虫ん坊 2010年1月号 トップ投稿特集1特集2オススメデゴンス!コラム編集後記

コラム:手塚マンガあの日あの時 第11回:ハレンチマンガ旋風の中で

コラム:手塚マンガあの日あの時 第11回:ハレンチマンガ旋風の中で

昭和40年代初め、ようやく市民権を得かけていたマンガに、再び批判の嵐が降り注いだ。問題とされたのは、エロチックなシーンをあからさまに描写したハレンチマンガの数々だ。ではその時、手塚治虫はどうしたか? 何とまたしても自ら火中に飛び込むように、性教育マンガを立て続けに発表し、予想通りの厳しい批判にさらされたのだ。そんな手塚の意図は果たしてどこにあったのか!? 今回はそんなハレンチマンガ批判の時代を振り返る。



昭和39年と平成22年、歴史は繰り返す!?

 マンガやアニメへの規制を盛り込んだ、東京都の青少年健全育成条例改正案──これをめぐる論争は、いまだ決着が付かず、現在も延長戦にもつれ込んでいる状況だ。
 ぼくは、ニュースで“非実在青少年”という言葉が出てくるたびに「光瀬龍みつせりゅうのジュヴナイルSF小説にでも出てきそうな言葉だなぁ」と思って、何だかワクワクするドラマのイメージが浮かんでくるんだけど……それはともかく!
 こうした、マンガを悪書として批判したり規制したりする動きは、手塚治虫がマンガ家として活動を始めた戦後すぐから始まっていた。
 そして前回のコラムで紹介したような、昭和20年代から30年代前半にかけての批判の大波を乗り越えたマンガに、再び規制の危機が迫ったのは昭和39年のことだ。
 昭和39年7月、東京都議会は青少年健全育成条例を強行採決し可決した(10月1日施行)。これによって東京都が有害図書を一方的に指定し、それを青少年の目から遠ざけることを発行者に強制、違反者には罰金が課せられるようになった。
 まさに「歴史は繰り返す」であり、この当時の資料を読んでいると、何だか最近の新聞を見ているような錯覚におちいってしまう(笑)。


嵐の前の静けさ……?

 ここに、当時、雑誌に掲載された「白ポストの中身」と題されたリストがある。昭和42年4月1日付けで警視庁防犯部少年第一課が発表したものだ。
  白ポストというのは、その名の通り郵便ポスト大の白いポストで、当時、駅前や街角の至るところに設置されていた。青少年に見せたくない雑誌や新聞などをそこへ投げ入れ、家庭に持ち帰らないようにしようというものだ。
  白ポスト運動は、昭和41年5月に、東京都の巣鴨母の会と巣鴨警察署が悪書追放運動の一環として始めたもので、やがて都内105ヵ所に設置され、その後、全国へと広まっていった。ぼくの地元の京成線沿線の各駅前にも、ある日突然、ペンギン型の白ポストがデンと鎮座した。


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昭和39年から始まった東京都の悪書狩りの顛末てんまつを報じた記事。筆者の柳田邦夫(やなぎだくにお)は、権力によるエロ・グロ規制は、やがて反体制的表現全体の規制につながると警告している。右ページの写真が、本文でも紹介した「白ポスト」である(『新評』昭和42年7月号より)
 
『新評』昭和42年7月号に掲載された、白ポストの中身リスト。だけど、コレがイコール追放すべき“悪書”のリストかというと、いささか疑問。実際は、会社帰りのオトーチャンが、読み終わった雑誌をただ捨てていっただけのような気もするんだけどね(笑)

 さて、このリストからマンガ雑誌だけを抽出してみると、週刊誌のトップに来ているのが実業之日本社じつぎょうのにほんしゃの『漫画サンデー』で、ほかにも、当時、急速に増えていた大人向け漫画雑誌の名前が多く並んでいる。
 一方、子ども向け雑誌はというと、『少年マガジン』が3冊、『少年サンデー』が2冊とわずかで、白ポストに入れられた“悪書”としては、意外にも子どもマンガはほぼランク外と言っていい。
 実は、このころ子どもマンガは、悪書追放運動の矛先からは若干外れつつあった。それは前回のコラムで紹介したような、手塚治虫ら児童マンガの開拓者たちの地道な努力がようやく実を結びかけ、大人たちが「マンガはすべて悪書である」という一方的な認識から抜け出しつつあったからだ。
 しかし、このリストが発表されたわずか1年後、ある1本のマンガをきっかけとして、マンガは再び悪書論争の渦に巻き込まれていくことになる。


そして“あのマンガ”が誕生した!!

