手塚治虫が1966年から67年にかけて雑誌『週刊少年サンデー』に連載した怪奇マンガ『バンパイヤ』。オオカミに変身する能力を持った少年が主人公のこの作品には、実在する、あるいはかつて実在した地名や駅名、建物の名前などが数多く登場します。そのうちのいくつかは過去の虫さんぽでも紹介していますが、今回は東京都心の銀座から横浜方面へ向かうルートを引いて、『バンパイヤ』に描かれた名場面の舞台のいくつかを訪ね歩いてみようと思います。題して“東京−神奈川バンパイヤさんぽ”、出発です!!
今回の虫さんぽは特定の地域を巡り歩くいつもの虫さんぽではなく、ひとつの作品に描かれた様々な場所を、電車を乗り継ぎながら広く歩いてみようと思います。
選んだ作品は『バンパイヤ』! 1966年から67年にかけて雑誌『週刊少年サンデー』に連載された作品だ。
何かのきっかけで獣に変身してしまう呪われた体質を持つバンパイヤ族。主人公のトッペイはそのバンパイヤ族の少年で、満月を見たり激しい怒りにかられるとオオカミに変身してしまう。悪の心を持つ青年・
そんな恐怖とサスペンスに現実味を持たせるためか、手塚先生はこの作品の中に銀座、上野、横浜など具体的な地名を数多く登場させている。その出来事の舞台にこの場所を選んだ理由は何だったのか!? 『バンパイヤ』ファンの方はもちろん、まだ読んでないという方にもきっと楽しんでいただけるハズ。ぜひご一緒いたしましょう!!
今回の出発地点は東京メトロ銀座線銀座駅だ。階段を上がって地上へ出ると、目の前が数寄屋橋交差点だ。平日の午前中にもかかわらずたくさんの人が行き交っている。外国人観光客、仕事中のビジネスマン、そしてこれからランチに向かうのか談笑しながら優雅に歩く山の手の奥様風グループなどなど。
かつてここには江戸城の外堀に架かる数寄屋橋という立派な橋があったが、1958年に高速道路が開通する際に川は埋め立てられ、現在はこうして地名のみが残されている。
『バンパイヤ』では、トッペイが弟のチッペイにねだられて東京見物に出かけることになった。その東京見物の出発地点がここ有楽町〜数寄屋橋周辺だったのだ。
しかしトッペイは丸いものを見るとオオカミに変身してしまう。そのためトッペイはチッペイにぶかぶかの帽子をかぶせ、丸いものを見せないようにして出かけたのだが……。
当時、ここ数寄屋橋は銀座へ来たら誰もがまず立ち寄るという観光名所だった。というのは1952年にこの数寄屋橋を舞台としたラジオドラマ『君の名は』が大ヒットし、その翌年には映画化されてこちらも大ヒットしたからだ。さらに『バンパイヤ』連載中の1966年から67年にかけても、ちょうど日本テレビ系列で伊藤孝雄・萩玲子主演のお昼の帯番組として二度目のテレビドラマを放送中だった。
現在、数寄屋橋交差点の西北角にある数寄屋橋公園には、『君の名は』の脚本家・菊田一夫の筆による「数寄屋橋此処にありき」と書かれた碑が設置されている。
ところでトッペイは当時、山奥の夜泣き谷から上京し、練馬区谷原町(現・練馬区富士見台)にある虫プロダクション近くにアパートを借りて住んでいるという設定だった。山奥の村から上京してきたトッペイは、手塚治虫の経営するアニメ制作会社・虫プロに押しかけ就職し、アシスタントとして働いていたのだ。
練馬区から有楽町までは、現在は西武池袋線と有楽町線が直通運転をしているので乗り換えなしで1本で来ることができる。だけど『バンパイヤ』連載中の1966年当時はまだ直通運転がなかったので、トッペイとチッペイは西武池袋線でいったん池袋へ出て、そこから有楽町線に乗りかえてここまで来たに違いない。
ちなみに虫プロ周辺を歩いた虫さんぽは↓こちら↓。トッペイが初めて虫プロを訪ねる場面も紹介しています。
・虫さんぽ 第8回:練馬区富士見台・虫プロ界隈を石津嵐さんと歩く!!
