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虫ん坊 2011年6月号 コラム:虫さんぽ 第16回:【夏休み関西さんぽ・前編】大阪界隈:医大生時代の手塚先生の足跡を歩く!

虫ん坊 2011年6月号 コラム:虫さんぽ 第16回:【夏休み関西さんぽ・前編】大阪界隈:医大生時代の手塚先生の足跡を歩く!

昭和20年代初頭、終戦直後の大阪。手塚治虫は医大生として、当時、中之島にあった大阪大学附属医学専門部へ通いながら、一方でマンガ家としても続々と大作を発表、本格的な活動を開始した。今回の虫さんぽは、そんな手塚先生のマンガ家としての原点を探る散歩です。まもなく始まる夏休み、皆さんも、手塚先生の初期作品などを読みながら、都会の小旅行はいかがでしょう。



◎大阪大学で手塚先生の企画展を見学!

 今回と次回の2回にわたり、虫さんぽは「夏休み特別編」として、初の関西さんぽをお送りします。
 前編となる今回は、手塚先生が医大生として、またマンガ家として二足のわらじを履いて活動していた昭和20年代初頭の足跡をたどるっ。ジャジャジャーン!!
 スタート地点は、阪急宝塚線・石橋駅にほど近い、大阪大学豊中キャンパス内にある「大阪大学総合学術博物館」からだ。現在、この博物館では『阪大生・手塚治虫 -医師か?マンガ家か?-』と題した企画展が開催されている(6月30日まで)。そう、まさしく今回の虫さんぽにぴったりの展示内容なのである。しかも入場無料! うおおっ!! ということで、まずはここで阪大時代の手塚先生について、予習をしてから散歩に出かけよう!
 解説をしてくださったのは、同館館長で、大阪大学大学院理学研究科教授も兼務する江口太郎えぐちたろう先生だ。
「手塚治虫先生は、終戦直前の昭和20年7月に大阪大学医学専門部へ入学しました。医学専門部というのは、戦時中に軍医を育成する目的で設立された学部で、昭和26年3月に教育制度改革によって廃止されるまで存続していました。手塚先生の卒業は1年遅れの昭和26年で、その翌年には医師国家試験にも合格されています。
 手塚先生は、ファンの皆さんがよくご存知のように、その阪大在学中にマンガ家として活動を始めましたが、さらに当時は「学友座」という学生劇団にも所属していて、演劇にも熱中していました。そんな多忙な学生時代の日々を振り返ったのが今回の企画展です」

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大阪大学総合学術博物館(左)と、今回の企画展のチラシ。企画展『阪大生・手塚治虫 -医師か?マンガ家か?-』の開催期間は2011年4月28日〜6月30日、開館時間:10:30〜17:00、入場無料、日曜休館、問い合せ:06-6850-6284


◎初公開の資料が山盛り!

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企画展の風景。珍しい資料や写真がどっさり。本文で紹介した卒業アルバムなどのほか、2003年に発見された、手塚先生が中学時代に作った昆虫標本や、手塚先生が足しげく通ったという大阪市立電気科学館を映した昭和初期の記録映画の映像は必見だ

 引き続き、江口館長に、企画展開催のきっかけをお聞きした。
「当館ではちょうど1年前に、『えがかれた適塾』と題した企画展を開催しました。蘭方医らんぽうい緒方洪庵おがたこうあんが開いた適塾てきじゅくは、大阪大学の源流と位置づけられていて、昨年(2010年)が洪庵の生誕200年に当たることから、それを記念して開催したものです。そこで手塚先生の『陽だまりの樹』を紹介したところ、たいへんご好評をいただきましたので、それが今回の企画展につながりました。
 またそのとき同時に、手塚先生が阪大の卒業生だということを知らない学生が意外と多かったということもあって、あらためて学生や地域の皆さんに知っていただこうと。それも大きな理由のひとつですね」


◎初公開の資料が山盛り!

