およそ1000作品にものぼると言われる手塚治虫のマンガ。熱心なファンならば、その題名を口にしただけで、物語のイメージが頭に浮かんできて胸がワクワクするっていう人も多いんじゃないだろうか。手塚マンガは作品タイトルにも様々な仕掛けや工夫が凝らされている。それは耳に心地よい独特の語感だったり、映画や小説の題名のパロディだったり、だじゃれや言葉遊びだったり、時には今まで聞いたことのない新造語が使われている場合もある。今回は、先月号の前編に続いてそうした手塚マンガの作品タイトルにまつわるあの日あの時、後編をお送りします!!
リードにも書いたように、手塚治虫のマンガにはタイトルに新造語が使われている作品がかなりある。今回は、そのあたりから話を始めよう。
新造語が題名に使われている例としては『上を下へのジレッタ』、『ユフラテの樹』、『グランドール』などがある。どれもタイトルを聞いただけじゃ、どんな話なのかさっぱり分からない(笑)。
またこれは新造語とはちょっと違うけど変わった登場人物の名前がそのままタイトルになっている作品も多い。『どろろ』、『I.L』、『ばるぼら』、『きばんど』などがそれだ。これまたどれもミョーに耳に残るタイトルではあるけれど、とても人名とは思えないし、もちろん内容を推測することもできない。
今回、こうした新造語や変わった人物名がタイトルに使われた作品を抜き出して年代順に並べてみたところ、面白いことが分かった。それは、こうした新造語のタイトルというのは1960年代前半まではほとんどなくて、60年代後半から急に増えていることだ。
試しにその代表的なものを発表年代順に並べてみた。
『どろろ』(67〜68年)、『上を下へのジレッタ』(68〜69年)、『グランドール』(68年)、『I.L』(69〜70年)、『ばるぼら』(73〜74年)、『ユフラテの樹』(73〜74年)、
『ずんべら』(75年)、『インセクター』(79年)、『きばんど』(84年)、『ブッキラによろしく!』(85年)。
これ以前の作品で造語っぽいものは『0マン』(59〜60年)くらいしかない。
では60年代後半、手塚にいったい何があったのか!?
実はこのころ手塚は新しいマンガの表現を模索して様々な実験を試みていた。例えばコマ割りでは、右上から左下へと流れる通常のコマ割りを解体し、渦巻きのように読ませるコマ割りをしてみたり、同じコマを延々と並べてみたり。またペンタッチでも劇画調や風刺画調などさまざまな画風を試している。そうした挑戦の一環がタイトルにも現れているというわけだ。
また、これはぼくの推測だけど、これら新造語タイトルの出発点となった『どろろ』というタイトルが非常に覚えやすくて印象に残ることから、その後もこのパターンを応用したとも考えられる。
その根拠として、例えば『ばるぼら』というタイトルのいわれについては手塚先生のこんなコメントがある。
「「ばるぼら」とはおかしな名でしょう。べつに深い意味はありません。しいていえば、美の女神ムネーモシュネーの何人かの娘の中に、こういうような名の娘がいたような、いなかったような気がしますが……。ひらがなでかいたのも、「どろろ」などとおなじたぐいの気どりです」(講談社版全集第146巻『ばるぼら』第2巻あとがきより)
ちなみに『どろろ』というタイトルのいわれについては手塚先生はこう説明している。
