今回は東京の北の玄関・JR上野駅界隈を歩きます。まず向かったのは、安土桃山時代に開創された歴史あるお寺。手塚治虫先生とこのお寺にはいったいどんな関係が? そしてそこから西郷さんの銅像が建つ上野公園方面へと向かいます。文化芸術の森とも称される上野公園界隈。手塚マンガの中でこの場所はどのように描かれているのか!? 黄金色に色づくイチョウ並木が美しい晩秋の虫さんぽ、皆さんもぜひご一緒に!!
2009年1月から始まった『虫さんぽ』もついに7年目に突入いたしました。これもひとえに皆様の応援のおかげです。今年も手塚先生の足跡を追ってあちこち歩いてまいりますのでよろしくお願いいたします。
さて虫さんぽではこれまで北は東北・福島から南は南国・沖縄まで、日本各地の手塚治虫ゆかりの地を歩いてきたが、じつは東京都内にまだ歩いていない大都市が残っていた。東京の北の玄関口と言われるJR上野駅周辺である。さっそく出かけましょう!
といっても出発地点は上野駅ではなく地下鉄銀座線で上野駅から1駅目の
稲荷町駅に到着して電車を降りるとホームの天井がかなり低くて圧迫感がある。壁もきれいに塗り直されてはいるが地下空間の狭さとともに駅全体にクラシカルな雰囲気が漂っている。
それもそのはずでここ地下鉄銀座線は昭和2年(1927年)に開業した日本でもっとも古い地下鉄であり、稲荷町駅も開業当初からある歴史ある駅なのだ。
階段を上がって地上へ出ると目の前の大通りが上野と浅草を結んで東西に走る浅草通りだ。地下鉄銀座線はちょうどこの通りの真下を走っているわけですね。
浅草通りを東へ70〜80mほど歩き、松が谷一丁目交差点を左折する。
このあたりは昔ながらの住宅や商店が建ち並ぶ庶民的な街並みだけど、お寺がかなり多いのが目立つ。
そして3つ目の信号機のある松が谷二丁目交差点を右折すると、左手に最初の目的地であるお寺「
曹源寺は別名「かっぱ寺」とも呼ばれているというが、なぜかっぱなのか? それに、このお寺がそもそもなぜ手塚スポットなのか!? それは読み進むにつれて追い追い明らかになっていくであろう(引っぱる!)。
さっそく曹源寺の住職・
「当院は安土桃山時代の1588年(天正16年)に現在の東京駅と皇居外苑の間にある和田倉門近くに開創されました。その後1591年に江戸城が拡張される際に湯島天神下に移転をしたんです。ところが1657年(明暦3年)に起きた明暦の大火=いわゆる“振り袖火事”で寺の建物の大半が焼失してしまい、現在の場所に移転して来たのです」
安土桃山時代とは! ずいぶん歴史のあるお寺なんですね。ところでこちらのお寺は通称「かっぱ寺」とも呼ばれているそうですが、その由来は何なんでしょうか。
「1814年(文化11年)に雨合羽商の合羽屋喜八が当寺に葬られました。喜八は生前、私財を投じて水害対策のための掘割りを作った人物で、その工事が難航しているのを見かねた隅田川の河童たちがそれを手伝ってくれて、ようやく工事が完成したそうです。それで当寺で河童を祀るようになり、かっぱ寺と呼ばれるようになったんです」
ところでご住職、こちらのお寺には手塚治虫先生のアレがあるとうかがって来たのですが……。
「ああアレですね。まずは見ていただいた方が早いでしょう」
そう言ってお坊さんに案内されて向かったのは、本堂の斜め前に建つ樹木に囲まれたお堂だった。ここが河童を祀っている「かっぱ堂」だそうである。
ちなみにかっぱ堂は参拝は自由ですが、堂内を見学するには事前に予約が必要です。散歩に行かれる方はご注意ください。
さて階段を上がると賽銭箱があって、その上には参拝者によって奉納されたきゅうりがきれいに並べられていた。
鍵のかかった扉を開けていただき、中へ入ると、お坊さんが天井を指さしてこう言った。
「こちらがアレになります」
おお、ついにアレとご対面である。今回の手塚先生のアレとは河童の天井画だったのだ!! かっぱ堂の天井は一辺が40〜50cmほどのマス目に区切られていて、そのひとマスひとマスごとに達者な筆づかいで描かれた河童の絵が並んでいる。
その中の1枚が手塚先生の絵だった。着物をラフに着こなした河童が左手にキセルを持ち、鋭い目でジロリとこちらを見ている。左下に書かれていたという署名はほとんど消えてしまっていたが、目つきや左手の手の描き方は確かに手塚先生のタッチだ。
ほかにも署名を読み取れる人の絵を見ると、秋玲二や古沢日出夫、うしおそうじなど、手塚先生と親交のあった漫画家の絵も並んでいる。
再びご住職にこの天井画の由来をうかがった。
「かっぱ堂の河童絵の由来は昭和20年代にまでさかのぼります。うちの檀家さんに画家の
ではあの絵は昭和28年ごろに描かれたものだったんですね。
「はい。天井画の中には、後年になってからご縁があって寄進していただいた絵もありますが、手塚先生の絵は昭和28年当初からあるものです」
保存状態もすごくいいですね。
「寺では毎日お香を焚きますが、かっぱ堂では年に3〜4回しかお香を焚きませんので、それであまり傷んでいないのだと思います」
ご住職、ありがとうございました!!
