福島県会津地方を巡った今年の夏の虫さんぽ、今回は後編をお届けだっ。前編では、夏休み期間中に同地で開催されていたスタンプラリーのスタンプを集めながら会津地方全域を車で回った初日の様子をレポート。そして2日目の今日も手塚マンガの面影を求めてさんぽの続きを……と思っていたところ、現地で待ち合わせをした案内人の会津漫画研究会会長・白井祥隆さんから思いがけない提案が。その提案とはいったい何か!? 猛暑の夏が過ぎ、台風の秋も終わって季節は冬。こたつでみかんを食べながら会津の旅をプレイバックしようぜ〜〜〜〜〜っ!!
今月号より、虫さんぽの地図と絵の担当が変更になります。
野村に代わり、イラストレーター・つのがいさんが作画を引き継ぐことになりました。
両氏より、メッセージが届いています!
8年間に渡って『虫さんぽ』の絵を描かせてもらいました。
これまでに描いた中で自分でも興味をひかれた場所には訪ねて行くこともありました。
遠いところでは、福島県の会津。手塚先生が好きだった街を『虫さんぽ』の地図を片手に歩きました。
近くでは、東京の武蔵野。毎週のように通って見ていた建物が先生ゆかりの所だったとは思いもしませんでした。
一番印象に残っているのは、神奈川県の川崎市市民ミュージアム。先生と奥様とアシスタント全員で開館したばかりの市民ミュージアムに出かけ、そこで先生の最後の誕生日会をした思い出があったからです。
その他にも先生との懐かしい思い出につながる場所を幾つも描かせてもらいました。いつか機会があったら訪ねてみるつもりです。
これまで苦労なく楽しく続けてこられたのは、黒沢さんから丁寧に取材された資料を頂いていたことや、彩色やレイアウトなどを社内のみんなに手伝ってもらえていたおかげです。そして何よりも『虫さんぽ』を読んで頂いている皆さんに支えられてきたおかげです。本当にありがとうございました。
『虫さんぽ』はまだまだ続きます。今回から、静岡出身の若いイラストレーターにバトンタッチです。きっと新風を吹き込んでくれることでしょう。これからも「虫さんぽ」を楽しみに読んでくださいね。
どうぞよろしくお願いします。
はじめまして。この度野村先生から作画のバトンタッチをさせて頂きましたつのがいです。
先生ゆかりの地をキャラクター達とともに楽しくさんぽできればと思っております。
不慣れな面もございますが、手塚先生のあたたかなタッチを大切に取り組んでまいります。
何卒よろしくお願いいたします!
会津さんぽ2日目の朝10時、天候は薄曇り。場所は会津若松市内のコインパーキング。ここでぼくが待ち合わせているのは、前編でもたびたびお名前が出てきた会津漫画研究会会長・
白井さんには訪問前の準備段階から関係各所への取材許諾など様々お世話になっているが、さんぽ2日目の今日は、白井さんご本人に案内していただいてゆかりの地を巡る約束となっている。ただし、どこへ行くのかは白井さんにおまかせしており、じつはぼくもまだ教えてもらっていないのだ。まるで行き先の分からないミステリートレインみたいである。
約束時間の5分ほど前に現地へ到着すると白井さんはすでに先に来て待っておられた。2010年の虫さんぽでお世話になって以来、電話やメールではたまに情報交換をさせていただいているが、お目にかかるのは前回の虫さんぽ以来6年ぶりである。
「白井さん、お久しぶりです、今日はどこを案内していただけるんですか?」
「前回の虫さんぽで行けなかった場所を中心に考えていますが、じつはその前に付き合っていただきたい場所があるんです」
「いいですけど、どこですか?」
「いいですか、よかった。じゃさっそく行きましょう。黒沢さんの車はここに置いておいて私の車に乗ってください」
「あ、あの……、それでいったいどこへ……???」
「さあ早く乗ってください、皆さん待ってますから」
「皆さん?」
白井さんとも長いつきあいになるので性格がだんだんと分かってきているが、白井さんは何事においてもじつに行動が素早い。思い立ったら即行動する。言い換えればせっかち……(失礼)。とにかくこの行動力には目を見張ります。
ということで、行き先も分からぬまま白井さんの車の助手席に乗り、駐車場を出発した。そしてまず向かったのが、2010年の虫さんぽで手塚治虫先生の会津訪問の際の思い出を語ってくださった会津漫画研究会初代会長・白井義夫さんのお宅である。当時白井義夫さんは86歳だったがいまだお元気で、手塚先生に会津を案内した日々のことをまるで昨日のことのように話してくださった。しかしその後89歳で惜しまれつつこの世を去られたのだった。ちなみに白井祥隆さんとは同姓だけど親戚ではありません。
