先月に続き今月も大阪虫さんぽをお届けします。今回は前編よりもさらに時計の針を巻き戻し、もっと昔へ! 手塚治虫先生の少年時代に思いを馳せながら残暑の大阪を歩きましょう。昭和21年の正月、手塚先生がデビュー作の載った新聞を買いに行った場所とは? 先生のアニメへの情熱の原点となった建物とは? そして手塚先生に昆虫の魅力を教えた親友にはどんな思い出があるのか!? それではいってみようかーーーーーっ!!
先月の大阪さんぽ前編では、手塚治虫先生が小中学校時代に夢中で通ったプラネタリウムの跡地を訪ね、その投影機が保存・展示されている大阪中之島の大阪市立科学館でゴールした。今回はその続きからスタートです!
大阪市立科学館の正門を出たら北へ歩き、田蓑橋のたもとを右折。少し歩くと頭上を阪神高速11号池田線が通過している場所がある。その高速が貫通しているちょうど真下とその奥の右側あたり。いまはその場所の周囲を工事中のフェンスが囲い、更地になってしまっているが、ここが今回最初の手塚スポットである。
大正15年(1926年)10月9日、ここに大阪朝日会館という建物が開館した。この建物は資料によれば朝日新聞社が創業50周年を記念して文化振興のために建設したものだったという。
敷地面積は4,800平方メートル。地上6階地下1階。冷暖房が完備された大ホールの客席数は1,600で、それまで大阪で最大だった中之島中央公会堂の1,100席を500席も上回っていた。
このホールでは毎月コンサートや演劇、映画などが上演されており、手塚治虫も少年時代、親に連れられてここへ通った思い出をエッセイに綴っている。その一部を引用しよう。
「大阪の朝日会館で、毎年正月に漫画映画大会をやる。それを母に連れられて正月三日に観にいくのが、わが家の恒例であった。「ポパイ」やベティ・ブープものといっしょに、当時はまだ珍しかったディズニーのカラー漫画をやっていた。そのうちの二、三本はおもしろかったことをかすかに覚えている」(講談社版手塚全集『手塚治虫エッセイ集1』より。※初出は1969年毎日新聞社刊『ぼくはマンガ家』)
大阪朝日会館は1962年に閉館、1968年には朝日新聞大阪本社ビルに建て替えられた。さらに2013年春からは、その朝日新聞ビルも隣に建っていた大阪朝日ビルとともに解体作業が始まり、さんぽ当日は先述したようにすでに更地になっていた。
ここには2017年の完成予定で地上42階建ての超高層ビルが建設中。完成すると、すでに向かい側に完成している朝日新聞社所有の中之島フェスティバルタワーと並ぶツインタワービルになる予定なんだそうである。完成予想図を見るとかなり立派なビルになりそうだけど、昔の建物も味があって良かったんですけどね。ちょっと残念。
それはともかくこの大阪朝日会館は、戦後も手塚先生にとって忘れられない思い出が刻まれた場所となった。以下、ふたたびエッセイから引用しよう。
「昭和二十五、六年ごろ、ぼくは大学に籍を置いたまま、当時新劇ブームだった関西でもかなり大所帯だった関西民衆劇場に所属した。第一回公演にドストエフスキーの『罪と罰』を通しでやることになり、朝日会館という一流の劇場もチャーターした。
ぼくの役は、ペンキ屋であった。主人公がアパートで金貸し老婆を殺す、その近くのあき部屋で壁にペンキを塗っていて、犯罪の容疑者扱いされるという二人組の職人の役である。舞台稽古にやってきて、ぼくはあっと肝をつぶした。舞台に四階建てのセットができている。その最上階で、ぼくらはペンキを塗らねばならぬ。足場がぐらぐらして