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総合学術博物館館長の江口太郎先生。江口先生は、「手塚先生の作品には、大阪大学の庶民文化に根ざした自由な気風や在野精神が大きく影響していたのではないか」と語っておられた(撮影/宮久保圭祐)

 今回の展示では、初公開の資料がいくつかあるとお聞きしましたが、資料の収集は大変ではありませんでしたか?
「確かに苦労しました。阪大は移転を繰り返しておりますし、何しろ60年以上前のことで、当時を知る方も少なくなっていますからね。
 しかしそんな中で、手塚先生と同期だった同窓会の方がまとめた本や卒業アルバムを提供してくださって。また手塚先生の名前が載った卒業証書授与原簿も公開しております。いずれも今回が初公開の貴重な資料ですので、ぜひご覧になってください」
 このあと、大阪大学総合学術博物館准教授・宮久保圭祐みやくぼけいすけ先生にご案内をいただき、展示を見学した。う〜ん、確かに! 貴重な写真や資料の数々には大興奮なのでありました。江口先生、宮久保先生、お世話になりました!


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これが本邦初公開となる、大阪大学医学専門部の卒業証書授与原簿だ。手塚先生の名前がしっかりと載っている

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お時間のある方は、ぜひ常設展示会場にも立ち寄っていただきたい。これは、手塚先生が通った当時の阪大医学部があった場所(現・大阪大学中之島センター)で、2001年から2002年にかけて発掘された焼き物人形など。その場所には江戸時代、久留米藩大阪蔵屋敷があったという。つまり手塚先生が大学へ通っていた当時、その足元にはこれらが埋まっていたというわけだ

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会場を案内してくださった宮久保圭祐先生。今回の企画展の展示内容を決めるに当たっては、「文理融合」という大阪大学ならではの視点を大切にされたという


◎阪大医学部のあった中之島を歩く!

 大阪大学総合学術博物館を後にして、次に向かったのは、手塚先生が在籍していた昭和20年代当時、大阪大学医学部と医学専門部の建物が建っていた場所だ。
 それは大阪大学豊中キャンパスから車で20分ほど南下した北区中之島である。電車で移動する場合は、石橋駅から阪急線に乗って梅田駅で下車、そこから2.5kmほど歩くか、大阪駅前から市営バスに乗って田蓑橋たみのばしで下車する。
 その田蓑橋という橋の南詰近くに、スラッと伸びたスマートな茶色い10階建てのビルがある。現在の大阪大学中之島センタービルだ。そしてその南側には、駐車場をはさんで大阪市立科学館と国立国際美術館が建っている。
 宮久保先生によると、これらの建物が建っているエリア一帯が、かつての大阪大学医学部と理学部のキャンパスだったということだ。
 だけどさすがに60年の時を経た今ではどこにも当時の面影はない。んー、残念。まあココは阪大からお借りした当時の建物の写真と手塚先生のマンガに出てくるカットを見ながら、当時の風景に思いを馳せてみることにいたしましょう!!

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手塚先生が通っていた当時、中之島にあった大阪大学医学部の校舎。左端に見えるのが田蓑橋で、この橋を渡った向かい側には、大阪大学医学部付属病院があった(画像提供/大阪大学総合学術博物館)

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こちらは現在、医学部跡地に建っている大阪大学中之島センター


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手塚先生が自身のマンガ家としての半生をフィクションを交えて描いた短編『がちゃぼい一代記』より、阪大での授業風景(講談社版全集第274巻『紙の砦』より。初出は『別冊少年マガジン』昭和45年2月号)。このマンガに描かれているように、実際の手塚先生もマンガに熱中するあまり、授業がおろそかになって、教授から「きみは医者になったら人を殺すからマンガ家になった方がいい」と薦められたという


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大阪大学のかつての階段教室。上の手塚先生のマンガそのままの風景だ(画像提供/大阪大学総合学術博物館)


◎手塚先生の祖先も阪大生!?