玄関前に車を駐めた白井さんが呼び鈴を押すと奥様と娘さんが出てこられた。
「お忙しいところ済みません。例のもの、よろしくお願いします」
白井祥隆さんがそう言うと、おふたりはすでに了解済みだったようで奥の部屋から何やら白い箱を大事そうに運んで来た。箱を開けると中には白い封筒。表に「手塚治虫先生の原画在中」と書かれている。白井義夫さんの書かれた文字だろう。そして封筒の中には手塚先生が会津を訪れた際に描いた色紙や直筆原画が大切にしまわれていた。
「今度の企画展のためにお借りするんです」と白井さん。
白井さんの言う企画展とは、今年2016年の7月30日から8月21日まで会津若松市の歴史資料センター「まなべこ」で開催された「手塚治虫と会津」展のことだ。今回のさんぽ当日(7月中旬)はその準備の真っ最中だったのである。
「黒沢さんにお付き合いいただきたいと言ったのは、企画展に展示するためのこうした資料をお持ちの方々からお借りすることだったんですよ」
白井さんが用意してくださったうれしいサプライズに感動しながら次に向かったのは、井関肇さんという方のお宅だ。井関さんは手塚先生が1959年4月に初めて会津を訪れた当時、地元青年部に所属しており、白井義夫さんと一緒に手塚先生をおもてなししたひとりである。
お酒が大好きな井関さんは白井義夫さんから夜の宴会担当を頼まれ、手塚先生をキャバレーやスナックに案内した。そして最後に立ち寄ったお寿司やさんでのこと。井関さんによれば、お店の人から色紙を頼まれた手塚先生はその場でサラサラとヒゲオヤジの絵を描き、仕上げに指先にむらさき(醤油)をちょいと付けてそれで彩色をしたという。色紙を描くだけでなく、さりげないアドリブを加えて見る人を楽しませる。手塚先生のサービス精神がうかがえるお話である。
井関さんらが手塚先生と飲み歩いた晩、深夜2時過ぎに旅館へ戻った手塚先生は、何と徹夜でそのまま1本のマンガを描き上げてしまった。それが当時『週刊少年サンデー』に連載していた『スリル博士』第4話「博士のノイローゼ」の巻である。
会津を舞台としたこのお話には白井義夫さんを始めとした現地の人々が何人も出てきているが、その中に井関さんの姿もしっかりと描かれていた。
そしてその井関さんも当時手塚先生に描いてもらった色紙を大切に保管していた。描いてもらったのは太鼓を叩くヒゲオヤジの絵だ。ほんのり酔っ払っているようなトロンとしたこの表情は、お酒好きな井関さんをイメージしたものか、何とも人間くさくて愛らしいヒゲオヤジである。
井関さんの家を辞し、再び白井さんの車に乗って向かったのは川沿いに建つライムグリーン色のおしゃれなお宅だ。
玄関で出迎えてくださったのは本田陽一さん。グラフィックデザイナーをされているということで、おじゃまさせていただいた仕事場はデザイナーらしい何とも居心地良いお部屋だった。
そこでさっそく本田さんが本棚から取り出したのは、“陽一君”という宛て名と手塚先生の署名が入った鉄腕アトムの直筆色紙だ。この色紙も1959年に手塚先生が会津を訪れた際、当時11歳だった本田さんのために描いてくれたものだという。
「そのころ私の伯母が東山温泉の旅館・原瀧別館すみれ荘で仲居さんをしていましてね、手塚先生が宿泊されたお部屋を担当したんです。それで伯母が“甥っ子がマンガが好きなので”と言って手塚先生にお願いし、ぼくと弟に1枚ずつ色紙を描いていただいたんです。
手塚先生は伯母にぼくたちの年齢を聞いて、ぼくにはこのアトムを描いてくださり、まだ幼かった弟には、伯母から動物が好きだという話を聞いて確か犬の絵を描いてくださったんです。ところが残念ながら弟の色紙はその後引っ越しなどで行方不明になってしまいましてね。弟はどこかにあると言っているのでいずれ出てくるかも知れませんが、いまだに見つかっていないんですよ」
子どものころにもらった色紙を50年間大切に持ち続けていたなんて、それだけでもすごいことだけど、もしも弟さんの色紙が見つかったらそれこそ奇跡と言っていいんじゃないでしょうか。ぜひ見つかって欲しいですね。おじゃましました本田さん!!