本番当日、手塚先生は半分失神状態になりながらも、必死で演技をやり通した。そして公演終了後、観客の反応が気になった先生は、来場者に感想を聞き回った。以下、エッセイの続きをどうぞ。
「《どうでした、ぼくのできは?》
と、誰彼の区別なくつかまえて
《はてな、手塚君は出ていたのかね?》
《いたのかねはひどいですね。セットの最上部で熱演していたのに》
《ああ、そういえば、君の声は聞こえていたようだ。なにしろセットの上のほうは高過ぎて、
それ以来、ぼくは、文士劇にすらいっさい出ないことにしている」(前出『手塚治虫エッセイ集1』より)
手塚先生、この出来事はそうとうショックだったようで、お疲れさまデシタ。
朝日会館跡地を後にして次に向かったのは、御堂筋を北上して中之島へと渡る淀屋橋のたもとに建つ大きな時計店である。
お店の名前は株式会社石原時計店。ここは弘化3年(1846年)創業という歴史のあるお店で、現在の取締役社長である石原実さんは手塚先生と小学校時代の同級生だった。
そして、前回紹介した四ツ橋のプラネタリウムに手塚先生を初めて連れて行ったのも、手塚先生の昆虫採集のバイブル本『原色千種昆虫図譜』を紹介したのも石原氏だったのである。
お店に入って店員さんに来意を告げると社長室へと案内された。昭和14年(1939年)に落成したという歴史あるビルだ。エレベーターもこれまたレトロなもので、真鍮の金具が歴史に磨かれて鈍く光っている。ボタンを押して社長室へ。そこに石原実さんが待っていた。
初めまして石原さん。本日はよろしくお願いします。
「お暑いところ大変でしたな。雨には降られませんでしたか? まあまあ座ってください」
こう気さくに出迎えてくれた石原さんは「手塚さんの話はもういろんなところでしてますから、珍しい話はもうないですよ」と前置きしながらも「何でもきいてください」と言ってくださった。
それではお言葉に甘えて……石原さんは、手塚先生とどのようにして知り合ったんですか?
「ぼくと手塚さんは昭和10年に大阪府池田師範学校(現・大阪教育大学付属池田小学校)へ入学しましてね、そこで手塚さんと同級生になったんです。
各学年に東組と西組の2クラスがあって、ぼくたちは西組でした。1クラスが男女それぞれ24人ずつで合計48人。その男子24人の中に手塚さんがいたんです。卒業までクラス替えはなかったですから彼とは6年間ずっと一緒でした」
手塚先生との最初の出会いとか、最初に交わした言葉は覚えていますか?
「それは覚えてないなぁ(笑)。物心ついてくるのが大体3年生くらいからですから、よく覚えているのはそれ以後のことですね。学校では朝礼などで身長順に並ばされますでしょう。当時はぼくも手塚さんも身長が低かったですから、その身長の低いグループでよく集まっていましてね。そのグループに手塚さんもいたんです」
大人になってからの手塚先生はけっこう身長が高かったですが、小学校時代は小さかったんですね。
「そうなんです。小学校のころの手塚さんは痩せて小柄で私より小さかったんです。ところが卒業するころになって彼だけ急に身長が伸び出しましてね。ぼくの方はそのままだったので、あっという間に追い抜かれてしまいましたよ(笑)」
おふたりはお互いに何と呼び合っていたんですか?