 昭和43年8月、『少年サンデー』、『少年マガジン』、『少年キング』に続く4誌目の雑誌として『少年ジャンプ』が創刊した(創刊当初は隔週刊で、翌44年11月から週刊化)。
 その創刊号に読み切り掲載され、後に連載となったのが、永井豪の『ハレンチ学園』だ。純情スケベ少年・山岸八十八やまぎしやそはちと、忍者の末裔まつえいでグラマーなおてんば少女・柳生十兵衛やぎゅうじゅうべえのふたりを中心に、個性的な教師たちが織りなすハチャメチャな学校生活のお話である。


 

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『ハレンチ学園』は、様々な批判を浴びながらも4年にわたって連載され、単行本も13巻が刊行された。この作品をめぐる当時の騒動については、ネットで検索するといろいろ出てくるので、興味のある人は調べてみてください

 

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『ハレンチ学園』の単行本の巻末には、毎回、カバゴン先生こと評論家の阿部進あべすすむの解説文が載っていた(これは第2巻の巻末のもの)。阿部進は当時、マスコミに盛んに登場しては、マンガ擁護論ようごろんを展開していた、数少ない“マンガの味方”の大人だった。あのころは、ぼくら子どもにとっては、早口でしゃべる理屈っぽいおじさんとしか見えていなかったが、今にして思うと、現代にもこうした論客ろんきゃくがいてくれたら、今のマンガ論争も、もっと実のあるものになるのになぁ、と思えてくる


 当初はいささかお下劣げれつな学園コメディといった感じの内容だったが、やがてお風呂シーンやパンチラシーンなどを意図的に登場させるようになり、人気は一気に上昇した。
 いま読み返してみると、そうしたセクシーシーンの表現も、かなり抑えられていて、まるで大したことはないんだけど、当時のぼくらにとっては、とんでもなく衝撃的だった。
 何しろそれまで恋 愛ドラマすらほとんどなかった少年マンガの世界で、山岸たちスケベ男子は、毎回リビドー全開で裸の女子たちを追いかけ回すのだ。これはもう、ぼくらにとっては、全く新しいジャンルのマンガの誕生とも言える大事件だった。


エッチマンガ論争に手塚治虫も参戦!!

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『少年チャンピオン』1970年第7号に掲載された『やけっぱちのマリア』の予告ページ。しかしこれだけでは、どんな作品なのかまったく分からない。オカルトマンガか、いま一部でハヤっている“男の娘おとこのこ”マンガにも思えてくる。“男の娘”マンガ、手塚治虫が健在だったら、きっと描いてたでしょうね(笑)

 県議会やPTA、教育委員会といった、この手の問題が起きると必ず名前が出てくる団体が、このマンガを問題視して騒ぎ出したのは、連載開始から半年ほどたった昭和44年春ごろからだ。
 しかし『ハレンチ学園』の人気は衰えるどころかさらに盛り上がり、同様のエッチマンガが各誌に次々と登場し始めた。
 ただしそれらを描いていたのは、ほとんどが若手の新人マンガ家で、従来から活躍しているマンガ家が、このジャンルに手を出すことは全くといっていいほどなかった。
 ところが昭和45年4月、何と、そこへいきなり手塚治虫が乱入してきたのだ! 創刊して間もない隔週刊誌『少年チャンピオン』(昭和45年6月から週刊化)で『やけっぱちのマリア』の連載を開始したのである。
 タイトルのマリアという少女は、主人公・焼野矢八(やけのやはち=通称・ヤケッパチ)の体から生まれた霊体(エクトプラズム)で、矢八の父親が作ったダッチワイフを仮の体として使っているという設定だった。
 少年マンガで、いきなり大人のオモチャのダッチワイフが出てくるとは、もうそれだけでビックリだけど、お話はそれ以上に過激だった。第1話では、ヤケッパチが授業中、先生に「赤ん坊はどこから出てくるのか?」としつこく問い詰める場面がある。先生は困惑し、男子は呆れ、女子は赤面してうつむいてしまう。またヤケッパチは相当な暴れん坊という設定で、暴力シーンもバンバン描かれる。