車に戻った白井さんは腕時計をチラッと見ると、
「色紙をお借りするのは今日はこれで終わりですが、まだ少し時間がありますね。約束はしてないですが、ちょっと行ってみましょうか」
「え? どこへですか?」
「行きますよ、黒沢さんシートベルトしてください」
という感じで有無を言わさず連れて行かれたのは、またしても個人のお宅だった。
こちらのお宅のご主人は板橋英三さん76歳。アポなしで訪問したにもかかわらず、板橋さんはぼくらを笑顔で歓待してくれた。いつもながら会津の方々の心の広さには感激してしまう。玄関から応接間へ通されると壁面には無数の絵や版画が飾られている。全て板橋さんが制作されたものだという。
「私も昔は会津漫画研究会に所属してマンガを描いてましてね、『漫画少年』にも投稿したりしていたんですよ。ですから(1959年に)手塚先生が会津へ来られた時は、まだ20歳になったばかりの新社会人でしたが、私も真っ先に駆けつけましたよ。
そのころ私はすでにマンガから版画へ移行しつつある時期でしたので手塚先生に自分の作った版画をお見せしたら“これは素晴らしい、ぜひ譲って欲しい”と言われましてね、もちろんその場で差し上げました。
私がマンガをやめて版画を作るようになった理由ですか? 手塚先生の絵を見てとてもかなわないと思ったからです。私にはあんな滑らかな線は描けない、だったら違う分野で勝負しようと思ったんです。
手塚先生が会津へ来た当時はマンガに対する反対運動が激しいころでしたから、手塚先生は地元の教師やPTAを集めて講演会を開いてくれたんです。
“マンガは決して害悪なんかじゃないんです。マンガは子どもたちの栄養になるんです”
手塚先生はそう力説されましてね、会津の人たちにマンガの魅力を教えてくれたんです」
板橋さんは現在、版画の中でも木の切り株の断面に彫刻をして、そこに墨を塗って版画を制作する“
途中、会津若松市の神明通り近くにある手塚先生のサイン色紙がある喫茶店『琥珀』で昼食を取り、続いて白井さんが案内してくれたのは東山温泉だ。
会津若松市内から5kmほど東へ向かった背あぶり山のふもとにある温泉街が東山温泉で、ここは手塚先生が最初に会津を訪れた時から定宿としていた場所である。
当時、この東山温泉から背あぶり山に向けて「背あぶり山空中ケーブル」というケーブルカーが通っていて、前出の『スリル博士』ではケン太が大活躍する場所として描かれている。
今回白井さんが案内してくれたのは、その背あぶり山空中ケーブルの発着所があった場所近くのお宅だった。そこに住まわれていたのは高橋幸子さん。かつて空中ケーブルが運行していたころ、発着所の隣で売店を営んでいたという。
「私は昭和27年(1952年)にここへお嫁に来たんですが、1956年に空中ケーブルが開通した時はそれはもう町中大変な騒ぎでしたよ。何しろ東北地方で初めてのケーブルカーでしたからね。手塚先生が来たときのことも少しだけ覚えていますよ。有名なマンガ家の先生が来たって聞いてね。地元の人たちと一緒にケーブルに乗って山頂へ行かれるのをお見送りしました」
その空中ケーブルも1985年に廃止され、現在は索道の通っていた開けた斜面だけが、わずかに当時の面影を偲ばせて残っているだけだ。
手塚先生が1979年から81年にかけて雑誌『主婦の友』に連載した半自伝的マンガ『マコとルミとチイ』の中に、1975年の家族旅行でここ東山温泉を訪れた時の思い出を描いている。それを読むと、この時の旅行はかなり大変なことになっていたようだ。
後年、手塚先生の妻・悦子さんが書いたエッセイによれば、このとき手塚先生は家族サービスだと張り切って事前にマイクロバスを予約し、親戚一家も誘って大人数でわいわいと出かけるはずだった。ところが例によって手塚先生は出発当日になっても仕事が終わらず、先生不在のままバスは会津へと向かった。以下、悦子さんのエッセイからの引用だ。
「一日目、手塚はとうとう来ませんでした。
二日目の朝になって、やっと、昼食をとっている私たちの合流先へと、東京からタクシーを飛ばして来てくれました。しかし、まだ仕事が終わっていないのです。編集者が一人、付き添ってきていました。
