手塚治虫がマンガの中で好んで使った表現は数多い。ズームやカットバックなど映画的手法を大胆に取り入れたこともそのひとつだ。しかしそれ以外にもう一つ、手塚マンガを特徴づけている表現手法がある。モブ(群衆)シーンだ。圧倒的な数の人間たち(ときには動物や昆虫も)を見開きページ一杯に描くという手法は、効率を重視するマンガ家なら真っ先に敬遠するものだ。だけど手塚はあえて、いやむしろ好んでそれを使っていた。その時、手塚がモブシーンに込めた意味は!? 今回は手塚マンガのモブシーンの秘密に迫ります!!
手塚治虫が亡くなった翌年の1990年7月、東京の国立近代美術館で手塚治虫展が開催された。公立の美術館で開催された初めてのマンガ家の個展である。
その時ぼくは、そこに展示されていたある1枚の原画に大きな感銘を受けた。
それは『火の鳥 復活編』の1ページだった。1ページを12コマに均等に分けて、そこにまったく同じロボットの絵が12枚並んでいる。
単なる機械であったはずのロボット・チヒロに自我が目覚めつつあるという衝撃的なシーンを、動きを止めたチヒロの内面を描くことで表現しているのだ。
このページ、21世紀の現代ならば最初の1コマだけ描いて、あとはパソコンでチャッチャとコピペ(コピー&ペースト)すれば簡単に仕上がってしまう。
だけどこの作品が発表された1970年当時は乾式コピー機すらまだ一般的ではなく、全コマを1つずつ手描きで描かなければならなかった。そのつもりでこのページをよぉく見てみると、細部が少しずつ違っていることがお分かりいただけるだろう。
さらにアシスタントを使っていなかった、より過去の時代の作品の原画を見てみると、回想シーンなどで同じ絵が出てくる場合、元の絵をトレーシングペーパーで描き写し、それを糊でコマに貼っている原画もあった。同じ絵のコマであっても、まさに1コマずつ丹精をつくして描いていた様子がうかがえる。
こうした同じ絵の繰り返しは、現代では格段に楽になった。だけどモブシーンはそうはいかない。
細部にまで気を配り、絵としての全体の構図やバランス考えて描かなければならない。しかも一度描き始めたら、手が痛くなろうが締め切りが迫ろうが途中で放棄するわけにはいかない。見開きの一部だけ絵の密度が薄いなんてことは許されないからだ。
そんな中で手塚は、まるで自らにプレッシャーをかけるがごとくモブシーンを多用した。
それは初期の単行本作品の時代からすでに始まっている。
手塚の初期作品の中でモブシーンが印象的だったのが1949年に発表された『メトロポリス』だ。ここでは太陽の黒点に異常が発生し、学者たちがパニックになって大混乱をきたしている様子が何ページにもわたって描かれている。ページいっぱいにひしめく圧倒的な群衆をご覧いただきたい。
ところで今回、こうして手塚マンガのモブシーンをあらためて見返してみて見えてきたのは、手塚が表現としてモブシーンを選ぶ場合、そこにいくつかのテーマがあるということだ。
そのひとつがいま紹介した『メトロポリス』のモブシーンに代表される“パニック”である。人類の生死に関わる危機が迫り、人びとが秩序を失って大混乱となる。それを神の視点から描くのが手塚のモブシーンのひとつのテーマ“パニック”なのだ。
およそ2年がかりで執筆し、1951年に満を持して発表した初期SF三部作完結編『来るべき世界』にも同様のパニックシーンがあるので紹介しよう。
世界の危機に際して本来ならばもっとも理性的でなければならない科学者たちが醜くののしり合い、ついには乱闘騒ぎにまでなってしまう。その様子がここでは『メトロポリス』よりもはるかに緊張感をもって描かれている。
同様にパニックをテーマとしたモブシーンをいくつか年代順に見てみよう。
1952年の短編『化石人間の逆襲』では、動物園を抜け出した動物たちが都会で大暴れし、逃げ惑う人びと、応戦する警官隊などが迫力の俯瞰シーンで描かれている。
また翌1953年には『鉄腕アトム』「赤いネコの巻」でも動物が反乱を起こし、都会が占拠されてしまう様子が俯瞰で描かれている。
さらに同じ1953年の短編『太平洋Xポイント』では、原爆・水爆を越える最終兵器「空気爆弾」の実験反対を訴える人びとのデモ行進の様子を見開きいっぱいの群衆で表現したシーンもかなりの見応えがある。
