手塚治虫が亡くなって早24年が過ぎた。しかし熱烈な手塚ファンの集う手塚治虫ファンクラブでは今も毎月会報が発行され、昔と変わらぬ熱い手塚マンガ談義が交わされているっ!! 今回はそんな手塚治虫ファンクラブ草創期を振り返ろう。といっても紹介するのは、現在の公式ファンクラブが発足する前の話だ。じつは公式ファンクラブ発足以前の1970年代には、手塚プロが公認した私設の手塚治虫ファンクラブが全国各地にいくつも存在していた時代があった。「えーっ、そんなの知らないよ」というあなた。ご一緒に1970年代へタイムスリップいたしましょう!!
現在の手塚治虫ファンクラブ会報『手塚ファンmagazine』は、オンデマンド化への第1歩として、この2013年4月号(Vol.266)からB5判(週刊誌サイズ)に大判化されてオールカラーになった(右)。左はA5判(単行本サイズ)で刊行された最終号=Vol.265号(2013年3月号)
毎月発行されている手塚治虫ファンクラブの会報『手塚治虫ファンmagazine』が先ごろリニューアルした。今までのA5判から倍のA4判に大判化し、3分の2がカラーになった。さらに10月からは「オンデマンド出版」という新しいサービス形態で会報が発行されることになるという。
オンデマンド出版というのは、雑誌や書籍を必要な部数だけ印刷・製本してくれる出版形態のことだ。10月以降、会員は、会報をオンラインで購読するか、オンデマンド出版によって製本された紙の会報で受け取るかを選べるようになるらしい。
ま、そんなわけで、時代は何でもかんでもインターネットである。だけどコレクター気質のあるぼくは、やっぱり紙の会報がいいなあ。
ぼくが手塚治虫ファンクラブへ入会した高校生のころ、毎月、自宅へ会報が届くのが楽しみで仕方なかった。月末が近づくと「そろそろかな」と思いつつ毎日ポストを覗いてみる。そしてある日、そこにあのアトムとヒゲオヤジと手塚先生のイラストが印刷されたファンクラブの封筒が入っているのを発見した瞬間の、あのトキメキ!! これですよ、この楽しさがファンクラブ会報にはあるんです!!
ということで今回は手塚治虫ファンクラブの草創期を振り返る「あの日あの時」をお送りしよう。
現在の公式手塚治虫ファンクラブが発足したのは1979年5月のことだ。だけどじつはその前にファンによって設立された私設の手塚プロ公認ファンクラブが活動していた時代があった。
今回はその私設ファンクラブ時代(ぼくは勝手に第1期と呼んでいる)を振り返ります。さあ、あなたのタイムマシンの時計の針を1971年1月にセットしてください。
さて1971年1月である(早っ!)。このころはいったいどんな時代だったのだろうか。
前年の1970年11月25日には、作家の三島由紀夫が自衛隊の市谷駐屯地で割腹自殺した。明けて71年1月13日には、米軍が沖縄の知花弾薬庫から毒ガスを搬出し、近隣住民の大きな反対運動が起きた。
一方、手塚治虫は前年の70年から『ビッグコミック』に『きりひと讃歌』を連載中。『プレイコミック』には『人間昆虫記』を連載していた。青年コミックでの活躍が多い時期だったんですね。また『COM』に連載中の『火の鳥』は70年10月号から「復活編」が始まっている。
ただし71年後半に入ると、9月には虫プロ商事の幼年誌『てづかマガジンれお』が創刊し、同誌で『ワンサくん』の連載がスタート。10月には『ふしぎなメルモ』のテレビアニメが始まるなど、手塚は子どもマンガの世界でも、ふたたび活動を活発化させていくことになる。
ちなみに先ほどの知花弾薬庫の毒ガス騒動は、手塚が後に『MW-ムウ-』を描く際の大きなヒントにしている。それについては、このコラムの第4回:“悪魔のような男”はこうして生まれた -バンパイヤからMWへ-(後編)で紹介しているので、ぜひそちらも読んでみてください。
第1期手塚治虫ファンクラブが発足した1971年当時、連載されていた手塚マンガ2作。『ワンサくん』(1971-1972)は、この年に虫プロ商事が創刊した幼年向け月刊マンガ誌『てづかマガジンれお』に連載されたもの。主人公の白い雑種犬ワンサは、のちに三和銀行のマスコットキャラとなり、1973年には虫プロの製作でテレビアニメ化もされた。右の『ふしぎなメルモ』(1971-1972)は小学館の幼年誌や低学年誌に連載された作品。こちらも手塚プロの製作でアニメ化されている(左:講談社版全集第380巻『ワンサくん』、右:講談社版全集第280巻『ふしぎなメルモ』)