『この原稿を仕上げれば一緒にまわれるから』
と、宿で原稿描きです。
三日目に、ようやく家族と一緒に
手塚先生がマンガに描いている、宿の名前を忘れて家族と会えなかったというのはどうやらフィクションで、実際は追いかけてきた仕事を片づけなければならなかったというのが真相のようですね。それにしても聞いている方が疲れてしまうようなハードな生活です。
高橋さんに別れを告げて再び車に戻った白井さん、腕時計を見ると急に焦りだした。
「あーっ、しまった。ちょっと遅刻です」
そう言うと白井さんは誰かに電話をかけ、少し遅れる旨を伝えて車はすぐに走り出した。
白井さんの車は会津若松市内を通過して今度は南へ、南へ。
「白井さん、次はどこへ連れて行っていただけるんですか?」
「
向羽黒山城跡は手塚先生の異色時代劇マンガ『夜明け城』のモデルになった場所ではないかと言われている場所だ。前回の虫さんぽでもぜひ行きたかったんだけど残念ながら時間切れとなり、観光パンフレットを紹介しただけで終わっていた。これは楽しみです。
間もなく到着したのは会津美里町本郷インフォメーションセンターである。そしてここで出迎えてくれたのが会津美里町の観光振興に携わっておられる4人の方だった。
会津美里町商工観光課課長補佐・長嶺和彦さん、会津美里町観光協会副会長・水野俊彦さん、会津美里町観光協会・岩淵貴之さん、そして今回の向羽黒山城跡案内人をお願いする会津美里町観光協会の遠藤秀一さんである。取材当日は休日だったが、皆さん虫さんぽのために馳せ参じてくださったのだ。ありがとうございます!
挨拶もそこそこに遠藤さんの案内で向かったのは「向羽黒ギャラリー」だ。ここは中世の会津や向羽黒山城に関する資料を収蔵展示した資料館で2015年春にオープンしたという。
メインとなっている展示は15〜16世紀に奥州で最大勢力を築いた会津領主・葦名氏一族に関する資料の数々だ。遠藤さんによれば、第16代葦名盛氏(あしな もりうじ)が向羽黒山城の築城を始めたのは永禄4年(1561年)のこと。それから足かけ8年の歳月をかけ永禄11年(1568年)に城は完成したという。
その後、伊達政宗、蒲生氏郷、上杉景勝と城の統治者は次々に変わっていったが、関ヶ原の戦いで景勝が徳川家康に敗れると、家康からこの城を徹底的に破壊するよう命じられ、慶長6年(1601年)、城は完全に破却されたのであった。
手塚先生が1959年から60年にかけて発表したマンガ『夜明け城』の舞台もまさに戦国時代。松ノ木宗治という領主が家臣にさえも秘密で山奥に天下一の城を建設しようとする物語だ。
当時、手塚先生のアシスタントをしていた会津出身の平田昭吾さんが、後に白井祥隆さんに話したところによると、平田さんは仕事をしながら会津の話を手塚先生にいろいろ聞かせていたという。その中に向羽黒山城の話もあった。それに手塚先生は強く惹かれていた様子で、ある日一緒に会津へ行こうということになった。そして手塚先生が会津を訪れた半年後に連載が始まったのが『夜明け城』だったのだ。
手塚先生が『夜明け城』と会津の関わりについて語った記録は残されてないが、マンガの中に描かれた風景と会津の風景・風土とは良く似ており、作品の発表時期から見ても、このマンガのイメージの根底に会津訪問の記憶が色濃く反映していることは間違いないだろう。また白井さんは夜明け城城主の「松ノ木宗治」という名前の中に会津若松に通じる「松」の字が入っていることも、この土地との関係を裏付けているのではないかと語っている。
ギャラリーには750分の1の縮尺で再現された向羽黒山城跡の立体模型が展示されているが、これを見るとその大きさがよく分かる。これだけ大きな遺構が現存しているのは大変貴重だそうで現在は国の指定史跡になっているそうだ。
ちなみに「向羽黒山ギャラリー」を見学する際は会津美里町観光協会へ事前に観覧予約が必要なのでご注意ください。