「うちの小学校はしつけが厳しかったですからね、入学時に《男の子は“くん”を付けて呼びなさい、女の子は“さん”を付けて呼びなさい》と教えられたんです。ですから小学校時代は《手塚くん》《石原くん》と呼び合っていました。
しかし卒業後、手塚さんは北野中学校(現・大阪府立北野高校)へ行って私は池田中学校(現・大阪府立池田高校)へ行きましたから学校が別々になったんですが、休みにはよく会っていましてね。そのころから手塚さんが《石原》と呼ぶようになって、ぼくも《手塚》と呼ぶようになりました。でも最初はなかなか慣れませんでしたね(笑)」
ここで、手塚先生が石原さんとの昆虫採集の思い出をエッセイに書かれているのでそれを紹介しますね。
「夏ともなれば、昆虫マニアの天下だった。ボクは、友だちの石原クンに、虫のいそうなヒミツの場所を、うんと教えてもらった。石原クンというのはものすごい機械狂で、有名な石原時計店のムスコである。(中略)
石原クンとボクは、ヒミツの場所へ行っては、木の皮をひんめくったり、バフンをひっくり返したりして虫を探した。ボクが、きれいな蝶や、ハデなカブト虫をとりまわっているのに、石原クンはゴソゴソと草ムラをかきわけては、貧弱な小さい虫を大事そうに毒ビンに落としこんで、しきりに、しかめっつらをして、フームフームとうなっていた。手塚くん、ほんとの昆虫採集は、こんな小さい虫を集めるほどおもしろいのだよ、と、老けた顔をして、教えてくれた」(講談社版手塚全集『手塚治虫エッセイ集6』「わが想い出の記」より。※初出は1962年鈴木出版刊『おれは猿飛だ1』)
このエッセイにもあるように、当時、手塚先生に昆虫採集の魅力を教えたのは石原さんだったそうですね。
「手塚さんはそう言っていたようですが、本当はそうではないんです。手塚さんやぼくに昆虫や科学に対する興味を目覚めさせてくれたのは、小学校の高学年のときに理科を教えてくれていた宮川文夫先生という方なんです。
この宮川先生が授業で理科の実験をやって見せてくれたり、生物の不思議について教えてくれたりしたことが大きかったですね。
昆虫採集もそうですね。5年のときでしたか、先生が池田市の近くの能勢妙見という古いお寺の境内へ生徒たちを連れていってくれて、そこでみんなで昆虫採集をやったんです。
夏休みの宿題にも昆虫採集が出て、9月の新学期に学校へ持っていったんですが、そのときに手塚さんの持ってきたものはとても立派でしたよ。箱の中にきれいにピンで留めた昆虫が並んでいましてね、それぞれに虫の名前が書かれていて、これは本格的だ、と思ったのをよく覚えています」
四ツ橋の電気科学館へ手塚先生が初めて行ったのも石原さんとご一緒だったそうですね。
「あれはね、うちの父が連れて行ってくれたんです。電気科学館が出来たばかりのころですね。(※大阪市立電気科学館のオープンは昭和12年3月)
父から近くにこういうものが出来たけど行くかと言われたんで《行く》と答えて手塚さんを誘ったんです。今ではあまりないのかも知れませんが、当時は親が自分の子どもだけでなくその友だちも一緒に遊びに連れていくということがよくありましたからね」
先ほどの手塚先生のエッセイにこんな一文がありますので紹介いたします。
「石原クンといっしょに、大阪の電気科学館へ行ってみた。そこで生まれてはじめて、プラネタリウムというものを見た。屋根があるのに星が見える! ということは、ボクを、それ以来、プラネタリウム狂にしてしまった」(前出「わが想い出の記」より)
石原さんは、電気科学館ではどんな展示が印象に残っていますか?
「人工的な雷を発生する装置とか、ハンドルを回すとモーターの回転数が変わる機械とか、エジソンが発明した竹のフィラメントの電球などですね。私はそういった機械ものの展示が楽しくてよく覚えています。
一方手塚さんは展示よりもプラネタリウムにはまってしまったようで、興奮して夢中になっていました。
その後、私は電気科学館には2〜3度しか行かなかったのですが、手塚さんはその後もずっと通い続けていたようです。
また彼は、お菓子の箱に穴をいっぱい開けて中に電球を入れ、自宅の押し入れで自作のプラネタリウムを見せてくれたりもしました。
昆虫採集でもプラネタリウムでも、手塚さんはハマるととことん夢中になる凝り性なところは小学校のころからずっと変わりませんでしたね。あと何かをやり始めるとそれを最後までやりとげる集中力、これも昔から人並み外れていましたよ。
だからぼくも子どもながらに彼の才能は感じていたように思います。こいつはただものじゃない、将来何ごとかを成すに違いない、と。事実、そうなりましたからね(笑)」
石原実さん、本日はありがとうございました!!
