◎今回は黒沢の地元を散歩する!?
京成上野駅から京成本線でおよそ21分。京成高砂駅で支線の金町線に乗り換え、1駅で柴又駅に到着する。今回の虫さんぽは、ここ柴又駅前からスタートだっ!
……と書き出すとここまで電車に乗って来たみたいだけど、実は私・黒沢は生まれも育ちも葛飾柴又で、ここは地元なのだ。ということで今日も自宅から歩いてやってきました。スミマセン(笑)。
さて柴又といえば、冒頭にも書いたように世界最長の映画シリーズとしてギネス・ワールド・レコーズにも記録されている、松竹映画『男はつらいよ』シリーズの舞台として有名だ。故・渥美清演じる風来坊・車寅次郎の故郷が柴又で、その寅さんの叔父叔母夫婦が帝釈天参道でお団子屋さんを経営しているという設定だった。
だけどこの町が手塚先生と関係があるなんて聞いたことがないぞ! という方も多いだろう。あるいは逆に「ああ、あれね!」とピンと来た方もおられるかも知れない。そう、手塚先生のエッセイ『ぼくはマンガ家』の中に、かつて手塚先生が柴又を訪れた時の事が記されているのである。
それについては後で紹介するけど、それだけじゃありませんよ。今回の取材で初めて明らかになった意外な事実もあるんですから! ということで、さっそく行ってみようっ!!
手塚先生の『ぼくはマンガ家』を手に、いざ散歩に出発! ちなみに柴又へ来たのが昭和42年だったという記述があるのは最初に刊行されたこの本だけで、後に出た本では年号の部分がカットされている。講談社版全集では第383巻『手塚治虫エッセイ集1』に収録
◎大発見!寅さんとアトムの意外な関係
柴又駅の改札を出ると、駅前広場で出迎えてくれるのが等身大の寅さんの銅像だ。これは彫刻家の吉田穂積氏が原型を製作し、1999年7月29日に完成した。旅立つ寅さんが最後に一度だけ名残惜しそうに帝釈天の方を振り返る、というポーズを再現している。
手塚ファンのあなた、ここでフ〜ンとうなづきながら通り過ぎてはイケマセン!! 実はこの「フーテンの寅」像が今回のスクープなんですから!!
どういう事かというと……、去年の夏の『虫さんぽ』第5回と第6回で埼玉県飯能市にある鉄腕アトム像を紹介した。そのアトム像を製作したのは、当時、飯能市にお住まいの彫刻家・広瀬敬二さんだった。
鉄腕アトム像の原型を製作中の広瀬敬二さん(写真提供/野口勲氏)
広瀬さんはその後、1989年に工房を山梨県へ移し、現在はそこで広瀬ブロンズ工房を開き、様々なブロンズ美術鋳造を行なっている。
そして何と! この柴又の寅さん像も、その広瀬さんの工房で鋳造されたものだったのだ。つまり飯能の鉄腕アトム像と柴又の寅さん像は、どちらも広瀬さんの手から生まれた兄弟だったのである!!
広瀬敬二さん(61)に電話で取材したところ、アトム像も寅さん像も作り方はまったく同じだという。2体とも“石膏鋳型ロストワックス鋳造”という方法で作られていて、粘土で製作した原型から石膏に型取りをし、そこへ青銅を流し込んで作るのだそうだ。
ほら、この話を聞いてからもう一度寅さん像を見ると、そこにアトム像のイメージが重なって見えてくる……かも!?(さすがにそれはナイ!)
柴又駅前の寅さん像(左)と、埼玉県飯能市の鉄腕アトム像(右)。まさかこの2体が兄弟だったなんてビックリ!!
さて、気が付いてみると散歩を始めてまだ20歩くらいしか歩いていないぞ(笑)。とっとと帝釈天方面へ向かおう!
と言って参道を歩き出すと、すぐ前方に「柴又のおもちゃ博物館」という看板が見えてくる。私事で恐縮だけど、ぼくはこの博物館の名誉館長を務めていて、ここにはぼくのおもちゃコレクションも多数展示されている。
『手塚マンガあの日あの時』
第8回で紹介したアトムやレオの貯金箱など、手塚キャラのおもちゃもいろいろ並んでいるから、御用とお急ぎでない方は、散歩の途中で立ち寄ってみてください。
柴又のおもちゃ博物館。入館料200円。営業時間土日祝日の11:00〜18:00 平日休館。問い合わせ03-3673-2256
館内で展示中の黒沢コレクション。他のおもちゃ博物館とはテイストが若干違い、主に駄菓子屋で売っていたような安物玩具がメイン
◎手塚先生は占い師のお告げで柴又へ!?