 続いて中央区北浜にある適塾へと向かった! 中之島センターからは距離にしておよそ1.5km、徒歩でおよそ20分弱の散歩だ。
 大阪駅前からならば市バスに乗って淀屋橋で下車すればすぐだけど、阪大中之島センター付近からのバスの直通路線はないようだ。真夏で歩くのが厳しい場合は、無理しないで仲間とタクシーに相乗りして行こう。マイカーで行く場合は、付近に複数あるコインパーキングが利用できる。
 御堂筋から東へ折れてオフィスビルの建ち並ぶ一角へ入っていくと、いかにも江戸時代の町屋風な風格のある建物が建っている。ここが国の史跡であり重要文化財でもある「適塾」だ。
 蘭方医・緒方洪庵は弘化2年(1845年)にここへ移り住み、以来17年間にわたって私塾・適塾を開いて多くの門人たちに蘭学を教えた。その門下生のひとりに、手塚先生の曾祖父そうそふ手塚良庵てづかりょうあん良仙りょうせん)がいた。つまりは、医大生・手塚治虫のルーツをたどっていくと、この適塾へと行き着くのだ!
 だけど手塚先生自身も、自分の祖先が適塾の門下生だったことはずっと知らなかったそうで、後年、ある研究者の論文でそのことを知り、1981年に、手塚良庵を登場させた大作『陽だまりの樹』を発表したのである。
 そう思うと、歴史にはあまり詳しくないぼくにも、ここがと〜〜ってもありがたい場所に思えてくる。そして! 手塚ファン的な見所はここの2階にあるのでぜひ見逃さないように!!


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適塾。開館時間:10:00〜16:00、休館日:月曜(国民の祝日の場合は開館)、国民の祝日の翌日(土日祝日の場合は開館)、年末年始、参観料:一般250円 学生130円 生徒無料、問い合せ:06-6231-1970


◎適塾で手塚良庵の額縁を発見!

虫ん坊 2011年6月号 コラム:虫さんぽ 第16回:【夏休み関西さんぽ・前編】大阪界隈:医大生時代の手塚先生の足跡を歩く!

適塾の2階に展示されている手塚良庵の額

 入場料250円を払って建物内へ入る。いかにも昔風の急な階段を登って2階へ上がると、そこはかつて塾生の部屋だったという大部屋だ。壁には、ここに学び近代日本の形成に大きな役割を果たした、そうそうたる塾生たちの名前と略歴を記した額が並んでいる。橋本左内はしもとさない大村益次郎おおむらますじろう福澤諭吉ふくざわゆきちなどなど。
 そしてその隣の部屋の壁に掲げられているのが、写真で紹介した手塚良庵の額だ。手塚先生の写真と『陽だまりの樹』の良庵の絵に挟まれて、姓名録からの複写で「手塚良庵」という名前がはっきりと読み取れる。
 それにしても、こんな歴史的な建物の中で、古い資料に囲まれて手塚先生の写真を見ると、手塚先生まで江戸時代の人だったように思えてしまいます(笑)。


◎『陽だまりの樹』のイラストはどこに?

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緒方ビル入り口に横に掲げられた除痘館跡の記念プレート。この建物の4階に除痘館記念資料室がある。開館時間:10:00〜16:00、休館日:日曜・祝日・年末年始(臨時の休日もある)、参観料:無料、問い合せ:06-6231-3257

 さて、適塾に寄ったらもう1ヵ所、ぜひ立ち寄りたい場所がある。
 それは、適塾のちょうど1本裏手の通りに建つ緒方ビルという建物だ。ここもその名前から分かるとおり、緒方洪庵ゆかりの場所で、幕末に天然痘てんねんとう撲滅のために牛痘ぎゅうとう種痘しゅとうする拠点となった除痘館があったのがココなのだ。入り口にはそれを記念した銅板のプレートが飾られており、同ビル4階には当時の資料を展示した除痘館記念資料室がある。
 そして! 虫さんぽ的に必見なのが、このビルのエントランスに飾られている、手塚プロ製作によるイラストだ。緒方洪庵と手塚良庵が町人たちに種痘を施している『陽だまりの樹』の一場面が、カラーイラストになって額に収められているのだ。
 ところが、実はぼくがここを訪れた日は休日で除痘館記念資料室はお休み。しかもビルが改装中でエントランスのイラストには汚れ防止のビニールカバーが掛けられているという……何というバッドタイミング! というか、ちゃんと事前に調べてから行けよ!! と叱られそうだけど、だ、大丈夫です皆さん。幸いにも除痘館記念資料室を管理されている、洪庵記念会事務長の川上潤かわかみじゅんさんがいらっしゃったため、館内を特別に見学させていただき、お話もお聞きすることができました。ありがとうございます、川上さん!(大汗)


◎ようやく見られたイラスト!