「“どろろ”ってかわったタイトルでしょう。
じつはぼくの友だちの子どもが、「ドロボウ」といえなくって、カタコトで「ドロロウ」といったのをヒントにしたのです」(秋田書店サンデーコミックス版『どろろ』第1巻カバー見返しコメントより)
講談社版全集第150巻『どろろ』第4巻のあとがきでは「友だちの子どもが」ではなくて「ぼくの子どもが」となっているが、これは説明が煩雑になるのを避けて簡略化したためだろう。
それにしても、幼児の言葉からギリシャ神話の女神の名まで、あらゆるところにアンテナを張り巡らせて新造語を生み出す、そんなライブ感覚も手塚マンガの大きな魅力のひとつですね。
次は予告と本編でタイトルが変更になった作品を紹介しよう。
実はそうした作品も手塚マンガにはけっこうある。毎回、締め切りギリギリで描いているから、雑誌で新連載が始まるときも題名や内容が固まる前に予告だけは先に載せなくてはならなくなる。そこでとりあえず仮題で予告を発表することになってしまうのだ。
以下『予告』→『本編』の順番で列記してみた。『南のエンゼルちゃん』→『エンゼルの丘』(60〜61年)、『バン・バルン』→『ブルンガ1世』(66〜67年)、『上を下へのネロマ』→『上を下へのジレッタ』(68〜69年)。
このうち少女マンガの『南のエンゼルちゃん』が『エンゼルの丘』に改題された理由は、この作品が発表される前年の59年に、関谷ひさしの『エンゼルちゃん』という少女マンガがすでにあり、それとタイトルがバッティングするからだと思われる。
そして実はそれもさもありなんで、50年代の終りから60年代にかけてのこの時期、少女マンガには一種の流行とでも言うか、タイトルに“天使(エンゼル)”という単語の入った作品が非常に多かったのだ。
有名な作品をざっと挙げてみただけでも以下のような題名が並ぶ。
『天使のひとみ』(わたなべまさこ 58年)、『くらやみの天使』(U・マイア 58〜59年)、『おてんば天使』(横山光輝 59年)、『天使の花びら』(赤松セツ子 60年)、『天使のこみち』(わたなべまさこ 61年)、『あかんべえ天使』(石森章太郎 63年)、『テレビ天使』(ちばてつや 68年)、手塚作品にも『ピンクの天使』(57〜58年)という作品がある。
ついでに言うと、この時代の少女マンガには“銀”と“星”という言葉も非常に多く使われていた(こちらは手塚の少女マンガにはなかったが)、興味があれば探してみてください。
ちなみに、他作品とバッティングするということで改題した作品をもうひとつ。それは81年から82年にかけて『週刊少年チャンピオン』に連載された『七色いんこ』だ。
主人公の七色いんこは天才役者にして泥棒という、ブラック・ジャックの流れをくむダーティーなヒーローである。
ということで、そのちょっぴり怪しくてミステリーチックな雰囲気を出すために、手塚先生は当初『七色仮面』というタイトルをつけたかったのだという。だけどこれは年配の方なら誰でもご存知の特撮ヒーロー『七色仮面』という人気作品が昭和30年代にあった。そこでやむなく『七色いんこ』になったのだという。
実はこの情報は、前回と今回のこの記事に協力していただいた手塚プロ資料室長の森晴路さんから、かつて手塚先生から直接聞いた話として教えていただいたものだ。つまりは本邦初公開のプチ情報ということです!