数寄屋橋を歩いた後、トッペイとチッペイは三越か松坂屋あたりのアパートを冷やかし、続いて上野へと向かうという。
じつはトッペイには単なる東京見物だけではない“ある目的”があったのだ。その目的が何だったのかは、↓こちら↓の虫さんぽ・上野編をご覧ください。
・虫さんぽ 第44回:東京・上野 かっぱ寺と手塚マンガに描かれた西郷さんにご挨拶!!
ということで、トッペイとチッペイが上野へ行くというので、ぼくら虫さんぽ隊はここでふたりと別れ、晴海通りを南下して銀座四丁目方面へ向かうことにした。
すると、向こうからキョロキョロしながらやってきたのは何と手塚治虫先生だ! といってもこれは『バンパイヤ』の作中でのお話。『バンパイヤ』には作者である手塚治虫自身も出演していて、トッペイと共に物語を動かす重要な役割を演じている。
その手塚治虫がなぜ銀座にいるのか。彼は謎の人物に呼び出され、銀座四丁目の「サボイヤ」という喫茶店を探していたのだ。
手塚はようやくその店を見つけ、店内へ入ってみると……そこには悪魔の申し子・ロックが待っていた!! 手塚治虫がロックと初対面する印象的なシーンである。
ぼくらもこのあたりを歩いてサボイヤを探してみよう。マンガに描かれている喫茶店サボイヤは店の中に噴水があり足下が石畳になっているクラシカルで高級そうなお店だ。当然ながら架空のお店だけど、銀座ならまだこんな昔ながらの喫茶店も残っているんじゃないだろうか。
そう思っていろいろ歩いてみたんだけど……結論から言うと残念ながらそれっぽいお店は見つけられませんでした。
ただ晴海通りからひと角裏へ入ったみゆき通りや並木通りには、昔ながらの銀座の風情を残す風景もまだちらほら残っているので、銀座四丁目を訪れたら「サボイヤはこのあたりにあったのかな」など想像しながら歩くのも楽しいと思います。
では次のバンパイヤスポットへと向かおう。銀座四丁目交差点から地下へ降り、東京メトロの地下鉄丸ノ内線に乗ってひと駅目の霞ヶ関駅で下車。地上へ出たら皇居のお堀方面へ向かって北へ300mほど歩くと左側に見えてくるのが警視庁本部庁舎の建物だ。
『バンパイヤ』では、この建物の中に「大西ミカ誘拐事件捜査本部」が設置され、塾帰りに何者かに誘拐された資産家の娘・大西ミカの必死の捜索が行われていた。
警視庁本部庁舎の建物は『バンパイヤ』当時と今とではデザインが変わっているが、マンガに描かれているのは1931年に竣工した旧庁舎で、その旧庁舎は1977年に取り壊され、1980年に現在の新庁舎が竣工した。
かつて刑事ドラマといえば警視庁の旧庁舎の映像が必ず出てきたから、ぼくら昭和少年にとっては警視庁というといまだに旧庁舎のイメージが強い。新庁舎は立派だけど何となく個性が薄いっていうか、マンガ的に言うとキャラが立ってないですよね。
それはともかく、この周辺には他に見るものはないし休憩に立ち寄れるようなお店もまったくないので、ウロウロしていて不審者と間違われ、お巡りさんから職務質問を受けたらヤなので早々に退散するが吉であろう。いや、なにもやましいことはしてないんですけどね! 何となくね!!