後に手塚治虫ファンクラブ会長となる森さんが最初にメンバーとなったのは全日本マンガファン連合というマンガ愛好家グループだった。これはその会報『まんがのむし』。手塚ファン専門の情報誌ではないが、会員に手塚ファンが多いこともあって、毎号、手塚マンガの情報も多かった。左の1973年第1号には、1950年に発表された手塚治虫の短編『くるったジャングル』を再録。右の1977年第2号は手塚治虫特集で、この年の11月に大阪心斎橋パルコで行われた手塚治虫の講演の再録などが掲載されている
話を第1期手塚治虫ファンクラブに戻そう。ファンクラブ発足の経緯については、当時の入会案内ハガキにこう記されている。
「会の発足は昭和46年の1月7日、大阪のそごう百貨店で手塚先生とお話しした時、先生からまだ正式なファンクラブは持っていないとうかがい、早速その場でこの会発足の承認をしていただきました」
そしてこのおよそ半年後、会報『虫のしらせ』ゼロ号(昭和46年8月10日号)が発行された。
このとき中心となって動いたのは、すでに故人となっている初代ファンクラブ会長・石井托氏だった。
発足当時の会員はおよそ100名ほど。特にどこかで告知して会員を募集したわけではなく、まずはイベントなどでよく集まっていた熱心なファンたちが中心メンバーを構成していたという。
そしてその中には、今回ゲストとしてお話を聞かせていただく森晴路さんもいた!
今回、インタビューさせていただいた現・手塚プロ資料室長の森晴路さん。第1期手塚治虫ファンクラブ2代目会長として、1970年代に会の運営と会誌の発行に辣腕を振るった。現在のファンクラブの基礎を作った人なのです
それでは森晴路さんにご登場いただきましょう。森さん、よろしくお願いしますっっ!!
「どうもこんにちは、森です」
森さんは現在は手塚プロの資料室長として、手塚治虫に関する資料の管理・収集のほか、復刻版書籍の作品解説など幅広いお仕事をされているが、学生時代は第1期手塚治虫ファンクラブの2代目会長として活躍されていた。
さっそく森さんにお話をうかがおう。森さんが手塚治虫ファンクラブに入会するきっかけはどのようなものだったんですか?
「最初のきっかけは“全日本マンガファン連合”です。
全日本マンガファン連合というのは1960年代後半から1970年代にかけて全国規模で活動していたマンガファンの同人グループです。手塚治虫ファンや石森章太郎(後の石ノ森章太郎)ファン、白土三平ファンなど、主にコレクター系のファンが集まって、会報の発行などをしていました。
ぼくは高校生のころに雑誌『COM』の“譲ります”のコーナーで、全日本マンガファン連合の会長の岡田さんから絶版本を譲ってもらったんですが、その時にすすめられてこの会に入会したんです。
ただ、そのころはまだ長野県松本市の実家に住んでいましたから、本格的なファン活動を始めたのは、1971年の春に大学へ入学して上京してからですね。全日本マンガファン連合の会合が夏にあり、そのときに石井氏も上京しており、岡田さんを介して知り合ったわけです」
森さんが中心となって編集・発行を始めたばかりのころの初期ファンクラブ会報。ガリ版刷りのような簡易印刷で作られている。右から東版第3号、第5号、第7号。サイズは後の会報よりひと回り大きいB5判(現在の会報と同じサイズ)で16〜24ページ前後。“虫の知らせ”というのは本来、悪いことが起こりそうな不吉な予感のことを意味している。そのため第2号から第3号にかけて『虫のしらせ』という誌名を変えるかどうかという意見が交わされている。だけど結局「シャレている」「皮肉がきいていて面白い」などの肯定的な意見が多数を占めたため、このままいくことになったようだ
上京されてまず何をされたんですか?
「すぐにマンガファン連合の仲間に連絡して直接会いました。そしてその中に、後に一緒に手塚治虫ファンクラブの運営に関わっていただくことになる石之博和さんもいらっしゃったんです」
現在はアニメーターとして数多くの人気アニメを手がけておられる石之博和さんですね!