おもちゃ博物館の前を通ってお団子屋さんやお土産屋さんの並ぶ200メートルほどの参道を進むと突き当りが帝釈天だ。ここは正式名称を経栄山題経寺といい、寛永年間(1629年)に開基された古いお寺である。
寅さん映画のおかげで全国に名前が知られるようになったけど、実はそれ以前から関東では有名なパワースポットで、作家や芸能人、スポーツ選手などが数多く参拝に訪れている。
プロ野球の王貞治監督は、ぼくが小学生だった現役選手の時代から、毎年大晦日にここへ来て除夜の鐘を打つのが恒例となっている。
手塚先生がこの帝釈天を訪れたのは、『ぼくはマンガ家』によれば昭和42年のことで、その理由はある易者のお告げによるものだったという。
そのときのことを手塚先生がどう書かれているかは本を読んでいただくとして、ここでは、当時運転手として手塚先生と一緒に柴又へ行った手塚プロのSさんからお聞きした話を紹介しよう。
「あれは手塚先生のご自宅が富士見台(前回『虫さんぽ』で取材した虫プロの場所)にあったころですね。先生がある易者に自宅を見てもらったところ、ガレージのあたりに鬼門があると言われて、そこを清めるには東の方にある清い場所へお参りをしてくるといいと告げられたんだそうです。
それで地図を広げてその方向をたどってみると柴又の帝釈天があったんです。
手塚先生は特定の宗教は信心されていなかったですけど、占いとか運命的なものにはものすごく真摯に向き合う方でしたからね。すぐに仕事を抜けて、私の運転で柴又へ向かったんです」
帝釈天参道。平日なので人通りが少ない。おみやげの定番はよもぎの葉を使った草団子だが、定番を外したければ高木屋の葛餅と丸仁の佃煮は地元民も愛するオススメ品だ。郷土玩具のはじき猿は、今や作る人が1人になり絶滅寸前だから玩具コレクターは今のうちにゲット!!
帝釈天でお参りをする。車で来る場合は帝釈天横と江戸川河川敷に有料駐車場がある。営業時間は季節と曜日で変動するので事前確認を。寅さん記念館前にはレンタサイクルもあるので春はサイクリングをするのも気持ちがいい
ぼくのアルバムから引っぱり出してきた昭和33年ごろの帝釈天の写真。手塚先生がここを訪れたときも大体こんな感じだったはずだ。ちなみに写真の真ん中で父の友人に抱かれている赤ちゃんがぼくだ(笑)。
◎予言的中で手塚先生ビックリ!!
しかし、この当時はまだ環七(環状七号線)も途中までしか開通していなかったから、Sさんは細い路地へ入り込んで道に迷ってしまったという。
再びSさんのお話──。
「私が道が分からずキョロキョロしていると、手塚先生が手を叩いて「やっぱり!」とおっしゃるんです。何がやっぱりかというと、その易者から「あなたはその清い場所へ向かう途中で必ず道に迷うだろう」と予言されていたと言うんですね。しかも道を聞く相手は寿司屋かそば屋だと!
だけど道に迷ってるのに、わざわざ寿司屋かそば屋を探してる余裕はありませんから(笑)、適当に目に付いた人に道を聞いたわけです。そしたら何とその人は寿司屋の出前持ちだったんですよ!」
手塚先生も持ち帰った帝釈天の御神水。地元の人もポリタンクを持ってたくさん汲みに来る。天然の湧き水特有の風味があり、暑い夏に飲むと特にウマイ
そうしてようやく帝釈天に着いた手塚先生は、お参りをした後、境内の御神水を水筒に入れて大切に持ち帰ったとSさんは語ってくれた。一方、手塚先生は『ぼくはマンガ家』で「土をもらって帰った」と書いているから、実際は水と土を両方持ち帰ったのかも知れない。
ところで今回の散歩では、帝釈天の関係者で、手塚先生が来たときのことを覚えておられる方がいないかと、広報の方を通じて調べてもらったんだけど、あいにく当時のことを知る人は誰もおらず、お寺の記録にも残されてはいませんでした。残念!