「ではさっそく向羽黒山城跡をご案内しましょう」 遠藤さんの言葉で、ここからは岩淵さんの運転する車に乗り込み、険しい山道を登り始めた。いただいたパンフレットの地図によれば観音山、羽黒山という2つの山を越えたその先に向羽黒山城があった岩崎山があるという。現在は舗装道路が通っているが、当時は攻めにくくて守りやすい戦国時代の要塞に最適な場所だったことが良く分かる。 車を降りて歩き始めると、この城の堅固な守りがさらによく分る。かつて道だったという場所は切り通しとなっていて、谷底になっている場所を左に右にうねりながら通っている。敵が攻めてきた場合にも必ずこの道を通らねばならず頭上から攻撃されたらひとたまりもないだろう。
会津美里町の皆さんとお別れし、白井さんと最後に向かったのは、白井さんのご自宅に併設されているマンガのミニ博物館「会津美里冒険堂」である。
白井さんはかつてNPO法人「会津マンガ文化研究会」(会津漫画研究会とは別組織)に所属しその仲間とともに会津若松市七日町に「会津冒険堂」というミニギャラリーを開いていた。だがそこは諸般の事情から3年ほどで閉館。今年2016年、新築した自宅で新たにオープンさせたのが「会津美里冒険堂」である。
館内へ入ると20畳ほどのスペースの壁面に大きなガラスケースがあり、中には懐かしい漫画が隙間なくみっちりと並べられている。やはり手塚先生のマンガと会津出身のマンガ家・笹川ひろし先生の作品が多い。展示物は定期的に入れ替えるそうで、訪問時は懐かしい月刊少年マンガ誌『少年画報』がずらりと展示されていた。窓側に並べられた本は来館者が手に取って読むこともできる。しかもそれらの中にもかなり貴重な本があって驚く。
白井さんは地元で長年銀行マンとして働きながら、マンガによる地元の街おこしに尽力してきた。この夏に会津で開催された「手塚治虫キャラクタースタンプラリー」や企画展「手塚治虫と会津」なども白井さんがいなければ実現しなかったものだろう。
そんなバイタリティあふれる白井さんだが、さんぽ当日、帰り際にぼくにこんなことを言っていた。
「私、手塚先生の企画展は会津では今回が最後だと思うんですよ。私だけじゃなくて手塚先生と縁のあった方々がみんな高齢になっていますからね。ですからこれが最後のお勤めと思ってがんばっているんです!」
ぼくは、まだまだがんばって手塚マンガで会津を盛り上げてくださいよ、と言ったのだが、残念ながら白井さんの決意は固いようだった。
そんな白井さんから、後日ぼくの家に大きな封筒が届いた。開けてみると中にはA3サイズの紙を三つ折りにしたパンフレットが入っていた。
『手塚治虫が歩いた会津』と題されたそのパンフレットは、会津に点在する手塚治虫ゆかりの地を写真付きで紹介したイラスト地図で、まさに虫さんぽファンのために作られたようなパンフであった。これは白井さんが自分で地元企業や商店を回って募金を集め、それを資金として作成したものだという。添えられた白井さんの手紙にはこう書かれていた。
「この9月から高速バス『手塚治虫70周年記念号』のラッピングバスへ配布しており、新宿から会津へお出でになる方々へお渡しします」
さらに手紙はこう続いていた。
「ところで、2018年(平成30年)は手塚先生の生誕90周年であり、また会津は『戊辰戦争150年』でもありますので、何か企画できないものか考えています。手塚先生の時代作品は意外に幕末を舞台にしたものが多くありますので、『手塚漫画と幕末・会津戦争』と題した企画展などどうかなあと思っています」
どうやら白井さんの引退はまだまだ遠そうである。
ちなみに「会津美里冒険堂」の営業は土日祝日のみの完全予約制なのでご注意を。
白井さんに見送られながら会津美里冒険堂を後にしたぼくは、今回の虫さんぽ最後の目的地がある福島県南会津郡只見町へと向かう。
会津若松市内へ引き返し磐越自動車道で
この道路と並行してJR只見線の線路が通っているが、途中の会津川口駅と只見駅間は2011年7月に起こった新潟・福島豪雨により橋や線路が流され、いまだに不通となっている。そのため両駅の間はシャトルバスが運行している。