そして、そう言われてみれば確かに『七色いんこ』が仮に『七色仮面』だったとしても、実にしっくりとくるタイトルではないでしょうか。
ちなみになぜ「いんこ」だったかについては、手塚先生が1981年8月20日の第4回手塚治虫ファン大会講演で次のように語っていた。
「たまたま家でインコを飼っていたので「七色いんこ」ってつけたんですがね、ただそれだけのことです(笑)」(講談社版全集第347巻『七色いんこ』第7巻あとがきの講演再録より)
だそうである(笑)。
続いて、アニメ化に関連してタイトルが変更された作品について見てみよう。
73年『週刊少年チャンピオン』に連載された『ミクロイドS』は、当初は『ミクロイドZ』というタイトルで連載が始まり、数回目から『ミクロイドS』に突然変更された。
この理由については手塚自身が、講談社版全集のあとがきでその理由を詳しく述べている。
それによれば、この企画は東映から手塚に持ち込まれたもので、当初からテレビアニメ化を前提とした作品だったという。その打ち合わせの段階で、手塚はミクロなヒーローというアイデアを得て『ミクロイド』というタイトルを考えた。ところが……以下引用。
「「ミクロイド」だけでは軽い、というわけで、東映はかってに「Z」をつけました。しかし、「なんとかZ」というタイトルのテレビ番組はよくあって、競合する、というわけで、放映ぎりぎりで、突然「S」に変わりました。「ミクロイドZ」で連載第1回目をかいてしまっていたこっちにとっては、いい迷惑です」(講談社版全集第185巻『ミクロイドS』第3巻あとがきより)
“競合する「なんとかZ」”とはもちろん、当時大ヒットしていた巨大ロボットアニメ『マジンガーZ』(72〜74年)のことだろう。だとしたら、そりゃあ避けた方がいいでしょうね。
だが実は、この理由以外にZからSに変えられた理由がもうひとつあった。それはテレビアニメのスポンサーが時計のセイコーに決まったため、Zだとライバル会社のシチズンを連想させるという、まあ、いわゆる大人の事情というやつである。
結局、手塚は後付けの無意味な英文字に振り回される結果となってしまったわけだが、今から思えば『ミクロイド』の方が、スパッと言い切った感じがいさぎよいし、手塚マンガらしくてずっと良かったと思う。
まあ、ぼく自身も出版業界で30年以上仕事をしてきて、こうした大人の事情は腐るほど経験してるから、どうしても仕方ないこともあるということで、これ以上は突っ込まないでおきましょう(笑)。
アニメ化に際してタイトルが変わった作品の話をもうひとつ。 『海のトリトン』は、元は『青いトリトン』というタイトルで69〜71年『サンケイ新聞(現・産経新聞)』に連載された作品だ。発表当初は新聞での1日1ページ連載という形式だったこともあり、あまり大きな話題になることはなかった。それが大ブレイクしたのは連載終了後の72年、手塚の元マネージャーだった西崎義展がプロデュースして『海のトリトン』と改題されテレビアニメ化された時だった。 72年4月にTBS系列で始まったテレビアニメ『海のトリトン』は、放送開始当初は大きな前宣伝もされず地味なスタートだった。だがやがて高校生以上の高い年齢の視聴者層、特に女性から多く注目を集め、次第に人気を高めていった。 そして実はこの時が、その数年後に『宇宙戦艦ヤマト』(74年〜)をきっかけに大ブレイクすることになる第2次アニメブームの最初の幕開けだったのだ。 話を本題に戻すと『青いトリトン』はなぜアニメ化の際に『海のトリトン』に改題されたのか。それについて、ぼくはかつて手塚治虫自身からその理由を聞いている。 それは74年2月11日、東京・荻窪の画廊で開催された「手塚治虫30年展」の会場(虫さんぽ第7回で再訪しています)でのことだった。そこでのサイン会の際に、手塚先生とファンとの間で『トリトン』の話題になり、誰かが先生に改題の理由を聞いた。すると手塚先生はこう答えたのだ。記憶を頼りにできるだけ正確に再現しよう。 「“青い・トリトン”っていうのは形容詞・名詞でしょ。だけど形容詞のついたタイトルっていうのは(アニメの)スポンサーが嫌がるんです。なぜかというと、例えばスポンサーからガムが発売されたとして、商品名が“青いトリトンガム”となると、ガムが青いのかトリトンが青いのか分からなくなっちゃう(笑)。だから『海のトリトン』に変えたんです」
ここで手塚アニメに詳しい方は「あれっ?」と思うかも知れない。というのは手塚は後年、自身が原案・監督したテレビアニメ『青いブリンク』を発表しているからだ。 『青いブリンク』は89年から90年にかけてNHKで放送された作品で、当時、キャラクターグッズなども販売された。だけど“青い”という形容詞はスポンサーにとってNGだったのでは……!? これについてはぼく自身も説明がつかなかったので、またまた手塚プロの森さんに見解を聞いてみた。以下、森さんのお話。 「ぼくも断定はできませんが、ひとつには時代が変わったということじゃないでしょうか。具体的に調べたわけではないですが、今は様々なタイトルの作品がアニメになっています。ですから形容詞どころかもう何でもありな状態ですよね。つまりアニメ市場が成熟したことで、形容詞で誤解をするなどという人がほとんどいなくなったということかも知れません。また、放送がスポンサーのCMが入らないNHKだったことも大きいと思います。いずれにしろ、手塚先生がそうしたアニメ業界のタブーを知った上で、あえてまたタイトルに「青い」を持ってきたことは大変興味深いですね」
さてここでぼくはふと思った。手塚先生がそこまで“青い”にこだわるということは青色がかなりお好きだったのでは?