石原時計店を後にして、もういちど四つ橋筋へ戻り、中之島を通過してさらに北へと歩く。すると右手のビル前の広場にポツンと建つパリの凱旋門のような石造りの門が見えてくる。
これは、かつてここにあった旧・毎日新聞大阪本社堂島社屋の正面玄関がモニュメントとして置かれているのだ。
大正11年(1922年)、大阪毎日新聞社はここ堂島一丁目に本社ビルを建設した。12,200平方メートルの敷地に建てられた地下1階、地上5階のビルは、外壁に御影石を使った重厚なものだったという。その様子は当時の風景を写した絵はがきでご覧いただきたい。
昭和21年1月、手塚はここ毎日新聞社から出ていた『少國民新聞』(現・毎日小学生新聞)に4コママンガ『マアちゃんの日記帳』の連載を開始、商業誌でのデビューを飾った。
その記念すべき連載第1回が掲載されたのは1月4日号だった。当時大学1年生だった手塚先生は、その新聞の発売日当日、朝6時半に家を出て、寒風の中、駅へと向かった。そのときのことを記したエッセイを引用しよう。
「その日の新聞を早く見たくて、正月の朝、電車の駅の売店にとんでいったが届いていなかったので、二、三駅先の駅の売店にもなく、とうとう大阪の毎日新聞社まで買いにいき、やっと五部買い求めた。そのときのうれしさはいまでも忘れない。雪の降る寒い日だった。その新聞を知人にあげたが、皆で祝賀会をやり喜んでくれた」(講談社版手塚全集『手塚治虫エッセイ集6』「私の処女作」より。※初出は『週刊言論』1970年5月号掲載のエッセイ)
このときの手塚先生は、いま目の前にあるこの石造りの門をくぐって新聞社へ駆け込んだに違いない。そして出てくるときにはまだ刷り上がったばかりの『少國民新聞』を大事そうに抱えていたはずである。
後にマンガの神様とまで言われる手塚先生だけど、デビューのときはもちろんまったくの新人だったわけで、この文章からも、初めて自分の作品が印刷された喜びがヒシヒシと伝わってくる。
しかし太平洋戦争の空襲にも耐えたこの毎日新聞堂島本社ビルは、1992年12月、毎日新聞大阪本社が西梅田へ移転するのにともなって取り壊され、正面玄関の一部だけがこうしてモニュメントとして残ることになったのだ。
散歩を続けよう。この日は曇りでときおり小雨がぱらつく天気だったので、直射日光の暑さはあまり感じなかったけど、湿度が高く、拭いても拭いても汗がにじみ出てくる。あー、どこかエアコンのきいたところで休みたい。
そんなジャストなタイミングで、次に向かう手塚スポットは、涼しいお店で冷た〜いドリンクが飲めますので、しばしのガマンです。
ということで四つ橋筋をさらに北上し、JR大阪駅に突き当たったところで右折。すると真正面に見えてくるのが阪急うめだ本店だ。
現在の新店舗が7年の工事期間を経て全面開業したのは2012年11月のこと。それまでの地下1階地上9階建てのビルから近代的な高層ビルへと生まれ変わり、営業フロアは地下2階から地上13階までと旧店舗のおよそ1・3倍に増えた。
ただし低層階の外観は、写真をご覧いただくと分かるように、大阪市民になじみの深い旧店舗のイメージを残した落ちついたものになっている。
次の手塚スポットは、ここ阪急うめだ本店の中にあるんだけど、その前に! このビルの南側の外観も手塚スポットのひとつなので紹介いたしましょう。
それは1974年に発表された『ブラック・ジャック』第54話「アリの足」というお話だ。
小児マヒ(ポリオ)の少年が、自分の限界に挑戦したいと、広島から大阪までひとりで歩くことを思い立つ。さまざまな苦難の末、ようやく夜の大阪の街にたどり着いた少年。それをたくさんの人びとやテレビカメラが出迎える。この感動的な場面の舞台として描かれたのが、ここ阪急うめだ本店の南側の一角だったのだ。
背後のビルなどは建て変わってしまったけど、少年の真後ろに立つ換気塔は今も当時のままそこにある。
ではいよいよ建物の中へ入りましょう。うひゃー、涼しくて生き返る。
さっそくエレベーターで13階へ、そして向かったのはグランドカフェ&レストラン「シャンデリア テーブル」というお店である。
高級そうな雰囲気に一瞬たじろいでしまいそうだが、いただいたパンフレットには「カフェのみでのご利用も可能です」と書いてあるので安心してお茶をしに立ち寄ろう。
しかしここがなぜ手塚スポットなのか!? それを説明するには、まず手塚先生の次のエッセイをお読みください。日本がポツダム宣言を受諾し、太平洋戦争が終わった昭和20年8月15日夜の描写である。
「八月十五日の夜、ぼくは夢遊病者のように電車に乗って大阪へ出ていった。とにかく動いていないとたまらなかったのである。車内はがらんとして幽霊電車のように空虚であった。
《おお、大阪の街に灯がついている!》
ついているのだ、魚の目玉ほどの灯があちこちに!