モブシーンがパニック表現として特に効果的に使われているのが、1955年に発表された短編『大洪水時代』だ。
北極海の軍事基地が原子爆発を起こし、日本に大津波が押し寄せてくることが分かって人びとがパニックとなる。
だがそのころビルの地下でみにくい争いを繰り広げていたランプたち悪人はそのことを知らず、建物を出てみると、そこには人っ子ひとりいない無人の街が広がっていてガクゼンとする。
群衆に埋めつくされた街が一転して無人の街へと変わる。この対比はパニック表現として最高の効果を上げていた。
しかし手塚マンガのモブシーンはもちろんパニック表現だけに使われているわけではない。今回ぼくが調べた手塚マンガのモブシーンの中でもっとも多かったのが、たくさんの人びとがそれぞれ好き勝手に行動し好き勝手にしゃべる様子を上空から見下ろした構図で描いたモブシーンである。便宜的にこれを“パノラマ”的モブシーンと名付けよう。
パノラマ的モブシーンに描かれている人びとはひとつの出来事や現象に意識を向けているわけではない。それぞれが自分の意志で勝手に行動しているのだ。
中にはストーリー本編とまったく関わりのない人物が本編とはまったく関わりのないことをしゃべっていたりして、果たして何の意味があるのかと思ってしまったりもするが、そこがまた楽しめるものとなっている。
先に紹介した『メトロポリス』にもパノラマ的モブシーンがあるので紹介しよう。物語の冒頭近く、事件が起る前のまだ平和だったころの都会の賑わいが見開きを目いっぱい使ってみっちりと描かれている。
こうしたパノラマ的モブシーンは手塚が本当に描きたくて楽しんで描いていたのだろう。仕事が急激に増え、ほとんど不眠不休で旅館を転々とするカンヅメ生活をしていた昭和20年代後半から30年代前半の雑誌連載作品の中にも数多く見られる。
例えば『鉄腕アトム』では1956年の「ロボット爆弾の巻」や1958年の「天馬族の砦の巻」などにパノラマ的モブシーンがある。
とくに「天馬族の砦の巻」のモブシーンは力作だ。隅の方に隠れキャラクターが潜んでいたりとお遊びが満載でいつまで見ていても見飽きない。
ストーリーに縛られた絵ばかりを描き続ける中でたまったストレスを、こうした自由気ままに描けるモブシーンで発散していたのだろうか。
と、そういう見方で見ると、例えば同じ『アトム』の1952年作品「フランケンシュタインの巻」には小さなコマにみっちりと人が描かれたコマが2ヵ所も出てくる。実は手塚のモブシーンはこうした小さなコマで描かれる場合もかなり多いのだ。
想像するにこれは、手塚は本来ならば見開きの大ゴマで描きたかったのではないか。だけど時間的にもページ数的にも無理である。そんな制約の中でやむなく中途半端なコマの大きさになったに違いない。そんなことを考えながら読み手側が脳内で見開きページに補完してみると、手塚マンガがさらに楽しめるかも知れません。
また蛇足ながらもうひと言付け加えると、実はこのようなパノラマ的見開きページというのは手塚治虫が元祖ではなくて戦前の田河水泡の漫画などにもあったものだ。さらに言えば絵本などではもっと昔からある表現で、幼いころ、そうした絵本のパノラマ的見開きを何時間も飽きずにながめていた記憶をお持ちの方も多いだろう。
絵描きとしての読者へのサービスマインド、そのひとつの表現がパノラマ的モブシーンなのである。
以下、この時代に手塚が身を削って描いたパノラマ的モブシーンを列挙してみた。その信じられないほどの情熱と努力の成果をじっくりとご堪能いただこう!
さて、手塚マンガのモブシーンにはまだ別のパターンがあるんだけど、ここでゲストにご登場いただこう。手塚先生の元チーフアシスタントとして1960年代半ばから最晩年まで、手塚マンガの製作現場を支えてきた福元一義さんである。
福元さんには4年前、悪書追放の回でもお話をうかがっているので、ぜひそちらもご参照いただきたい。
手塚マンガあの日あの時 第10回:手塚マンガが悪書だった時代
さっそくですが福元さん、手塚マンガのモブシーンというのはどんな体制で製作されていたんですか?