そこで手塚マンガのタイトルから色のついたタイトルを抜き出してみたら……実は手塚マンガのタイトルは“青”だけではなくて極彩色に彩られているのだった!!
一例を挙げてみよう。まずきっかけとなった“青”については前出の2作品のほかに『カーテンは今夜も青い』(58年)と『バックネットの青い影』(62年)という2つの短編がある。
そして多いのが“白”だ。以下、年代順に並べてみよう。『鉄路の白バラ』(54年)、『白いくびの子がも』(56年)、『白骨船長』(57年)、『白くじゃくの歌』(59年)、『白いパイロット』(61〜64年)、『白縫』(71年)、『白い幻影』(72年)。
黒もけっこう多い。『黒い峡谷』(54年)、『くろい宇宙線』(56年)、『くろ耳ちゃん』(56年)、『黒い河』(70年)、『ブラック・ジャック』(73〜83年)。
以下、赤、黄、緑を連続で。最初は赤から『赤い雪』(55年)、『赤の他人』(70年)、『山の彼方の空紅く』(82年)、続いて黄色は『怪盗黄金バット』(47年)、『黄金都市』(50年)、『黄金のトランク』(57年)、『黄色魔境』(69年)、『イエロー・ダスト』(72年)。そして最後は緑。『緑の猫』(56年)、『緑の果て』(69年)。
いやはやホントに多いです。そしてこの色つきタイトルが多い理由についても、手塚プロの森さんに見解をお聞きした。
すると森さん自身がかつてこのテーマで記事を書いたことがあると言うことで、その記事のコピーを見せてくださった。『色つきマンガへの想像』というA4サイズ3ページの記事だ。
この記事の中で森さんは、手塚が作品の題名やサブタイトルだけでなく、セリフなどでも色に執拗にこだわっていることを紹介し、その結論をこう締めくくっている。
「一色のマンガでは、形容詞である色をタイトルやセリフで使ってカラフルなイメージを連想させているのではないだろうか」
色のないマンガだからこそ、読者により極彩色のイメージを受け取ってもらえるように……手塚マンガには、そう言えばモノクロなのに色が感じられる瞬間が多々あるような気がします。
ところでこの森さんの書いた記事、ぼくは初めて見たんですが、どこに掲載されたものだったのでしょう?
それを尋ねると森さんから出たのは意外な答えだった。この記事は1989年の1月に森さんが手塚治虫ファンクラブ会報『手塚ファンmagazine』のために書き下ろしたものだった。ところがその会報の印刷と製本も終り、あとは会員に発送されるだけという2月9日、突然、手塚先生の訃報が飛び込んできた。
そのため当時のファンmagazin編集長は会報の発送を中止し、急きょ新たに追悼号が作り直されたのだった。そのため森さんの原稿もこの会報とともに幻となってしまったのである。しかもその幻の会報はその後廃棄されてしまったらしく、森さんの手元にもコピーしか残っていないのだそうだ。
うーん、これはもったいない。ぜひこれからでもどこかに発表していただきたいですね。
ということで、今回は話があちこちへ飛びましたが、今回紹介した作品を読まれるときは、ぜひそのタイトルに秘められたエピソードを思い出してみてください。
ではぜひまた次回のコラムにもおつきあいください!!