H百貨店のシャンデリアが、はげ落ちた壁の間で、目も
──ヒャア、おれは生き残ったんだ。幸福だ──」(前出『手塚治虫エッセイ集1』より)
この“H百貨店”というのはもちろん阪急百貨店の梅田本店、すなわち現在の阪急うめだ本店のことだ。そしてシャンデリアとは、当時の百貨店の玄関と駅とを結ぶコンコースのアーチ形天井に吊されていたシャンデリアのことなのだ。
改築後、このビルの13階にオープンしたレストラン「シャンデリア テーブル」は、コンコースと同じアーチ形の天井に、かつてコンコースで使われていたシャンデリアをそのまま移設して作られたお店なのだ。さらにコンコースの壁面に飾られていた壁画もそのまま移設されている。初めて来たのにどこか懐かしく感じられるのは、そんな理由だったんですね。
ちなみに厳密なことを言うと、終戦の日に手塚先生が見たシャンデリアは、じつはこのシャンデリアではなかったようだ。
阪急電鉄広報部にお聞きしたところ、戦時中から戦後しばらくまでの間は、時局柄、シャンデリアは取り外され、代わりにもっと質素な電灯が付けられていたという。
しかしそれでも当時の手塚先生は、灯火管制による真っ暗闇の夜に慣れていたため、小さな電灯の明かりも、きっとシャンデリアのようにまばゆく輝いて見えたのだろう。
その後、コンコースにシャンデリアが復活したのがいつからだったのかは阪急電鉄広報部も把握していないそうで、残念ながら正確な年月を紹介することはできませんでした。どなたか正確な資料をお持ちの方がいらっしゃったらぜひご教示ください。
ということで現在は、このシャンデリアの柔らかな光の下で、あの日、手塚先生が躍り上がって喜んだ平和をかみしめながら、極上のスイーツと美味しいコーヒーをいただくことにいたしましょう。
さて、前後編でお送りしてきた今回の大阪さんぽもいよいよ次が最終目的地となる。東梅田駅から大阪市営地下鉄谷町線に乗り3駅目の都島駅で下車、そこから徒歩2分の場所にそのお店はある。
昔ながらの商店街に建つ和菓子屋さん「千成一茶」。ここが手塚スポットなのである。
おじゃましま〜す。
お店に入ると、店主の大原時子(おおはら ときこ)さんと息子の一憲(かずのり)さんが笑顔で出迎えてくださった。
落ちついた和風の店内のショーケースには、土星の絵をあしらったハイカラな銀紙で包まれた洋風のおまんじゅう「プラネタリューム」が並んでいる。
じつはこのお菓子「プラネタリューム」こそがこのお店と手塚先生とをつなぐ品なのである。
いったいどういうことなのか、時子さんの息子さんの一憲さんにうかがった。
「ぼくは学生時代、四ツ橋の電気科学館でアルバイトをしていましてね、ちょうどそのころのことですが、手塚先生が電気科学館の星の友の会の会報『月刊うちゅう』にエッセイを寄稿されたんですが、そこに「プラネタリウム」というお菓子のことが書かれていたんです」
ああ、なるほど、そのエッセイがこちらですね!