「そうです。当時は石之さんもまだ武蔵美(武蔵野美術大学)の学生でした」
やがてそのおふたりが中心となって手塚治虫ファンクラブを運営されていくわけですが、そういう流れになったのは、どういういきさつだったんでしょうか。
「ぼくが上京した年の夏にちょうど手塚治虫ファンクラブの会報ゼロ号が発行されまして、もちろんぼくもすぐに入会しました。
ところが石井さんの事情で残念ながら会報が3号まで発行されたところで止まってしまったんです。
そこで石之さんと相談して関東ローカル版の会報を作ろうということになりました。そして最初に出したのが会報『東版 虫のしらせ』(72年7月号)です」
誌名に『東版』と付いていたんですね。
「このときはまだ、本家『虫のしらせ』が復活する可能性もありましたから。われわれの出す会報は関東ローカル版ですよ、ということで『東版』と付けたんです」
ちょっと遠慮したわけですね。
「そういうことです(笑)」
『東版 虫のしらせ』No.3(72年11月号)には、『鉄腕アトムクラブ』に連載されていた『ボクのまんが記』の復刻が掲載されている。当時、こうした昔の記事を読もうと思ったら古本屋で原本を入手するしかなく、会報で読めるのはものすごくありがたかった
こちらは『東版 虫のしらせ』No.5(73年1月号)に掲載された「幻の単行本リスト」と題された記事。これらの本は、当時、いずれも刊行が予告されていたのに未刊となってしまった幻の単行本をリスト化したもの。あのころぼくらは、このリストを見つめながら「どこかで出してくれないかなあ」とため息をついていたのだ
手塚治虫ファンクラブからは、会報のほかにこうしたニュースペーパーや、ハガキによるお知らせ速報が不定期に届いた。これは青焼き印刷によるB5判ペラ1枚のニュースペーパー『虫の息』1976年10月25日号。この号のトップニュースは講談社の手塚治虫全集刊行が正式に決まったというもの。もちろんこれを読んだぼくは躍り上がって喜んだ。それにしてもこの紙名の『虫の息』というのも、今にも死にそうな“ひん死の状態”を意味しているわけで、当時の運営スタッフはとにかくネガティブな言葉が好きだったようですね(笑)
ぼくも当時の会報を何冊か持っていますが、『東版 虫のしらせ』の時代がしばらく続いていますね。
「『東版 虫のしらせ』は1972年の8・9月合併号から番号を振り直して『東版 第1号』となりました。その後、東版を7号(1973年3月号)まで刊行したところで、73年6月号から『東版』を取って全国版の会報になったんです」
あー、やっとぼくにも『虫のしらせ』初期の流れが把握できました。それにしてもややこしくてコレクター泣かせですね。
「ははは、すいません」
こうして森さんを中心とした新生・手塚治虫ファンクラブの活動は始まった。このころは会員数も200名ほどになっていたという。
ところがその会員数が、あることをきっかけに爆発的に増えることになる。それは『COM』復刊号の発刊である。
雑誌『COM』は1967年に手塚治虫が創刊した月刊マンガ雑誌だった。“まんがエリートのためのまんが専門誌”をキャッチフレーズに、新人マンガ家の育成に力を注ぎ、実験的なマンガも数多く掲載していた。だが1971年12月号でいったん休刊となっていた。
その『COM』が1973年8月に、およそ2年ぶりに復刊されたのだ。復刊号には、『COM』休刊で連載が中断していた手塚治虫の『火の鳥』の新章「乱世編」も掲載されていた。
そしてその『火の鳥』「乱世編」の最終ページの後ろに手塚治虫ファンクラブへの入会案内広告が掲載されていたのだ。森さんによれば、この広告によってものすごい数の入会希望者が殺到したという。
実際、当時高校3年だったぼくもこの広告を見てすぐに入会申し込みをしたクチである。そのときに送ってもらった入会案内ハガキがここに紹介したものだ。
1973年刊行された雑誌『COM』復刊号(8月号)の表紙(左)と、その号に掲載された手塚治虫ファンクラブの入会案内広告。ぼくはコレを見て即日、入会案内書を申し込んだ!
申し込んで間もなく、ファンクラブから届いた入会案内ハガキ。すぐに現金書留で会費を送付し、会報が送られて来るまでの長かったこと。会報が届くのを、このハガキをまるでラブレターのように何度も何度も読み返しながら待ったのでした
ふたたび森さんにおうかがいしよう。森さん、このときの反響というのはどんな感じだったんですか?
