理由のひとつですね」
今回の展示では、初公開の資料がいくつかあるとお聞きしましたが、資料の収集は大変ではありませんでしたか?
「確かに苦労しました。阪大は移転を繰り返しておりますし、何しろ60年以上前のことで、当時を知る方も少なくなっていますからね。
しかしそんな中で、手塚先生と同期だった同窓会の方がまとめた本や卒業アルバムを提供してくださって。また手塚先生の名前が載った卒業証書授与原簿も公開しております。いずれも今回が初公開の貴重な資料ですので、ぜひご覧になってください」
このあと、大阪大学総合学術博物館准教授・
大阪大学総合学術博物館を後にして、次に向かったのは、手塚先生が在籍していた昭和20年代当時、大阪大学医学部と医学専門部の建物が建っていた場所だ。
それは大阪大学豊中キャンパスから車で20分ほど南下した北区中之島である。電車で移動する場合は、石橋駅から阪急線に乗って梅田駅で下車、そこから2.5kmほど歩くか、大阪駅前から市営バスに乗って
その田蓑橋という橋の南詰近くに、スラッと伸びたスマートな茶色い10階建てのビルがある。現在の大阪大学中之島センタービルだ。そしてその南側には、駐車場をはさんで大阪市立科学館と国立国際美術館が建っている。
宮久保先生によると、これらの建物が建っているエリア一帯が、かつての大阪大学医学部と理学部のキャンパスだったということだ。
だけどさすがに60年の時を経た今ではどこにも当時の面影はない。んー、残念。まあココは阪大からお借りした当時の建物の写真と手塚先生のマンガに出てくるカットを見ながら、当時の風景に思いを馳せてみることにいたしましょう!!
続いて中央区北浜にある適塾へと向かった! 中之島センターからは距離にしておよそ1.5km、徒歩でおよそ20分弱の散歩だ。
大阪駅前からならば市バスに乗って淀屋橋で下車すればすぐだけど、阪大中之島センター付近からのバスの直通路線はないようだ。真夏で歩くのが厳しい場合は、無理しないで仲間とタクシーに相乗りして行こう。マイカーで行く場合は、付近に複数あるコインパーキングが利用できる。
御堂筋から東へ折れてオフィスビルの建ち並ぶ一角へ入っていくと、いかにも江戸時代の町屋風な風格のある建物が建っている。ここが国の史跡であり重要文化財でもある「適塾」だ。
蘭方医・緒方洪庵は弘化2年(1845年)にここへ移り住み、以来17年間にわたって私塾・適塾を開いて多くの門人たちに蘭学を教えた。その門下生のひとりに、手塚先生の
だけど手塚先生自身も、自分の祖先が適塾の門下生だったことはずっと知らなかったそうで、後年、ある研究者の論文でそのことを知り、1981年に、手塚良庵を登場させた大作『陽だまりの樹』を発表したのである。
そう思うと、歴史にはあまり詳しくないぼくにも、ここがと〜〜ってもありがたい場所に思えてくる。そして! 手塚ファン的な見所はここの2階にあるのでぜひ見逃さないように!!