 

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手塚が「やけっぱち」でなく、実際は確たる信念を持ってこの作品を描いていたことは、この最初の単行本の前書きの手塚の次の言葉からもうかがえる。「先頃、この作品が、子どもに対してゆきすぎではないかということで、問題になりましたが、いまの読者は、もっと性の問題について、率直でおおらかですから、安心して書き続けました」


 そして連載開始から間もなくの8月、案の定、福岡県の児童福祉審議会が『やけっぱちのマリア』を掲載した『少年チャンピオン』を有害図書に指定し、それが大々的に報じられた。
 この騒動は年末まで続き、中国地方を中心に発行されている日本海新聞では、文化欄に掲載された識者とされる人の意見に、手塚がわざわざ新聞社へ手紙を送って反論。その翌日の新聞には、さらにそれに対する識者の返答が掲載され、さながら誌上討論会の様相を示した。


 

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『やけっぱちのマリア』が福岡県で有害図書指定されたことを報じた昭和45年8月28日付の『西日本新聞』。問題とされたのは、女性器の解剖図と出産のシーン。欄外の「にがお絵と感想文を送ってください」という文章まで「いたずらに好奇心をそそる」というニュアンスで記事にされているのが興味深い。写真の右に写っている『少年マガジン』も同時に有害図書指定されたもので、こちらはジョージ秋山の『アシュラ』の人肉食シーンが問題となった


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文化欄で『やけっぱちのマリア』を批判した識者へに対し、手塚治虫が新聞社へ送った手紙(『日本海新聞』の昭和45年12月8日号)と、その翌日の同紙に掲載された識者からの返答。ふたりの意見はまったくかみ合わず、最後まで平行線のままなのは、このての論争の常である。しかし当時の性教育に対する大人の一般的な価値観がどういうものだったかと、それを打ち壊そうとする手塚の強い意志は、ここからも読み取れる


性教育マンガを立て続けに発表!

 手塚は、この『やけっぱちのマリア』を描いた動機を、後年、次のように述べている。
「ぼくたちが少年漫画のタブーとして、神経質に控えていた性描写が破られて、だれもかれも漫画にとりいれはじめたので、こんなばかばかしい話はない、こっちはかけなくて控えていたのじゃない、かきたくてもかけない苦労なんか、おまえたちにわかるものかといったやけくそな気分で、この駄作ださくをかきました。だから、「やけっぱち」というのは、なにをかくそう、このぼくの心情なのです(講談社版全集第269巻『やけっぱちのマリア』第2巻あとがきより)
  そんな手塚の「やけっぱち」はこれだけでは終わらなかった。この作品の連載が始まった3週間後には『少年キング』でも、性教育をテーマとした『アポロの歌』の連載を始めたのだ。


 

当時、虫プロ商事から雑誌『COM』別冊として刊行された、雑誌版の『アポロの歌』上下巻(昭和46年9、10月刊)。どうしようもない不良少年を、電気ショックや催眠術で強引に矯正させるという、映画『時計仕掛けのオレンジ』を思わせる物語。性を生命の連なりとしてとらえている点で、同じ時期に『COM』に連載していた『火の鳥』にも通じるテーマの作品となっている

 

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『アポロの歌』第1話の冒頭シーン。精子と卵子を擬人化ぎじんかしたこうした表現は、手塚治虫ならではのものだ。ちなみに、今回お話をお聞きした福元一義さんのお名前が、この作品の中に“福本一義”という白骨死体の名前として登場している


 さらにその翌年には、この『アポロの歌』のアニメ化を企画し、手塚プロでパイロットフィルムを製作。その後この企画は幼年誌に連載していた『ママァちゃん』の設定を加え、性教育アニメ『ふしぎなメルモ』として実を結んだ(昭和48年10月よりTBS系列で全26話放映)。
  こうした情熱は、ぼくらファンから見ても相当に鬼気迫るものがあった。それはまさに手塚が「やけっぱち」になっていたからなのか……!?