「とにかくものすごかったです。振り替え用紙や定額小為替とともに入会申し込みの手紙が毎日送られて来るわけです。復刊号の発売から1〜2ヵ月は、この対応だけでほかのことが何もできなくなっちゃうくらいでした。
しかもじつはあの広告はぼくらが出したわけじゃなくて虫プロ商事が勝手に載せたものなんですよ。ありがたいことですけど、ぼくらはスタッフ数人でやってましたから、もう泣きそうでした。結局、あの広告で会員が500名くらいに増えました」
うひゃー、すごいですね。ぼくも含めて、当時の手塚ファンがそれだけ情報に飢えていたっていうことですね。
「まさにそうです。あのころは後に出てくる『ぱふ』や『COMIC BOX』みたいなマンガ情報誌もなかったですからね。新刊情報もイベント情報も自分で調べるしかなかったんです。
しかし一方で『シティロード』や『ぴあ』が相次いで創刊されたりして(※)“情報”というものの価値がやっと認められはじめた時代でもあったんです」
(※『シティロード』は1971年9月創刊、『ぴあ』は72年7月創刊)
このころのファンクラブの主な活動は、月1回の会報『虫のしらせ』発行のほか、会報ではフォローしきれない速報ニュースやローカルイベントなどがある場合は、ハガキやペラ紙の速報ニュースが随時発行された。
森さん、こうした情報はどのように集めていたんでしょうか?
「毎月、手塚プロへ通って取材をしていました。手塚プロが富士見台の肉屋の2階にあったころですね。手塚先生のマネージャーの手塚卓さんという、この方は手塚先生のいとこなんですが、その方に毎月お会いして情報をいただいていました」
会員数が増えたことにより、会員にはメリットも生まれた。例えばこのころからポツポツと出はじめた手塚治虫の限定本の情報などが一般に告知されるより前に会員に知らされることで、優先的に購入できるようになったのだ。
これは出版社にとっても良いことだった。事前にある数の販売が見込めるから思い切った企画を立てることができる。1975年に刊行が始まった文民社の箱入り豪華本「手塚治虫作品集」全8巻などは、ファンクラブ会員の先行予約があって初めて成立した企画だろう。
『虫のしらせ』1975年第2号として刊行された「手塚治虫作品リスト」。今見るとかなり大雑把で、漏れている情報も多い。けど当時は同様の資料はほかになく、古本屋で雑誌のバックナンバーを集めるのに欠かせない資料だった
都内で不定期に開催されていた、ファンクラブ主催のお茶会の案内ハガキ。ぼくは残念ながらお茶会には一度も参加したことがなかった。イベントでたまに見かけるような超マニアックなおじさんとかがいっぱいいたら恐いなぁ、と思って恐れをなしていたのだ。今にして思えば、ぜひ行っておくんだったなあ
ところで森さん、ファンクラブは会報の発行以外にどんな活動をしていたんですか?
「毎月1回新宿御苑で、後に新宿の喫茶店に集まってお茶会を開いていました。そこで特に何かイベントがあるというわけではなくて、入手したコレクションを見せあったり手塚マンガの話をしたりという、今のオフ会のようなものですね。参加人数はまちまちでしたがだいたい10数人前後でした。
1973年8月に虫プロが倒産してからは虫プロの手塚アニメが見られなくなってしまったので、16ミリフィルムを借りてきて上映会を開いたこともあります。このころはフジテレビがフィルムの管理をしていたのですが、無料で貸し出してくれたんです。
あと手塚先生のイベントのときには、ぼくらファンクラブのスタッフも応援に借り出されました。そこではもう何でもやりましたよ。1974年に荻窪で開かれた「手塚治虫30年展」(※)のときは、関係者を招いて開くオープニングパーティの段取りをまかされましてね。だけどそんなの仕切ったことないですから、どうしたらいいか分からなくて、料理は寿司屋に仕出しを注文したんです。そうしたらお刺身ばっかり並んじゃって(笑)。文句は言われませんでしたが大失敗でしたね」
※手塚治虫30年展については『虫さんぽ』第7回「杉並区荻窪・手塚ファン大会のルーツを訪ねる!!の巻」で紹介しています。
こうしたファンクラブの活動がもっとも盛り上がったのは、森さんによれば70年代後半だったという。
それはちょうど『ブラック・ジャック』(1973〜83)と『三つ目がとおる』(1974〜78)の連載が始まって手塚マンガのファン層が世代的にも地域的にも大きく広がった時期でもある。