いやー、手塚先生の河童絵、のびのびした筆づかいが最高に魅力的でした!
ちなみに手塚先生の描いた河童といえば、虫さんぽで2010年に訪れた鎌倉の
・虫さんぽ 第12回:神奈川県鎌倉 河童と大イチョウとフクちゃんに会いに行こう!
さて次は手塚スポットではないが曹源寺まで来たらぜひ立ち寄りたい場所へと向かおう。行くのは、こちらもかっぱつながりで金色に輝く「かっぱ河太郎」の銅像だ。
曹源寺を出て東へ50〜60mほど歩くと合羽橋交差点に出る。この交差点を右に曲がってすぐの所に立っているのがかっぱ河太郎像だ。
このかっぱ河太郎像のある場所を中心に、北の言問通りと南の浅草通りとの間の南北およそ1kmにわたって続いている商店街が、かっぱ橋道具街である。
かっぱ橋道具街は元々はプロの料理人向けの調理道具や厨房器具などを扱う専門店街だったが、1980年代後半から始まったグルメブームに乗って一般人にも広く知られるようになった。今ではすっかり観光地化していて、外国人観光客が和食の調理道具や食品サンプルを買う姿などが普通に見られる。
かっぱ河太郎像は、地元の東京合羽橋商店街振興組合が平成15年10月にかっぱ橋道具街の誕生90年を記念して建てたものだという。
竹竿を持って大きな鯉を抱えた河太郎像は、近寄って見るとそこらにいるおっさん的なリアルさがあってちょっと不気味だが商売繁盛の御利益があるらしい。これからお店を開店しようと道具街へやって来た人は、ぜひ曹源寺とともにここにも立ち寄られるといいかもです。
かっぱ橋道具街を冷やかしながらぶらぶらと南下して、浅草通りへ出たら右に折れて上野駅方面へと歩く。
続いて向かうのもまたまた銅像だ。しかも初めて上野へ来た人なら恐らく10人中10人が立ち寄るであろう超有名スポット、上野のお山に立つ「西郷隆盛像」である。
この銅像は明治維新の立役者だった西郷隆盛を顕彰するために明治31年、高村光雲によって制作された。
当初は軍服姿のデザインも候補に挙がったというが、最終的には西郷さんらしい姿にしようということで、ぞうりに着流しのラフな格好で、右手で愛犬「ツン」の手綱を引くこの姿になった。そのおかげか西郷隆盛像などと堅苦しく呼ぶ人はあまりなく、多くの人が親しみを込めて「西郷さん」と呼んでいる。
この銅像が出てくる手塚マンガは1961年から62年にかけて雑誌『少年クラブ』に連載された『ふしぎな少年』だ。
『ふしぎな少年』の主人公サブタンは、悪ガキ仲間と一緒に立ち入り禁止の地下道工事現場に侵入し、そのまま神隠しにあってしまう。
その行方不明のサブタンが、最初にフラリと姿を現わしたのが銀座、そして次がこの西郷さんの銅像だった。しかも目撃者の証言によれば、サブタンはあろうことか銅像の頭の上に登り、なぜかしきりにあたりを見回していたという。
サブタンの父親が同じように銅像によじ登ってみると、銅像の背中にサブタンの書いたメッセージが残されていた。
メッセージによれば次に向かった先は新宿……!!