会津若松市内からは車でおよそ1時間40分。只見駅でもスタンプを捺させてもらい、目指す目的地へ。その建物は開けた原っぱの真ん中に建っていた。
建物の名前は「昭和漫画館青虫」。昭和のマンガやおもちゃ、サブカル資料などを収集した私設の博物館・図書館である。
さらにこの博物館・図書館が異色なのは、昭和20〜30年代の貴重なマンガの多くを来館者が手に取って読めるということだ。昭和のマンガやおもちゃを展示した博物館は全国にたくさんあるが、貴重な本を手に取って読める場所はそうそうない。
ここも前回のさんぽでぜひ訪ねたかった場所のひとつだったが、会津若松市内からは遠いために断念していたのだった。
玄関を開けて中に入ると昔の学校のような下駄箱があり、その奥の内扉はぴったりと閉まっていた。静まり返っているが留守なのだろうか。事前におじゃますることは伝えてあったのだが……と壁際を見ると、これまた昔の学校にあったような古めかしい鐘がぶら下がっている。
「ご用の方は鐘を鳴らしてください」
そんな案内書きに促されて鐘を鳴らすとようやく奥の扉が開いた。
「いらっしゃい」
出迎えてくれたのは昭和漫画館青虫館長の高野行央さんである。
館内へ入って驚いた。ホールのような広い室内。2階建てほどの高さがある吹き抜けの左右正面全ての壁面いっぱいに昔のマンガがびっちりと並んでいる。高野さんによればこれでも全部は並べ切れていないそうで、まだ1〜2万冊くらいのマンガが倉庫に眠っているのだという。
先に紹介したように来館者が手に取って読める手塚マンガも数多く置かれているが、特に貴重な昭和20年代の手塚マンガはガラスケースの中に収められている。美品で復刻版じゃないかと思うほどだが、もちろんどれも刊行当時のオリジナルである。
たまに古書店などで目の玉が飛び出るような値段が付いたオリジナル版が売られていることがあるが、それらはどれもかなり傷んでいるか赤茶色に焼けていて、新刊当時の雰囲気を想像するのは難しい。
しかしここに並んだ高野さんのコレクションを見ていると、これらが新刊として刊行された当時の雰囲気がリアルに想像出来、それだけでもここへ来た甲斐があった。
高野さんは1949年神奈川県横浜市生まれだという。それがなぜこの只見町で「昭和漫画館青虫」を開館することになったのだろうか。高野さんにうかがった。
「マンガを集め出したのは社会人になった20代の中ごろからで、最初は人に見せるつもりもなく自分のためにコレクションをしていたんです。ところがそのうちダンボールに入ったままの本が部屋を埋めつくすようになってきましてね。すると箱の中の本が“出してくれ”って言っているように思えて来たんです。それで会社を定年退職したら私設図書館みたいなものを作りたいと漠然と思うようになったんです」
そうした折に高野さんが知り合ったのが、ここ只見町で“たもかく本の街(現・たもかぶ本の店)”を経営している株式会社たもかくの吉津耕一社長だった。たもかぶ本の店は古本屋さんであるが単なる古本屋さんではない。都会のお客さんがお店へ本を持ってきて売る。お店は利益で山林を買い取る。すなわち只見町で本をリサイクルすることで都会のお客さんが森のオーナーになれるのである。
そんな吉津さんとのご縁から、高野さんが54歳の時、只見町にちょうどいい物件があるという話を聞いた。それが現在の青虫の建物だった。
「ここは昭和30年にキリスト教の伝道所と保育園が併設した建物として建てられたものでした。だけど見に来た当初は空き屋になってから何年も経っていて、今にも倒壊しそうなぼろぼろの廃屋でね。一瞬迷ったんだけど、この開けたロケーションが気に入ったんです」
まるでアニメ映画『となりのトトロ』のお父さんのセリフのようである。
こうして高野さんはこの建物と土地を購入し、当初予定したよりも数年早く2006年4月に『青虫』をオープンしたのだった。
「開館当初の館名は『漫画図書館青虫』だったんですが、図書館って付いてると無料だと思われるお客さんがたまにいらっしゃって。それに本をじっくり読みたいという人だけでなく、館内の雰囲気を味わうだけの観光目的の人にもぜひ気軽に遊びに来てもらいたいという意図から『昭和漫画館青虫』と改めたんです。