 ということで、以下、川上さんのお話です。
「財団法人・洪庵記念会は、緒方洪庵と除痘館に関する資料を収集し、文献を発行したり、展示をするなどの活動を行っている団体です。この場所に「除痘館跡」という記念銘板を掲げたのは1978年のことで、常設展示室として除痘館記念資料室を開設したのは2007年3月のことです。
 その際に、手塚プロにお願いしてエントランスにあるイラストを描きおろしていただきました。手塚プロからは、絵に嘘がないようにと、製作の途中で、使っている器具などについて細かい部分まで問い合わせが来ましてね、その都度、こちらから資料をお送りしましたから、考証的にも正確なものになっていますよ」
 川上さんからは、後日、ぼくが見られなかったエントランスの絵の写真もお送りいただきました。次回、大阪を訪れた際にはぜひこの目で見させていただきます!!

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除痘館記念資料室を案内してくださった洪庵記念会事務長の川上潤さん。展示ケースの上に置かれているのは、エントランスに飾られているイラストの原画だ

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緒方ビル1階エントランスに展示されている、手塚プロ製作による除痘館の種痘風景のイラスト(撮影/川上潤)


◎赤本マンガ発祥の地、松屋町へ!

 ここまでの散歩でもかなりの収穫があったから、もうお腹いっぱいという人もいるかも知れないが、次のスポットでも興味深いネタが拾えたので、休んでいるヒマはありませんぞ。さー、どんどん歩きましょう!
 ということで次に向かったのは、さらに2.5kmほど南下した中央区松屋町である。正しくは「まつやまち」であるが、大阪人は親しみを込めて「まっちゃまち」と言う。
 ここは明治の初めごろ、お菓子問屋の街として栄え、昭和初期には100軒ほどの店が建ち並んでいたという。だが昭和7年に始まった道路拡張で菓子問屋は一斉に立ち退き、街は一気に寂れてしまった。
 ところが、昭和20年の終戦直後、この町は駄菓子と玩具の問屋街として再び活況を見せ始める。さらに昭和22年、当時この町にあった育英出版から酒井七馬さかいしちまと手塚治虫によるマンガ本『新寶島しんたからじま』が刊行されると、同様のマンガ本が続々と刊行されるようになり、ここは赤本マンガの町としても賑わうようになったのだ。
 ちなみに赤本についての説明は、2010年3月公開の『手塚マンガあの日あの時』第15回の中で詳しく書いているので、ぜひそちらを参照していただきたい。

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人形問屋が並ぶ松屋町のメインストリートの風景。取材したのが、子どもの日直前だったため、五月人形を並べた人形屋さんに多くの人が集まっていた

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人形問屋に混じって駄菓子や駄玩具をあつかう問屋さんもちらほら。並べられた商品に思わず見入ってしまいますね


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『鉄腕アトムクラブ』1966年4月号に掲載された『ボクのまんが記』から、昭和20年代初めごろの手塚先生の生活。大学を出ると服を着替えて松屋町へ。出版社で原稿料をもらうと闇市で買い食いをした(『手塚ファンマガジン』159号より)。資料によれば、当時、闇市は大阪駅前や梅田駅前、松屋町に近い天王寺などにあったという

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育英出版から刊行された『新寶島』(昭和22年、左)と、『メトロポリス 大都会』(昭和24年、中央・右)。メトロポリスは箱入りの豪華本だった ※画像はいずれも復刻版


◎大学生からマンガ家へ変身!

 医大生・手塚治虫は、大学での授業を終えると橋の下で学生服から私服に着替えてベレー帽をかぶり、マンガ家として松屋町の出版社へ通うという二足のわらじ生活を送るようになった。
 大学のあった中之島から松屋町まではおよそ4km。徒歩だと40分から1時間近くかかるけど、当時はこのくらいの距離は誰でもごく普通に歩いたんでしょうね。
 松屋町には現在、雛人形や五月人形などの節句人形を扱う専門店が多く建ち並んでいて、松屋町交差点を中心に南北へと伸びる松屋町筋の400〜500mほどのエリアにおよそ40軒もの人形屋さんが建ち並んでいる。さらに、そうした人形屋さんの間には、昭和の面影を残した駄菓子やおもちゃを売る店もあり、初めて訪れたぼくにも、どこか懐かしさが感じられる温かい街並みだ。


◎『新寶島』の出版社はどこにあった!?

