5月29日、第20回手塚治虫文化賞贈呈式が行われました。今年は20周年を記念し、豪華ゲストを迎えた記念イベントのほか、同日に朝日旅行主催「手塚治虫ゆかりのスポットを巡る」バスツアーを開催。
普段は公開されていない手塚最後の仕事場を見学するほか、トキワ荘通り、並木ハウスのある雑司が谷周辺を巡ります。文化賞の記念イベントでバスツアーを開催するのは今回初めての試みです。
虫ん坊スタッフは、記念すべき第1回目のバスツアーの様子を虫ん坊読者の皆さんへお伝えすべく一般参加に紛れ(?)ゆかりの地を巡ってきました! 後半では、文化賞贈呈式・記念イベントもレポートしますよ〜!
バスツアースタート地点は、埼玉県の和光市駅! 眠たい目を擦りつつ、バスの待つ集合場所へ向かいます。前日は雲行きが怪しく不安でしたが、本日晴天なり。(気温26℃・日差し激強)
今回のバスツアー参加者は20代〜70代と幅広い年齢層の手塚ファン42名とのこと。
世代を超え愛される手塚治虫に想いを馳せつつ、バスは第一目的地である新座市・手塚プロダクション新座スタジオへと出発!
本日のツアーガイドは、虫ん坊内コラム「虫さんぽ」「手塚治虫あの日・あの時」でおなじみ黒沢哲哉氏。
黒沢:
手塚先生がお亡くなりになって20数年経ちますが、手塚先生のゆかりの地も少しずつ形が変わってきています。今改めて皆さんで訪れて、記憶に残していただければいいなと思います。
これから向かう新座スタジオのビルは、新築ではなくてもともと別の会社が入っていました。しばらく空き家だったところに、手塚プロが入ったようです。
入り口には「手塚プロダクション 第一スタジオ」と書いてありますが、この看板にはその後第2スタジオ、第3スタジオまで作りたかったという手塚先生の想いが込められているのではないでしょうか。虫プロダクションの頃は、第7スタジオまでありました。
この写真は、スタジオがこの場所へ移転した当時、手塚プロ・アニメーターの小林準治さんが撮影した写真です。今は閑静な住宅街のなかに建っているこのスタジオですが、小林さんが入社した当時は周りが森に囲まれており、なんとも怪しい雰囲気を放っていました。当時は、よく幽霊が出ると社員の間で噂されていたようですよ。
新座スタジオへ足を踏み入れると、まずは「ブラック・ジャック」「火の鳥」「ユニコ」「三つ目がとおる」「鉄腕アトム」「レオちゃん」のカラーを含む直筆原稿がズラリと並ぶ一室へ案内されました。
通常、展覧会で人目に触れる際にはガラスケース越しで展示される生原稿ですが、この日ばかりはケース越しでもなんでもない、正真正銘の“生”原稿。ゆかりの地一箇所目にしてすでに大興奮の手塚ファンの皆さん!
生原稿をじっくり堪能した後は、新座スタジオの職場の様子を見学。
そこで現れたのは、実験アニメ「ジャンピング」でお馴染みのアニメーター・小林準治。
過去の虫ん坊にも何度か出演しています!
小林は、保存している貴重なアニメ原画を披露しました。
小林:
これは僕が保存していた、今から47年前の「千夜一夜物語」の原画です。
女王がヘビに変身するシーンは手塚先生が描かれたものなのですが、当時のアニメーターでは誰も表現できないような官能的な動きが描かれていて、これは今見てもとても上手いなと感心してしまいます。先生は医学を習っていらしたので、動物の動きや関節の位置にはとても詳しかったんですよ。
カマーキムの戦いのシーンは、僕が新人の頃描いたものです。21歳ぐらいでしょうか。この原画もだいぶ古くなってしまって、今ではエジプトのパピルスみたいになってます。
小林:僕が監修したアニメーションの教本が夏に発売される予定です。動物の動きを中心にアニメーションの基本を一冊にまとめた本になります。手塚先生のもとで育てた技術を皆さんにもご紹介できればうれしいです。 イラストは描きおろしで、DVD付きのなかなか豪華な本なので、ぜひ手に取っていただきたいです。続報をお待ちください。
そして、普段は一般公開されていない手塚治虫の仕事場へ!