入場料250円を払って建物内へ入る。いかにも昔風の急な階段を登って2階へ上がると、そこはかつて塾生の部屋だったという大部屋だ。壁には、ここに学び近代日本の形成に大きな役割を果たした、そうそうたる塾生たちの名前と略歴を記した額が並んでいる。
そしてその隣の部屋の壁に掲げられているのが、写真で紹介した手塚良庵の額だ。手塚先生の写真と『陽だまりの樹』の良庵の絵に挟まれて、姓名録からの複写で「手塚良庵」という名前がはっきりと読み取れる。
それにしても、こんな歴史的な建物の中で、古い資料に囲まれて手塚先生の写真を見ると、手塚先生まで江戸時代の人だったように思えてしまいます(笑)。
さて、適塾に寄ったらもう1ヵ所、ぜひ立ち寄りたい場所がある。
それは、適塾のちょうど1本裏手の通りに建つ緒方ビルという建物だ。ここもその名前から分かるとおり、緒方洪庵ゆかりの場所で、幕末に
そして! 虫さんぽ的に必見なのが、このビルのエントランスに飾られている、手塚プロ製作によるイラストだ。緒方洪庵と手塚良庵が町人たちに種痘を施している『陽だまりの樹』の一場面が、カラーイラストになって額に収められているのだ。
ところが、実はぼくがここを訪れた日は休日で除痘館記念資料室はお休み。しかもビルが改装中でエントランスのイラストには汚れ防止のビニールカバーが掛けられているという……何というバッドタイミング! というか、ちゃんと事前に調べてから行けよ!! と叱られそうだけど、だ、大丈夫です皆さん。幸いにも除痘館記念資料室を管理されている、洪庵記念会事務長の
ということで、以下、川上さんのお話です。
「財団法人・洪庵記念会は、緒方洪庵と除痘館に関する資料を収集し、文献を発行したり、展示をするなどの活動を行っている団体です。この場所に「除痘館跡」という記念銘板を掲げたのは1978年のことで、常設展示室として除痘館記念資料室を開設したのは2007年3月のことです。
その際に、手塚プロにお願いしてエントランスにあるイラストを描きおろしていただきました。手塚プロからは、絵に嘘がないようにと、製作の途中で、使っている器具などについて細かい部分まで問い合わせが来ましてね、その都度、こちらから資料をお送りしましたから、考証的にも正確なものになっていますよ」
川上さんからは、後日、ぼくが見られなかったエントランスの絵の写真もお送りいただきました。次回、大阪を訪れた際にはぜひこの目で見させていただきます!!
ここまでの散歩でもかなりの収穫があったから、もうお腹いっぱいという人もいるかも知れないが、次のスポットでも興味深いネタが拾えたので、休んでいるヒマはありませんぞ。さー、どんどん歩きましょう!
ということで次に向かったのは、さらに2.5kmほど南下した中央区松屋町である。正しくは「まつやまち」であるが、大阪人は親しみを込めて「まっちゃまち」と言う。
ここは明治の初めごろ、お菓子問屋の街として栄え、昭和初期には100軒ほどの店が建ち並んでいたという。だが昭和7年に始まった道路拡張で菓子問屋は一斉に立ち退き、街は一気に寂れてしまった。
ところが、昭和20年の終戦直後、この町は駄菓子と玩具の問屋街として再び活況を見せ始める。さらに昭和22年、当時この町にあった育英出版から
ちなみに赤本についての説明は、2010年3月公開の『手塚マンガあの日あの時』第15回の中で詳しく書いているので、ぜひそちらを参照していただきたい。
医大生・手塚治虫は、大学での授業を終えると橋の下で学生服から私服に着替えてベレー帽をかぶり、マンガ家として松屋町の出版社へ通うという二足のわらじ生活を送るようになった。
大学のあった中之島から松屋町まではおよそ4km。徒歩だと40分から1時間近くかかるけど、当時はこのくらいの距離は誰でもごく普通に歩いたんでしょうね。
松屋町には現在、雛人形や五月人形などの節句人形を扱う専門店が多く建ち並んでいて、松屋町交差点を中心に南北へと伸びる松屋町筋の400〜500mほどのエリアにおよそ40軒もの人形屋さんが建ち並んでいる。さらに、そうした人形屋さんの間には、昭和の面影を残した駄菓子やおもちゃを売る店もあり、初めて訪れたぼくにも、どこか懐かしさが感じられる温かい街並みだ。
ところで今回、ぼくはダメモトで、ある調査をしようと思い一枚のメモを持ってきた。それは手塚先生のマンガを出版していた赤本出版社の当時の住所を控えたメモである。これを頼りに、何とか当時出版社のあった場所を訪ねてみたいと思ったのだ。