「あれはねえ、体制もなにも、手塚先生がほとんどおひとりで描かれていましたからね、私たちアシスタントはほとんど何もすることがなかったんですよ」
ええっ、あの大群衆をいつもおひとりで描かれていたんですか!?
「そう。例えば同じような人物がそろって行進しているようなシーンはね、先生がいくつかのポーズをお手本として描いて、僕らがそれを参考に描くというのはありましたけどね。
むしろそういうのは稀で、ほとんどひとりで描かれてましたよ。
仕事場がセブンビルにあったころは、先生は別の部屋で仕事をされていましたから、先生の方で先にキャラクターの主線と背景などの指定が入った原稿が、われわれのところへ回ってくるわけです。
それがね、1枚2枚と順調に出てきていたのがピタッと止まってしまって。先生休まれているのかな、と思っていると、しばらくしてすごい見開きのモブシーンが上がってくることがあるんです」
それは感動しますね。
「そうですね。あの迫力には手が震えますよ。ただ我われアシスタントとしては、時間に追われる中で先生の原稿の上がりをジリジリと待っているわけですからね。さあ来たぞ、と思って身構えたら、ほとんど完成された原稿で、我われの手を入れるところがないと知ってガックリする、なんてときもありましたね(笑)」
それは現場ならではのご意見ですね(笑)。
しかし福元さんのお話をお聞きすると、手塚先生は締め切りがきつくてもモブシーンを描かれていたんですね。
「それはもう忙しさはまったく関係がなかったですね。どんなに締め切りが迫っていようが、体調が悪かろうが、先生が必要だと思えば手を抜かずに描く。その姿勢は最後まで変わらなかったですね。
何でしたか、晩年の作品ですごいモブシーンのある作品があったでしょう」
『ネオ・ファウスト』ですね!
「そうそう。あの時もね、お体は相当きつかったはずなんですが、先生がほとんどおひとりで描かれていましたからね。
手塚プロ出身のマンガ家さんや、手塚先生の影響を受けて育ったマンガ家さんの中には、モブシーンを好んで描かれる方もいらっしゃいますが、やはり手塚先生ほどモブシーンに情熱をそそいでいる人は、ほかにいらっしゃらないんじゃないでしょうかね」
おっしゃる通りですね! 福元さん、今回も貴重なお話、ありがとうございました!!
ここで、手塚のモブシーンをリスペクトしようとして大変な苦労をされたというマンガ家さん(たち)の貴重な証言を紹介しよう。
それは1958年、当時トキワ荘に住んでいた石森章太郎(後の石ノ森章太郎)、赤塚不二夫、水野英子の三人が「U・マイア」というペンネームで合作した『星はかなしく』という作品だ。ヴェルディのオペラ『アイーダ』を原案にしたというこの作品の中で、三人は手塚マンガさながらの大モブシーンに挑戦した。
その当時のことを振り返った水野英子の自主製作本『U・マイアって誰?』の中で、水野は当時を振り返りこう語っている。
「この作品でいちばん大変だったのが群衆シーンなんですよ。(中略)手塚治虫先生の『メトロポリス』などでビルの谷間を埋めつくす大群衆などを見て受けたショックが我々の中には焼き付いていましたしね。何であろうとぜったいに手抜きをせずに描こうというのが暗黙の了解でしたから、とにかく見開きのモブシーンはすべて三日くらいかけて三人が入り混じって描き続けたんです。
描いても描いても画面が埋まらない。さすがに石森さんもネをあげてましたね。
《おい、もうちょっとペース上げろよ》
なんて言われても、とにかく描き続けるしかないし……。いや、たいへんでした。」
モブシーンを描く苦労が分かる逸話である。
次は、無数の人びとがバラバラに動くのではなく、心をひとつにして集まっている、または同じ方向に向かって一斉に動く、踊る、そんな“マスゲーム”的モブシーンをご紹介しよう。
初期の作品でこのマスゲーム的モブシーンが効果的に使われているのが『ジャングル大帝』(1950〜54年)だ。
厳しい大自然の中で生きる生き物たちに等しく暖かい視線を注ぎ、それを俯瞰して描いた超大作。その中で、生命の躍動感を表現するためにこの表現が多用されているのだ。
さらにこの表現は、生命そのものをテーマとした後の『火の鳥』でも同じような状況の中で使われている。