そこで現れたのは、手塚治虫の担当編集、マネージャーを経て現在は手塚プロダクション代表取締役をつとめる松谷孝征。
松谷:
これは漫画を描くための机です。手塚先生は極度の近眼だったので、いつも机に顔を近づけて、姿勢の悪い状態でマンガを描き続けていました。ペン軸が長いと重くて描きにくいと言って、使いやすい長さに折って使用していました。ペン先はカブラペンを愛用していて、細い線も太い線もカブラペンのみで表現していました。この作業机には、実際に使用していた画材もそのまま置かれています。
松谷:
部屋を見渡せば机がいくつもあります。こちらは動画用の机なのですが……こうして目的に応じた机が置かれているんです。漫画用の机で漫画を描き、そして動画用の机に移動して動画絵コンテを描き、このようにしていくつもの仕事を同時に進めていました。
部屋を見渡すと、壁には手塚治虫が購入したディズニーキャラクターの原画や馬場のぼる先生のイラストが貼られており、手塚キャラクターのフィギュアが所々に置かれ、大きなレコードプレーヤーもあります。仕事をする部屋と同時に心休まる趣味の部屋でもある、そんな印象を受けました。 プレーヤーの下のラックに保管されているレコードを確認すると、バッハやチャイコフスキーの作品が多くありました。仕事中、クラシックを好んで流していたという手塚治虫の息遣いが感じられます。
「チャイコフスキーのレコードは、ぼくの青春時代の作品のイメージとだぶって、なんとも懐かしい。たとえそのレコードがSPから起こした初期のモノラルで、何百回とかけたためのスクラッチだらけであっても、まだ大事にとってある。最初に売り出されたロンドン・フィルムの『白鳥の湖』全曲盤もまだ持っている。」(手塚治虫漫画全集・手塚治虫エッセイ集5より抜粋)
大学時代に初めて聴いたレコードのひとつにチャイコフスキーがあり、そこから「第四交響曲」をモチーフに『森の伝説』というアニメをつくるまでに心酔してゆくのです。他にもチャイコフスキーの曲を題材にアニメを作ろうと考えていたようです。
新座スタジオを見学したあとは、第二目的地である豊島区・トキワ荘通りへ向かいます。移動中のバスのモニターに突然何かが映し出されます。その映像はなんと、手塚治虫からのビデオ・レター!
「手塚治虫です。ようこそいらっしゃいました。こういう顔の人間です。」と早口で挨拶をする手塚治虫の姿にざわつくバス内。
さて、目的地のトキワ荘通りにやってきました。まずは2013年にオープンしたトキワ荘通り・お休み処へ。休日のためか、他の観光客で大変賑わっていました。
1階のフロアでは、トキワ荘関連の書籍やグッズが置かれ、たくさんのマンガ家による寄せ書きやサイン色紙が壁一面に飾られています。
2階の展示スペースでは、トキワ荘グループの中でリーダー格であった寺田ヒロオ先生の部屋を再現した模型や、トキワ荘近くの中華料理店「松葉」のどんぶり、水野英子先生が愛用した卓上ライトなど、マンガ家たちの当時の生活のようすを感じられる小物が常設されています。
黒沢:
手塚先生はトキワ荘に最初に入居しましたが、1年ほどしか住んでおらず、トキワ荘が漫画家の梁山泊といわれるころには手塚先生はすでに別の場所へ引っ越していたのです。
そのあと藤子不二雄先生と藤子・F・不二雄先生のふたりを筆頭に、どんどん漫画家が集まった、ということです。
トキワ荘は、1953年の春に手塚先生が引っ越してくる前年に建築されたので、当時は新築でした。1階に10室、2階に11室、漫画家メンバーは2階に住んでいて、もちろん一般の方も一緒に住まれていました。トイレ水道流しは共同でしたが、当時はかなり高価な物件だったようです。
手塚先生は仕事場を決める条件として、編集者から逃げるために出入り口が二つある物件を探していました。トキワ荘、並木ハウスには表にある階段のほかに裏に非常階段があり、ここを逃げ道としていました。ちなみに、先程見学した新座スタジオも、手塚先生の仕事部屋のすぐ横に非常階段がある構造になっています。
トキワ荘跡地にあるこのモニュメントは、トキワ荘建立60年と解体30年が重なった年である2012年に記念として建てられました。
トキワ荘跡地から歩いてすぐ、南長崎花咲公園には、2009年に作られたトキワ荘の記念碑「トキワ荘のヒーローたち」があります。ブロンズ製のトキワ荘のオブジェ、そして台座にはトキワ荘に暮らした10人のマンガ家たちの自画像とサインが銅版のプレートになって埋め込まれています。
所変わって豊島区・雑司が谷にやってきました。
トキワ荘を出た手塚治虫が移り住み「鉄腕アトム」を描いた並木ハウス周辺を散策します。
青々とした新緑の間から木漏れ日が射しこむ気持ちのいいケヤキ並木の道を手塚ファン一行は進みます。
ケヤキ並木沿いにある雑司が谷案内処。
雑司が谷案内処は、雑司が谷周辺の観光と地域交流の拠点として2010年7月にオープンしました。
案内処では、スペシャルゲストである丸山昭さんが登場!