ということで下駄警部とともに新宿へと急ぐ車の中で、サブタンの姉はケロッとして言う「サブタンのおかげで東京じゅう見物できていいわ」。
1950年代後半から60年代にかけての手塚マンガには、このように具体的な地名が出てくる作品が多いけど、それは当時の子どもたちにマンガで観光地を見物させたいという意図があったのかも知れませんね。
そんな手塚先生の意図に沿って(?)次に向かったのは西郷さんから北へ上野公園内を300mほど歩いたところにある国立西洋美術館だ。
美術館の正面入口に近づくと、タイルの敷かれた広い敷地の奥に、まな板の上に羊羹を置いたような、シンプルで独特の力強さを持った本館の建物が見えてくる。
この国立西洋美術館が出てくる手塚マンガは雑誌『少年』に1961年から62年にかけて掲載された『鉄腕アトム』「第三の魔術師の巻」だ。
天才ロボットマジシャンのキノオが、ある日新聞に次のような広告を出す。「きたる十月二十日 時間は午前0時きっかり! 国立美術館にかざってある古今の名画百点を 盗みとってごらんにいれる」。あわてた警視庁の田鷲警部らは、めぼしい名画を美術館から避難させ厳戒態勢で警備に当たることになった。
マンガの中では「国立西洋美術館」ではなく「国立美術館」となっている。国立美術館は現在日本に5館あるが、1961年当時あったのは皇居・北の丸公園内の国立近代美術館とここ上野の国立西洋美術館の2館だけだ。さらに両館の建物を見くらべると、マンガに出てくる直方体のような独特のデザインはどう見ても上野の国立西洋美術館をモデルにしている。
国立西洋美術館が開館したのはこのマンガが発表される2年前の1959年6月10日。本館のこの個性的なデザインの建物は、基本設計をフランスの世界的建築家ル・コルビュジェが行ったことで知られている。この建物は2009年に世界遺産登録を一度見送られているが、台東区では現在、あらためて世界遺産登録に向けて上野公園内にのぼりを立てるなどして猛アピールを行っている。
マンガの中では田鷲警部がこの建物の中で壁に向けてピストルを乱射する場面があるが、間違いなく始末書ものですな。
西洋美術館のすぐ隣に建つ国立科学博物館も手塚マンガの舞台として描かれた場所だ。
科学博物館が登場する作品は1969年から71年にかけて『サンケイ新聞』(現・産経新聞)に連載された『海のトリトン』(連載時タイトル:青いトリトン)だ。
生まれたばかりのトリトンの娘、人魚のグリーンが人間に捕まってしまい、科学博物館で1日だけ限定公開されることになった。それを追って日本へ向かったトリトンの息子ブルーは、海岸でヒッピーの若者たちに拾われる。ブルーから事情を聞いたヒッピーたちは、科学博物館へ向かう輸送トラックを襲撃し、グリーンの奪還を試みるが……。
科学博物館の建物として『海のトリトン』に登場しているのは昭和6年に竣工した「日本館」と呼ばれる大きなレンガ造りの建物である。当時はここが科学博物館のメイン施設だったが、現在はその横に2004年にオープンした地球館があって入館ゲートもそちらに移されている。
『鉄腕アトム』の最初のテレビアニメ放送が人気を博していた1963〜66年ころ、ここ科学博物館はロボット博士になりたい子どもたちであふれていた。ぼくもそのひとりだったんだけど、その後算数が致命的に苦手なことが分かって進路を変えた。だけど当時同じようにここへ熱心に通った末に夢を叶えた人も数多い。実際、ぼくがかつて仕事で取材した現代のロボット研究者の中にもそんな方が何人もおられたのだ。
きっと今でもここには、将来画期的技術を開発することになる科学者の卵たちが通っているんでしょうね。
手塚マンガに描かれた歴史的建造物をいくつか紹介したが、次に向かうのは上野動物園である。
ここが舞台として描かれた手塚マンガは1966年から67年にかけて『週刊少年サンデー』に連載された『バンパイヤ』だ。
上野動物園は1882年(明治15年)に開園した日本最古の動物園である。
上野動物園といえばパンダが有名で、上野駅周辺を歩くとやたらとパンダのイラストが目につく。上野駅を始発駅とする京成電鉄もパンダのマスコットキャラを使用している。
上野のパンダ押しの始まりは1972年に日中国交回復を記念して中国からランランとカンカンの2頭のジャイアントパンダが贈られたことだった。当時、上野動物園で展示されたこの2頭は大人気となり年間入場者数700万人越えが何年も続く熱狂的ブームを巻き起こしたのだ。
『バンパイヤ』に上野動物園が描かれたのは、このパンダ来日フィーバーの数年前ということになる。
満月を見たり激しい怒りにかられるとオオカミに変身してしまうバンパイヤ族の少年立花トッペイ。ある休日、彼は弟のチッペイを連れてここ上野動物園へやって来た。
トッペイとチッペイはオオカミのオリを探し、展示されているオオカミに電信柱の写真を見せる。なぜそんな奇妙なことをしているのか?