ということでまずは『新寶島』を出した育英出版を探してみることにした。育英出版の当時の住所は、『新寶島』復刻版の奥付を見ると「大阪市東區十二軒町七」となっている。
東区は現在は中央区に統合されているが、十二軒町という町名は残っているので、その場所はすぐに分かった。松屋町の交差点から北東に200mほど入った一角である。
そこには出版社の影も形もなかったが、近くには○○印刷とか○○紙工などといった、出版関係の会社がいくつもあり、ここがかつて赤本文化の中心地だったことをうかがわせる場所だった。
次に探索を試みたのが『ターザンの秘密基地』(昭和23年)や『拳銃天使』(昭和24年)『漫画大學』(昭和25年)などを出した東光堂の場所だ。
こちらも復刻版の奥付を見ると「大阪市南區西×町三番地」とある。ん〜、西ナニ町なのか、字がつぶれていて読み取れないぞ。しかもこの南区も、現在は東区と同様に中央区に統合されていて、どこだか分からなくなっている。これは見つけられないかも。
歩き疲れたので休憩をすることにして、松屋町筋からひと角曲がったところにあった「マロニエ」という喫茶店へ入った。
店内を見渡してみると、かなり歴史のありそうなお店である。そこでマスターに聞いてみた。「あのぉ〜すいません、昔の住所で南区西ナントカ町という場所を探してるんですけどどこだか分かりませんか?」。
するとマスターは「南区ならすぐそこだけど、西ナントカ町じゃ分からないなぁ……」と言いながら古い地図を出してきて一緒に調べてくださった。するとそこへ話を聞いていたマスターの奥様からナイスアシストが入った。「それってもしかして西賑町やないの?」
おお! そう言われてあらためてメモを見ると、今まで読めなかった文字がはっきりと読めた。「
ということでさっそくマスターから教わった場所へ行ってみた。そこは現在、谷町6丁目となっている一帯だ。アーケードになった「からほり商店街」という商店街があり、その北側に市立南高校という高校がある。その高校のある一角が西賑町だったそうである。ここにももちろん東光堂はなかったが、周囲には戦後すぐのころに建てられたとおぼしき古い建物がいくつも残されていて、ある路地の奥には、手塚先生のマンガに出てくる赤本出版社そっくりの風景も発見した。
最後に、手塚先生が東光堂と並んで多くの名作を出版した不二書房の住所を見てみよう。「大阪市生野區勝山通九丁目七二」。生野区には現在、勝山という町名はあるが、勝山通という住所はない。しかし大まかな場所のヒントが、講談社版手塚治虫全集第254巻『有尾人』のあとがきの中にあった。
「『キングコング』『火星博士』や、この『有尾人』を出した不二書房は、松屋町ではなく、もっと南の桃谷というところにありました。その近くには『新宝島』の原案をつくった酒井七馬さんがいました」
桃谷というのは、松屋町から南東へ4kmほどの場所だ。今回のさんぽでは、さすがにこれ以上歩けないので、ここを訪ねるのはまたの機会に譲ることにした。
ということで今回の虫さんぽも、次に向かう場所で最終ポイントとなる。
それは道頓堀にある「大阪松竹座」だ。見るからに重厚なこの建物は1923年(大正12年)の竣工。その後1997年に全面改装されたが、その際も、
ここでは現在、歌舞伎や新劇、松竹新喜劇などを上演しているが、かつては映画も上映していた。そして敗戦間近の昭和20年4月12日、ここで1本の長編漫画映画が封切られた。
阪大へ入学する直前の当時高校生だった手塚先生は、封切りの当日に、勤労動員されていた工場を休んで、ここでこの映画を見たという。そしてそのときの感動を、後年エッセイにこう書き記した。
「ぼくは焼け残った松竹座の、ひえびえとした客席でこれを観た。観ていて泣けてしようがなかった。感激のあまり涙が出てしまったのである。全編に
この映画との出会いが、後に手塚先生をアニメーションへと傾倒させる大きなきっかけとなったのだ。
さて次回は関西編・後編として、宝塚市の手塚治虫記念館周辺を歩きます。ぜひまたおつきあいください!!
(今回の虫さんぽ、6時間52分、12568歩)
取材協力/大阪大学、大阪大学総合学術博物館(江口太郎、宮久保圭祐)、適塾、財団法人洪庵記念会(川上潤)、除痘館記念資料室、喫茶&食事マロニエ(荒木宏純、荒木弘子)(順不同・敬称略)
黒沢哲哉
1957年東京生まれ。マンガ原作家、フリーライター。手塚マンガとの出会いは『鉄腕アトム』。以来40数年にわたり昭和のマンガと駄菓子屋おもちゃを収集。昭和レトロ関連の単行本や記事等を多数手がける。手塚治虫ファンクラブ(第1期)会員番号364番