『青虫』という名前の由来は、貸本向け漫画や『ガロ』という雑誌を出していた青林堂という出版社がありまして、その青林堂の“青”と手塚治虫の“虫”を一文字ずついただいたんです。当初思いついた館名は“まんガロ虫”でしたが、それじゃちょっとあれかなと思い、もう少し考えて『青虫』に決めました。ちょうど田舎の雰囲気にも合うかなと思いましてね」
しかし無事にオープンしたものの、高野さんには大きな誤算がひとつあったという。
「ぼくがこの元教会の建物で気に入った点のひとつが、広い敷地の真ん中に建物がポツンと建っているところだったんです。
ところが夏に下見をしたから最初は知らなかったんですが、このあたりはすごい豪雪地帯なんですよ。だから雪が降ると雪かきが大変なんです。道路まで延々雪かきをしないと買い物にも行けませんからね。それでよく見るとこのあたりの家はみんな家の玄関が道路に面しているんですね。でも建物はものすごく気に入っていますから、今のところ他へ移る気はありませんね」
福島県は東日本大震災とその翌年の豪雨で大きな被害を被ったが、それによって影響はあったのだろうか。
「ありましたね。震災以後、お客さんはかなり減りました。水害でいまだに只見線の一部が復旧していないのも痛いです。でも元々お客さんは少ないですから(笑)。こんな辺鄙な場所でも遠くからわざわざいらしてくれるお客さんも多いですし、経営は苦しいですが身体の動く限りずっとやるつもりです。なので、ぜひもっと多くの方に気楽に遊びに来ていただきたいですね」
高野さんありがとうございました。
雪深い只見町にある『昭和漫画館青虫』は、毎年10月の最終日曜日まででその年の営業を終え、翌年4月いっぱいまで休館する。今年2016年は10月30日が日曜日だから10月31日月曜日から来年2017年の4月まで長い冬眠に入る。
次の春が巡ってきたら、皆さんもぜひここを訪れて昔の手塚マンガに触れてみていただきたい。のどかな自然に囲まれた静かな元教会の建物の中で、しばし時間を忘れて昭和のマンガに読み耽っていると、まるであのころにタイムスリップしたような懐かしくも甘酸っぱい感覚が味わえるはずだ。
虫さんぽを終えて帰宅しておよそ半月後の8月初旬、白井さんから連絡が入った。7月30日から会津若松市の歴史資料センター「まなべこ」で始まった企画展「手塚治虫と会津」が好評だとのことだ。初日のオープニングセレモニーには手塚先生の長女・手塚るみ子さんも駆けつけ祝辞を述べたことなどをいつもの早口で伝えてくれた。虫さんぽで紹介したいので画像を送って欲しいとお願いし、電話を切った。
ところがそれから半月後、白井さんから再び電話がかかってきた。
「黒沢さん、見つかったんですよ!」
白井さんの声が興奮気味に上ずっている。
「何が見つかったんですか?」
「本田さんの弟さんの色紙です」
「えーっ!?」
聞けばあれから本田さんの弟さんが自宅を大捜索し、ついに自宅で色紙を発見したのだという。
「本田さんが犬の絵だとおっしゃっていたので私はてっきり『スリル博士』に出てくる犬の“ジップ”だと思っていたんですが違いました。手塚先生のキャラクターではなく、かわいい子犬の絵でした。子犬のシッポに赤とんぼが止まってるいるんです。幼いお子さんにあげるということで手塚先生は子犬の絵にしたんでしょうね。色紙は17日から企画展の展示に加えることにしました!!」
手塚先生がここ会津の地に遺していったたくさんの思い出とささやかな贈り物。それらを宝物として大切に後世へ伝えようとしている会津の人々。彼らの夢のような日々はいまだ終わっていないようである。
ではまた次回の虫さんぽでもご一緒いたしましょう!!
黒沢哲哉
1957年東京生まれ。マンガ原作家、フリーライター。手塚マンガとの出会いは『鉄腕アトム』。以来40数年にわたり昭和のマンガと駄菓子屋おもちゃを収集。昭和レトロ関連の単行本や記事等を多数手がける。手塚治虫ファンクラブ(第1期)会員番号364番