じつはふたりの父親はオオカミの姿でいるときに人間に捕まってしまった。その父親は電信柱を見ると人間の姿に戻れる。もしかしたらここに展示されているオオカミが父親かも知れない。そう思ってふたりはオオカミに電信柱の写真を見せていたのだった。
ということでもちろんぼくも上野動物園でオオカミの展示を探すことにした。もちろんいたら持参した電信柱の写真を見せる予定である。だけどぜんぜん見つからないので案内所で聞いてみると「オオカミはいませんが、タテガミオオカミならいますよ」との回答が。そのタテガミオオカミっていうのはオオカミじゃないんですか? とぼくが聞くと、
「イヌ科は同じなんですが、オオカミとは違うんですよ」と何とも歯切れが悪い答えが返ってきた。
はあ……そうなんですね。まあ行ってみます。そう答えて疑問符が付きながら教えてもらった場所へ行くと、「タテガミオオカミ」と書かれた案内プレートの横にもう1枚「オオカミじゃないよ!」とわざわざ書かれた説明書きのプレートが掲げられていた。それを読んでも意味がよく分からなかったんだけど、後でネットで調べたところ、タテガミオオカミはイヌ科タテガミオオカミ属という独立した属を構成しており、イヌ科イヌ属に属するオオカミとは系統的にまったく別であるらしい。
オリをのぞき込んだところ、奥の方で短い赤茶色の毛の「そいつ」が熟睡していた。大きさも柴犬ほどでかなり小さい。電信柱の写真を見せようにも遠すぎるし一向に起きる気配がない。
必死にオリの奥をのぞき込み、カメラを向けているぼくを見て中国人観光客らしき人たちが集まってきて一緒に奥を覗き始めた。しかし奥の方にちっこい赤犬が眠っているだけなので、すぐにがっかりして立ち去っていった。
トッペイとチッペイがオオカミに電信柱の写真を見せたときも、周りの人たちはこんな反応だったんでしょうね。
上野動物園の西端にある池之端門を出て、不忍池をぐるっと反時計回りに歩き、上野駅方面へと戻る。
このあたりから御徒町方面を見た上野の街の風景が『鉄腕アトム』「アルプスの決闘の巻」に出てくる。「アルプスの決闘の巻」は雑誌『少年』1956年1月号別冊付録として発表された作品だ。
クリスマスの日、アトムが帰宅すると両親が何者かによって連れ去られていた。荒らされた部屋には、「おおみそかの夜、上野公園の入り口へこい」という書き置きが残されていた。
アトムは大晦日を待たず、すぐに上野へ向かいクリスマスでにぎわう上野の街を歩き回るが、大晦日じゃないので両親をさらった相手と会うことはできず、結局、両親も見つからなかった……。
じつはこの場面、初出時は上野公園ではなく「日比谷公園」となっていた。それが単行本収録の際になぜか「上野公園」に書き変えられたのだ。
ということで、今回は単行本バージョンを元に歩いてみたが、初出バージョンは日比谷界隈を散歩したときに紹介済みなので、そちらも参照していただきたい。
・虫さんぽ 第26回:東京・有楽町日比谷界隈 手塚アニメの原点と最晩年の手塚先生の素顔を訪ねる!!
さて今回の上野さんぽもそろそろゴールに近づいてきた。さっきの『バンパイヤ』に話を戻すと、トッペイとチッペイは動物園からの帰り道、上野駅で騒動に巻き込まれる。駅のホームでひとりの少年がチンピラにからまれているのを見てトッペイの怒りが爆発、オオカミに変身して大暴れしてしまい、警官隊に追われることになったのだ。
何とか逃げ切ったオオカミ姿のトッペイが疲れた様子で歩いてきたのが鉄道のガード下だった。
上野さんぽの最後の探索地として、このレンガ積みのガード下風景を探すことにしよう。と思ったら、これがなかなか見つからない。20年ほど前まではこんな風景は上野駅周辺のどこにでもあったんだけどねー。
東日本大震災以降、都内でも古い建築物の耐震補強工事が進んでいるので、もしかしたらそれが影響しているのかも知れません。
ということでそれらしい風景を紹介して、今回の上野さんぽはこれにて終了。最後はパンダのキャラクターに見送られながら、京成線の上野駅前で解散です。
さて次回ですがじつはまだ上野駅周辺で紹介していない手塚スポットがあったのです。1回ではとても紹介しきれませんでした、ということであらためて上野界隈を歩きます。ぜひまたおつきあいください!!