それからこれも余談だけど警視庁のマスコットキャラクターであるピーポくんは、手塚先生がデザインしたというウワサがまことしやかに広まったことがある。だけどピーポくんは手塚先生とはまったく無関係なのでご注意を。
霞ヶ関駅から再び地下鉄丸ノ内線に乗って2駅目の赤坂見附駅で下車。ここから歩いて5分ほどで次のバンパイヤスポット、ホテルニューオータニ東京に到着する。『バンパイヤ』の中ではこの建物は「ホテル・ニュー・オールド」という名前で登場している。
ホテルニューオータニ東京が竣工したのは1964年8月だから『バンパイヤ』連載当時はまだ完成して2年ほどの新築の建物だった。
銀座の喫茶店サボイヤで手塚治虫に脅しをかけた間久部緑郎(通称=ロック)は、その足で廃屋の隠れ家へ向かい女性の姿に変装。今度はオープンカーを飛ばしてこのホテル・ニュー・オールドへとやって来たのだ。
ロックがここのロビーで待ち合わせていたのは大手美容院を経営する女社長だった。ロックは女社長の弱みを握っており、軽く脅しをかけただけで、口止め料50万円を易々とせしめたのである。
ちなみホテルニューオータニのこの建物、上から見ると“く”の字型に曲がった本館の上に帽子のような円形ラウンジが乗った特徴的な形をしている。直径45mのこのラウンジには回転機構が組み込まれており、およそ70分で360度回転する。ラウンジ内には「VIEW & DINING THE Sky」というレストランが入っていて、食事をしながら360度の風景を楽しめるようになっているのだ。ぜひ行ってみたいですね! 高そうだけど。
ホテルニューオータニからは上智大学の西側に沿って南北に延びるソフィア通りを北へ歩く。するとおよそ8分で四ッ谷駅に到着だ。
またソフィア通りの横には高い土手があり、その土手の上が遊歩道になっている。生い茂った木々が日差しを和らげてくれるのでさんぽで歩くならこっちの道がお薦めだ。
四ッ谷駅からはJR中央線に乗って神田まで行き、そこで京浜東北線に乗りかえて蒲田駅近くの次なるバンパイヤスポットを目指す。およそ30分の電車旅だ。
蒲田駅を降りたら西口へ出て東急多摩川線の線路に沿って7〜800mほど西へ向かって歩く。すると環八通りと多摩川線の線路がアンダーパスで交差している地点にぶつかる。ここの南側一帯に広がっている何の変哲もない住宅街、じつはここがバンパイヤスポットなのだ。
現在の住所でいうと東京都大田区新蒲田二〜三丁目となるこの地域は、かつては道塚町という町名だった。それが1967年に町名変更が行われて現在の住所表示に変わった。ちょうど『バンパイヤ』連載中のことである。
そして『バンパイヤ』では、この何の変哲もない住宅街の古いお寺が、物語の重要な場所となっている。トッペイがここ道塚町の古寺で、探していた父親と再会したのだ。
そもそもトッペイが故郷の夜泣き谷から東京へ出てきた最大の目的は、10年前にオオカミの姿のまま人間に捕えられてしまった父親を探すことだった。
銀座見物の後、トッペイとチッペイが上野へ向かったのも、上野動物園のオオカミ舎に父親がいるかも知れないと考えたからだった。
だがその願いも空しく上野動物園に父親はおらずあきらめかけていたところ、ここ「道塚」の古いお寺「養霊寺」の境内で、オリに入れられ飼育されていた父親と運命の再会を果たしたのである。
養霊寺というお寺は実在しないが、マンガに近い風景を求めて町内をぶらぶら歩いてみることにした。
道塚という町名はなくなったが「道塚小学校」など旧町名の名残りを残した場所もある。
またネットで調べた情報によると、京急線の矢口渡駅と蒲田駅の間には戦前まで道塚駅という駅もあったという。当時、この付近では京急線の線路は現在の線路より50mほど南を通っており、その途中に道塚駅があった。かつての道塚駅付近の線路跡は、現在は住宅街の間を通る狭い路地になっていて、そこからわずかに当時の地理を推測することができる。