 ところで今回、ぼくはダメモトで、ある調査をしようと思い一枚のメモを持ってきた。それは手塚先生のマンガを出版していた赤本出版社の当時の住所を控えたメモである。これを頼りに、何とか当時出版社のあった場所を訪ねてみたいと思ったのだ。
 ということでまずは『新寶島』を出した育英出版を探してみることにした。育英出版の当時の住所は、『新寶島』復刻版の奥付を見ると「大阪市東區十二軒町七」となっている。
 東区は現在は中央区に統合されているが、十二軒町という町名は残っているので、その場所はすぐに分かった。松屋町の交差点から北東に200mほど入った一角である。
 そこには出版社の影も形もなかったが、近くには○○印刷とか○○紙工などといった、出版関係の会社がいくつもあり、ここがかつて赤本文化の中心地だったことをうかがわせる場所だった。

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かつて育英出版があった十二軒町付近の家。当時の赤本出版社もこんな雰囲気の建物だったのだろうか

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十二軒町の周辺は、今も紙関係の会社が多い。昭和20年代当時、この地域は仙花紙という古紙再生紙をあつかう問屋が多く存在し、それが、この町が赤本マンガで栄える大きな理由となっていた


◎喫茶店のマスターが捜査に協力してくれた!

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喫茶&食事マロニエは松屋町交差点から徒歩1分。散歩の休憩にちょうどいい。営業時間:7:30〜19:00ごろまで、日曜休、問い合せ:06-6761-5070

 次に探索を試みたのが『ターザンの秘密基地』(昭和23年)や『拳銃天使』(昭和24年)『漫画大學』(昭和25年)などを出した東光堂の場所だ。
 こちらも復刻版の奥付を見ると「大阪市南區西×町三番地」とある。ん〜、西ナニ町なのか、字がつぶれていて読み取れないぞ。しかもこの南区も、現在は東区と同様に中央区に統合されていて、どこだか分からなくなっている。これは見つけられないかも。
 歩き疲れたので休憩をすることにして、松屋町筋からひと角曲がったところにあった「マロニエ」という喫茶店へ入った。
 店内を見渡してみると、かなり歴史のありそうなお店である。そこでマスターに聞いてみた。「あのぉ〜すいません、昔の住所で南区西ナントカ町という場所を探してるんですけどどこだか分かりませんか?」。


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マロニエのマスター・荒木宏純さん(左)と奥様の弘子さん。昭和43年からここでお店を経営されているそうで、昔の松屋町の雰囲気などについてもいろいろ聞かせていただいた

 するとマスターは「南区ならすぐそこだけど、西ナントカ町じゃ分からないなぁ……」と言いながら古い地図を出してきて一緒に調べてくださった。するとそこへ話を聞いていたマスターの奥様からナイスアシストが入った。「それってもしかして西賑町やないの?」
 おお! そう言われてあらためてメモを見ると、今まで読めなかった文字がはっきりと読めた。「西賑町にしにぎわいまち」。それに間違いない!!
 ということでさっそくマスターから教わった場所へ行ってみた。そこは現在、谷町6丁目となっている一帯だ。アーケードになった「からほり商店街」という商店街があり、その北側に市立南高校という高校がある。その高校のある一角が西賑町だったそうである。ここにももちろん東光堂はなかったが、周囲には戦後すぐのころに建てられたとおぼしき古い建物がいくつも残されていて、ある路地の奥には、手塚先生のマンガに出てくる赤本出版社そっくりの風景も発見した。


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東光堂から出た手塚先生の著書の一部。左から『ターザンの秘密基地』(昭和23年)、『漫画大學』(昭和25年)、『まんが平原太平記』(昭和25年)、『一千年后の世界』(昭和23年) ※画像はいずれも復刻版

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前出の『がちゃぼい一代記』より、手塚先生が赤本出版社へ原稿を届けにゆくシーン。下の写真とみくらべていただきたい。


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古い建物の表札に「西賑町」という昔の住所が残っていた

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かつての西賑町(現・谷町6丁目)付近の路地の風景。手塚先生のマンガに出てくる赤本出版社にそっくりなんですけど、もしかしてココが東光堂の場所!? まさかね(笑)