この時期、地方の熱心な手塚ファンたちがそれぞれ独自の活動を始めた。その一端がここに紹介した地方版の会報である。
手塚治虫ファンクラブ名古屋支部は『虫のしらせ』名古屋版を発行。関西で開催されたイベントの写真入りレポートのほか、名古屋のファンの熱心な投稿記事が掲載されている。
手塚治虫ファンクラブ・東北は、メインの会報のほかにさまざまな冊子を発行していた。左から昭和63年6月刊『むしのなかま通信』第6号、その別冊付録の『虫No.1』(『こけし探偵局』の復刻を収録)、平成元年8月発行の『むしのなかま通信』第9号
こちらは手塚治虫ファンクラブ・京都の会報『ヒョウタンツギタイムズ』。いずれもB5判(週刊誌サイズ)の大判サイズで、左から第2号(昭和52年6月号)、第3号(昭和52年9月号)、第4号(昭和52年12月号)、第5号(昭和53年3月号)
手塚治虫ファンクラブ・東北は数種類の会報を同時に発行していた。『むしのなかま通信』がメインの会報で、これにはファンの投稿記事や出版情報などを収録。『楽描帳』は似顔絵などのイラスト投稿をまとめたものだ。また『蟲の森』はB5判で50〜70ページもある立派なもの。内容は主に単行本未収録作品の再録だ。
そして絶版マンガの復刻にもっとも力を入れていたのが手塚治虫ファンクラブ・京都である。その会報『ヒョウタンツギタイムス』には、当時は原本を入手するしか読む手段のなかった幻の読み切り作品が数多く再録されていた。そのためファンクラブ・京都には地元のファンのみならず全国の手塚ファンが入会していたのである。
手塚治虫ファンクラブ・京都は活動当初から単行本未収録作品の復刻に力を入れていた。『ヒョウタンツギタイムズ』昭和53年6月刊の第6号(左端)からは、当時、幻だった、おもしろブック版の「ライオンブックススシリーズ」を連続して復刻。手塚ファンの間で大きな話題となった
手塚治虫ファンクラブ名古屋支部が独自に発行していた隔月刊の支部誌『虫のしらせ NAGOYA LETTER』。中央が昭和50年7月に刊行された支部誌第1号で、右は昭和50年の第3号、左が昭和52年の第3号である
これら地方のファン活動の中心に位置していたのは東京の手塚治虫ファンクラブだったわけだけど、その活動も1976〜77年ごろからめっきりと鈍ってしまっていた。
ただしそれは森さんの手塚愛が失われたからではもちろん、ない。講談社版手塚治虫全集の刊行が本決まりとなり、それにともなって森さんは編集スタッフとして手塚プロに入社することになったからだった。
するとここで、ファンクラブの新たな助っ人として名乗り出たひとりの若者がいた。当時まだ大学生で熱心な手塚ファンクラブ会員のひとりだった大西克己氏、後の小説家・二階堂黎人氏である。
森さんからファンクラブの運営を託された大西氏は2冊の『虫のしらせ』を発行した。しかし1979年、公式手塚治虫ファンクラブが設立されることとなり、大西氏もそのまま公式ファンクラブのスタッフに移行した。
こうして第1期の手塚治虫ファンクラブは発展的解消をとげたのである。
その後の公式ファンクラブについてはまたあらためて取材をして紹介したいと思います。
さて最後に、森さんにあらためて第1期手塚治虫ファンクラブのころを振り返ってみて、いまどんな感想をお持ちか聞いてみた。
するとその答えは意外なものだった。森さんは申し訳なさそうな表情になってこう言ったのだ。
「もう……当時会員だった皆さんには申し訳ないというおわびの気持ちしかないですね。特に最後の方は会誌もほとんど出せなくなってしまいましたから。ひとえにぼくのがんばりが足りなかったんだと思っています……」
森さんはこうおっしゃっているけど、あのころの会員でそんな不満を抱いている人はほとんどいないと思う。
現在の公式ファンクラブの活動がいまだ活発に続けられているのも、あの第1期の情熱的な活動があったからに他ならないからだ。
今回、久々に当時の会報を開いてみると、ページからたちのぼる熱気に圧倒された。いまだ手塚治虫が健在だった時代ということもあるが、それ以上にファンが自分たちで作品を盛り上げていくんだというその思いが熱いのだ。
そしてその活動がいまだに続いているというのがファンにとっては何よりうれしくありがたいことではないだろうか。
森さん、今回も貴重なお話を聞かせていただいてありがとうございます!
そして皆さん、今回も最後までおつきあいくださってありがとうございます。ぜひまた次回のコラムでお目にかかりましょう!!