そうこうしているうち、古そうなお寺を見つけた。本堂は最近建て替えられたらしく真新しいコンクリート製だけど、ここの境内の片隅に古びたオリが置かれていて、年老いたオオカミが飼われていても決して不思議ではない。そんな静かな場所でした。
旧道塚町の散策を終えたら再び蒲田駅へ戻り、JR京浜東北線の下りに乗って多摩川を渡って神奈川県へと入る。そして鶴見駅で下車。
西口へ出たら駅前ロータリー左端の水道道と呼ばれているバス通りを西へ向かう。駅から目的地まではおよそ1.5km。ここまでのさんぽでももうかなり歩いてきたし、しかも上り坂なのでけっこうキツいけどがんばろう。道が大きく左へ曲がっているところまで来たら目的地はもうすぐだ。
やがて目の前に見えてくる陸橋「響橋」、マンガの中では「メガネ橋」という通称で書かれている、ここがバンパイヤスポットなのである。しかもマンガの絵と実際の風景を見くらべていただくと、ここは奇跡的に連載当時とほぼ同じ風景がそのまま残っていることがお分かりいただけるだろう。
ちなみに駅からここまで徒歩はきついという方はバスを利用する手もある。鶴見駅西口から川崎鶴見臨港バスに乗って「二本木」で下車すれば響橋はもう目の前だ。運賃は片道216円。
『バンパイヤ』では、誘拐された資産家の娘・大西ミカの身代金1億円の受け渡し場所として、このメガネ橋が指定されている。
じつは大西ミカを誘拐したのは大西家で書生をしているロックなのだが、ロックは身代金を犯人に届ける代理人として何食わぬ顔でここへやってくる。警視庁の下田警部は刑事の勘でロックを怪しいと思いながらも残念ながら証拠がない。
メガネ橋へと向かう車中でのこのふたりの会話には少年誌とは思えない緊張感がある。これはもちろん手塚が心酔していたドストエフスキーの小説『罪と罰』の中で、殺人を犯した主人公のラスコーリニコフと予審判事ポルフィーリィが交わす犯罪談義を多分に意識したものだ。
そして約束の時間。ロックが1億円の入ったカバンを橋から投げ落とすと、それを回収したのはオオカミの姿になったトッペイだった!!
メガネ橋の真下には国道1号線(第2京浜国道)が通っている。片側2車線のひっきりなしに車が通る往来の激しい通りだけど、前後に信号機があるので、タイミングによってはここに紹介した写真のようにピタリと車が通らなくなる瞬間がある。現地へ行ってみてあらためてロックの計画に最適の場所だったことがよく分かります。
そしてここでカバンを回収したトッペイが向かったのが、先ほど立ち寄った道塚の古寺・養霊寺だったのです。
鶴見駅から再びJR京浜東北線で横浜まで行き、そこで京急線に乗りかえて次に向かうのは日ノ出町駅だ(少し歩くけどJR鶴見駅ではなくその先の京急鶴見駅まで行くと乗り換えなしで日ノ出町まで行くことができる。その場合運賃もICカードで103円安い)。
日ノ出町駅を降りたら大岡川を渡り、大通りを南東へ向かおう。200mほど歩くと右側にディスカウントショップのドン・キホーテが見えてくる。このドン・キホーテの手前を右に曲がるとそこから1km以上も続く長い長い商店街・伊勢佐木町商店街となる。またそこを曲がらずにまっすぐ50mほど歩くと国道16号線に突き当たる。
だけど我ら虫さんぽ隊が目指すのは、この伊勢佐木町商店街と国道16号線の間の細い路地だ。この狭い一方通行の路地の左右には、現在は風俗店がみっちりと建ち並び、すぐ隣の伊勢佐木町商店街や国道16号とはまるで違う淫靡な空気を醸し出している。
この路地は通称「親不孝通り」と呼ばれており『バンパイヤ』ではこの路地のどこかに3人の老女の占い師が店を構えていて、ロックが足しげく通っていたのである。
それではさっそく占い師の店を探して親不孝通りを歩いてみよう。
ところでなぜここが親不孝通りと呼ばれているのか。じつは戦前はこのあたりは私娼街として栄えていた。そして戦後は青線という特殊飲食店街になり、それが現代の風俗店街へと続いているというわけだ。