 

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虫プロ商事から、テレビアニメの本放送終了後に刊行された、手塚の原作マンガの雑誌版コミックス(昭和47年5月刊)。マンガは当初『ママァちゃん』というタイトルで連載が始まり、アニメ化の際もこの題名でいく予定だった。しかしすでに商標登録がされていたため『ふしぎなメルモ』に改題となった。マンガはアニメと違って、幼年誌に掲載されていたこともあり、性教育的な内容はほとんど盛り込まれていない


手塚治虫の「やけっぱち」の真意とは!?

 前回のコラムでも貴重なお話を聞かせていただいた、元マンガ家で、手塚が亡くなるまで20年間にわたり創作活動のサポートを行った、福元一義ふくもとかずよしさん(79)は、それとは少し違う見方をされている。
「手塚先生は、自分が先頭に立って批判を受け、それに反論することで、マンガを守ろうとしたんじゃないでしょうか。自分が批判されるためには、まず批判される作品がなければならない。それで、あえてあのような作品を描いたのだと、私は思います」
 確かに、手塚自身の言葉を額面通りに受け取って、タブーを破った同業者へのやっかみとその反動だけが執筆動機だったとしたら、これらの作品は、恐らくもっと無味乾燥むみかんそうでサツバツとしたものになっていただろう。
 しかし本人が「駄作」と言い切る『やけっぱちのマリア』も、実はファンから見れば、この時期の手塚作品の中でも忘れがたい名作となっている。
 乱暴だったヤケッパチが、次第に女と男の違いを理解し、異性へのやさしさといたわりにあふれていく描写などは、手塚マンガらしい感受性にあふれ、実にセクシーなものだった。当時、中一になったばかりのぼくは、マリアのいじらしさにたちまち恋をした。もしかしたらこれがぼくの初恋だったかも知れない。ということで、福元さんの説にはぼくも、全面的に同感だ。

「迷ったら描いてみる」という精神!

 この時期、手塚が性教育マンガに挑戦した理由はもうひとつあった。それは、新ジャンルの開拓だ。
  この時期手塚は、自分の進むべき方向を見失い悩んでいた。当時、子どもマンガの世界はハレンチマンガ以外にも、劇画げきがや、スポ根マンガ、社会派マンガなど、新しいジャンルのマンガが次々と登場して人気を博し、すさまじい勢いで多様化していたのだ。
  激変するマンガのうねりの中で、昭和20〜30年代に一時代を築き上げた先輩マンガ家たちも、時代に乗り遅れた者は容赦なく消えていった。
  手塚も、そうして自分が消えてしまう危機感をヒシヒシと感じていたのだろう。この時期の手塚の作品リストを見ると、実に様々なテーマや表現手法に挑戦していることがわかる。短編や読み切りが異常に多いのもこのころの特徴だ。
  迷ったときや悩んだとき、手塚はまず作品を描いてみる。その場には決して立ち止まらない。そんな手塚の行動力が、手塚を異常なまでの多作に駆り立てた。そしてその中に、あまたの大御所マンガ家たちが誰も見向きもしなかった、性教育マンガへの挑戦も含まれていたのである。
  やがてそうした迷いや悩みの中から、『ブラック・ジャック』と『三つ目がとおる』というふたつの傑作が誕生した。
  この2作品は、新たな手塚ファンを生み、天才・手塚治虫の健在を世に知らしめ、手塚マンガは、再びマンガブームの中心で光り輝き出すのである。と──その話はいずれまた。



資料協力/財団法人大宅壮一文庫



黒沢哲哉
1957年東京生まれ。マンガ原作家、フリーライター。手塚マンガとの出会いは『鉄腕アトム』。以来40数年にわたり昭和のマンガと駄菓子屋おもちゃを収集。昭和レトロ関連の単行本や記事等を多数手がける。手塚治虫ファンクラブ(第1期)会員番号364番


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