◎不二書房の探索はいずれまた

 最後に、手塚先生が東光堂と並んで多くの名作を出版した不二書房の住所を見てみよう。「大阪市生野區勝山通九丁目七二」。生野区には現在、勝山という町名はあるが、勝山通という住所はない。しかし大まかな場所のヒントが、講談社版手塚治虫全集第254巻『有尾人』のあとがきの中にあった。
「『キングコング』『火星博士』や、この『有尾人』を出した不二書房は、松屋町ではなく、もっと南の桃谷というところにありました。その近くには『新宝島』の原案をつくった酒井七馬さんがいました」
 桃谷というのは、松屋町から南東へ4kmほどの場所だ。今回のさんぽでは、さすがにこれ以上歩けないので、ここを訪ねるのはまたの機会に譲ることにした。


◎手塚アニメの出発点は道頓堀だった!?

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大阪松竹座。ここから徒歩5秒で道頓堀の繁華街となる。今回の虫さんぽをこの場所で終えた理由は、仲間で散歩をしたら、ぜひその後は道頓堀で飲み食いしながら、手塚マンガの話題で大いに盛り上がっていただきたい、という深〜い意図があるからなのだ(笑)

 ということで今回の虫さんぽも、次に向かう場所で最終ポイントとなる。
 それは道頓堀にある「大阪松竹座」だ。見るからに重厚なこの建物は1923年(大正12年)の竣工。その後1997年に全面改装されたが、その際も、竣工しゅんこう当時の面影はそのままに残された。
 ここでは現在、歌舞伎や新劇、松竹新喜劇などを上演しているが、かつては映画も上映していた。そして敗戦間近の昭和20年4月12日、ここで1本の長編漫画映画が封切られた。妹尾光世せおみつよ監督の『桃太郎 海の神兵』という作品だ。その内容は時節柄、戦意高揚を目的とした国策映画という体裁を取ってはいたが、その根底には平和への願いが巧みに織り込まれ、またアニメーションとしても当時の最高技術を駆使した傑作となっていた。
 阪大へ入学する直前の当時高校生だった手塚先生は、封切りの当日に、勤労動員されていた工場を休んで、ここでこの映画を見たという。そしてそのときの感動を、後年エッセイにこう書き記した。


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昭和20年4月、手塚先生が松竹座で封切り初日に見たという『桃太郎海の神兵』の一場面。戦後、フィルムはGHQ(連合国軍総司令部)によって焼却処分されたとされていたが、1982年に松竹の倉庫でネガフィルムが発見され37年ぶりに劇場公開された。後にテレビ放送やビデオソフト化もされたが、現在はそのソフトも絶版となっている。貴重な資料なので、ぜひまたソフト化していただきたい(画像はWikipediaより引用)

「ぼくは焼け残った松竹座の、ひえびえとした客席でこれを観た。観ていて泣けてしようがなかった。感激のあまり涙が出てしまったのである。全編にあふれた叙情性じょじょうせいと童心が、希望も夢も消えてミイラのようになってしまったぼくの心を、温かい光で照らしてくれたのだ」(講談社版手塚治虫漫画全集第383巻『手塚治虫エッセイ集1』より)
 この映画との出会いが、後に手塚先生をアニメーションへと傾倒させる大きなきっかけとなったのだ。
 さて次回は関西編・後編として、宝塚市の手塚治虫記念館周辺を歩きます。ぜひまたおつきあいください!!


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(今回の虫さんぽ、6時間52分、12568歩)



取材協力/大阪大学大阪大学総合学術博物館(江口太郎、宮久保圭祐)、適塾、財団法人洪庵記念会(川上潤)、除痘館記念資料室、喫茶&食事マロニエ(荒木宏純、荒木弘子)(順不同・敬称略)


黒沢哲哉
1957年東京生まれ。マンガ原作家、フリーライター。手塚マンガとの出会いは『鉄腕アトム』。以来40数年にわたり昭和のマンガと駄菓子屋おもちゃを収集。昭和レトロ関連の単行本や記事等を多数手がける。手塚治虫ファンクラブ(第1期)会員番号364番


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