講談社で『少年クラブ』編集部などを経て『少女クラブ』編集長に就任。手塚治虫をはじめ、石ノ森章太郎、水野英子、赤塚不二夫など多くのマンガ家を担当しました。
トキワ荘時代のマンガに関してはまさに生き字引である丸山さんに、並木ハウスで仕事をこなす手塚治虫の当時の様子を部屋の見取り図の巨大パネルをなぞりながら説明していただきました。
この見取り図は、手塚治虫漫画全集「手塚治虫エッセイ集8巻」に掲載されているものです。
丸山さん:
当時、手塚先生は「少女クラブ」で『リボンの騎士』を連載中で、講談社に入社した私はその編集を命じられました。先輩の編集者に連れられて初めて手塚先生を訪ねたのが、この並木ハウスの部屋でした。
各編集社の手塚先生の担当は「手塚番」と呼ばれ、原稿をいただくのにそれはもう必死で、このイラストにも編集者が原稿を待っている様子が描かれていますが、あまりに待たされるので貧乏ゆすりをしたり、こんな和やかなムードではなくもっとピリピリした雰囲気でしたね。
6畳の部屋の奥にちょっとした床の間があり、ここにアップライト式のピアノが置かれていました。
その横に、当時一番良い音を出す高級品の電気蓄音機があり、その前にはLPが積んでありました。当時の出版社に努めるサラリーマンの給料で、2月に1枚買えるかどうかという値段でしたが、手塚先生はたくさん持っていましたよ。
物が多いわりには、マンガを描くための資料はあまり置いてありませんでした。というのも、手塚先生は見たもの・読んだものを映像・画像として記憶してしまう人でしたから、必要以上に資料は持たなかったようです。
この絵では手塚先生が部屋の真ん中に寝転んでいますが、とんでもない、こんな寝転がって描いたり、向き合って描くようなスペースはありませんでした。
折りたたみ式のベッドもありましたが、広げたらスペースがかなり取られてしまうので、いつも折りたたまれたままでソファとして使われていましたよ。この絵は、実際のものとは全然違う形で描かれていますから、信じないようにしてください。
当時はアシスタントがいなかった時期ですから、いそがしくなると安孫子 (藤子不二雄(A)) 氏に連絡をし、手伝ってもらっていました。連絡手段は電報で、手塚先生は電話も時計も持ちませんでした。電話をもってしまえば、きっと編集者からの連絡が途絶えませんからね。
忘れもしない昭和30年の8月10日、先生が二晩ほど徹夜した次の日に、部屋のドアをノックする音が聞こえました。仕事中の邪魔にならないように、お客を追い返すのも編集者の仕事のうちです。ドアを開けると、ニキビ面の将棋の駒のような少年と、その隣に色白でヒョロっとした色男がいて、後ろにとっちゃん坊やのような少年がいました。
ファンが押しかけてきたのだと思い断ろうとしたら、3人の少年が順に名乗りました。
石森章太郎(現・石ノ森章太郎)、赤塚不二夫、長谷邦夫。手塚先生を訪ねてやってきたという、マンガ家の卵たちでした。
するとそれを聞いた手塚先生がすぐに彼らを部屋へ招き入れ、いつの間にか仕事はそっちのけで3人とマンガ談義にのめり込んでいました。
私はというと、当時連載中の「リボンの騎士」の原稿を待っていたのですが、いつのまにか会話に引き込まれてしまいました。原稿の締め切りはとうに過ぎてたのですけどね……。今でもあの日のことはよく覚えていますよ。
ツアーのお土産は、トキワ荘のリーダーである寺田ヒロオが発明した焼酎のソーダ割り味のチューダー飴とアトムの住民票!(写真の飴はなめちゃったのでかなり減ってます。トキワ荘通りで購入可!)うれしいお土産に参加者の皆さんも喜んでいました。
バスツアー、お疲れ様でした!
次ページでは、第20回手塚治虫文化賞贈呈式のもようをレポートします!
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