◎老舗料亭に手塚先生のサインが!!
帝釈天を出てぼくが最後に向かったのは、江戸川の土手沿いに建つ「川甚」という川魚料理のお店である。
実はこのお店にも、かつて手塚先生が来たことがあり、お店のサイン帳に先生のサインが残されているというのだ。
川甚の女将・天宮美恵子さん(83)にお話をうかがった。
「手塚先生がおいでくださったのは昭和37年ごろだったと思います。うちが今の4階建てビルに改築したのが東京オリンピックのあった昭和39年ですから、その前の木造モルタル3階建ての建物のころですね。
お仕事のご関係らしい2〜3人の方とご一緒で、3階の江戸川の見えるお部屋へご案内いたしました」
川甚は江戸後期の寛政年間(1790年代)に創業した老舗で、昔から多くの文人や政財界の著名人などが数多く訪れている。
そんな歴史あるお店の宝物になっているのが、店に訪れた人々がしたためた何冊ものサイン帳だ。
川甚の女将・天宮美恵子さん。昭和22年に文京区から柴又へ嫁いで来られたという。戦後の柴又の移り変わりをつぶさに見てきた生き証人だ
女将さんからそのサイン帳を見せていただいた。尾崎士郎、三島由紀夫、黒澤明などの達筆な書やサインに混じり、あったあった、手塚先生が描いたヤー坊のイラストとサインが!!
手塚先生がサイン帳に書いたヤー坊のイラストとサイン。マジックペンか筆か、筆記具は分からないが線の強弱がのびやかで素晴らしい
ヤー坊が活躍する『ごめんねママ』は、講談社版全集では第273巻『マコとルミとチイ』に収録。初出は、昭和36年から38年まで雑誌『主婦の友』に連載したもの。手塚先生が川甚を訪れた時期とも一致する
あいにく、この時手塚先生がなぜここを訪れたのかは女将さんも覚えておられなかったので、ぼくが勝手に推理してみた!
イラストのヤー坊がカタツムリを持っているってことは、先生が来たのは春から初夏にかけてだろう。そして昭和37年といえば、4月にちょうど虫プロのスタジオが完成している。そう、手塚先生はスタジオの厄除けと繁盛祈願のために帝釈天へお参りに来たのである! ズバーン!! 我ながら名推理だと思うんだけど、どうでしょう(笑)。
ではまた次回の散歩でお会いいたしましょう!!
(左)手塚先生が訪れたころの川甚の座敷の写真。座ったままで江戸川の風景が見渡せる。
現在の川甚の営業時間は、平日11:00〜22:00(ラストオーダー19:30)、日曜祭日11:00〜21:00(ラストオーダー19:00)水曜定休、問い合わせ03-3657-5151。
営業時間が変動したり、団体で満席の場合などもあるので、来店の際は事前に電話予約をした方が確実とのこと
(右)当時、手塚先生が食べたと思われる料理と川甚オススメの料理を出していただいた。左上から「鯉こく」、「鰍の天ぷら」、「鯉の甘煮」、その下が「鯉の洗い」、そして中央が「うな重」。井戸水を使った生け簀で泳ぐ鯉は臭みもなくプリッとした食感と淡白な味わいが美味!! うな重2,100円、松花堂弁当3,150円、コース料理は4,000円から
おまけ紹介。『アトムと寅さん 壮大な夢の正体』(2005年河出書房新社刊)。手塚先生とも縁の深かった評論家の草森伸一と四方田犬彦が、アトムを始めとする手塚マンガと寅さんを縦横に論じた対談集
(今回の虫さんぽ、2時間14分、2526歩)
取材協力/広瀬ブロンズ工房、柴又ハイカラ横丁・柴又のおもちゃ博物館、帝釈天題経寺、川甚(順不同)
黒沢哲哉
1957年東京生まれ。マンガ原作家、フリーライター。手塚マンガとの出会いは『鉄腕アトム』。以来40数年にわたり昭和のマンガと駄菓子屋おもちゃを収集。昭和レトロ関連の単行本や記事等を多数手がける。手塚治虫ファンクラブ(第1期)会員番号364番