「この売店(黒沢注:電気科学館の売店)で、すこしあとになって売りだしたのは、『プラネタリウム』というお菓子である。やや長めのクッキーに銀の砂糖粒を散らしてある。それがつまり星空というわけだった。ちょいと工夫をこらしたなんの変哲もない菓子なのに、ぼくは毎度それを買ってかえった。ぼつぼつ甘いものが不足し始めた時代だったせいでもあるが、けっこううまかったのである」(講談社版手塚全集『手塚治虫エッセイ集6』「懐かしのプラネタリウム」より。※初出は『月刊うちゅう』1985年7月号)
一憲さんのお話は続きます。
「じつはここに手塚先生が書かれている「プラネタリウム」というお菓子は、現在の「プラネタリューム」とはまったく違うお菓子だったんですが、それを開発して作っていたのは私の祖父だったんです。
それで『月刊うちゅう』に手塚先生のエッセイが載ったころ、電気科学館の事務所でみんながそのお菓子の話をしているのを耳にして、《ああ、それ、うちの話やわ》と口をはさましてもらったんです」
みなさんびっくりなさったでしょうね。
「始めはみんな《この学生は何を言ってるんだ》という表情をしてましたよ(笑)。
祖父は昔、大原菓子研究所という会社を経営していて、初代「プラネタリウム」はそこで開発したものでした。昭和14年ごろから電気科学館で販売を始めたんですが、戦争が激しくなるにつれて砂糖が手に入らなくなり、わずか2年ほどで製造中止になってしまったそうです」
そんなに短い期間しか売られていなかったのに、手塚先生はずっと覚えていたんですね。
「はい、それを思うととてもうれしくなりますね」
続いて時子さんにもお話をうかがおう。
時子さん、現在の「プラネタリューム」というお菓子はどのように開発されたんですか?
「これは私の主人が昭和30年代の初めにここへお店を構えたとき、何か目玉になる商品が欲しいということで、しばらく使っていなかった「プラネタリューム」という名前で新しいお菓子を開発したんです。
材料は卵、バター、小麦粉などで特別なものは使っていませんが、プラネタリウムは西洋のものですから、コーヒーや紅茶にも合うお菓子にしようということで、主人はかなりこだわって考えておりましたね。私はその主人が考えた製法を受けついでやっているだけです」
時子さんは昔の「プラネタリウム」を食べたことがあったんですか?
「それが残念ながらないんですよ。主人はもしかしたらレシピを覚えていたかも知れないですが、それをわざわざ聞くこともなかったですからね。今となっては聞いておくんだったと思います」
ところで時子さん、この新しい「プラネタリューム」にも手塚先生との思い出があるそうですね?
「そうなんです。手塚先生が昔の「プラネタリウム」がお好きだったと知って、今の「プラネタリューム」をぜひ召し上がっていただこうと手塚プロにお送りしたんです。そうしたら後日、直筆のとてもていねいなお礼状をくださいまして、私と息子はもうびっくりして顔を見合わせてしまいましたよ」
その手紙がこれですか。封筒に料金不足の紙が貼ってありますね。
「手塚先生はとてもお忙しい方だったそうですので、きっとあわてていて切手を貼らずに投函されてしまったんでしょうね。でも、こんなていねいなお手紙をいただけるなんて思ってもいなかったですから、この料金不足の紙が貼ってある封筒も含めて、今では我が家の宝物になっています」
おふたりから心温まる話をうかがったあと、その場で「プラネタリューム」をいただいた。バターがたっぷり練り込まれた卵色の餡はほんのり甘く、口の中でホロッと溶けるように崩れた。うーん、これは懐かしい昭和の味がいたします!
時子さん、一憲さん、貴重なお話と美味しいお菓子ありがとうございました!!
ということで大阪さんぽはこれにて終了。来月は「あの日あの時」をお送りした後、こんどは宝塚へと向かいます。ぜひまた次回の散歩にもおつきあいください!!