こうしたマスゲーム的モブシーンは、さらに突き詰めると、そこに描かれた全員が同じ顔、同じ身なりのキャラクターという不気味なモブシーン、名付けて“クローン(複製人)”モブシーンへと行き着く。うーむ、もうちょっと気の利いた言い方はできないものかと考えたけど、思いつかないからまあいいか……。
1960年代後半から手塚はこのクローンモブシーンを多用している。
その最初と思われるのが1967年から68年にかけて発表された『人間ども集まれ!』だ。
日本人の青年・天下太平の精子から生まれた性別を持たない無性人間たち。その同じ顔をした子供たちが魚の群れのようにまったく同じ行動をする。これはもうこのビジュアルだけで人間の性を風刺した絵になっているという実に秀逸な表現でありました。
さらに1970年に発表した『アポロの歌』では擬人化された同じ顔をした精子の群れが、たったひとりの女王(卵子)めがけて一斉に生存競争を始めるというシーンを描いている。
またそれと同じ年に発表された『火の鳥 復活編』では、今度は大量生産されたロボットのロビタが自我を持ち、集団で高熱炉に身を投げて自殺をするという衝撃的な場面がモブシーンとして描かれている。
このころの手塚は『ジャングル大帝』で手がかりを得た「生命とは何か」というテーマを『火の鳥』や『アポロの歌』を描く中で、突き詰め始めたころであり、そんな過程の中からこうした表現が生まれてきたのだろう。
手塚が生き物の命というものを身近に感じる最初のきっかけとしては昆虫採集に熱中した少年時代の記憶があるだろう。昆虫のように生命力の弱い生き物たちは何百何千という数の卵を産む。彼らは厳しい生存競争を数で勝ち抜くことを選択したのだ。
そんな昆虫や動物が画面いっぱいに描かれたモブシーンも手塚マンガには数多く見られる。
しかもこれはどの時代の作品に多いということはなく、初期作品から晩年の作品まで、あまねく描き続けられているのだ。これについてはもう余計な説明はいらないだろう。その圧倒的な数の力で描かれた生命力、それをこれらの絵からぜひ感じとっていただきたい。
最後は前に紹介したパノラマ的モブシーンとよく似ているが、それとは少し違うモブシーンを紹介しよう。それは描かれている人びとが単なる群衆や雑踏ではなく、それぞれに個性があり役者としてキャラの立っているモブシーンだ。いわば舞台で複数の役者が芝居を演じているのをあたかも観客が見ているような視線で描かれたモブシーンである。ここでは仮に“演劇的”モブシーンと名付けた。
この演劇的モブシーンの代表が、ドストエフスキーの小説を翻案した1953年の作品『罪と罰』(1953年)だ。この作品は全編を通して、観客が舞台を見ているような構図が多用され、そうした流れの中に演劇的なモブシーンも含まれている。
学生時代、役者として舞台に立った経験があり『罪と罰』の舞台ではペンキ屋を演じたという手塚は、この時代、多分に演劇を意識していたのだろう。
そしてこの『罪と罰』のラストシーン、それこそが個人的には手塚マンガのモブシーンの中で最高傑作だと思っている。
革命が始まり大混乱となった街中で自身の犯した罪を大声で告白する主人公──。
まだ読んでおられない方はぜひともこのモブシーンの感動を味わっていただきたい。
さて今回はモブシーンをいろいろと見てきたが、手塚マンガのモブシーンの魅力はまだまだ語り切れていない気がする。皆さんも手塚マンガを読んでいてモブシーンが出てきたら、ページをめくる手を少し止めて、その絵の隅々までをじっくりとご覧になってみてください。そこにはきっと、あなただけの発見があるはずですよ!
最後に問題です! 今回のコラムで紹介した手塚マンガのカットの中にはいったい何人の人間が描かれているでしょうか!? ……って、そんなの数える人いませんよね。いや、数えてもらってもぼくも正解を言えませんから困ります! いろんな意味でとても危険ですので絶対にやめましょう(笑)。
それでは、今回も最後までお読みいただきありがとうございます。ぜひまた次回のコラムにもおつきあいください!!
取材協力/福元一義(敬称略)
1957年東京生まれ。マンガ原作家、フリーライター。手塚マンガとの出会いは『鉄腕アトム』。以来40数年にわたり昭和のマンガと駄菓子屋おもちゃを収集。昭和レトロ関連の単行本や記事等を多数手がける。手塚治虫ファンクラブ(第1期)会員番号364番