では『バンパイヤ』連載当時はどんな雰囲気だったのだろうか。ぼくは当時はまだ小学生で、ここへ来たことはないので想像するしかないが、当時は恐らく今ほどけばけばしい看板のお店はなくて、もっとごみごみしたくすんだ印象のさらに怪しい路地だったのではないだろうか。
ちなみに『バンパイヤ』には親不孝通りはまるで迷宮のように紹介されているが、実際歩いてみると、確かに狭い横道が何本もあってごちゃごちゃしてはいるけど、メインの通りは1本だけなので道に迷うことはまずない。むしろ道が1本きりなので同じ場所を何度も行ったり来たりして、風俗店の前に立っている客引きのお兄さんとその都度目が合ってしまうのが気まずい感じだ。
夜にここへ来たら意志の弱いぼくなんかはたちまち怪しいお店に引っ張り込まれてぼったくられそうだ。今は昼間だからそんなに危ないこともないだろうけど、写真を撮る際にはトラブルにならないよう、くれぐれもご注意ください。
そうこうしながら路地を歩いていると、営業しているのかしていないのか、よく分からないお店の階段がいくつもある。開店前なのか、それともつぶれたお店か、はたまた営業中? もしかしたらこんな階段の奥に3人の老女が待っていて、ロックの悪魔の未来を占っていたのかも知れません。
さて、今回の虫さんぽも間もなくゴールだが、ここまで歩いてきて疑問として残っているのは、手塚先生がなぜマンガの舞台としてこれらの場所を選んだのかということだ。
特に気になるのが鶴見のメガネ橋と道塚のお寺である。メガネ橋は先ほども書いたようにロックの犯罪の舞台として他にないほど最適な場所だ。橋のたもとの道祖神などもきちんと描かれていて事前にしっかりと取材をしていることも分かる。今ほど情報があふれていなかった当時、関西出身の手塚先生が神奈川の片隅の小さな橋の存在をどうして知っていたのだろうか。
そしてもっと気になるのが身代金を奪ったトッペイが逃げた先がなぜ道塚だったのかということだ。
あらためて物語の流れを振り返ると、鶴見のメガネ橋で1億円の入ったカバンをくわえたトッペイはオオカミの姿で道塚まで一気に逃走している。距離にしておよそ7.5km。トッペイの足なら20分かからずに着くだろう。
これは単に物語の展開的にちょうどいい距離の場所だったから適当な地名を選んだとも考えられる。
でもぼくはここであえて別の説を提唱したい。手塚先生がこの場面のストーリーを考えているとき、もしかしたらどこかで道塚町の名を目にしたのではないか。例えば新聞記事でこの町名が消えることを知ったとか。それで地図で見てみるとメガネ橋からちょうどよい距離にこの町がある。そこで手塚先生はこの消えゆく町の名をあえてマンガに使ったのだ。どうでしょう。
まあ本当のところは、当時の創作ノートみたいな決定的資料が見つからない限りは永遠に藪の中ですけどね。ファンとしてはこんなことをあれこれ考えてみるのも楽しと思います。皆さんはどう推理されますか?
ということで最後は、せっかく港町横浜まで来たのでトッペイと共に港の風景を見ながらゴールといたしましょう。
ロックに弱みを握られているトッペイが落ち込んでとぼとぼと歩いてきたのが、港町横浜の倉庫街だった。岸壁に腰かけたトッペイは涙を流しながら母親のことを思い出す。
かつてはこうした港湾施設にも比較的自由に出入りが出来たけど、最近はどこも管理が厳しくなって関係者以外立ち入り禁止の場所がほとんどだ。
なのであちこち歩いてようやく見つけたのがこの場所だ。遠くにベイブリッジが見えるのが現代風だけど、ぼくもトッペイのように落ち込んだらここへ来ようかな。
それでは次回のさんぽにもぜひおつきあいください!!
黒沢哲哉
1957年東京生まれ。マンガ原作家、フリーライター。手塚マンガとの出会いは『鉄腕アトム』。以来40数年にわたり昭和のマンガと駄菓子屋おもちゃを収集。昭和レトロ関連の単行本や記事等を多数手がける。手塚治虫ファンクラブ(第1期)会員番号364番